八方美人でない随筆


2008年に読んだ本のベスト10

 今年は書評1000冊突破をはじめ、いろんな意味で印象深いというか、ちょっとした節目を迎えることになった一年でした。そして今年もこの企画で締めとなります。

 2008年に読んだ本のベスト10(一応同不順)

『観光』(ラッタウット・ラープチャルーンサップ著 早川書房)
貧富の差が際立つタイの底辺近くで生きる人たちの、それでも「今」を生きていこうとする強さと、ちょっとした希望が眩しくなるような珠玉の短編集。

『賢者はベンチで思索する』(近藤史恵著 文藝春秋)
事実の積み重ねがけっして物事の真相を指し示すものではない、ということを踏まえつつ、それを悪いほうではなく良いほうにとらえていくことの大切さを教えてくれる一冊。

『映画篇』(金城一紀著 集英社)
映画を題材にした短編集だが、それぞれの短編の結びつきや、それらが合わさってより大きな物語が浮かび上がってくる手法が見事が作品。もちろん、それぞれの短編の完成度も高い。

『復活の地』(小川一水著 早川書房)
大震災から復興する、ただそれだけの話なのに、なぜこれほどまでに興奮し、感動する物語が書けてしまうのか!

『おがたQ、という女』(藤谷治著 小学館)
さまざまな噂話や風評によってのみ語られる「おがたQ、という女」の真実の姿は、はたしてどこにあるのか。映画好きな人もにオススメの一冊。

『首無の如き祟るもの』(三津田信三著 原書房)
ホラー&ミステリーの見事や融合もさることながら、ラスト近くの畳みかけるような解決編や、それをもってしてもなおホラーとしての雰囲気を失わない絶妙なバランス感覚が素晴らしい作品。

『聖の青春』(大崎善生著 講談社)
難病におかされ、29歳で夭逝したプロ棋士、村山聖の生涯をつづったノンフィクション。将棋のなかに生きることと死ぬことを見出した男の、魂の一手がこのうえなく熱い。

『ディスコ探偵水曜日』(舞城王太郎著 新潮社)
ただのミステリーがそのまま世界の謎にまで迫ってしまうというインパクトの強さ、という意味では通年ベストにも入りそうな怪作。はたして本書は、ミステリーの新しい境地を開くことになるのか?

『グールド魚類画帖』(リチャード・フラナガン著 白水社)
一冊の本がまさにひとつの世界をつくりあげてしまう、それどころか現実さえも侵食してその境目をあやふやにしてしまう、それだけのパワーが本書のなかにはたしかにある。

『われらが歌う時』(リチャード・パワーズ著 新潮社)
私たちにはなかなか想像しにくい人種差別を、たしかな実感として追体験することができる作品。希望と絶望、つながっては離れていく人々の思いには心打たれるものがある。

 次点

『驚異の百科事典男』(A・J・ジェイコブズ著 文藝春秋)
 「よし、ブリタニカ百科事典を全巻読破するぞ!」という冗談のようなチャレンジを成し遂げた男の苦闘の歴史。ネタかと思ったら本当にやっていたとは・・・。

「アノ本」が欲しいのです

 これはべつに書店にかぎったことではないと思うのだが、人がお店に行く動機として、明確に何か買いたいものがある場合とそうでない場合とがある。

 私が書店なり、図書館なりに行く場合は、前者のパターンが多い。新聞の書評や、インターネットの本紹介サイトなどで話題になっていたりしたのを目にし、それが面白そうだと思い、それが欲しいと思って書店なり図書館なりに足を向ける。だがこの場合、手に入れたい本のタイトルは明確なのだから、極端な話、オンライン書店でタイトルを検索して購入する、という方法でも問題ないわけだ。というか、そちらのほうがわざわざお店に行くという手間がはぶけるぶん、好都合ですらある。

