物語は現実を超えるか――『三月は深き紅の淵を』考



 村上龍が『インザ・ミソスープ』という小説の「あとがき」で、文学の役割が「言葉にならない悲鳴をあげている」個人の精神を翻訳することであると述べ、その事実に対して「憂鬱で不快な」感情を抱いたと告白したことは、けっこう有名な話である。折りしもこの『インザ・ミソスープ』を連載しているときに、神戸市須磨区では連続児童殺害事件の犯人として中学生が逮捕されるという、前代未聞の事件が起きたと「あとがき」には書かれているが、物語を創造し、私たちが生きる現実とは異なったもうひとつの現実を構築することが小説家の役割であるとするなら、想像することで生計を立てている、想像のエキスパートでもある小説家の想像力が、まさに「小説より奇なり」を地で行くような事件や現象が次々と起こっている今の圧倒的な現実によって凌駕されてしまっているという事実を、いったいどのように受けとめているのだろうか、とふと考える。村上龍が感じた不快感は、「言葉にならない悲鳴」を翻訳するために、今まで以上に過酷な想像力が必要になってくるという、そのことに対する不快感から来ていると自ら述べているが、それはまさに言い得て妙であると言わざるを得ない。

 存在そのものがひとつの伝説であり、その伝説があらたに伝説を生みつづけていくという、読むものの心をとらえて離さない幻の本を巡る物語を描いたのが『三月は深き紅の淵を』であるが、その第二章「出雲夜想曲」のなかで、ある出版社の編集者である江藤朱音は、物語に対する理想論をこんなふうに述べている。

 先に物語ありき。それが朱音の理想だった。語られるべき、語らずにはいられない物語自体がまずあって、作者の存在など感じさせないようなフィクション。それこそが彼女の理想なのである。物語は読者のために存在するのでも、作者のために存在するのでもない。物語は物語自身のために存在する。

 彼女は本書のなかで、「自己表現の手段として小説を書いています」と称する小説家をもっとも嫌悪していると述べるが、おそらく朱音はその裏にある、書くことを職業にしていながら、「自己表現」という、自分の内側だけに向けられていて、不特定多数の読者のことを考慮に入れようとしない精神――悪く言うなら「これはあくまで自己表現のために書かれた小説だから、わからない人にはわからないだろう。ほんの一握りのわかってくれる人がいれば、それで充分なんだ」という、ある種の傲慢さに満ちた小説家たちの思惑に対して嫌悪しているのだと言うことができるだろう。自分の内側にだけ目を向けることは、ナルシスト的自己満足を生む。そして、自分の中だけで完結する物語には当然のことながら、それまでの小説家たちが生み出してきた想像の産物である、虚構の世界を吹き飛ばしてしまいかねない現実というものに対して、まったくの無力なのである。まさに、「たかが一個人の表現手段に使われるほど、物語は小さくない」のである。

 価値観の多様化が叫ばれてすでに久しくなり、小説家の想像力をはるかに超えた、信じがたいような事件が日常的に起こっている現代において、文学は、崩壊してしまった「人として大切なこと」を、少なくとも以前よりは真剣に見出そうとしているように思える。それまでポップな感じの小説を書きつづけた村上春樹が、『アンダーグラウンド』や『神の子どもたちはみな踊る』に見られるような――村上龍が言うところの「言葉にならない悲鳴」をあげる現実の翻訳とも言うべき物語を書き始めたことは、その最たる例だ。

「文学は死んだ」と言われて久しい。たしかに文学は、とっくに「ブンガク」という、形だけのものと化してしまっているのかもしれないし、物語もまた、すでにあらゆるパターンが出尽くされ、あとはそれをいかに再利用するか――いかに舌の肥えた読書に、古臭さを感じさせない工夫をするか、ということに帰結するのかもしれない。だが、それでもなお、小説家になろうとする人々が後を絶たず、物語が今もなお生み出されている現状、そして、インターネットという新しい表現方法によって、誰でも気軽に自分の物語を世界中に発信することができるという現状を考えたとき、物語は、朱音の願いとはうらはらに限りなく私小説に近づき、一個人の表現手段のひとつとして、あまりにも安易に量産されているのではないか、という懸念が生まれてくる。今、世界中におそらく星の数ほどもいるであろう小説家予備軍の――いや、現在少なくとも小説家として通っている人たちの中でさえ、出尽くされ書かれ尽された物語の行方について真剣に考え、悩んでいる人は、いったいどのくらいいるのだろうか。

 勤め人になってからなぜあんなにプロ野球が愛されているのか分かった。余計なことを考えずに済むし、画面に大した刺激もないし、流れていてなんとなく安心なのである。(第四章「回転木馬」より)

 私も昔はプロ野球が嫌いだった。せっかくビデオ予約していた映画が、野球の延長のために一番いいところで中断されてしまう、という憂き目に何度も会ったことがあるからだ。そして今、勤め人になった私が家に帰り、テレビをつけると、いつの間にかチャンネルをプロ野球に落ち着かせている自分に気がつくときがある。自分自身、年をとったこともあるのだろうが、そのことを考慮にいれてもなお、心踊るようなストーリー、人々に夢を与えてくれるような物語が、昔とくらべてずいぶん少なくなったように思えてならない。

 物語はあくまで虚構の世界であり、衣食住のように人が生きていくうえで絶対に必要、というものではない。だが、人々の心が虚構よりも現実を望むようになったとき、私たちはあるいは、本当の意味での人間らしさを失ってしまうのではないだろうか。現実を超える物語――この閉塞観漂う現実を打ち壊してくれるような力をもつ物語が、どこかにないものだろうか。(2000.07.19)



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