八方美人でない随筆


2012年に読んだ本のベスト10

 振り返ってみれば、今年は仕事の面でも、心情的な面でもひとつの転換期になった一年でした。そして今年もこうして無事にベスト10を出すことができたのも、このサイトを訪れてくれる皆様のおかげです。このベストが皆様の読書ライフを少しでも充実したものにしてくれるのであれば、サイト管理者としてこのうえない幸せです。

 2012年に読んだ本のベスト10(一応同不順)

 ●『地の底のヤマ』(西村健著 講談社)
 戦後斜陽化していく炭鉱を舞台に、底辺で働く労働者に混じって事件の真相を追う警察官の背負った罪、そして事件の真相にある動機がこのうえなく切ないが、それを乗り越えてそれでもなお生きようとする姿には感動を禁じえない。

 ●『消失グラデーション』(長沢樹著 角川書店)
 これはすっかり騙された! ミステリーにおけるサプライズの巧みさと、そこに持っていくまでの過程の周到さが際立つ本作は、ミステリーという分野のポテンシャルをあらためて考えさせずにはいられない。

 ●『エコー・メイカー』(リチャード・パワーズ著 新潮社)
 誰よりも愛する人をどうしても認識できなくなる精神疾患をネタに、人と人との関係性の脆さと、なおそこから新しい関係を築いていこうとする柔軟性を描いた本作は、人間がもつかぎりない可能性を信じてみようと思わせるだけのものを持っている。

 ●『天地明察』(冲方丁著 角川書店)
 SF作家が時代小説? と思ったものの、読んでみたらたしかに冲方丁的SFテイストに満ちた傑作でした。けっして届かないと思われていた星の動きをとらえようとする人たちの姿がこのうえなく美しい。

 ●『ロスト・シティ・レディオ』(ダニエル・アラルコン著 新潮社)
 内戦終結後の架空の国を舞台に、ラジオというメディアを駆使して、行方不明になった人に呼びかけつづけるノーマの声は、国家の強圧な体制を越えて、名のなき人たちがたしかにこの世に存在したのだという証を拾い続けていく。

 ●『メディア9』(栗本薫著 角川春樹事務所)
 栗本薫のSFはやっぱり極上だなあ、とあらためて感じさせられた一冊。とにかく物語のスケールの壮大さは、まさにこれこそがSFというセンスオブワンダーに満ちている。

 ●『完全な真空』(スタニスワフ・レム著 国書刊行会)
 まさか架空の書籍の書評を集めた小説が、これほど奇想天外で予断を許さない面白さを引き出すことになろうとは思いもしなかった。小説というのは、まさに何でもありだということを証明してみせた怪作。

 ●『夜と霧』(ヴィクトール・E・フランクル著 みすず書房)
 強制収容所という、人間のあらゆる尊厳を奪う最悪の環境において、それでも人間が人間であり続けるためにはどうすればいいのかを極限まで思索した本書は、今の世のなかだからこそ何度でも読み返したくなる魅力を放っている。

 ●『ばくりや』(乾ルカ著 文藝春秋)
 自分にとって余計な才能も、他の誰かにとっては幸福をもたらすものかもしれないという考えは、いろいろな意味で私の価値観に大きなゆさぶりをかけるものだった。そういう意味で非常に印象に残った一冊。

 ●『サマー/タイム/トラベラー』(新城カズマ著 早川書房)
 ほんの少しだけ、未来へ――なんでもない能力だと思われるものを使いつつ、ここまで奥深い作品を築き上げることができることに驚きを禁じえない。未来跳躍ものとしては至高とも言うべき傑作。

 次点

 ●『こんな日本でよかったね』(内田樹著 文藝春秋)
 この人の構造主義に拠って立つ世界のとらえかたは、間違いなく私の書く書評をふくめて、ものの考え方に大きな影響をあたえたと断言できる。そういう意味では、純粋に評価することが難しい。

私の「読みたい本」は貴方の「売りたい本」とは違う

 自分で言うのも何だが、私は読書家に入るほうではないかと勝手に思っている。こんな書評サイトを立ち上げているくらいだから、当然といえば当然なのだが、では個人的な蔵書のほうも相当なものではないか、というと、じつはそうでもなかったりする。
 私は読書家ではあるのだが、本の購入に多額の金を注ぎ込んでいるわけではない。理由はいくつかあげることはできる。賃貸暮らしのひとり身で、本を置くスペースがあまり確保できない。図書館が便利になって、たいていの読みたい本は借りて読むことができる。そもそも個人的な資質として、本を所有するということへの執着が少ない(いわゆるビブリオマニアではない)、そもそも個人的な資質として、ケチである――だが、いずれもあくまで表面上のものであって、根本的な理由とは異なるような感じがずっとしていた。それはそのまま、私は本当に本好きな人間なのだろうか、という疑問とつながることになる。まあ、そもそも小説というジャンルばかり読んでいる人間の読書が、真に「読書家」と言えるようなものなのかどうか、という疑問は置いておくとしても、である。

