八方美人でない随筆

2004年に読んだ本のベスト10

 毎年、年末になると「Moon Rabit」のみちるさんが「今年読んだ本のベスト」の募集をおこない、僭越ながら私もその企画に参加させてもらっているのだが、せっかくなので今年もまた個人的ベストを載せておきたいと思う。「超・八方美人なベスト」とは別に、本選びの参考などになれば幸いである。

 2004年に読んだ本のベスト10(一応同不順)

『都立水商(おみずしょう)!』(室積光著 小学館)
 水商売専門の高校という発想が、ここまで面白く感動的な物語を生み出すとは思いもしなかった。

『博士の愛した数式』(小川洋子著 新潮社)
 これまでの小川洋子像のイメージが大きく変わった。野球観戦のシーンが心に残る。

『DIVE!!』(森絵都著 講談社)
 これぞ青春! 飛び込みというマイナーな競技の面白さと美しさ、そしてひたむきな少年たちの姿に感動。

『終戦のローレライ』(福井晴敏著 講談社)
 これぞ漢! とにかく熱い男たちの魂に震え、逆境のなかでの潜水艦同士の戦闘に燃え、そしてパルマに萌えた(笑)。

『クラウド・コレクター』(クラフト・エヴィング商會著 筑摩書房)
 現実にはありえない世界「アゾット」が、本当にすぐ近くにあるかのように感じた。読むというよりも、観て楽しむ本。

『犬は勘定に入れません』(コニー・ウィリス著 早川書房)
 上質のタイムトラベルコメディー。辣腕上司をもつと、その部下はえらい苦労をすることになる良い例(笑)。

『文体練習』(レーモン・クノー著 朝日出版社)
 言葉の可能性の限界に挑んだ、という言葉がふさわしい作品。同じことを言っているのに、ここまで受ける印象が違ってくるとは!

『戦中派不戦日記』(山田風太郎著 講談社)
 人はどんな環境の下にあってもそれぞれの生活を抱え、懸命に生きていく存在なんだとあらためて認識させられた。

『七回死んだ男』(西澤保彦著 講談社)
 きわめて特殊な状況下だからこそ成立する論理的トリックは見事の一言。人を死なせないための謎解き、という姿勢も良い。

『粗忽拳銃』(竹内真著 集英社)
 拳銃という人殺しの道具を、自身の成長のための力としていく発想は清々しささえ覚える。

 番外編

『リトル・レディ』(おがわゆきと作 R.L.P)
 パソコンのブラウザで遊ぶことができるサウンドノベルズ。とくに「舞シナリオ」はストーリー性という点でも高い水準を維持している。

『ICO−霧の城−』(宮部みゆき著 講談社)
 PS2のゲーム版「ICO」は会心の出来。宮部みゆきがノベライズしたがった理由がよくわかった。

リンクするとかしないとか

 先日、「八方美人なリンク」のトップに載せていた文句を変更した。以前は「本関係にこだわらない、開かれたリンク一覧」とあったのだが、これを「個人的お気に入りのサイト一覧」とした。

 どんなサイトにもたいていは「リンク」というコンテンツがあるかと思う。自分のサイトから他のサイトを紹介し、自サイトの訪問者をそのサイトに誘導するのがその目的であり、リンクによってさまざまなサイトがつながり、訪問者が次々とサイトを辿っていくことができる、というのが、言ってみればインターネットの醍醐味のひとつでさえあるのだが、このリンクという代物、じつはけっこうやっかいな問題をはらんでいたりするものなのだ。

 つい最近も、無断でリンクされたことにえらくご立腹された方がいらっしゃったが(むろん、事前に許可を得なかった私にも落ち度があるのは認めるところだが)、私が過去に体験したリンクに関する問題としては、たとえば「相互リンク」を望みながら、こちらがリンクしてもなかなか相手がリンクを貼ってくれなかったり、アドレスなどすぐにわかるはずなのに「リンク先のアドレスを早く教えろ!」とえらく高飛車に言いつのってきたり、リンク先が変更になったことを連絡して来ないばかりか、それをいいことにわざわざ私のサイトへのリンクをはずしてしまったり、といったようなことがある。

