自分が自分であるためのプライド――『走るジイサン』考



 私はよく、「変なところでプライドが高い」と人に言われる。おそらく、そのとおりなのだろうと思う。じっさい、私は何かにつけて人に頼るのが嫌いだし、頼る以前に自分でできることはできるだけ自分でなんとかしようと考える方である。そのせいでずいぶん損な思いをしたり、かえって他人に迷惑をかけてしまったりすることもあり、その時は、もう少し謙虚に人の意見も受け入れなければと決心するのだが、しばらくするとまた元の、変なところでプライドが高い自分に戻ってしまっているのに気づく。もうこの年齢になると、自分の性格などそうそう簡単になおせるものではないのかもしれない、と最近ではすっかり開き直ってしまったりしているのだが、この変なプライド、いったいどこから出てきたものなのだろう。

 自分の頭の上に猿が乗っていると信じ込んだ老人作次を主人公に、確実に年老いていく自分となんとか折り合いをつけていく様を描いた、池永陽の『走るジイサン』、主人公の作次じいさんもけっこうインパクトがあったのだが、それ以上に印象深い人物に、京子さんがいる。

 京子さんは作次のひとり息子である真次の嫁で、年は二十七。じつはこの京子さん、今の時代には珍しく、幼い頃に極貧の生活を送った苦労人で、そのせいもあって、自分に対して非常に厳しく接するところがある。どんな形であれ、人に借りをつくるのを極端に嫌い、いつも無表情、それも、幼い頃からかなり無理をして肩肘を張ってきた結果としての無表情をまとっている京子さん――それは、自分が自分であるために必要なプライドを、なんとしても守り抜いてみせる、という不退転の決意の表れでもある。そんな頑なな姿勢を崩そうとしない京子さんがどう変化していくのか――書評ではあえて書かなかったが、私個人が本書を読んでいてどうしても気になったのは、作次よりも京子さんなのである。

 お金がないという、ただそれだけの理由で特別な目で見られてきた京子さんにとって、人に情けをかけてもらうことは、きっと自分が自分であることを否定してしまうことにつながるのだろう。かつて、京子さんに娼婦まがいのことをさせていた加納という人は、こんなふうに京子さんのことを話している。「ただ単に金をめぐんでもらう惨めさよりも、京子さんは自分の体を金で換算してでもつじつまを合わせようとした」のだ、と。

 たとえ夫婦であっても、そのなかに貸し借りの関係を持ち込まずにはいられない京子さんだが、作次に対しては、徐々にではあるが心を開いているようである。彼女が作次に話した「ソースごはん」の話、きっと、夫の真次でさえ聞いていないに違いない。

 「おかずがないから、ごはんにソースだけかけて食べるんです。悲しいんですけどこれ
 がけっこうおいしいんです。小学校の三年生のときに家庭環境調査というのがあって、
 朝晩家で食べたものを一週間分記入する欄があったんですけど、私はそこに正直にソ
 ースごはんってずらりと書きこんだんです。でもそれを友達に見つかって、さんざん莫迦
 にされて苛められました。――(中略)――でも私は肩肘張って一生懸命生きてきたつ
 もりです。途中で曲がりもせずにこられたのも肩肘張って依怙地になって生きてきたお
 かげだと思っています」

 強いなあ、と思う。だが、強いと感じると同時に、ずいぶん危うい強さではないか、という気もする。作次も看破したことだが、京子さんの強さは、健気さにつながっているのだ。

 今の京子さんには、自分たち夫婦のことを心から心配してくれる人――少しだけだが依怙地にならずにいられる人がいる。それは、彼女が思っている以上に幸せなことなのではないか、と思う。(1999.05.25)



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