 本が売れない、という話を聞く。町の書店もずいぶんなペースで店をたたんでいるというニュースも聞いている。にもかかわらず新刊の点数は増え続けている。出版業界におけるそのあたりのカラクリについては、ネット上の他のサイトやブログにくわしいので、ここではあえて書かない。ともあれ、昔と比べて本が売れなくなってきているというのは事実だろう。ではなぜ売れないのか、という命題を考えるとき、ふと思うのは私自身の「読書家」としての立ち位置だ。本が好きだという気持ちは本当だし、じっさいに暇な時間の大半は読書(と書評)に費やされている。だが、そうした気持ちが「本を購入する」という行為へと結びつかない。少なくとも、このサイトを立ち上げた1998年ごろと比べると、自身の本の購入点数は減っているように思える。

 ここまで考えてふと思うのは、「本が売れない」ということと、「本が読まれない」ということとは、大きな因果関係をもっているわけではないのでは、ということだ。本が読まれないというわけではない。じっさい、行政サービスとしての図書館の施設は増加し、貸出数も増えているという。また、ブッククロッシングジャパンの代表を勤める財津正人の『本のある生活』を読むと、ブッククロッシングをはじめとする草の根的な活動に人々がけっして無関心ではないという事実も見えてくる。
 世の中の娯楽が多岐にわたり、趣味としての読書に時間や金を割けなくなっているという事実もあるのだろうが、それでも本を読みたいと思っている人はいる。いったんそんなふうに仮定してみると、問題は出版社側がそうした「読みたい」というニーズをとらえきれていないのではないか、というところへと落ち着くことになる。いや、出版社も営利企業である以上、誰もが「読みたい」と思うような本をつくろうとするはずではある。そうでなければ本は売れようがない。では出版社のとらえる「読みたい」というニーズはどこにあるのか、ということを考えるとき、私が思い出すのは、斎藤智裕の『KAGEROU』という小説である。

 第5回ポプラ社小説大賞受賞作にして、その作者がじつは俳優の水嶋ヒロであることが受賞後に判明した、ということで相当な話題になった『KAGEROU』であるが、読書家としての私はこの本に対してまったくといっていいほど読みたいという欲求を感じることができなかった。もともとベストセラー的な宣伝文句に対して斜に構えるようなところはあるのだが、それでも面白そうだと思えば読んでみるし、そのために本を購入することもままある。にもかかわらず、この小説についてそんなふうに思ってしまったのは、おそらく出版社側の考えている『KAGEROU』の読者層が、私のような「読書家」をはなから相手にしていないということを露骨なまでに感じ取ってしまったからだ。
 著名な俳優がその事実を隠して賞に応募し、見事大賞を受賞する――そこには私の大好きな「物語」がある。だが、その物語は私のような目の肥えた読書家からすれば、まず現実にはありえないような筋書きにしか見えない。いくら「事実は小説よりも奇なり」といっても、いくらなんでも露骨すぎるだろう、と当時の私は思ったものだが、もし出版社側であるポプラ社の狙いが、私のようにふだんから本を読んでいる人たちでなかったとすれば得心がいく。おそらくポプラ社は、こうした「物語」を真に受けてしまうような人、要するにふだん本を読まないような人たちを最初からターゲットにしていたのだろう。

 よくよく考えてみれば当然のことだ。本が売れないという状況がここ何年も続いている。だが、私のような本好きな人間は、放っておいても本を買う。それでもなお、本の売り上げをあげるためには、ふだん本を読まないような人たちの購買意欲を刺激するしかない。そのためにどうするか。子どもに本を読む習慣をつけさせたり、読書の教育に力を入れたりして、未来の読者を地道に育てていくという手もある。だがその方法は、種をまいてから収穫するまでに時間がかかるうえに、どこまで効果的なのかも見えてこない。こうして、もっと手っ取り早く、今いる「本を読まない人」たちがこぞって金を払うような「売れる本」を出版社は模索していくことになる。その最たる例こそが『KAGEROU』だ。