 いい機会なので、ここで私のリンクに対する考え方を述べておきたいと思う。

 トップページにも一応ことわっているとおり、私のサイトはリンクフリーである。リンクしたい人は勝手にどこにでもリンクしてくれ、事後連絡もとくに必要ないよ、というのが基本姿勢だ。本当は、将来のディレクトリ変更の可能性を考えれば、トップページへのリンクのみフリーというのがベストなのだろうが、まあそれも仕方がないか、と思っている。

 なぜなら、基本的にホームページというものは、一度ネット上に公開された以上、そのすべてのページが勝手にリンクされるしくみになっているからだ。そう、「google」や「infoseek」など、各種検索エンジンによる自動巡回システムである。

 私もくわしい仕組みについては知らないが、ネット上のあらゆるサイトについて自動的にそのリンク先を巡回し、情報を収集するというこのシステム、おかげさまで私たちは、検索エンジンによっていろいろな情報にすばやくリンクすることができるのだが、このシステムは、言ってみればサイト管理者の意図とは無関係に、勝手にリンクを成立させてしまうという側面を持ってもいる。だが、もしこのシステムをもって「無断リンク」だと断罪する者がいるとしたら、その人はインターネットの便利さ、その恩恵について相当無知であると言わなければなるまい。

 だから、たとえばあるサイトが「無断リンク禁止」とかいう文句を載せていたとして、検索エンジンの自動巡回システムを避ける対策を何もやっていなかったりすると、「お前は本当にリンクされたくないと思っているのか?」と疑わざるを得なくなってくる。「検索エンジンのリンクは違う」などと言い訳はしないでほしい。そこには人の手でリンクするか、アプリケーションでリンクするかの違いしかなく、たとえそれが一時的なものであってもリンクはリンクなのだから。そして言うまでもなく、検索エンジンでサイトを見つけるという方法が、圧倒的多数を占めるのが現実なのだから。

 私のサイトに「リンク」のコンテンツがあるのは、そのサイトが個人的にお気に入りだから、という理由が大きい。だから、見ず知らずの方から「相互リンク」のお願いがあると、大抵はお断りすることになる。こちらにリンクするのはフリーだけど、こちらからリンクするかどうかは、あなたのサイトについてほとんど何も知らないので、今の段階では勘弁してほしい、ということになる。とは言うものの、考えてみればこれはじつに自分勝手な言い種なので、「正式のリンクではないが、もしリクエスト書評の依頼をしてくれるのであれば、情報提供者としてサイトへのリンクをさせていただく」という旨は伝えるようにしている。

 私のリンクに対する考え方は、間違っているだろうか。もし異論・反論があれば、ぜひとも指摘していただきたいと思う。(2004.11.15)

名古屋の喫茶店事情

 先日、バーバままさんが企画してくださったお泊りオフ会に参加した。バーバままさんをはじめ、参加者の皆様といろいろおしゃべりしたり、浜名湖周辺の観光地を案内していただいたりして、非常に楽しいオフ会だったのだが、それとは別に、私にはもうひとつ、楽しみにしていたことがあった。

「名古屋の喫茶店では、コーヒーにいろいろなサービスがつく」――あるマンガを読んでいたときにはじめて知ったこの情報によると、名古屋の喫茶店ではコーヒーを頼むと必ずお菓子が添えられていたり、モーニングのコーヒーのサービスとしてゆでたまごやサラダ、トーストといったサービスがついていたりするのがあたり前だという。関東方面の喫茶店では到底考えられない、なんとも太っ腹な名古屋の喫茶店であるが、もしこれが事実であるとすれば、ぜひともそれを堪能してみたい、と以前から考えていた。
 そして今回、愛知県豊橋市(じつはここがモーニング発祥の地ということらしい)をフィールドにしていらっしゃるバーバままさんのはからいによって、ついにこの真実に迫ることができたのである。