 では、前者の方法をとる場合に都合の悪いことがあるとすれば、何だろうか? ひとつは、注文してから現物が手に入るまでに時間がかかるということ。ゆえに、たとえば手持ちの本がなくて暇を持て余しており、今すぐ本が読みたい、という場合は、私の欲求は満たされないということになる。このような場合は、書店に行くことになる。じっさいの書店であれば、少なくとも現物がすぐ購入できる可能性があるし、たとえ欲しい本がなかったとしても、べつの気になっていた本を買うという選択肢も出てくる。

 自分でいうのも何だが、私はわりと計画的に本を読み進めるほうだ。だが、それでもすべてが計画通りにいくというわけにはいかない。予想外に早く本を読み終えてしまったり、うっかり読みかけの本を置き忘れてしまったり、一巻目だと思って読んでみたら、続編の二巻目だったりといった事態が少なからず起こる。そんなときは、急遽読む本を手に入れなければならなくなる。そしてこのとき、私にも「あの現象」が起こるのだ。

「あの現象」――すなわち、「ホラ、アレよ、アレ。こないだテレビで紹介されてたあの本、置いてないの?」という、けっして頭のいいとは言えないセリフとともに語られるあの現象、ようするに「ど忘れ」である。

 ネットで本紹介サイトを回っていると、面白そうな本がたくさん出てくる。もちろん、そのなかでもとくに気になるタイトルがあれば、忘れないように書名くらいは手帳に書き留めておいたりするのだが、たんに頭の隅にとめておこう、という程度の場合もある。そして、たまたま上述のような状況が起こり、たまたま書店の近くを通ったりすると、「もしかしたらあの本、あるかも」という非常にあいまいな理由で書店に立ち寄ることになる。そして、きちんとメモしておいた本がたまたまそこになかったような場合、私の意識は、頭の隅にとどめておいた本のタイトルを探そうとする。そこでふと気づくのだ。

「あれ、あの本のタイトル、なんだっけ? 『かえる食道』? いや、かえるじゃない、『食道ゆうれい』? いや、あれは『居酒屋ゆうれい』か。たしか漢字だけのタイトルじゃないはずだ。図書館じゃリクエストがすごく多かったから、話題になっている本なのはたしかだが・・・。著者は覚えていないし、何だっけ、あの本のタイトル・・・」

 タイトルも著者もわからずに、にもかかわらず「アノ本」が欲しいと言って店員を困らせる人の話を聞いたとき、私はなかば呆れたものだったが、よくよく考えてみれば、買いたいものが明確な場合は、オンライン書店というそれなりに有効な手段が用意されている。それでもなお書店に足を向けるのは、私のようにそれなりの切迫した理由があってのことか、あるいは総合ショッピングモールのように、ある目的があって来たついでに書店に立ち寄る、つまり暇つぶしという目的なんじゃなかろうか。となると、書店ではたらく店員さんが、「アノ本」が欲しいというお客の要望に答えられないというのは、もしかしたらけっこう大きな機会損失になっているのではないだろうか。

 でも――さすがにやっぱり「アノ本」と言われて、「ハイ、これのことですね」と応じてくれるような店員になるには、たんにシステム一辺倒ではとうてい及ばないわけで、現実には難しいんだろうなあ。(2008.12.03)

「読者への挑戦状」に対する読者の意識

 もともとミステリは作者と読者の対戦型ゲームであった。しかも圧倒的に作者の側が勝率が高い、読者も自分が勝ってしまっては面白くない、プレイヤーの一方が負け続けることを楽しむという特異なゲームだったと思っています。ですが、名探偵が謎を解いていく過程を見て楽しんで、自分自身はゲームに参加しないというように読者の読み方が変わってきているように感じています。

(『ミステリという方舟の向かう先』ユリイカ2007年4月号所収)

 雑誌「ユリイカ」のなかに掲載されていた、ミステリ作家である米澤穂信と笠井潔との対談をたまたま読む機会があった。上記引用はそのときの米澤穂信の発言の一部であるが、ふと思い返してみると、これまで私が読んできた小説のなかには、当然のことながらミステリ、それも、頭に「本格」がつくようなミステリもあったはずなのに、これまで一度としてそれらをパズル――つまり、探偵とともに真犯人とその殺害方法を推理していくゲームの一種としてとらえていなかったことに気がついた。

