八方美人でない随筆

もしも、こんなボタンがあったら・・・

 ちょっと前に「web拍手」というシステムを取り入れました。下のボタンを押すことで、サイト訪問者がたしかにこのサイトに来ましたよ、というちょっとした意思表示ができるシステムです。


 ところで、インターネット上のボタンというと、とかく怪しげで危ないもの、という意識がある方も多いかと思うのですが、たとえばこんなボタンがあったら、皆様はどうしますか? 「ドリフ大爆笑」の「もしも・・・」シリーズみたいに楽しんでいただければ幸いです。



ミサイル発射ボタン!?



ボタンが三択だ!


本物のボタンはどれだ!?



押してみたくなる?



押しちゃダメ!?



いったい誰と交信を?



関西弁協会の陰謀!?



でかっ!!

(2005.05.05)


かっこよく、スマートな読書スタイルを目指して

 みなさん、読書してますか? 私は家のなかだけでなく、電車のなかでも本を読むことが多いのですが、最近電車に乗っている人たちが取り出すのが本ではなく、もっぱら携帯電話であるという事実にちょっとした対抗心を燃やしています。
 なぜ本ではなく携帯電話なのか? 私は電車のなかで携帯電話のメールを打っている若い人々の姿をぼんやりと眺めながら、あることに気づきました。それは、彼らが皆、携帯電話を片手でもち、かつ持った手の親指をフル稼働させて文字を打ち込んでいる、という事実です。

 何かをするさいに片手だけで済ませられるか、あるいは両手を使わなければならないか、という違いは、小さいようでいてじつはけっこう大きな違いです。携帯電話は片手で充分支えられるほど軽く、しかも修練次第で片手で(正確には片手親指一本で)すべての操作が可能なつくりになっています。対して本の場合、文庫はともかく単行本レベルになると、間違いなく携帯電話より重く、しかもページをめくるためにはどうしてももう片方の手を借りなければなりません。電車の中にいる人々が本やマンガではなく、携帯電話を使いはじめている背景には、もしかしたら単純にその形態の問題がからんでいるのではないだろうか。そう、「片手で使える」かどうかの、単純な使い勝手の問題が。

 ですが、本当に本は両手がないと読めないものなのでしょうか。本も携帯電話と同じく、片手でスマートに、カッコよく読みこなすことは不可能なのか?

 結論から先に言いましょう。できます。これから私が紹介する方法を用いれば、誰でも片手で本を読みこなすことができるようになるのです。ではさっそく単行本を使ってレッスンしてみましょう。

 まずは基本的な本の構え方ですが、左手の親指・人差し指・中指を広げ、薬指・小指を曲げた状態をつくってください。曲げた二本の指の上に開いた本の下辺をひっかけるようにして置き、人差し指と中指で本の背を支えます。ちょうどVの字をつくるようにするとうまく安定します。


写真1:本の背はVの字で支える

 最後に親指を、本の下辺から見開きの真ん中を押さえ込むようにして挟みます。これで少なくとも開いた2ページ分は読むことができるでしょう。


写真2:片手持ちの基本の型

 では次に、ページをめくるときの動作に移ります。

 まず、曲げていた二本の指のうち、薬指を本の背に立て、残った小指で本の向かって右側のページを押さえます。つづいて親指を本の向かって左側のページにスライドさせます。


写真3:親指と小指で本の両側を固定

 次に、スライドさせた親指を使って、本の下辺からページを押し上げるような感じで持ち上げます。

 あとは親指をページの隙間に滑り込ませるようにして、一気にページをめくり、親指を定位置にもどします。

 ちなみにこの持ち方は、自重で勝手に本が開く単行本を読むときの方法で、たとえば文庫本の場合、むしろ本が勝手に閉じてしまうのを防がなくてはなりません。ゆえに文庫本を片手で読む場合、本の両ページを押さえ込むことができる写真3の構えを最初からとるようにするといいでしょう。

 いかがでしょう。親指一本で携帯電話の小さなボタンを正確無比に連射可能な技量をもつ今時の若者であれば、おそらく苦もなくマスターできるに違いありません。そう、これからは携帯電話ではなく、片手で本を読む姿がファッションとなるのです。皆さんもぜひこの本の読み方をマスターして、時代の最先端を突っ走ってみてください。

 ただし、単行本は重くて片手では持てない、という軟弱な方は、せっせと腕力と手首の力を鍛えておくことをお勧めします。文庫本に限定してもいいのですが、やはり単行本クラスの本を苦もなく片手で読みこなすのが、真の読書家というもの。ぜひとも単行本を片手でラクラク支えられる読書家を目指してほしいところです。(2005.04.20)

『終戦のローレライ フィギュア付BOXセット』

 以前このサイトでも紹介した福井晴敏の『終戦のローレライ』、今年の3月に映画化され、ついつい公開初日に観に行ってしまったりした私であるが、そんな私がほとんど発作的に予約してしまったフィギュア付限定版がついに手に入った。

 文庫4冊の装丁は黒を基調としたシンプルなデザイン。これは、映画「ローレライ」でパウラの水密服をデザインした樋口真嗣によるもの。

 そして、今回のウリであるフィギュアはこんな感じです。


収納ケースに入った状態


左から「伊507」、「ナーバル」、「パウラ胸像」

セブンイレブンのキャンペーンで手に入れることができるフィギュアと比べて、こまかい部分で良い仕事をしているみたいです。


船体のそこはかとない汚れやひび割れ部分に注目!

