ネット社会がもたらす新たな人間関係――『すべてがFになる』考



 科学技術の発達とともに、人間にとっての距離はどんどん縮まっていると言うことができる。昔は、となりの町まで行くことは、それだけで大冒険だった。自分の住んでいる町から一生外に出ることのない人がほとんどであり、移動手段が徒歩や、せいぜい馬といった動物の力を借りるのがあたり前だった時代――だが、人間は少しでも早く目的地に着くために、さまざまな乗り物を開発し、次にそのスピードを上げるための努力をしてきた。今では、新幹線を使えば東京から数時間で大阪まで行くことができるし、飛行機を使えば海を越えたところにある国々も、けっして遠い世界ではない。そして、その究極の形のひとつとも言えるものが、ネットワークであろう。世界じゅうに網の目のように張り巡らされた巨大なネットワークは、そこに接続するための端末さえあれば、そこから一歩も足を動かすことなく世界じゅうのさまざまな場所とつながることができるのだ。

 孤島のハイテク研究所の一室で、十四歳のときから他人との接触を完全に絶った生活を続けている伝説的天才プログラマー、真賀田四季の不可解な死――完全な密室でおこった殺人の謎に、犀川と萌絵の名コンビが挑むという森博嗣のシリーズ第一作『すべてがFになる』であるが、本書の冒頭において、真賀田四季が、バーチャル・リアリティについて話す場面がある。「仮想現実は、いずれただの現実になります」と彼女は言う。

 他人と実際に握手をすることでさえ、特別なことになる。人と人が触れ合うような機会は、贅沢品です。――(中略)――人類の将来に残されているエネルギィは非常に限られていますからね。人間も電子の世界に入らざるをえません。地球環境を守りたいのなら、人は移動すべきではありません。私のように部屋に閉じ籠もるべきですね。

 そして、西之園萌絵の相方とも言える犀川創平もまた、真賀田四季と似たような意見を述べる。

 人間が生きていることがクリーンではありえない。我々は本来環境破壊生物なんだからね。――(中略)――ただ、速度の問題なんだよ。環境を早く破壊しないためには、エネルギィを節約するしかない。それには……すべてにコンピュータを導入して、エネルギィを制御することだ。

 このふたりの言葉には、人間の存在が地球という環境にとってあきらかな害であることが前提となっている。それは同時に、自分を含めたすべての人間が、けっきょくは自分を中心にした考えから抜け出すことのできない、自然の調和から放り出された存在であることをあっさりと認めることでもあるのだ。人間は、生きるというただそれだけのために環境を破壊する――考えようにっては、これほど不条理な生き物など他にはあるまい。

 だからこそ、人間は一歩も外に出ることなく、バーチャル・リアリティのなかでのみ他人と接触すべきである、という考えは、あるいは正しいことなのかもしれない。だが、肉体の接触を完全に絶ち、仮想現実のなかで生きるということに、はたして私たちはどこまで耐えられるのだろうか。それとも真賀田四季が言うとおり、生まれながらに仮想現実の環境で育っていけば、その世代の人間には受け入れられる問題でしかないのだろうか。映画『マトリックス』のように、仮想現実こそが唯一の現実となり、真の現実はたんなる夢でしかなくなるような逆転現象が起こるのだろうか。

 ネット上の掲示板やチャットなどに、文字のみ――より正確に言えば0と1の信号のみ――で存在している自分と、生身の肉体を持ち、食欲も性欲も感じる現実の自分は、同じものなのだろうか。それとも現実とは違う自分なのだろうか、とふと考えることがある。ネットの世界では、人はしばしばハンドルネームという、生まれると同時に有無を言わさず付けられた名前とは違った名前が使われる。そういう意味では、仮想現実であると認識しているからこそ、本名とは違う名前を名乗っているのだと言うことはできよう。だがその一方で、ネット上で知り合った人達とオフラインで――つまり現実の世界で待ち合わせ、実際に顔を会わせてみるということも、じつはけっこう盛んに行なわれていることも事実だ。私も何度か参加したことはあるが、そのたびに、生身の肉体を持つ自分が、ネット上で存在するハンドルネームの人物と同一人物である、ということにいまだに慣れることができない。

 そもそも、私が今しきりに述べている「現実」とは何なのだろう。そもそもそんなものが本当にあるのだろうか、とふと思うこともある。私が見ている世界は、おそらく他の人が見ている世界とは違う。現代の報道を見ていればわかるが、人間というのは非常に誤解しやすい生き物である。ある事件がおこったときに、実際は存在しないはずの「不審な人物」を見たという人が、しかもひとりではなく何人も出てくることも、それほど珍しいことではない。人はしばしば、自分にとって都合のいいものしか見えなくなり、自分の都合のいいものしか聞こえなくなる。だが、それはその時点では、たしかにその人にとっての「現実」なのだ。

「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現われる幻想だ」――犀川は本書のなかで、現実についてこのように語っている。そもそも私たちが自分の目で見ている映像、耳で聴いている音声も、脳によって変換された情報であるということを考えると、言い得て妙である。

 私たちは今、過渡期にいるのかもしれない、本書を読むとそんな気がしてくる。真賀田四季や犀川創平のようにとことん合理的な考えの人たちが増えてくれば、そのうちにあらゆることがネットによって行われることになるのかもしれない。バーチャル・リアリティがリアリティとなる時代――だが、それはまた別の意味で、非常に恐ろしいものでもあろう。科学技術の発達をうながした武器の歴史が、それを使う人に、自分と同じ生身の人間を殺傷しているという意識をどんどん希薄にしていった事実を思い出す。ネットの世界によって確実に変わっていくであろう、新しい形の人間関係は、これからどのような発展を見せることになるのだろうか。(2000.02.21)



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