 思うに、私のなかでミステリとは、純文学やサスペンスやSF、ファンタジーといった数あるジャンルのなかのひとつでしかなく、そのすべてをひっくるめて「読み物」として接するという姿勢を貫いていた。というよりも、それがあたり前だとずっと思っていたのだが、よくよく考えてみれば「読者への挑戦状」といった演出は、読者にも謎解きに参加してもらうための、本格ミステリならではのお約束であって、本格ミステリ作家たちは、読者をゲームの参加者としてとらえる方向性が強い、ということになる。

 「ユリイカ」の対談は、そうした作者の意識をあらためて知ることができた、という意味で私にとっては意味深いものであったが、では、あくまで「読み物」として読んだミステリが、はたして面白くなかったのかと言えば、けっしてそんなことはなく、たとえその作品に仕掛けられた謎がまったくわからなかったとしても、その犯人やトリックの意外性に驚き、「名探偵が謎を解いていく過程を見て楽し」むというスタイルを、それなりに楽しむことができている。

 考えてみれば、名探偵がいて犯人がいて、彼らが孤島なり密室といったバトルフィールドで推理力を用いてバトルするという構造が読者にとっては大事なのであって、そのとき論理的な解決であるかどうかといったことは重視されていないんじゃないかと。

(同上)

 清涼院流水の『コズミック−世紀末探偵神話−』というミステリが、その評価をめぐって意見が大きく割れるという話を聞いたことがある。私はどちらかといえば「こういうのもアリだな」と肯定的なほうで(そもそも「褒める書評」を目指している私としては、肯定するしかないわけでもあるが)、思わず本を床に叩きつけるといった衝動には駆られなかったが、このあたりの意見の相違は、この作品を「読み物」としてとらえるか「パズル」としてとらえるかの違いから来ているのではないだろうか。あくまで読者にも解けることが前提の「パズル」ととらえるなら、そもそも読者に解けるはずもないという時点で駄作確定である。だが、「読み物」としてとらえるなら、そのあまりにアクロバティックな真相や、九十九十九をはじめとする超個性的な探偵の面々といった要素は純粋に魅力的だし、また面白いものだ。

 ミステリにおける「読者への挑戦状」は、必然的に読者に読書の一時停止を要求する。ひと昔前に流行ったゲームブックといった形態の本であればともかく、それまで普通の小説と同じように前から順番にストーリーを追っていけていたにもかかわらず、あえて一時停止して事件の真相を考える、さらには、そのために以前読んだところを読み返していくということは、私にとってはけっこうなストレスでもある。なにせ、すぐ先を読めば、真相は名探偵が代わりに示してくれるのだ。それも、私のような決定的に謎解きの苦手な人にとっては、仮に自分で真相を考えたとしても、どうせミスリードするに決まっている、という意識がまず頭にある。そして、上述の米澤穂信の言葉にもあるように、ミステリが「プレイヤーの一方が(つまり読者が)負け続けることを楽しむという特異なゲーム」であるとすれば、早々とゲームを降りて、さっさと真相を開示してもらう、という読者の流れがあったとしても、さほど不思議なことではない。

 対談のなかで笠井潔は、ケータイとインターネットの普及をふまえて、本格ミステリの論理を考察するのではなく、近道を探すという読者の傾向とを結びつけようとしているようだが、そもそもミステリを「読み物」としてのみとらえようとしていた読者は、私を含めて昔もけっこういたのではないか、と推察している。そして、そんなふうに考えたとき、たとえば西尾維新の「戯言」シリーズが、当初本格ミステリの形態をとっていながら、なぜ最終的には異能力バトルの方向へと物語がシフトしていったのか、という疑問もおぼろげながら見えてくる。「バトルフィールドで推理力を用いてバトルするという構造」は、米澤穂信が対談のなかで言及しているように、「少年マンガのバトル物」と結びつきやすい。そして西尾維新にとって、本格ミステリという構造と少年マンガのバトル物とは、「読み物」としてはさほど大きな差異はなかったのではないか。あくまでキャラクター同士のガチンコバトルが中心であるとすれば、振るうのが頭脳であっても腕力であっても同じことである。

