狂気という名の日常――『バトル・ロワイアル』考



「生理的に受けつけない」――こんな言葉を耳にしたことがあるだろうか。人はよく理由のつけられない嫌悪感をてっとり早く表現するのに、こんな言葉を使う。しかし私は、この言葉を聞くたびに、いつも不思議に思うのだ。「生理的って何?」と。生きようとする身体のはたらきが何かを嫌悪するなどということがありえるのだろうか。生まれたばかりの赤ん坊が蛇をけっして怖がらないように、私たちが何かを嫌悪するのは、それまでの人生で経験したり学習したりして得た脳の記憶のはたらきであるはずだし、その考えは今も変わらない。

 昨日までクラスメイトだった中学三年生四十二人に、その生殺与奪をつかんだうえで武器を与え、殺し合いをさせるという、その過激な設定が話題を読んだ、高見広春の『バトル・ロワイアル』は、しかし私をしてこの「生理的嫌悪感」に陥らせてしまった前代未聞の小説でもあった。この小説がほんとうは何を書きたかったのか――私は書評において、本書は極限状態におかれた人間達をむしばむ狂気の集大成であると評し、そのなかにあってなお輝きを失わない確かな愛の形を表現したかったのではないかと考えた。しかし、仮にそれが事実であるとして、このような残酷な設定を――たとえ小説という架空の世界ではあっても――する必要がはたしてあったのか、という疑問は、読後もずっとつきまとっていた。

 何か煮えきらない想いが、私の中にわだかまっているような気がしてならなかったのは事実だ。何か、どこか見落としているものがあるのではないか、あの胸クソ悪くなるような「殺人ゲーム」でなければ表現できない何か……。しかし、なかなか客観的に『バトル・ロワイアル』を読み解くことができないでいた私をガツンを言わせたのは、あーちゃーという方が掲示板に書き込んでくれたひとつの意見だった。本人に連絡する手段がないため、まことに勝手ながら、掲示板から消える前にその文章をここに残しておきたいと思う。何か不都合があれば、ぜひ連絡してほしい。

 いま、少なからぬ数の子供達が、まさしく「生き延びるため」に「戦い」を強いられてはいないでしょうか。心ならずも友達に向かって仮想のナイフをふるい、相手の「心」や「意志」や「想い」を殺すようなことが起こってはいないでしょうか。それがいじめによる殺人(自殺も含め)として表に現れたとき、私たちは身震いしますが、その前に累々と転がっているかもしれない魂の死体は見過ごしてはいないですか?

 血を流し致命傷を負ったのが内面だとすれば、行為者も罰されることはなく、傷そのものが気づかれることすら少なかったりします。もし、刺されて血を流したのが肉体だったとしたら、これは大騒ぎになり、傷つけた者、もしくはそれをは指嗾した者は犯罪者として糾弾されるでしょう。であるならは、省みられない内面の傷害事件も、外面へと投影してみれば人の注意を引くことができるのではないか。、、、これはそうして作られた物語なのではないだろうかと、私は思いました。

「あなたはこの『物語』を、残酷だと言い、不快だと拒否する。それなのに、今目の前にある同じほど残酷な『現実』には平気でいるのか」という問題提起、もしくは挑戦として。

 本書『バトル・ロワイアル』が、現代に生きる子供たちの血まみれの精神を描いた小説であるとするなら、すでに現代という世界そのものがひとつの狂気のただなかにあると言ってもいいのだろう。狂気の日常化――考えてみれば、これほど恐ろしい現実がほかにありえるだろうか。どこかが間違っているにもかかわらず、それを口に出して正すことができない、いや、そもそも何がおかしいのか、という思考そのものが麻痺してしまっているのが今の私たち大人の姿であるなら、あの「坂持金発」という政府の役人――平気で人を殺し、およそ良心のかけらもなく、自分がその立場にたたされたら、という想像力が完全に欠如した人物もまた、私たちの象徴ということになってしまう。

 私たちは、知らないうちに、子供たちに「殺し合いをしろ」と言いつづけてきたのだろうか。

 世の中が豊かになり、さまざまなモノや情報が溢れているにもかかわらず、なぜか私たちの生きる現代はどうしようもない閉塞感に満ちている。人と人との深い関わりあいを避け、携帯電話やインターネットなどで自分自身を断片化し、自分の内面に閉じこもることに満足する人たちの想像力が狂気と結びついたとき、私たちを驚愕させる凶悪な事件が現実として引き起こされることになる。しかし、それはあくまで外に噴き出したものの一部、氷山の一角でしかない、ということを、本書は警告しているのだと今は信じたいと思う。(1999.10.30)



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