 その喫茶店「メイとバク」は、ごく普通の住宅地の奥まったところで経営していた。まるで外国の山小屋のような概観のお店である。ちなみに、店の裏には二匹のヤギが飼われていて、このヤギの名前からつけられたものらしい。


喫茶店「メイとバク」

 およそ立地条件としては不利な場所で、ごく普通に喫茶店が経営されていることにも驚きだが、日曜日の朝だというのに、駐車場には車がとめられ、店に入っていく人の姿があるというのにもおおいに驚いた。話によると、この地域にはこうした喫茶店があちこちにあり、熾烈なサービス競争を繰り広げているという。また地域の住民も、喫茶店でモーニングをとるという行為がすでに生活の一部なのだそうだ。

 さっそく中に入り、モーニングを注文する。モーニングの種類は全部で三種類。それぞれドリンク代+150〜250円の追加料金を払うというしくみになっている。純粋なコーヒーのサービスというわけではなかったが、しかし出てきたモーニングは期待を裏切らないボリュームでした。


ドリンク代+250円の「元気セット」


モーニングとは別に頼んだチョコパフェ


 ピザトースト、フライドポテト、サラダ二種類にデザートの夏みかんがついて、250円。ドリンク代(420円〜)と合わせると、それなりの値段にはなるが、量はじつにシャノアールのモーニングの2倍近くあると考えてください。朝はもっと軽めに、という方には、プラス150円の「メイセット」なるものもありまして、これはパンが普通のトーストなのですが、代わりにスープがついてくるというサービスぶり。
 そして、私が頼んだのはアメリカンコーヒーだったが、よく見るとカップの絵柄が「となりのトトロ」だったりする(チョコパフェの写真の右側に少し写っているカップがそうです)。なかなかにお茶目だ。

 店内にはけっこう親子連れも多く訪れていたのだが、子どもたちの狙いはどうやらモーニングだけでなく、手作りの木製玩具にもあった。お店の奥にはそれらを展示販売するコーナーがあるのだが、これがじつによくできているのだ。


魅惑の木製玩具

 ハンドルを回すとさまざまな仕掛けでボールを転がしていくもの、ビーダマをはめ込んだ風車、いろんな形に組み合わせることができる不思議な形のおもちゃ――いかにも子どもたちが喜びそうな木製玩具の数々に、私もふくめたオフ会参加者もすっかり童心にかえってしまった。レジャー感覚で喫茶店に行く、というバーバままさんの言葉にもおおいに納得である。

 というわけで、じつに満足のいく名古屋の喫茶店だったが、老後はこのあたりに住んでみるのもいいかも、なんてことをちょっと考えたりするところ、すっかり食い物につられてしまっているいやしんぼな自分を自覚させられたのである。(2004.10.30)


駅前で売られている雑誌

 というと、まっさきに思いつくのはキオスクの販売店に並べられている雑誌だと思うが、今回話題にしようと思っているのは、そういう正規の流通ルートに乗せられたものではなく、さまざまな形で路上販売されている、カッコよく言うなら「闇ルート」で販売されている雑誌のことである。

 タイトルはすでに忘れてしまったが、ある短編集のなかで、駅構内のゴミ箱に捨てられた雑誌を拾い集め、それを安く売りさばくことを生業にしている人々のことが書かれていた。おそらく、現実も似たようなところだろう。じっさい、私も駅のゴミ箱をあさっている人や、次の駅に向かうそれらしい風体の人を見たことがあるし、またそうして集められた雑誌が路上販売されている場所もいくつか知っている。私はそもそも雑誌はあまり買わないほうだし、そういう場所で雑誌を買ったこともないのだが、おそらく、それなりの需要があるからこそ、こういう商売が成り立っているのだろう。だが、ここで言う「需要」とは、いったいどういうものなのだろう。ただ読み捨てられた雑誌が多くあり、それがそこそこ綺麗なままであるという理由だけで、そういう商売が成立してしまう理由は何なのだろう。

