新しい世界の担い手――『希望の国のエクソダス』考



「閉塞感」という言葉を、私はこれまでに書いてきた書評の中で、ずいぶんと使ってきたような気がする。それまで永遠不変だと信じて疑わなかった価値観の崩壊、先のまったく見えない未来への不安、昔と比べて私たちが接することのできる情報は格段に増え、いろいろな事実が明らかになっているはずなのに、肝心なことは何ひとつわからない、という現状、そして、すでに死滅してしまった価値観をどうしても捨て切ることのできない大人たち――「閉塞感」という単語の多用は、ひとつに私自身の語彙力の問題もあるだろうが、それ以上に、直接的にしろ間接的にしろ「閉塞感」をテーマにした小説があまりにも多くなった、ということも言えるのではないだろうか。少なくとも、どこか社会全体がおかしくなりはじめている、という危険信号に、小説家たちも気づかないわけにはいかなくなったのは確かだろう。時代はすでに、『なんとなく、クリスタル』の田中康夫をして、長野県知事という役職につかしめるまでに変わってきているのだ。

 小説というものが文学の一形態であり、かつて夏目漱石の書いた小説を読むことで人々がその時代の流行を知ったように、今もなお時代の流れを映す鏡としての役目を担っているとするなら、今のこの日本を覆う閉塞感は、まさに小説のテーマとしてはもっともセンセーショナルな題材であり、それゆえに物語の構築しやすいテーマでもあると言えるだろう。だが、それは万人に比較的受けやすいテーマであると同時に、取り扱いがひどく難しい、危険なテーマでもある。理由はきわめて簡単。あまりにセンセーショナルなテーマは、しばしば小説家が生み出す物語自体を食い潰してしまうからである。実際、昨今マスコミを賑わせている少年たちによる凶悪犯罪の数々を、いったいどれくらいの小説家たちが想像することができただろうか。そして、そうした「閉塞感」に対して、いったいどれくらいの小説家が、自分なりの答えを持っているだろうか。

 小説とは、言ってみればもうひとつの「現実」を再構築する行為である。私たちの住む現実を、まったく別の「現実」としてつくりかえるには、まず既存の現実を破壊する必要がある。だが、「閉塞感」をテーマにした小説に共通するのは、破壊はするが、そのあとの再構築をうまく行なえない、あるいはそれを放棄するものが多い、ということだ。
 常に「現実の向こう側」を見せつける小説を書きつづけてきた村上龍は、その代表選手的な存在だった。だが、彼が書いた『希望の国のエクソダス』は、それまでのものと明らかに異なっている。私が今まで読んだ小説のなかで、おそらくもっとも現実の「再構築」に成功した作品として仕上がっているのではないだろうか。

 深刻な不況がどの程度影響しているのかはわからないが、自分たちは出口のない穴に閉じ込められているのだと、ほとんどすべての中学生がそういうことを感じているようだった。そしてナマムギは、別の世界があるということを中学生に示したのだった。

 本書のあとがきで、著者は今すぐに数十万を越える集団不登校が起これば、教育改革は実現する、と述べている。本書のなかで、全国の中学生たちは学校に行くのをやめ、ネットによるコミュニティをつくりあげ、ネットビジネスで巨万の富を手に入れて、ついには自分たちの国まで築いてしまうのであるが、こうして言葉にしてしまうと、いかにも胡散臭い内容の物語のように思われてしまう。だが、それはおそらく、私のなかにある中学生像が、古すぎる価値観で占められているからであろう。今の中学生が何を考えているのか――彼らのほんの一部が起こした事件をまのあたりにするたびに、私と彼らの距離は離れていく。ただひとつだけ想像できるのは、おそらく昔の自分が中学生だったときのように、未来を無条件に信じることができるほど、楽観的になってはいまい、ということくらいだ。

 そして、同時にこうも思う。本書が示した、極めてリアルな未来像を、私自身がどこかでそうなることを望んでいるのではないか、と。ときには自分が生きている、血と肉をそなえた一個の人間である、という事実にあまりにも無自覚に見える彼らこそが、今の「閉塞感」を打ち破るパワーを持っているのではないか、と。

 それは、けっして革命の熱い情熱に溢れているわけではない。そうしなければどうしようもない、というだけなのだ。出口がないなら、どこかの壁を壊して、迷路の外に出るしかない――そういう意味で「何かをお願いしても駄目なんだ」と校長を指して語るポンちゃんの言葉は正しい。どんな価値観も意味を成さない今、価値観は「戦って、奪わなきゃいけない」。だが、本書はそこからさらに一歩踏み出して、新たな価値観を生み出すための戦いへと繋がってくるのである。そして、そのような発想ができるのは、私たち大人ではなく、十四歳という、子どもと大人の境に立つ中学生たちだろう、と考えた著者は正しいと思えてくるのだ。

 世界はもうすぐ新しい世紀を迎える。この閉塞感から――たとえどんな形にしろ――脱け出すための「破壊と再構築」は、はたして現実世界でも起こりえるのだろうか。



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