書評は後出しジャンケンか――『定年ゴジラ』考



 定年を迎えたサラリーマンたちのごく日常的な風景を、人情味溢れる文体で描き出す、重松清の『定年ゴジラ』――その話のなかで、彼らが住むくぬぎ台ニュータウンに、超辛口のニュータウン批評で有名な宮田教授が取材しに来る、というものがある。
 彼の手にかかると、たいていのニュータウンがボロクソに批判され、しかもその記事が某週刊誌に掲載されてしまう。ふだんは娯楽施設が何もない、などと文句を言っている山崎さんだが、さすがに自分の住む町が悪く言われるのは忍びない。そこで、元武蔵野電鉄勤務で、くぬぎ台ニュータウンの設計を担当していた藤田さんに相談することにしたのだが、藤田さんの口から出たのは、次のようなことばだった。

 「宮田さんの言ってることは、ジャンケンの後出しと同じなんです。僕らは先にグーを
 出して、宮田さんはそれを見てパーを出す。パーを出したニュータウンがあれば、宮
 田さんはチョキを出せばいい。最初から、僕らは勝てないようにできているんです」

 多くの小説家がいて、さらにその何倍もの小説家予備軍がいる。彼らはそれぞれが抱く想い――程度の差こそあれ――を小説という表現形式に乗せ、作品を完成させていく。だが、それに目をとおす読者にとってはできた作品がすべてであって、作者がその過程でどんなことを考え、どんな工夫を重ねてきたか、ということなどに頓着しない。ある小説家が、わざと出だしをつまらないものにすることによって、その後の展開をより劇的にするという効果を狙っていたのに、そこに辿りつくまでに「つまらない」と、放り出されてしまってはどうしようもない、といったことを書いていたのを覚えているが、それは、文章を書くことで食っていこうと決意した者なら誰でも背負う運命のようなものであろう。

 しかし、小説の書評となると、だいぶ状況が違ってくる。すでに完成した小説を読み、それについていろいろと意見する書評の基本は、後出しジャンケンと同じなのだ。なんといっても相手は先に手のうちを明かしてくれるのだから、その気になれば、褒めることも貶すことも自由自在だ。
 ただ読んで、「つまんねえ」とひとり呟くのならかまわない。だが、その意見を公にする場合、少なくとも書評する作品に対して、それなりの態度でのぞむ必要がある。

 八方美人男の私は、とりあえず褒めることをモットーとした。もちろん、貶すことをモットーにしているサイトもあるが、貶すにしても、ただ悪口のように書くところと、なぜ面白くなかったのかを自分なりに考え、まとめようと努めているところがある。『定年ゴジラ』については、宮田教授も、会ってみると意外といい人で、ニュータウンの今後について彼なりに真剣に考えていることがわかってくるのだが、辛口書評を全面に押し出している人も、小説が好きで好きでしょうがない、という想いは同じだと信じたい。ただ、ベクトルの指す方向が違うだけなのだ、と。(1999.06.23)



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