 電車のなかで、ふと網棚に目をやると、少年漫画雑誌などが置きっぱなしになっているのをよく見かける。それは、誰かが電車内での暇つぶしのために購入し、そしてその「誰か」が捨てていった雑誌である。ふつうに考えれば、その雑誌は誰かの所有物であるはずなのだが、おそらく誰もそんなふうに考えてはいない。それはゴミ箱に捨てられたのと同じことであり、すでにその雑誌を読んでしまった人にとってはゴミ同様なのだ。だが、まだその雑誌を読んでいない人にとって、捨てられている雑誌は「商品」となる可能性がある。あくまでそこに書かれている内容を売りものとしている本、しかも定期刊行物である雑誌だからこそ起こりえる現象であるわけだが、もうひとつ大切なのは、そうした現象がおもに首都圏やその周辺地域といった、電車の利用率が高い場所でもっぱら行なわれているということである。

 私の実家は北陸にあるひなびた温泉街であるが、住民のほとんどが自動車を所有し、また自動車がなければどこに行くにも不便きわまりない、という土地柄である。じっさい、両親に聞いてみても、雑誌の路上販売など見たこともないという。当然だろう、移動に自動車を使うのがあたり前であれば、通勤中に雑誌など読めないからだ。つまり、電車の網棚や駅のゴミ箱に捨てられた雑誌を路上で売りさばく人たちは、毎日の乗車時間をもてあます電車利用者をターゲットとした商売であり、それは逆にいえば、電車に乗っている時間というのが、いかに暇をもてあますものであるか、ということの反射作用でもあると言える。

 もし私が、手持ちの本がない状態で電車に乗り、ふと網棚を見たときに「週刊読書人」が置かれていたとしたら、おそらく私はそれを手にとって読んでしまうだろう。

 ところで出版業界にとって、こうした商売をする人たちはけっして喜ぶべき存在ではないし、背後によからぬ人たちの組織があるとか、そうした人たちのあいだでトラブルがおこり、事件にもなったことを考えれば、社会的にもあまり歓迎すべき現象ではないはずなのだが、JRのほうはどのような対応をしているのだろうか。私が知るかぎりにおいて、JRはとくに何もしていないように見える。JRは数年前から駅のゴミの分別収集をはじめ(その分別収集のために綺麗な雑誌がゴミ箱から入手できるようになり、雑誌の路上販売が盛んになりはじめた、という指摘もある)、資源ごみについてはリサイクル活用している、ということであるが、じつはJRにとって、読み捨てられる雑誌の処理はけっこう大きな手間であり、それゆえに彼らが雑誌を持ち去っていくのをあえて黙認しているのでは、という噂があったりするのだが、真相はさだかではない。(2004.09.23)


ちょっと恥ずかしい表紙の本

 私はけっこういろんな場所で本を読むほうである。というか、少しでも空き時間ができると、おもむろに鞄から本を取り出して、読書に入る体勢を整えてしまう。春や秋などの温暖な季節には、公園のベンチで寝転がって本を読むこともあるし、毎日の通勤で利用する電車の中は、格好の読書タイムだ。

 そんなわけで、私はどこへでかけるときでも、最低一冊は何かの本を携えていくのだが、そのさいにふと思うのは、ブックカバーをつけていくべきかどうか、ということだったりする。

