ホームページにおける情報操作――『破線のマリス』考 



 テレビの報道番組などでも一時期話題にのぼった、映像編集技術による大衆の心理操作――野沢尚の『破線のマリス』はその恐怖を見事に表現している作品であるが、情報操作のもっとも恐ろしいのは、その情報が偏ったものであるにもかかわらず、情報の受け手はその情報が唯一の真実である、と思い込んでしまうところにある。

 違う会社の新聞(とくにスポーツ新聞)を読み比べてみるとわかることだが、同じ事件を取り扱っているにもかかわらず、書いてあることが正反対だったりすることがよくある。今さら言うまでもないことかも知れないが、こういった現象は、書評や本の感想を載せているホームページの間でもよく起きていることである。

 この辺の詳しい事情は『なぜ書評ホームページをつくろうと思ったか』という場所ですでに述べているので多くは書かないが、ある書評ホームページではAという本は面白いと絶賛しているのに、別の書評ホームページでは面白くないと酷評していることなど、日常茶飯事である。インターネットで面白い本を探そうと思っていた当初の私はずいぶん混乱したものだが、よくよく考えてみると、書評や本の感想を紹介しているのは個人のホームページであり、それゆえにその管理者の主観が書評に大きな影響を与えるのは仕方のないことだと今では割り切って(それゆえに、書評ページの多くは「あくまで個人的な」という但し書きを付けている所が多い)、書評なり感想なりを読むようにしている。

 けっきょくのところ、その本が面白いかどうかなんて、実際に現物を読んで、自分の頭で判断するしかない。そういう意識があって、私の運営している『八方美人な書評ページ』では、冒頭で「どんな本でも必ず評価する」と宣言している。たとえ私がその本をつまらない、と思ったとしても、他の人も自分と同じようにつまらないと思うとは限らないわけだし、だったら良いところを評価することで、とにかくその本を読むきっかけぐらい与えておかなければフェアじゃない、という想いがあるのだ。

 何より私が怖れているのは、ある本の悪口を書いてしまうことで、その書評を読んだ人が、その本をろくに読みもしないくせに「面白くない」ものとして片づけてしまうのではないか、という可能性である。たとえ書評を書いた人が自分の気持ちに正直にそう判断して酷評したのだとしても、それはある意味で情報操作になってしまう可能性がゼロではないのである。自分ひとりだけが酷評しても、たいした影響はないかもしれない。だが、現在星の数ほどあるホームページの書評や本の感想がことごとくその本を酷評していたとしたら、それは大きな影響力をおよぼすことになる。それらの書評を見た読者が、その本を読もうと思わなくなってしまう可能性は、ぐっと高くなるのではないだろうか。

 面白くない本が存在するのは、歴然たる事実である。だが、その本を書くのにどれだけ多大な時間とエネルギーを必要とするかは、経験上、痛いほどわかっている。自分が読んで面白くない、という理由だけで、ある本を読者から遠ざけてしまう行為は、私個人としては、できるだけ避けたいというのが正直な気持ちである。(1999.03.01)



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