 不幸なことに、『KAGEROU』はそれなりに売れてしまった。ということは、この手の手法が有効であることを証明してしまったことになる。もちろん、ふだん本を読まない人をターゲットにした本をつくる、という視点自体は間違いではない。だが、ふだんから本に接している読書家たちがまったく食指を動かさないような本をつくりつづけるというのは、言ってみれば焼畑農業のようなものだ。一時的に話題になるかもしれないし、ときにはベストセラーの仲間入りするような本も出てくるかもしれない。だが、もともと本を読む習慣のない人たちが本を買ってまで読むというのは、本の中身がどうこうというよりも、むしろその話題性ゆえのことだろうと個人的には思っている。その証拠に、『KAGEROU』は今、BOOK-OFFの100円コーナーでいくらでも見ることができるようになっている。そしてその値段になっても、なお私の食指は動かないのだ。

 私のなかの「読みたい本」と、出版業界の模索する「売れる本」との乖離は、こんなふうにして進んできたのではないか、と思う。だからこそ「本が売れない」ことの一因として「読書離れ」が挙げられることに違和感をおぼえてしまう。そしてこうした傾向は、じっさいはもっと以前から続いていたことではないかと思っている。とくに、2012年のミリオンセラーが阿川佐和子の『聞く力』のみだったというニュースは、そうした出版社側の模索が文字どおりの焼畑農業であり、そろそろ通用しなくなってきていることを示唆しているように思えてならない。読書という趣味そのものはなくなることはないし、また紙の本にしても急速に衰えていくというわけではないと思うものの、ただでさえ本が濫造され、本当に欲しい本が欲しい人に届きにくくなっている今、出版業界の未来についてははなはだ暗いものがあると言うほかにない。(2012.12.22)

ブッククロッシングゾーンをめぐってみた(その11)

 のんびり本を読む場所の候補として、「喫茶店」を思いつく方は多いと思います。じっさいにやってみると、あまりに長居することが申し訳なく感じてしまい、思ったほどのんびりと読書というわけにもいかないのが現実だったりしますが、そうした現実はさておき、ブッククロッシングゾーンの設置場所として名乗りをあげる喫茶店は、けっこうあったりします。

 今回紹介するゾーンは、ともに喫茶と軽食を楽しむことができる店のなかにあります。まずは「Cafeトゥリー」。茨城県石岡市の、山と緑に囲まれた八郷盆地を貫く道路をひたすら進んでいくと見えてくるお店です。


 サイトの紹介文としては「インドカレーのお店」となっており、文字どおりのカレーやカレーうどんといったメニューがあるのですが、絶品なのはじつは野菜そのものです。それもそのはず、地元の八郷盆地でとれた新鮮な野菜がふんだんに使われていて、とにかく甘みがあるのです。今回は数量限定のポークソテーを食したのですが、次に行く機会があればメインメニューのカレーもぜひ食べてみたいところです。


自然の木材を基調とした店内の様子。


ゾーンは店の入り口脇に設置されている。


 もう一軒は「日月日(にちげっか)」。神奈川県の湘南江ノ島のすぐ近くに位置する、一軒家を改修した喫茶店です。

 すぐ目の前を江ノ電が走るこの店は、足踏みミシンの一部がテーブルとして使われていたりと、日本のアンティーク的な雰囲気がゆったりとした空気を生み出しています。というか、友だちの家に遊びに来たような感覚に近いかもしれません。


 上の写真からもわかるとおり、「日月日」には独自のオススメ本棚が設置されていて、より「本を読むための場所」を意識しているところがあります。もちろんゾーンもありましたが、知名度の低さゆえの本の動きの弱さという問題は、ここにかぎらずゾーン全体の問題としてあるように思えます。

 さて、ここまでのゾーン訪問で、関東と北信越方面についてはだいたい行きつくした感があるのですが、今後の活動をどうするのかをあらためて考える時期に来ているような気がします。(2012.07.15)

ブッククロッシングゾーンをめぐってみた(その10)

 前回紹介した「ツルハシブックス」には、「カラバコ」と呼ばれるレンタルボックスのスペースがあり、個人や団体が気軽に作品の展示や販売ができるようになっていましたが、このレンタルボックスのギャラリーを専門にしている場所が、東京都世田谷区にありました。

 「世田谷233」――路面電車の走る東急世田谷線沿線に、そのギャラリーはあります。


 審査なし、使い方自由、とにかく何からの情報を発信したい、自己表現をしたい、そしてそうしたものを通じて人とつながりたい、という情熱の持ち主にとことん開かれたこのギャラリーには、じつにさまざまな展示物が溢れかえっていました。持ち運ぶこと前提の絵画や、人生相談ができるボックスなどというものもあり、人間の発想の多彩さを感じずにはいられません。

