三人称多元描写と人間関係――『残響』考



 自分がいて、自分以外の他者がいて、そしてお互いが出会い、何らかの感情を抱く関係を持つ。それはあるいは愛情かもしれないし、あるいは憎しみであるかもしれないが、ともかく、小説が人間を描くこと――もっと重々しく表現すれば「人間とは何か」を描くことである以上、人と人との関係が小説の世界では必ず生じているはずである。だが、そこで言われているところの「関係」とは、必ずしもお互いが面と向かって出会い、コミュニケーションをとることで生じる関係ばかりであるとは限らない。保坂和志の『残響』は、何人かの登場人物がお互いどおしはまったく出会うことがないにもかかわらず、ちゃんと小説として成立しているのである。

 お互いに出会わないことによって生じる関係とは、いったい何だろうか。本書を例にとってみると、それは同じ借家をかつて借りていた人と、今借りている人の間で成立する関係であり、または、かつては夫婦だったり仕事仲間だったりしたが今現在は別々になってしまった人たちの間で成立する関係のことである。前者は「想像力」、後者は「思い出」と言いかえることができるだろうか。著者は、このような関係でかろうじて結びついている登場人物たちが、それぞれの日常生活を営む様子を、あくまで客観的な第三者の視点で切り分けて描くことで、本書のあとがきでも述べているように、「隔絶されている印象をそこかしこで強調」しようとしている。ある意味、出会わない関係は、お互いが可能な限りお互いの距離を埋めようとする恋愛関係とは、まったく対極に位置する関係であるとも言える。そしてよくよく考えてみれば、私たちのまわりには多くの人で溢れているにもかかわらず、私たちは彼等「その他大勢」のことをまったく知らないし、知ろうともしない。大部分の小説が、人と人とが出会うことによって生じる関係を描いているが、そんな関係をもつことができるのは、ほんの一握りの人達とだけであり、その以外のすべての人達とは、私たちの一生をつうじて、「想像力」や「思い出」といった関係さえ保つことのない、あかの他人のままなのである。そんなことを考えると、私たち人間はつくづく孤独のなかで生きなければならない生き物なのだということを、今更ながら思い知らされてしまう。

 本書は三人称で書かれた小説である。だが、三人称といっても、本書はある特定の人物に視点を固定しているわけではなく、シーンが切り替わるたびに(あるいはシーンが変わらなくても)視点は次々と入れ替わっていく。このような三人称のことを「三人称多元描写」と言う。
 じつは、このことは私のホームページのお得意様である一之江さんという方が教えてくれたのだが、彼女もまた「三人称多元描写」で短編小説を書いている。ただ、一之江さんの場合、登場人物たちが同じ場所に居合わせている場面で「三人称多元描写」を使うことで、一元描写では見過ごしてしまいがちな、人と人との関係のなかで生じる微妙な機微を描こうとしているのである。同じ「三人称多元描写」を使っていても、表現しようとしているものはまったく正反対であり、にもかかわらず、どちらもちゃんとした小説として書ききれている――小説を読むことの面白さを感じるのは、こういうときである。

 三人称多元描写は、「神の視点」を取り入れることが可能である。三人称を使っている小説はたくさんあるが、そのなかでも多元描写で書かれている小説は、私の記憶がたしかならば、あまりお目にかかったことがない。おそらくそれだけ扱うのが難しい人称なのだろうと想像はできるが、このような人称形式を採用することによって、あるいは人と人の関係のどんな側面を表現することができるのか、非常に楽しみでもある。(1999.10.05)



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