読書は現実逃避の手段か――『死の泉』考



 外国人から見ると、日本人というのはずいぶん読書好きな民族に見えるらしい。確かに、電車の中を見回してみても、その手に本を持っている人がずいぶんいることに気がつく。文庫本がいちばん多いだろうか。なかには私のように分厚いハードカバーを黙々と読みふけっている人もいる。マンガを読んでいる人、何かの資格の問題集を見ている人、その種類はさまざまだが、混み合って、うるさくて、不安定に揺れ動いている電車のなかで、これだけ多くの人が読書にふけっているというのも、ある意味で不思議な光景である。

 なぜ、人は本を読むのだろう。人より多くの情報を仕入れるために、新聞や専門誌に目をとおす、というのなら話はわかる。だが、あきらかに娯楽とわかるエンターテインメント小説やマンガといったものを、自分自身も含め、なぜ人は読みふけるのだろう。

 第二次世界大戦中から戦後のドイツを舞台に、神話、人種、家族、芸術といったさまざまな問題を内包し、ひとつの壮大なストーリーを展開することに成功した、皆川博子の『死の泉』――その中の登場人物のひとりであり、マルガレーテの息子であるミヒャエルの言葉は、私の胸を鋭く貫く力に満ちていた。

「楽しいこと、面白いことは、書物で追体験するほうが、現実にまさります。苦痛だって、想像のなかなら、娯しみにすりかえることができる。ほんとの苦痛は体験したくない。そうでしょう? なんにしても、ぼくは、"外"はいらないんです」

 読書がもたらしてくれる物語の世界は、私にとって非常に魅力的だ。本の中の世界でなら、私はどんな人間にもなれるし、どこへだって行ける。遠い世界を旅することも、過去や未来を垣間見ることも、さまざまな人達と出会い、いろいろな体験をすることも、本の世界でなら自由自在だ。だから私は本が好きだし、時間を見つけては読書にふけることになる。だが、最近ふと、思うことがある。私もまた、ミヒャエルと同じように、現実逃避のために本を読んでいるにすぎないのではないだろうか、と。

 この世に生を受けてから、せいぜい二十数年程度しか生きていない私であるし、他人と比べれば、むしろ恵まれた人生を送っているのかもしれないが、それでも、この現実を生きていくことがどんなに大変であるか、くらいはわかっているつもりである。そんな私が、少なくとも本を読んでいる間は、現実の世界を忘れることができる。いや、本を読み終えたあとも、しばらくは虚構と現実のはざまを漂っていることがある。そして、夢から醒めると、そこには臆病で弱いくせに、どうでもいいようなつまらないプライドに凝り固まっている、ちっぽけな自分の姿がある。それは、歴然とした事実以外の何物でもないのだ。
 本の中の世界では、何もかもがうまくいくのに、現実の世界ではなかなか自分の思うようにならない――もちろん、それが人生というものであるし、だからこそ面白味があるとも言える。だが、現実の厳しさ、つらさをそのまま楽しみに変えてしまえるような強さを持った人間が、いったいこの世にどのくらいいるというのだろう。

 確かに、読書がもたらす虚構の世界にばかり閉じこもってしまうのは問題だ。だが、上述したとおり、人間、そんなに現実だけに目を向けて生きていけるものであろうか。現実の力は、ときにあまりにも圧倒的で、容赦を知らないところがある。現実につらいこと、苦しいことが続けば、いくら強い人でもいつかは心を消耗してしまう。そう考えると、読書の目的が現実逃避であっても、それはそれでかまわないのではないか、とも思う。

 アルコールも、適度に摂取する分にはむしろ健康を促進する作用さえあるが、量が過ぎれば逆に体に害をおよぼすことになる。本を読むという行為も、あるいは同じことが言えるのかもしれない。現実逃避のための読書――そのこと自体を否定はしないが、仮にも「八方美人な書評ページ」などというサイトをつくっている以上、八方美人男としてはたんなる現実逃避を乗り越えて、本を書いた作者の姿をとらえることができるような、より掘り下げた読書を目指したいものである。(1999.08.09)



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