 基本的に、ブックカバーの役割は本が痛むのを防ぐ、というのが第一にあると思う。だから、人から借り受けた本に対しては、面倒であってもブックカバーをつけるようにしている。ただ、ブックカバーをかけるのは、ただたんに本が痛まないようにする、というだけでなく、本の表紙をカバーで隠すことによって、他人に自分が読んでいる本を悟らせないようにする、というのも大きいのではないか、と思うのである。でなければ、あらかじめ透明シートでカバーがかけられた状態にある図書館の本に対してまで、わざわざカバーをかけるという私の心理の説明がつかないのだ。

 そこで、私がこれまで読んできた本のなかで、どうしてもカバーをかけざるを得なかった本、というものを、ちょっと紹介しておこうかと思う(タイトルのリンクをクリックすると、その本の表紙画像が見られます)。


『悪い噂』(玄月著 文藝春秋)
 少女の全裸像である。しかもアンダーまで見えちゃってます。いや、表紙絵そのものは、著名な画家の描いた絵画らしいですが、やっぱり、こんな表紙の本をおおっぴらに広げているのを人に見られちゃうのは、ちょっと恥ずかしかったりするのです。

『人形(ギニョル)』(佐藤ラギ著 新潮社)
 そのタイトルにふさわしく、人形が表紙になってます。でもなんかエロティックというか、耽美なんですよ、この人形。ものすごく誤解されそうです。

『クビシメロマンチスト』(西尾維新著 講談社)
 前作『クビキリサイクル』は、まだどうということはなかったのに、なぜかこの本の、このアニメチックな女の子のイラストをおおっぴらにしておくのには、じつはかなり抵抗があったりしました。

『第四の母胎』(スタンリー・ポティンジャー著 新潮社)
 これは恥ずかしいというよりも、むしろ怖かったです。真夜中に、不意にこの本の表紙と出くわしたら、と思うとカバーをかけずにはいられませんでした。しかし、リアルな人形というのは、なぜこんなに怖いんでしょう?


 ああ、本当ならまわりの視線などいっさい気にせず、堂々と表紙をさらけだして本を読むべきなのだろうが・・・。やっぱり真の読書家への道は遠いなぁ、とつくづく感じずにはいられない。

 ちなみに、この随筆を書いている時点で私が読んでいる本はこれだったりするのだが、これもなんともビミョーな表紙だよなぁ。しかしながら、これに比べたら、まだマシなほうかも。中上健次の未発表長編小説が掲載されている、ということで興味あったけど、さすがに買えなかったよ・・・。(2004.06.24)

読書スタンドは至福の読書タイムを演出できるのか

 楽な姿勢で本を読むことができたら、と長年思っていた。

 本を読むのは好きだが、長時間同じ姿勢で本を読み続けるのは、意外と疲れるものだ。そんなとき、私はよく布団の上に寝転がって本を読むのだが、それが楽な姿勢であるのはたしかなものの、うつぶせになると手暗がりになることが多いし、仰向けになると本を支えつづけなければならず、どちらにしろあまり長続きしない。最適な読書の体勢というのは、維持しつづけるのがなかなか難しいようである。

 寝転がった姿勢のまま、腕で本を支えつづけることも、手暗がりになることもなく、本を読むことができないものか――読書家なら誰もが考える、贅沢にしてちょっと不謹慎な悩みを、ひょっとしたら解決できちゃったりするかもしれない代物を、私はついに見つけたのである。

徹底解析! これが

寝ながら本が読めちゃう読書スタンドだ!


あくまで機能性を重視した
シンプルでエレガントな全体像
(インテリアにも最適!)
カモシカのように引き締まった白い脚部
(どんな布団・ベッドにもぴったりフィット!)
伸縮・回転自由自在のメタリック・アーム
(読者のどんな姿勢にも調整可能!)
闇夜を切り裂く強力ライト
(これで手暗がりともサヨウナラ!)

