RPG的クライマックス――『二重螺旋の悪魔』考 



 人間の遺伝子の中に封じ込められた怪物との果てしない死闘を描いた、梅原克文の『二重螺旋の悪魔』――本書のラストあたりを読んでいたときに、私はある種の興奮に似た感覚が自分の中に沸きあがっているのに気がついた。その興奮に似た感覚は、けっして馴染みのない代物で はない。テレビゲームのRPGをやっていて、いよいよラストボスと対決する、というときに覚える、あの感覚なのである。

 RPG、ロールプレイングゲーム、役割を演じるゲーム。もともとは卓上において一人のマスタなる人物の采配のもと、複数のプレイヤーがそれぞれ自分で作ったキャラクターを演じて遊ぶというTRPG(テーブルトークRPG)から生まれた言葉で、社員研修のさいに自分をセ ールスマンと仮定して商品売り込みの練習をさせるときなどにも、同様の言葉が用いられている。だが現在RPGと言えば、ほぼ間違いなくテレビゲームの一ジャンルとして確立してしまったあの言葉を指すと考えて問題ないだろう。

 今でこそ、RPGのストーリーにはさまざまなバリエーションが存在しているものの、少し前までのRPGにはほぼ一定のストーリー展開が用意されていた。そのなかのひとつに、悪の親玉が封印された巨大な力を持つ存在の復活を(あるいは、最終兵器の完成を)もくろみ、主人 公ひきいるパーティーはそれを阻止すべく戦う、というシチュエーションがある。たいていは、パーティーは苦難の末、悪の親玉を倒すことに成功するのだが、「少しばかり遅かったようだな」という悪の親玉の最期のことばとともに、巨大な力を持つ存在(あるいは最終兵器)は復 活(完成)してしまい、パーティーは人類存続という重いものを背負って、もう一度絶望的とも言える戦いをはじめることになる。
 絶望的、と書いたが、RPGにおいては、じつはたいして絶望的でもない。理由は簡単。なんだかんだ言ったところで、パーティーはレベルさえ高ければ必ず勝つからである。本書『二重螺旋の悪魔』における、GOO(遺伝子に封印された怪物)との戦いの勝利から、EGOD (GOOを封印した存在)との最終決戦へとなだれ込む図式は、上述のRPGのストーリーの図式と非常によく似ていることがわかる。もっとも、本書の登場人物たちは読者の手でレベルを上げるわけにはいかないが、それでもやはり、読者は最期には人類が勝つのだろう、となかば 予期することができる。そのとき読者が期待するのは、「果たして人類は勝てるのか」という点ではなく、「この物語には、この先どんなどんでん返しが用意されているのだろう」という点と、「謎のままになっている伏線にどんな決着をつけるつもりなのだろう」という点になって いく。

 著者の梅原克文は一九六〇年生まれで、コンピュータ・ソフト会社に勤務していたという。著者がゲームとしてのRPGについてどの程度の知識を持っていたのかはわからないが、問題なのは、『二重螺旋の悪魔』のようなタイプの物語、つまりゲームのRPG的クライマックスを 持つ物語が、角川スニーカー文庫からではなく、角川ホラー文庫から出版された、という点である。

 小説の映画化、ドラマ化、ゲーム化、漫画化……また逆もしかりで、さまざまなメディアの境界を越えて、物語が繁殖していく時代となっているのは疑いようのない事実である。私個人の考えとしては、その物語は小説なら小説という表現形式でしか表現できないからこそ小説にし たのであって、それを映画や漫画にするのは本来の物語の質を変え、陳腐化させてしまうことになりかねないので反対なのだが、あるいは表現形式を変えることでその物語への新しいアプローチの方法が生まれてくるかもしれない、と今は考えている。今回の『二重螺旋の悪魔』とR PG的クライマックスの関係は、あるいはこのこととは少し筋の違う話かもしれないが、メディアを超えて繁殖する物語が生んだもののひとつとしてとらえてもかまわないのではないか、という気がしてならない。(1999.01.15)



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