 「……どんな目的があったとしても、そのために何十万人もの同胞を殺せるような人が、どうして国の将来を考えられると思うんです。そんな犠牲の上に立った未来に、どれだけの価値があるって言うんです。そんなことしたって、なくしたものが取り戻せるはずはないのに……!」

「ローレライは、あなたが望む終戦のためには歌わない」


 あらためて、少し本書を読み返してみた。上は折笠征人のセリフ、そして下は絹見艦長が、浅倉と最終的に決別するときのセリフである。うん、やっぱり男のロマンだ。しびれる。(2005.03.16)

付箋あれこれ

 サイトで書評を書くようになってから、読んでいる本の気になる箇所に貼るための付箋は、私にとって必要不可欠な道具となっている。手軽に貼ったり剥がしたりでき、本を閉じた状態でもその箇所がひと目でわかる、また本自体を汚さないということもあって私は重宝しているのだが、さすがに何度も貼ったり剥がしたりすれば、粘着力は落ちてくるものだ。

 以前、付箋の色について聞かれたことがあった。たとえば『三色ボールペンで読む日本語』に書かれてあるような、付箋の色で「赤色は登場人物や背景世界の情報、黄色は書評を書くときのキーとなりそうな箇所、青色は気になる文章」といった使い分けができていたら、なんとなく格好いいと思わなくはないのだが、残念ながらそんな高等なことはしていない。とにかく気になるところにどんどん貼っていく。そして書評が書きあがったらどんどん剥がしていく。剥がした付箋は捨てるのではなく、次に読む本で再利用する。色なんかバラバラだ。だからできない。貧乏性と言われればそれまでである。
 そんなふうに付箋を酷使した結果、とうとう粘着力が限界を迎えてしまう。貼ってもすぐ剥がれてしまうのだ。こうなるともう使えないので、ご苦労様と言って捨てることになる。付箋の努力に応える書評を書くことが、何より付箋のはたらきに報いる方法だと信じている。


きな様からいただいた「10万カウント突破記念付箋」
これももったいなくて最後まで使えずにいる

 粘着力というと逆に、たとえば図書館や古書店などの古い蔵書などの場合、紙自体が弱くなっているせいか、一度付箋を貼ると、それを剥がすときに、その糊によって本の紙の表面まで剥がれてしまう、ということが起こることもある。買った本ならともかく、借りた本に対してこれはまずい。
 そんなときはドライヤーにひと働きしてもらうことになる。ドライヤーの温風をあてながらゆっくり付箋を剥がすと、紙の表面を傷つけることなくきれいに剥がすことができるのだ。そもそもこのテクニックは、とあるミステリーで、封筒の中身を密かに盗み見るために、糊付けされた部分をドライヤーで熱し、きれいに剥がしていくという記述を応用したものであるが、まさか付箋のためにドライヤーまで持ち出すことになろうとは、私も思いもしなかった。

 というわけで、私にとってのドライヤーは、髪を乾かすよりも、むしろ紙を乾かすための道具として使われることが多かったりする。そんなことしている暇があったら、自分の髪をセットする努力をしたらどうだ、という突っ込みはどうかご容赦を。(2005.02.16)

学校の生徒に大人気?

 つい先日、とあるメールをたてつづけに受け取る機会があった。

 件名は、一通は「申し訳ありません」、もう一通は「ありがとうございます」とあり、内容を見てみると、どうやら相手はどこかの学校の生徒で、どちらも学校で出された読書感想文の課題に、私のサイトの書評を勝手に使ってしまいました、という内容だった。
 とくに一通目のメールは、その感想文が学校内の書評賞とかいうものの佳作に選ばれてしまったらしく、書き手自身の戸惑いがありありとうかがえる文章となっていた。

 気の向くままに書評まがいのものをWeb上に書きなぐっている、という意識が今もなお強い私は、それまで自分の書いた文章が誰かに使われる可能性について、ほとんど何も考えてこなかったし、そんなことをする者もいないだろうと思っていたのだが、こうした事実があきらかになってしまうと、せめてトップページに「無断転用は止めてね」みたいなことを一言くらいは断っておく必要があるのかもしれない、とふと思ったりもする。もっとも、あくまで個人が書く読書感想文に他人の文章を使うことが、本当に無断転用にあたるのかどうかはよくわからないし、そもそもそんな文句で転用が防げるかどうかもまったくの疑問であるが。

 無断転用うんぬんについて何も考えてこなかった理由はきわめて単純で、ようするに「そんなことをして何の得があるのか」という思い込みによるものなのだが、なるほど、読みたくもない本を読まされて、さらに書きたくもない感想を書かされる「読書感想文」を前にした生徒たちにとっては、私の書評内容はそれなりの価値がある、と判断されたことになるのだろう。なんとも複雑な気分である。

 読書感想文は、私もあまり好きではなかった。そもそもその頃の私は、まともに本など読んでもいなかった。サイト内の、読書バカな私しか知らない人には信じられないことかもしれないが、本当である。今となっては「もっと本を読んでいればよかった」と悔やまれるところだが、だから私もかつて、読書感想文をどう切り抜ければいいのか、という難題について、かなり頭を悩ませられた記憶があるし、彼らの気持ちもわからなくもない。ただ、彼らは本来他人のものであるはずのものを、安易に使ってしまうことについて、どれだけのことを考えているのだろうか、と思わずにはいられない。

 今はインターネットという便利なものがあって、それゆえに私のサイト内にある書評が読書感想文に使われてしまうという時代になった。だからというわけでもないのだが、せめて清太郎さんのサイト「本読みHP」の「読書感想文は1行読めば書ける!」を読んで、感想文作成に活用するくらいの気概を見せてほしいところである。(2005.01.27)

 

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