空を目指す心――『楽園』考



 鳥のように自由に大空を飛べるようになりたい、という願いは、人類が昔から抱いてきた夢だ。頭上に広がる澄みきった青空、そしてさらにその奥に神のごとく鎮座している無限の大宇宙――人類の歴史はある意味で、空を目指す歴史だと言っても過言ではあるまい。気球が飛行機へ、そしてロケットやスペースシャトルへと進化を遂げるに伴い、SF世界だけの物語であった宇宙への道が、今はもう現実のものとして目の前に開かれようとしている。重力の虜である人間がその枷から解放され、宇宙へと飛び出していったとき、人はどのようなインスピレーションを受けるのか――それは川端裕人の『夏のロケット』でもとりあげられた非常に興味深いテーマであるが、そもそもなぜ空というのは、こうも人々の心を惹きつけて離さないのだろう。はてしなく広がり、そしてはてしなく深い宇宙に、いったい何が待っているというのだろう。

 一万年という長い時間をかけて受け継がれた魂の遍歴を描いた、鈴木光司の初期の作品である『楽園』には、レスリー・マードフという優れた作曲家が登場するが、その彼に新しく発見された地底湖を見て、そのイメージを作曲してもらいたいと頼んできたギルバートという男が、「宇宙には、完全な美が浮遊している」と語っている。

 音楽は体内で湧き上がるのではない。彼方から彼目指して突進してきたというべきだ。既に宇宙に存在している音楽がレスリーという肉体を通して、音符という表現形態に姿を変えたに過ぎない……。

 世にいう芸術家や科学者と呼ばれている人たち――彼らはときに素晴らしいインスピレーションを得て素晴らしい芸術を創造したり、すばらしい科学法則を発見したりすることがあるが、そのインスピレーションは彼らの体内から来るのではない。彼らの生み出すものは、宇宙に存在する完全な美を発見し、再生したものにすぎないという考えは、何かを創造するということに関してまったく才能を発揮しない私に、ちょっとした勇気を与えてくれると同時に、人間は心の奥、無意識の領域で、この完全な美、完全な宇宙の法則を抱えている宇宙の存在を、どこかで知っているのではないだろうか、という想像をもたらす。そう、『楽園』の中で、南の島に住むポリネシア人の一族がある日、遠い過去の記憶から湧き上がる衝撃に突き動かされるようにして東に向けて船を漕ぎ出したように、私たちもまた、いつか宇宙に浮遊している完全な美に到達したい、という、けっして消えることのないはるか昔の衝撃をもっていて、それが私たちを空への憧れに変えているのではないか、という気がしてならないのである。

 それはなんとダイナミックで、そして素敵な考えであろうか。少なくとも戦争が、人間の憎しみが科学技術を発達させた、などという考えなどよりもよほど希望に溢れた考えではないだろうか。

 ある有名な作家は、できるだけ高いところで仕事がしたい、と語っている。地上のさまざまな騒音とは無縁のはるか上空――高層ビルの頂上近くの部屋を手に入れることが夢だ、という彼の意識にも、きっと至高の芸術が眠っている宇宙にできるだけ近い場所に身を置きたい、と考えているに違いない。私はおよそ芸術とは無縁の人間であるが、それでも本の書評を書くという作業に行き詰まったとき、部屋を出て公園などを散歩したりすることがある。自分の頭を空に開け放つことで、少しでも宇宙からのインスピレーションを得たいと、あるいは考えているのかもしれない。インスピレーションを得ることを「天使が降ってくる」などと表現する漫画家もいる。

 ということであれば、人類はいつか――何千年後か、あるいは何万年後かはわからないが、どれだけの時間をかけても、やがては宇宙に向けて船を漕ぎ出す日を迎えることになるだろう。あるいは人間には真の意味での創造などできないのかもしれない。しかし、それでもなお宇宙を目指す人の心は、けっして変えることはできない。人間の空を想う力――そこには理屈ではけっして説明できない、人類が共通に持っているはずの遺伝子レベルが放ちつづける衝撃があるだけなのだから。そしてもし、人々が少しでもその衝撃に身をゆだね、空を見上げる回数を増やしていけば、世界はもっと良い方向に進んでいくのではないか、と思う。それだけの期待を抱かせるダイナミックなものが、『楽園』のなかにはあるのだ。(2000.03.27)



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