 本格ミステリの面白さを、あくまで「読み物」のなかで求めていくというのは、いっぽうでその作品をあらたな側面からとらえるという点では意味のあることかもしれないが、いっぽうでその作品が本来もっているはずの楽しさを取りこぼしてしまうことにもなってしまう。本格ミステリにおける論理性――私はもしかしたら、ずいぶんもったいない読み方をしていたのかもしれないが、同時に「読者への挑戦状」という明確な形で読者に謎解きを要請するミステリを、最近の作品のなかでは見かけたことがない。そういう意味では、「読者への挑戦状」は、すでに過去の遺物と化してしまっているのかもしれない。(2008.09.07)

細木数子の季節がやってきた!

 仕事の関係上、毎週のように本の売上ランキングにたずさわっている私であるが、何年もランキングのデータを見ていると、年間を通して本の売れ行きにもある波のようなものが出てくることに気づく。もっとも典型的なのは、年末になると年賀状作成関連の本が必ずランキングの上位に来る、といったものだが、それ以上に強烈な波が、毎年この時期から年末年始にかけて、文庫本のランキングを席巻することになる。

 そう、アレです。細木数子が著者となっている「六星占術」関連本。毎年この時期に最新年度版が刊行されるのですが、これが刊行されると必ずといっていいほど文庫本ランキングの上位に食い込んでくるのだ。まじめな話、いきなり上位を独占しちゃったりすることもままあったりするので、この文庫本が上位にランクされてくると、私などは「ああ、今年も細木数子の季節がやってきたなぁ」なんて感慨深く思ったりするのですが、なんというかこの文庫、文庫本ランキングのなかではひときわ異彩を放つ代物でもある。だって、それまで『容疑者Xの献身』とか『西の魔女が死んだ』とか『蟹工船』とかいった文芸関係が上位にひしめいていたのに、そんななかに突如として「六星占術」が割り込んでくるわけです。違和感ありまくりだと思うのは、はたして私だけでしょうか。

 以前、「ケータイ小説」が単行本の売上ランキングの上位を占めていたときにも思ったのですが、「六星占術」関連本を「文庫本」としてひとくくりにするのは、ランキングとして何か間違っているような感じがするのですが、どうなんでしょう。

 そういえばウチの母も「六星占術」買ってたなあ、なんて思いながら、出版業者がサイトにアップしているランキングはどんな按配なんだろうと気になって、ちょっと調べてみたのだが、e−hon(トーハン)の文庫・新書ランキングや紀伊国屋書店の週間ベストセラーなどは、同じように「六星占術」が上位20位にはランクインしてきているのに、同じランキングでもAmazon文庫ベストセラーなどは、上位100位にも入っていないし、本やタウン(日販)の文庫週刊ベストセラーのほうにもランクインされていなかったりと、サイトによってけっこうまちまちのようだ。そもそも「ランキング」のとらえ方が違うのか、それとも「六星占術」関係はあえてランキングからはずすようにしているのかはわからないが、自分が毎年のように感じていた「細木数子の季節」という印象は、時節をとらえるものとしてはずいぶん個人的で、歪んじゃっているのかも、とあらためて気づかされた、というのが今回の随筆のオチです。もしかしたら、知らないうちに職業病にかかっているのかもしれないなあ・・・(2008.08.30)。

追記:あとで確認したところ、本やタウン(日販)の文庫週刊ベストセラーのほうにも「六星占術」がランクイン。逆に紀伊国屋書店の週間ベストセラーのほうでは、上位二十位よりもさらに下になっていました。

子ども読書の日を失敗させないために

 先日、「本読みHP」の清太郎さんのブログで「サン・ジョルディの日はなぜ失敗したか」という本ネタが挙がっており、今回はそれに触発された形で随筆などを書いてみようかと思った次第。

 清太郎さんの場合、バレンタインデーとの比較で出版業界の営業努力が足りない、具体的にはプレゼント商品としての本のアピールが足りない、ということで、なかなかに深い洞察を感じたのですが、私はもうちょっと違った角度から考察してみます。

