方言の魅力――『春の夢』考



 不幸な境遇に身を置きながらも前向きに生きていこうとする哲之の姿を通じて、生きること、死ぬことについてを書いた宮本輝の『春の海』――だが、じつは私が本書を読んでもっとも深い感銘を受けたのは、登場人物たちの話す大阪弁に含まれる魅力であったとも言える。

 大阪弁ほど、もはや第二の日本語と言えるくらい全国に浸透してしまった方言も珍しいのではなかろうか。だが、私たちが認識している、メジャーとしての大阪弁は、たとえばこすっからい商売人ややくざ、あるいは有名なお笑い芸人が使う言葉、といった一側面ばかりを強調した、いわば偽りの方言でしかないのだ。本書を読んでみると、そのことを痛感させられる。
 とくに、哲之の恋人である陽子の大阪弁は、秀逸だ。

「なんで、こんなに哲之のことが好きなんかなァって考えてたの。哲之、ハンサムでもないし、汚い靴履いてるし、私に何にもプレゼントしてくれへんのに」

 正直、なんと色っぽいセリフなんだろう、と思った。と同時に、せわしなく荒々しいとばかり思っていた大阪弁の別の一面を垣間見たような気がした。というより、もともと大阪弁というひとつの言語がある特定の性質しか帯びていないかのような認識しかされていないこと自体、本当はおかしいのだろう。生粋の大阪人であれば、大阪弁で怒るし、大阪弁で笑うし、大阪弁で悲しむし、大阪弁で愛の言葉を語るのだ。これは、東北弁(=農家だけが使うわけではない)や名古屋弁(=ミャーミャー言っているだけではない)などでも言えることだ。

 著者の宮本輝は、兵庫県の生まれだ。およそ、文章を書くことで何かを表現することを決意した人達にとって、自分の生まれ育った土地の方言は、標準語などよりも自分の思っていること、感じていることをストレートに表現しやすいのだろうか。その方言の魅力を小説の世界でも使ってみたい、と思っている人は、意外と多いのではなかろうかと私は考えている。沖縄を含む南国の島々独特の世界を見事に書き切った、池上永一の『バガージマヌパナス』などは、その典型的な例であろう。

 方言を使って小説を書くとなれば、稀な例をのぞけば必然的にその方言を使う土地に根ざした小説を書くことになる。交通機関の発達やインターネットの普及などで、もはや距離そのものがほとんとほ意味をなさなくなった現代、物語の舞台は東京とかニューヨークとかいった、大都市であり国の中心であるにもかかわらず、どこか乾いて無個性な感じのする都心から、それぞれが独自の歴史と個性を持ち、方言という生きた言葉が日常生活で使われている地方へと移っていくのではないだろうか。(1999.07.08)



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