 さて、この読書スタンドを使い始めてまだ1ヶ月ちょっとといったところであるが、こと「寝ながら本を読む」ということに関して、この読書スタンドは突出した機能を備えていると言っていいだろう。さすが「読書スタンド一筋30年」の会社が開発しただけのことはある。

 基本は、スタンドの足の部分を布団の下にもぐりこませる、あるいはベッドに立てかけることで安定させ、書物受台に本を固定、寝転がって台の角度やアームの長さを調整し、ライトで本を照らして読書する、という形である。本を支えるアームはその根元が自在に回転し、またアームの調整も自在なので、うつぶせ以外のあらゆる横になった姿勢での読書に対応することができるし、ひょいとアームを横に回転させれば起き上がるのにも邪魔にならない。書物受台は角度も自由に変えられるので、その気になれは座った姿勢でも読書をつづけることができる。
 そして、もっとも特記すべきなのが、書物受台だ。まさに30年の研究成果の結晶である。

 右の画像のように、本を四本の「ページ押さえ」で支えるわけであるが、分厚い単行本もしっかりと支えてくれなければならないのはもちろんだが、だからといってやたら強く押さえすぎてしまうと、ページをめくるのが大変だ。
 そこで、上のページ押さえは根元をスプリング構造にすることで弾力性を持たせ、下のページ押さえは根元をワイパーのような構造にし、台の裏から本を挟み込む、という形をとることで、ちょっとした動作で簡単にページをめくることを可能にしている。
 
 あまりに大きな絵本とかになると、上のページ押さえでは押さえきれなくなるものの、基本的にどんな本にも対応できるし、読んでいる最中に本が落ちてきた、という欠陥もない。ちょっと慣れればページをめくるのも大した手間ではなくなるし、ほぼ私の理想とする読書スタイルを、このスタンドは実現させてくれることを保障しよう。

 ただ、ひとつだけ難点があるとすれば、それは「楽な姿勢」であるがゆえに、読書しているうちに睡魔に襲われやすいということだ。なので、最近ではこの読書スタンドを使うときは、完全に寝る準備を整えたうえで、就寝前の読書を楽しむために利用することにしている。

 説明書によると「普通の読書スタンドとしても使えます」みたいなことも書かれているが、私の経験から言えば、この読書スタンドがその威力を発揮するのは「寝ながら本を読む」という利用方法以外にありえません。あと、本の対象はあくまで小説やノンフィクションといった「読み物」が適しており、コミックや写真集といったジャンルはあまり向いていないようだ。

 さて、ここまで読んで「私も欲しい!」という方のために、最後にこの読書スタンドを開発した会社へのリンクを紹介して、今回は終わりにしたいと思う。(2004.05.17)

株式会社リザウンドのホームページ

電子書籍はどこまで市民権を得ているのか

東京国際ブックフェア2004」に行ってきた。

 もともとは海外の著作物に対する著作権取引の場(なんといっても「国際ブックフェア」である)という企業向けの意味合いが強かったのだが、最近はもっぱら本の割引販売や作家のサイン会・トークショーといった、一般読者向けのイベント的な要素が強まっているこのブックフェアに、私はここ数年、毎年の恒例行事のように足を運んでいる。というのも、このブックフェアでは付随していくつかのフェアが同時に開催されるのだが、そのなかのひとつに「デジタルパブリッシングフェア」というものがあるからだ。私の興味は、もっぱらこの「デジタルパブリッシングフェア」のほうに向いている。

 おもに、出版物のデジタル化や配信に関する最新技術が紹介される場である「デジタルパブリッシングフェア」の内容を毎年見ていると、ここ数年における出版物とデジタル技術の流行り廃りみたいなものが見えてきて、なかなか面白かったりする。ようするに、出版業界におけるデジタル技術の現在の方向性が、このフェアを見ているとわかってくるのだ。