 私も単純に、結論から入ってしまいますが、これは「日が悪かった」のではないか、というものです。

 サン・ジョルディの日は4月23日です。そして4月といえば、日本人にとって重大なイベントである「お花見」のある月です。この「お花見」というイベントはなかなか侮れないもので、単純なお花見というだけでなく、しばしば入学式、入社式というイベントにもつながっていくものでもあります。

 そう、4月というのは年度の切り替えという意味でも、お花見シーズンという意味でも、イベントが満載の月なんです。その証拠に、たとえば「まんがタイム」などの月刊誌四コマ漫画において、4月号のネタといえばほとんどが上記のイベントで占められてしまいます。おそらく日常を舞台とした連載漫画やドラマ、あるいはアニメといった分野でも、同様の現象が起きていると思われます。このイベント密集月に、あらたなイベントを取り入れようというのは、ある種無謀な試みでもあったわけです。

 いっぽうのバレンタインデーは、2月14日です。この月の主なイベントといえば、せいぜい「節分」くらいですが、この節分も近年では豆まきではなく、「恵方巻」なる寿司を丸かじりするという風習がなぜか幅をきかせていたりして、今ひとつ元気がありません。つまり、2月というのは比較的イベントが閑散としている寂しい月なんです。バレンタインデーの成功は、メーカーや小売の営業努力もさることながら、月にも恵まれていたのではないか、ということです。もしこのバレンタインデーが、たとえば「12月の上旬くらいにしよう」ということになっていたら、今のように定着していたかどうかは疑問です。言うまでもなく、12月はクリスマスという大イベントが控えていますからね。クリスマスに喧嘩をふっかけて、勝てる見込みはまずないでしょう。

 このサン・ジョルディの日が4月23日になったのには、いろいろと理由があるようですが、べつに4月23日にこだわる必要はないのでは、と個人的には思います。では、どの月であれば成功の可能性があったのか、ということですが、これは各月のイベントを列挙していって、比較的盛り上がりに欠けるイベントばかりがある月に狙いを絞ればいいわけです。

・1月:お正月
・2月:節分、バレンタインデー
・3月:ひなまつり、ホワイトデー、卒業
・4月:お花見、入学、入社
・5月:GW、端午の節句
・6月:梅雨入り
・7月:七夕、夏本番
・8月:夏休み、海、お盆
・9月:十五夜、お彼岸
・10月:体育祭、文化祭
・11月:紅葉狩り、七五三
・12月:クリスマス、年越し

 四コマ漫画のネタになりやすそうな行事ということで挙げてみましたが、こうして見てみると、大きなイベントがない6月か9月あたりが狙い目であることがわかります。あるいは11月あたりも狙い目かもしれません。6月であれば「雨ばかりの日には読書」ということでつながりやすいですし、9月であれば秋のはじめということで「読書の秋」とむすびつきます。あとは四コマ漫画誌に連載している漫画家の編集者が、ネームで困っている(盛りあがるイベントが少ないので、ネタがなかなか思いつかない)漫画家に対して、「先生、じつはこの月は『サン・ジョルディの日』というのがありまして、男子が女子に本を贈る日なんですよ」と耳打ちしてあげれば、バレンタインデー並にサン・ジョルディの日がネタになり、それを読んだ読者がサン・ジョルディの日に備えて本屋に殺到、同じ本に手を伸ばそうとした男子同士で恋が芽生えたり・・・といったことも期待できたかもしれないのです。

 今からでも遅くありません。「サン・ジョルディの日」の失敗を繰り返さないためにも、せめて「子ども読書の日」は6月か9月に日を移すべきです(「子ども読書の日」は、サン・ジョルディの日と同じ4月23日です)(2008.04.26)。

本の読み方、楽しみ方

 どういうふうに本を読み進めていけばいいのか、というのは、読書家としてはおろそかにはできない問題のひとつだ。人生は長いようでいて短い。人がその生涯に読むことのできる本はかぎられているし、できることなら少しでも多くの本を読みたいという欲求がある。とはいうものの、たとえば速読などで数ばかりこなしていくというのも、なんだか読書の醍醐味を台無しにしているようで味気ない。

