文章と時間の奇妙な関係――『グランド・ミステリー』考



 小説には、いくつかの約束事というものが存在する。たとえば、ひとつの名前を当てられる登場人物は必ず同一人物でなければならない(つまり、同姓同名の名前を持つ人間が二人以上登場してはいけない)、という不文律のようなものだ。後に書かれた文章になるほど時間が経過している、というのもそのひとつである。そして時間をさかのぼって話が進む場合、たいていの小説では、ここから過去の話になることをあらかじめ明記しておく。でなければ、読者が混乱をきたしてしまうからだ。

 こうした小説の約束事をあえて無視することで複雑な謎をますます複雑にしている小説はいくつかあるが(たとえば「叙述トリック」なるものは、登場人物と名前の関係が必ずしも一意であるとは限らない)、第二次大戦中の日本を舞台にしたミステリー仕立ての小説『グランド・ミステリー』もまた、ある意味では小説の約束事としての時間の流れを絶ち切ることで成り立つ物語である、と言えるだろう。
 その謎については実際に本書を読んでもらうことにして、ところで皆さんは、実際に小説の文章を読むときにかかる時間の流れについて、考えたことがあるだろうか。今の世の中、小説と銘打たれた書物は数多くあるが、ある小説はスラスラと読めてしまうのに、別の小説を読むと妙に時間がかかってしまう、ということが、意外と多かったりする。しかし、小説のなかで流れている時間はあるときは一気に数年後になっていたり、数ページ進んでも数分しか経っていなかったりすることがある。文章を読むときにかかる時間と、小説の世界で流れる時間とのギャップ――かつて筒井康隆は、このギャップに挑戦するために一ページで経過する時間を数分と決めたうえで、実験小説『虚人たち』を書いたわけだが、それだけもの書きにとっては神経を使う問題だということなのだろう。

 一般的に、動作や会話がつづけば小説内の時間も進むし、描写がつづけは小説内の時間は停滞する。そして、それを突き詰めていくと、下記のような事態になる。

 意識は有限なもののなかに、いくらでも無限なものを発見できる力がある。――(中略)――出来事はいくらでも、まさしく無限に分割することができる。そうやって意識が力を発揮し続ければ、シーザーはいつまで経ってもルビコンを渡ることはできないだろう。世界は停まる。時間は動かず、歴史は消えてなくなる。――(中略)――意識は世界から動きを奪い、歴史を奪い、ただのっぺりとした砂粒の塊みたいなものに変えてしまうのさ。

 本書『グランド・ミステリー』から抜粋したこの引用は、「アキレスと亀」の逸話(アキレスが亀に追いついたときには、亀はかならず少し前へ進んでいる、という事実を考えると、アキレスはいつまで経っても亀を抜くことができない、という考え)をまじえて語られているのだが、これを文章の世界で採用すると、無限に描写を続けていけば、いずれ小説中の時間の流れは凍りついてしまうことになる。文章を読む、という時間は確実に過ぎているにもかかわらず、物語世界の時間は遅々として進まない――そのような小説がはたして小説と呼べるのかどうかは別にして、非常に興味深い現象であることには違いない。

 小説を読むときにかかる時間は、そのまま読みやすいかどうか、という問題とも直結する。以前、私はあるもの書きさんとメールをやりとりする機会に恵まれたのだが、純文学はともかくとして、エンターテインメント小説では、読者になるべく頭を使わせない文章にするのが常識となっているようだ。赤川次郎の作品などに多い、やたら短い会話文のみがつづく文章は、たんに原稿用紙の枚数をかせぐだけでなく、物語上に流れる時間のスピードを落とさないようにするための、ひとつの工夫なのかもしれない、などと勝手に解釈しているのだが、どうだろうか。(2000.01.06)



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