 ブッククロッシングゾーンは、そんな展示物に溢れるボックスのひとつとして設置されていました。オーナーの話によると、ブッククロッシングの趣旨を話していったんは持ち帰るものの、律儀に元の場所に返してくれる人もいるみたいで、まだまだ世のなかに浸透している、というわけではない様子です。

 私が訪れたときは、「233写真部」の活動が行なわれていて(世田谷233では、ボックスだけではなくレンタルスペースとしても使用できます)、個展スペースには「日ごとに展示される写真が変わるギャラリー」なるものもやっていました。ゾーンめぐりの一貫として訪れた場所でしたが、何か新しい発見をしたいときなどに、また訪れたくなるような場所でもありました。(2012.06.02)

ブッククロッシングゾーンをめぐってみた(その9)

 本を売って利益をあげる本屋と、その本を無料でキャッチアンドリリースさせ、旅をさせていくというブッククロッシングの理念は、いっけんすると相反するものであるかのように思えます。じっさい、公式ゾーンを提供してくれる本屋というのはけっして多くはありません。ですが、だからこそ逆に、あえてゾーンを置いている本屋というのは興味を惹かれます。いったいどのような理念のもとに、本屋にゾーンを置くことにしたのか、と。

 新潟県新潟市にある「ツルハシブックス」は、そんな珍しい本屋のひとつです。

 自分と世界を発掘する本屋、ということで「ツルハシ」がトレードマークとなっているこの本屋は、本というものをたんなる商品であるとか、読み物であるとかいう単純な枠組みでくくるのではなく、もっといろいろな可能性を秘めた「なにものか」というふうに定義している本屋だと言えます。その可能性のひとつの形としての、公式ゾーンということになります。

 ブッククロッシングソーンは店舗の奥、「カラバコ」と呼ばれる小さなレンタルボックスのなかのひとつとして鎮座していました。この「カラバコ」、個人や団体の作品や活動記録などを発売・展示したりできる一画となっていて、まさにさまざまな価値観と遭遇できる場にもなっています。


店舗内の様子


若者のための地下古本コーナー「HAKKUTSU」


 若者だけが入ることのできる(30代以上の大人は本の寄贈のみ)地下の古本コーナー「HAKKUTSU」や、読書会をはじめとする各種イベントなども随時手掛けている「ツルハシブックス」、肝心の本のラインナップについては、基本的に若者向けの本や自己啓発本などが多いという印象がありますが、コミック「ONE PIECE」全巻が置いてあるかと思えば、ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』が平台に置かれていたりと、なかなか油断できません。

 じっさい、私がここで買ったのは内田樹の『こんな日本でよかったね』(文藝春秋)という文庫本だったのだが、これがまさに「自分を発掘する」本になろうとは、このときは思いもしませんでした。(2012.05.16)

ブッククロッシングゾーンをめぐってみた(その8)

 なんだかんだで二年近くも無沙汰にしてしまっていたブッククロッシングゾーン巡り――どうもそのあいだに全国の公式ゾーンの活動状況を確認する作業が行なわれたらしく、以前ここでとりあげたゾーンが消えていたり(もちろん、活動状況の回答がなかっただけで、ゾーンそのものは残っている可能性はある)、新しいゾーンが登録されていたといった動きがあったようですが、ひさしぶりに公式サイトを確認したところ、そのなかにある宿泊施設が登録されているのを発見。仕事のほうもようやくひと段落つきそうなこともあり、今回はそこで一泊して骨休めしようかと思いつきました。

 その宿泊施設の名前は「ペンション ハーモニー♪」。長野県白樺湖近くの「姫木平ペンション村」のなかにあるペンションのひとつです。

 高原にある別荘地! ということで、本来であれば自家用車で乗り付けるのがベストなのですが、残念ながら自家用車を持たないワーキングプアに近い身分の私は、電車とバスを乗り継いでのんびりと目的地へ向かいます。


標高1400m以上の湖、白樺湖。


その名のとおり、あちこちに白樺の木が。


 ちなみに、私は徒歩で向かいましたが、もっとも近いバス停留所からでも歩きだと距離があるうえに、歩道の整備されていない道路や急な坂道を行く必要があるため、オススメしません。ペンションのオーナーの話では電話をいただければ送迎の車を出していただけるそうなので、ご利用のさいはぜひそうしてください。

