新しい言葉の生まれる可能性――『ヴァイブレータ』考



 たとえば、煙草を喫う。脳細胞にニコチンが染み込んで、プチプチ音を立てて死んでいくかのようなけだるい感覚、そして煙草をもつ指の毛細血管が収縮し、指先が冷たくなっていく感覚――それはたしかに私の体が感じとっているはずの変化なのだが、こんなふうに言葉にした瞬間、そういえばこんな表現をした小説がどこかにあったなあ、ということをふと思い出す。どこからか借りてきた表現を使って自分が感じていることを言葉にする、という行為に、私はいつも一抹の不安を感じる。それは、ありふれた表現によって自分自身をおとしめ、ついには自分の存在がからっぽになってしまうのではないか、という不安だ。

 世の中は言葉で溢れている。赤坂真理の『ヴァイブレータ』は、自分の頭の中で、自分以外の大勢の人間の声がのべつまくなしに喋りつづけるという女性の話であるが、その女性、早坂玲は、かつて自分のなかで言葉が壊れるのを体験したのだという。そして、一度壊れた言葉を修復するために、人の言葉を集め、切り貼りして使う、ということを意識して行なったことがあると告白する。だが、それはおそらく彼女に限った話ではない。私たちの大部分は、世の中に溢れている、かつて誰かによって生み出された言葉を模倣し、あるいはうまく組み合わせることによってコミュニケーションをとっている。逆に言えば、私たちが常識として持っている言葉の表現を使わなければ、コミュニケーションをとることはできないのである。
 他人に自分の言いたいことを理解してもらうには、誰もが知っている、使い古された表現を使うのがいい。雪は「しんしんと」降らなければならないし、蝶は「ひらひらと」舞わなければならない。親しい人を失った人の悲しみは「胸の張り裂けそうな」ほどでなければならないし、正月の神社ともなれば「ひといきれでごった返して」いなければならない。

 だが、こうしたありふれた表現をまのあたりにするたびに、私はほんとうだろうか、と思わざるを得ない。雪はほんとうに「しんしんと」降るものなのか。蝶はほんとうに「ひらひらと」舞うものなのか。私の心はもっと別の捉えかたをしているのに、その感覚を世の中でよく使われる表現に置きかえることで納得しようとしているだけではないだろうか、と。

 このような、既存の表現と自分の心の感じ方とのギャップが、その人に新しい言葉を生み出させる原動力となる。自分は「その他大勢」ではないのだ、という自負――芸術を志す者であれば必ず持ち合わせているはずの気概が、文芸の世界においてはおもに比喩という形で立ちあらわれている。たとえば、「宝石をちりばめたかのような夜空」という比喩。今でこそ陳腐な表現に成り下がっているものの、その比喩が使われた当初は、おそらくこれほど画期的な表現はなかったであろうことは、容易に想像できる。だが皮肉なことに、比喩というものは、使われた瞬間から陳腐化の坂を転げおちることになる運命にある。

 言葉がなくても存在していられるのは、周りがあたしを知っているからなのだ。周りがあたしの記憶を分かち持っているから、だから新しいことをしゃべらなくても、あたしは消えない。まったく新しい環境で黙っていたら、あたしは存在以下だ、ただの肉、以下だ。言葉は本当に失われるだろう。(『ヴァイブレータ』より)

 一度言葉が壊れてしまった早坂玲は、自分の外に自分自身を表現する方法をなくしたあげく、自分の頭の中に「自分以外の人間の声」を生み出すことによって、誰とも共有しない――自分とすら共有しない言葉の受け答えをおこなうようになった。言葉というのは、あるいは自分が自分でありつづけるためにこそ存在しているものなのかもしれない。心の中でどんなことを感じたとしても、それを他人に伝える方法がなければ、他人にとってその感情は存在しないも同じなのだから。(2000.01.15)



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