 去年は書店における万引きが話題になったためか、ICタグ技術や盗難防止システムに力を入れている企業が多かった。一昨年はおもにオンデマンドや、絶版本をいかに復刊するかが焦点にあった。今年はといえば、「電子書籍」が隆盛だ。これはおそらく、もとは携帯電話の端末から発信されて話題になった小説『DEEP LOVE』の躍進が大きいのだろう。「電子書籍」は充分商売になる――出版社側のそんな思惑が見えてきそうであるが、別の見方をすれば、携帯電話をはじめとする携帯端末による読書、というスタイルが、思った以上に一般レベルにまで浸透しつつある、ということもでもあるのだろう。

 じっさい、ブースに展示されていた携帯端末は、手にとってみてもずいぶん軽く、また見やすさという点でもかなり高水準になってきている。携帯電話にしても、今では縦書きで文章を表示できる仕組みがあったり、また文字フォントを自由に変えたり、「しおり」を挟むことができたりと、たんに現実の「本」にいかに近づけていくか、というだけでなく、それ以上の利点を追求していくような工夫が見られるようにもなった。また、こうした電子書籍の流れを見越して、早くも電子書籍の「貸し本」をはじめたり、電子書籍のフォーマットを売り物にしたりといった企業も出始めている。

 あるブースでは、作家の石田衣良さんのインタビュー映像が流れており、本の市場がどんどん縮小していくのを実感している、といったコメントをしていたが、現在のこうした「電子書籍」の流れは、出版社側としてはあくまで読者への宣伝、情報提供の一環――後に現実の「本」の売上げへとつながるものとしての期待が大きいようだ。たとえば、綿矢りさの『蹴りたい背中』が読みたい、けど書店では品切れ、図書館でも貸し出し中なため、電子書籍となっている『蹴りたい背中』が売れた、という事例を挙げているところもあった(PDAbook)。

 これまでの「本」に代わる「電子書籍」の可能性は、ずいぶん以前から語られてきたことではあったが、現実は思ったほどメジャーにならなかった。そのおもな原因として、やはり既存の「本」の形の便利さに端末のほうが追いつかない、という部分があったように思う。だが、今年の東京国際ブックフェアにおける、電子書籍分野の活気ぶりを見ていると、もしかしたら紙の「本」に対する人々の認識のほうこそが、大きく変わりつつあるのではないか、と思わずにはいられなくなる。(2004.04.26)

図書券と図書カード

 本という商品は再販制度で守られているため、基本的に安く買うことはできないのだが、図書券を金券ショップで購入することで、ちょっとだけ安く買うことができるというのは、倹約家のあいだではわりと有名な話のようである。

 金券ショップにおける500円の図書券の代金は、だいたい485円ぐらいである。そして不思議なことに、図書券というのはごく一部の例外を除いて、おつりがもらえてしまうという特性がある。いや、図書券を取り扱う「日本図書普及」では「おつりは出ない」と唱っているのだが、実際は書店で図書券を使えば普通におつりが現金でもらえる。調べてみると、昔は100円の図書券というものもあって、その券をおつり代わりに出していた、という話も聞くのだが、現在100円の図書券はもう発行されていないそうである。

 ともあれ、こうした図書券の特性を利用すると、たとえば金券ショップで図書券を2枚購入し、書店で600円の本を買い、400円のおつりをもらうことで、じっさいは図書券2枚分の代金(970円)で浮いた30円分だけ安く本が買えたことになるのだ。600円の本が570円で買えたという計算になる。

 別にたいした額ではないかもしれない。だが、この30円という代金は、どこかで誰かが負担している代金なのだ。そして、日本図書普及が「おつりは出ない」と公言している以上、日本図書普及が負担しているわけではないだろう。となれば、これは書店側、あるいは書店組合とかそういった団体が負担している、という結論になる。もちろん、詳細はわからないが、おそらくそんなところではないかと推測するのだ。

 さて、前置きが長くなったが、私はこの図書券がけっこう好きである。図書カードと図書券、どちらがほしいかと聞かれたら、私は間違いなく図書券のほうをもらう。なぜなら、たとえば600円の本を買うときに、図書券なら図書券1枚と現金100円という使い方ができるが、図書カードの場合、600円分がキッチリ引かれてしまう。この「キッチリ」がどうもいただけない。