 私は基本的に読み始めた本は最後までひと通り読むことにしている。気になる文章には付箋を貼りつつ読んでいくので、一冊を読み終えるペースはけっして早いほうではない。さらに、貼った付箋を追うような感じで読み直したり、読んだ本についていろいろ考えたりする時間があるわけだが、これは読書というよりは、サイトに掲載する書評を書くための行為に近いものがある。だから、私の読書の方法が純粋に本を楽しむことにつながっているのかどうかは、正直微妙なところがあるのかもしれない。

 本紹介サイトを開設してそれなりに年月が経ったが、本を読んで書評を書く、というスタイルを続けていると、ときどき自分は好きで本を読んでいるのではなく、書評を書くために本を読んでいるのではないか、なんてことを考えたりする。とくに、四方田犬彦の『人間を守る読書』のなかで、本を読むことについてこんなふうに言われたりすると、なおさらだ。

 多くの人たちが誤解していると思いますが、仕事や研究のために本を読むことは読書ではありません。わたしはこれを「調べる」といっています。決して読んだとはいわない。その理由は簡単です。だって楽しくないから。仕事と関係なく純粋に楽しみで読むのが読書の本当のあり方です。

 私としては、調べものをするつもりで本を読んでいるわけではないので、自分の読書スタイルが上述の「調べる」と同じだとは思いたくはないのだが、となると、ここで使われる「調べる」読書とはどのようなものなのかが気になってくる。このあたりの読書方法がどこかにないかと調べてみたところ、2007年12月14日の日経産業新聞に、ビジネス書をターゲットに、徹底的な多読でビジネスを成功につなげていく方法論が載っていた。

「本を読む目的を明確化」「制限時間を設ける」「全体を俯瞰する」など、極めてシステマティックな読書方法が紹介されているが、その根底にあるのは、読書の目的をはっきりさせたうえで、必要な部分とそうでない部分を見極め、重要な部分だけきっちり読んでいくというもの。これだと一日に三、四冊読むことも可能というのもうなずける。たしかに、楽しいかどうかはともかく、「調べる」という意味では効率的な読書方法だ。

 電化製品などを買うとかならず付いてくる「取扱説明書」。これを頭からまるまる読む、という人はいないだろう。必要な時に、必要な箇所を読めばいいように、取扱説明書はできているからだ。小説やノンフィクションとなると、そういうわけにはいかない。あらすじを追うだけならそれでもいいのかもしれないが、それはやはり読書とは呼べないように思える。四方田犬彦の弁は、たしかに正しい。だが同時に「調べる」読書には、「調べる」読書特有の面白さ、楽しさもあることを、忘れるわけにはいかない。

 たとえば、何かを調べたいと思うときに役に立つツールとして、百科事典がある。百科事典の場合も、取説と同じく必要な箇所を随時探して読むというのが正しい使い方であるが、ある箇所を読んでいるうちに、それに関連するあらたなキーワードに興味が湧き、さらに百科事典を紐解いていくという探索的な面白さがあるし、調べたい事柄が漠然としているような場合に、とりあえず関係ありそうなキーワードを探索的に読んでいくことで、だんだんと調べるべきことがはっきりしてくることもある。あたかもインターネットにおけるリンク先を次々とめぐっていくような読書が、百科事典ではすでに確立していたと言うことができる。

 好きなときに好きなように本を読み、飽きたら途中でも投げ出して、あらたな本を手にとる、というのは、自由な読書の完成形だろう。根が真面目なところのある私としては、自由すぎてかえって気になってしまうので、なかなかそうした境地にはいたらない。だが、たぶんそれでいいのだろう。書評を書くというのも、ただ本を読んだだけでは気づかなかったであろうつながりや視点に気がつくことができた、という点で、より深い読書ができているとも言える。ともあれ、いついかなるときも、読書を楽しもうという心持で、本と向かい合いたいものだ。(2008.01.11)

 

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