 ブッククロッシングゾーンは、一階ダイニング横にあるキッズコーナーにありました。


じつは、こちらからラインナップが確認できたりします。

 三年前にこのペンションをはじめると同時期にゾーンの設置もはじめたそうで、友人知人を通じて集めた本は、おもにスポーツ関連のものと少数の小説、絵本というラインナップ。ペンションの利用客によって持って行かれる本はあるが、私のように本をリリースするという流れは、今回がはじめてだったらしく、オーナーにはたいへん珍しがられました(笑)。


泊まった部屋はアウトバスの洋室。


でもこたつ付。


 GWの初っ端ということもあって、客は私ひとりだけでした。なかば貸切状態のペンションでオーナーと本のことや趣味のことなど、いろいろ談義させていただきました。(2012.05.07)


窓から見える朝焼けが印象的でした。

知識があることの強み

 何が凄いのかよくわからないけど、とにかく凄いことが起こっている、という認識があるとき、その「凄いこと」が具体的にどんなふうに凄いのか、わかりたいと思うことがある。知識の有無を痛感させられるのは、たいていそんな思いにとらわれたときだ。

 この動画でとりあげられているのは、2007年春にNHKでアニメ放送された「精霊の守り人」。原作は児童作家の上橋菜穂子の同タイトルの小説であり、私も大好きなシリーズのひとつである。アニメについてはリアルタイムで視聴することは叶わず、1、2年後くらいにインターネットの有料スクリーミング配信でようやく全話観ることができたのだが、当時このアニメを観たときの印象として、ヒロインであるバルサの思った以上の若作り以外に、その戦闘シーンのつくりこみの丹念さというのはたしかにあったものの、まさに「なんだかよくわからないけど凄い」という認識でとどまっていた。

 というよりも、この考察動画を観ることで、あらためてそうした自身の認識の浅さに気づかされた、と言ってもいい。

 これまでの読書経験を振り返ったときに、何らかの専門知識というものは、小説を楽しむうえで役に立つよりも、むしろ邪魔になることのほうが多い、という認識があった。専門的知識を有するということは、それだけ私たちが接しているリアルな世界とのズレが見えやすいということでもある。たとえば家で猫を飼っていて、その習性をよく知る人が、小説内に登場する猫の、その習性からはありえない行動を目撃したとしたら、とたんにそのフィクションの嘘くささが強調されてしまい、感情移入ができにくくなる。だが、けっして損なことだけではない。専門知識があることで、それまで知らなかった作品のあらたな側面を知ることができるという強みを、この動画は雄弁に物語っている。
 とくにこの考察動画は、知識のない者たちが漠然と感じる「なんだかよくわからないけど凄い」ことに、たしかな知識の光を当てて明確化するだけでなく、その考察を通じて多くの人に対し、そこにたしかな「凄さ」があることにも気づかせてくれる、という意味で、非常に有意義なものとなっている。

 ものの見方の変換や知識の有無によって、それまでとは異なったものが見えてきて、そのことでその作品への興味が掻き立てられるような書評――今までモットーとして自身に課してきた「褒める書評」の、より具体的な形が今更ながら見えてきたような気がする。

 ちなみに、この動画投稿者の投稿作品のなかには、バルサの師にあたるジグロの格闘シーンについても考察したものもあるので、ご興味のある方はそちらのほうもチェックしてほしい。(2012.04.26)

私は、迷わない

 雨が降るか降らないかよくわからない天気のとき、傘をもって出かけるべきかどうかを迷う人は多い。
 傘をもっていって、けっきょく雨が降らなければ、損をした気分になる。
 傘をもっていかないで、雨が降ってきても、やはり損をした気分になる。
 損をしたくないと考えるから迷う。
 損をしてもいいやと考えれば迷わない。

 問題は、損をしたときに受けるダメージの程度。

 傘をもっていって、その日一日雨が降らなかったとき、どのような不都合があるか?
 傘をもっていかなくて、その日雨が降ってきたとき、どのような不都合があるか?
 そのダメージのいずれがその人にとって大きいかを考えれば、おのずと結論は出てくる。

 私の場合、傘をもっているときに、電車内での読書に支障をきたす、という事態が一番ダメージが大きいと考える。
 ゆえに、雨が降るか降らないかよくわからない天気のとき、たいていは傘をもっていかないのが私の判断。

 ――まあ、カバンのなかに折り畳みの傘が常駐しているんですけどね。(2012.04.20)


 

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