ディスコミュニケーションの書評――『タナトスの子供たち』考



 以前、私がよく立ち寄っていた読書系サイトで、何度かメールや掲示板でやりとりをしていた方がいるのだが、そのやりとりのなかで、「自分の書く感想文について、賛成意見を持っている人はけっこう書き込みとかしてくれるが、反対意見の人の話はなかなか聞けない。不満があるとすればそうした意見が聞けないことだ」という話が出たことがある。

 21世紀を迎えた現代、インターネットがずいぶん市民権を得るようになり、誰もが簡単にホームページや掲示板などを開設し、自分の意見を公に主張できるようになりつつある。これは、それまであたり前だった、マスメディアから私たち消費者への一方的な情報の流れを根本的に変えるという意味では、画期的なコミュニケーションの場の誕生だと言うことができるだろう。情報の受け手が同時に情報の発信源であり、それまでただの読者であった人が書き手として自分の意見を主張でき、その反響が即座に返ってくる――そんな、インタラクティブな情報のやりとりを可能にしたのがインターネットである、と。

 だが、インターネットが本当に「画期的なコミュニケーションの場」であるとするなら、冒頭のウェブマスターが漏らした不満の声は、いったい何を意味しているのだろうか。

 世の一部の女性たちに絶大な人気を誇る「ヤオイ」の世界を分析し、圧倒的な男性優位社会の中で、たんなる商品としての価値観しか与えられなかった彼女たちが、唯一自分自身でいることができる、しかしけっしてコミュニケーションの成立しない歪んだ場であると「ヤオイ」を定義した、中島梓の『タナトスの子供たち』であるが、著者は同時に、次のようなことも述べている。

 ディスコミュニケーションの閉鎖空間といえば、パソコン通信だってある意味そうです。パソコン通信というのはコミュニケーションですが、いっぽうできわめて簡単にディスコミュニケーションになりうるコミュニケーションである。

 冒頭の例を挙げるなら、ネットサーフィンをしていて出会ったサイトに、あまり良い印象を持たなかった人は、そのことをあえてウェブマスターに伝えることはほとんどありえない、ということを指している。訪れたサイトが気に入らなければただ黙って立ち去ればいいわけだし、最初は気に入って、何度かメールや掲示板で言葉のやりとりをしていたとしても、アクセスをやめれば簡単にその関係を断ち切ることもできる。その結果、何が起こるか。つまり、ウェブの世界においては、人々は常に自分の興味のある場所、居心地の良い場所だけにアクセスする、という傾向がどうしても強くなってしまうのである。

 人と会って直接話をしたりする場合は、たとえその人が気に入らないと思っても、相手にコミュニケーションの意志がある限り、なかなかそこから離れてハイそれまで、というわけにはいかない。相手とこれ以上コミュニケーションしたくない、と思った場合、どうしてもそのことを相手に伝えなければならないのだ。そしてそれもまた、ひとつのコミュニケーションなのである。

 そもそもコミュニケーションというものは、異なる価値観どおしのぶつかりあいでもあるから、ときには相手を傷つけたり、また相手に傷つけられたりすることもありえる。だが、インターネットの場合、ホームページであらかじめ自分の色を宣言しておけば、その色に近い人たちが自然と集まってくるものだ。Jポップが好きな人であれば、そういうことを話題にしているホームページに行けばいいし、サッカーが好きなら検索エンジンでホームページを探し出し、自分でアクセスすればいい。そして、その中から自分が容易に入りこんでいけそうなところが見つければ、リピーターとして自分もまた発言していく立場となる。JポップならJポップのことばかりが話題になっているのだから、訪れる人は安心して自分のことを語ることができるのだ。そこには、自分とは毛色のことなる人種は存在しない。現実のコミュニケーションの世界と比べ、確実に自分が傷つくことの少ない世界――それが著者の述べるところの「きわめて簡単にディスコミュニケーションになりうるコミュニケーション」ではないか。

 さて、ここで私のサイト「八方美人な書評ページ」である。

「読んだ本はすべて褒める」と宣言した私のホームページもまた、同じようにきわめてディスコミュニケーション的な要素を孕んでいると言うことができる。それは、「必ず褒める」というスタンスが、同時に「けっして相手を貶める言葉は使用しない」という約束事と結びつきやすい傾向を持っているからだ。実際問題として、私の書評は必ずしも手放しで褒めるたぐいのものではないし、逆に褒めてしまうことで、それを読む人の反感を買ってしまうこともあるわけだが、少なくとも「異なる価値観」とぶつかりあうという機会は、「褒める書評」を目指した瞬間から、非常に制限されてしまう。そこには、インターネットという世界で「駄目なものは駄目なんだ」とあえて叫ぶだけの勇気を失った、私を含めたディスコミュニケーション症候群たちの、「異なる価値観」とのふれあいを避けようとする意図が見えなくはないか。

 一度、ある本の書評について、冒頭でとりあげたウェブマスターにちょっとした反論を試みたことがあるのだが、その返答は「あなたにそんなことを言われる筋合いはない」という、完全なコミュニケーション拒否の言葉であった。以前から語っていたことと違うではないか、とそのときは思ったが、もし、世の中に溢れている読書系サイトの書評が、ディスコミュニケーションの書評であるとするなら、そのウェブマスターの態度も、自分の築いた世界を崩そうとする者への反射的な攻撃として納得できるものがある。

 インターネットという仮想世界のなかで増殖していく書評たちは、いったいどこへ向かっているのだろうか。(2001.05.16)



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