読み手が生み出す物語――『舞踏会へ向かう三人の農夫』考



 悲しい気持ちをただ「悲しい」と表現しても、私たちにその悲しさはけっして伝わらない。自分がどれだけ悲しかったのか――それは別に悲しさに限らず、どのような感情や主張でもかまわないのだが――を相手に伝えるためには、抽象的な表現ではなく、具体的な説明が必要となってくる。たとえば、真夜中の驟雨といった、その場の情景。たとえば、その場に取り残されているかのように、ひとりで佇んでいる人物の背中。たとえば、その人物の握り締めた拳の、わずかに震えている様子。そして、そうしたシチュエーションへと辿りつくことになる、物語の流れ――そこに、「悲しい」という言葉はもはや不要であり、私たちはその情景のなかに、自然とその悲しみを読み取り、共感することになる。そういう意味で、小説家は言葉の使い手でありながら、言葉が持つ一般的な意味と常に闘争しつづける存在だと言えるし、またそうでなければならないだろう。つまり、「悲しい」というひと言で片がついてしまうものをより具体的に相手に伝えるために、小説家は小説を書くのである。

 だが、そうしてできあがった物語が、必ずしもすべての読者に同じような感情を伝えるとは限らない。物語は完成した瞬間から、すでに独自の存在としてこの世に生を受けたものであり、そこには作者の入りこむ隙はない。もちろん、文章表現の好悪といった根本的な違いはあるだろう。だが、どれだけ完璧な文章表現で物語を書き上げたとしても、その物語から読者がどのような印象を受けるかは、読者自身の手にゆだねられているのだ。

 たった一枚の写真から、無限の物語の広がりを縦横無尽に展開していった、リチャード・パワーズの意欲作『舞踏会へ向かう三人の農夫』は、なんとも奇妙な小説である。というよりも、本書を一般的な小説として定義づけることが、はたして正しいのかどうか、私には断言することができない。というのも、本書の中でどれだけ多くの物語が生まれようと、それはけっきょくのところ、一枚の写真へと回帰していくのであり、そういう意味で本書は、一枚の写真がどういうものなのかを説明するために書かれた作品だと言うことができるからだ。

 だが、もし本当に一枚の写真を「説明」するために本書が書かれたのだとするなら、ずいぶん無駄な労力を費やしたものだとお思いの方もいらっしゃるかもしれない。なぜなら、わざわざ文章にせずとも、その現物の写真を提示さえすれば、すべては事足りるからだ。では、何のために本書は書かれたのか? その本当の意図は、読者自身にその写真から物語を想起させることにこそある。本書の中で展開していく無数の物語は、言わば私たち読者の想像力を喚起するための呼び水にすぎないのだ。

 実際、私は本書を読んでいきながら、自分の想像力で独自の物語を創造する、という体験をした。それは、本書に登場する三人の農夫のひとり、アドルフという名のドイツ人が、じつはアドルフ・ヒトラーその人ではないか、という想像だった。ヒトラーは第一次世界大戦では兵士として従軍しており、私はある時期、とくにアドルフの運命に注目しながら本書を読み進めていったのである。

 結果として、私のその想像は裏切られる形となったが、ここで重要なのは、そうした想像もまた、著者が展開させた無数の物語のひとつとして、本書自身が容認している、というところにある。本書の中にいわゆる本筋がどこにもないのと同様に、私の想像が生み出した物語も、けっして間違いではない――それは、本書の訳者である柴田元幸も、あとがきにおいて指摘していることである。

 お読みいただければわかるように、――(中略)――提示される像は常に複数なのだ。だが、3D写真と同じく、それら複数の像から作られる立体は、あくまで読者であるあなたの頭のなかにある。極論すれば、この『舞踏会へ向かう三人の農夫』は――(中略)――二十世紀末から二十一世紀初頭の時間を生きるあなたの物語だ。

 あるひとつの小説における、作者と読者が意図するものの絶対的な差――本書はそうしたどうすることもできない差異をすべて取り込んで、作者自身の想像さえはるかに凌駕して膨れ上がっていく。著者が一枚の写真のなかに詰め込もうとした二十世紀が、読者の視線を「観察者」とすることで立体像として浮かび上がってくるのであるなら、本書はまさに無限に成長をつづけていく、壮大な物語だと言うことができるのだ。

『舞踏会へ向かう三人の農夫』は、今もなお、読者がその想像力で新たな物語の1ページを加えるのを待っているのである。(2001.02.20)



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