 できれば小出しに使いたいのだ。ごく個人的な意見だが。
 本が安く買えるというこの「お得感」を、できるだけ長く味わいたい。
 3000円分の図書カードをもらっても、3000円の本を買ったら一度きりしか「お得感」は味わえない。だが、図書券6枚なら、たとえば4枚+現金1000円という使い方もできる。そうすれば、残った2枚の図書券は、次回別の本を買うときにまた使うことができる。

 書店側とすれば、おつりを負担しなくて済む図書カードの普及は喜ばしいことなのかもしれないが、もし図書券が、今後図書カードに取って代わられてしまうとすると、それはちょっと悲しいなと思ってしまうのである。(2004.03.26)

手話

 手話を使って話をしている方を、通勤電車で見かけた。

 手話と聞いて私が思い出すのは、NHKが聴覚障害者向けに放送しているニュースとか、ドラマ「君の手がささやいている」とか、あるいは石田衣良の『少年計数機−池袋ウエストゲートパーク2』に出てくる娼婦たちが、「蝶の舞うように」手話で会話している様子だったりするのだが、見事なまでに私の現実と結びついていない、ということなのだろう。そういうものなのかもしれない。じっさい、手話とはどういうものなのか、どのくらい聴覚障害者の役に立っているのか、ということを、私はあまりにも知らなすぎるのだ。

 その方たちは、手話で会話をすることに相当慣れている様子だった。驚いたのは、横一列の座席に並んで座ったまま、手話で会話をしていたことだった。声を出して話をするときは、自分と相手がどのような向きにいても、基本的には耳に届くし、意味も通じる。だが、手話となると話は別だ。話しかける相手と対面になっていないと、手話を読み取るのはなかなか難しいのではないか、と私などは想像しているのだが、そのふたりはごくあたり前のように、横に並んで手話のやりとりをしていた。

 電車の中は徐々に人で混んでくるが、ふたりの手話は止まらない。どれだけ大勢の人のなかでも、けっして大きな音を立てない、周囲に迷惑をかけない会話がつづく。音声を手の動きで表現するというのは、きっと想像以上に大きな労力を使うだろうと思うのだが、それでもこんなメリットもあるのだとあらためて思い知らされた気がする。(2004.03.07)

風呂場で本が読みたいんだ!

 「トイレが本を読む場所」と言う人がいる。

 そういえば小さい頃、トイレで長時間新聞を読んでいる父親像なるものを、マンガかアニメで見たような記憶がある。昔住んでいた家のトイレが和式だった私としては、トイレはあくまで用を足す場所であって、けっして本を読む場所ではなかった。この小さい頃の認識はなかなか強力で、洋式トイレに代わった今でも、トイレで本を読む、という気持ちにはならないままである。
 読書好きな会社の後輩の話によると「いやートイレは落ち着く場所ですよ」などと言うから、トイレを読書の場所と考えてる人は、けっこう多いようだ。きっと彼のトイレも洋式なのだろう。もっとも、和式だったとしても、それはそれで足腰が鍛えられそうな気もするが、かなりハードな読書時間となるに違いない。

 私はけっこういろんな場所で本を読んできたし、その気になればもっといろいろな場所でも読めるだろうと思っているのだが、これまでトイレと、あと風呂場では本は読めない、とずっと考えていた(後に、飛行機の中でも本が読めないことが判明するが)。トイレは純粋に心情的な問題なのだが、風呂場で読書、というのは、じつはけっこう憧れていた行為のひとつだったりする。だが、言うまでもなく風呂場というのは湿気だらけの場所である。紙でてきている本にとっては致命的な場所であるし、ましてや図書館で借りてきた本などは、間違っても持ち込めない。

 だが、ここ数年前から「半身浴」なるものをはじめるようになって、風呂に入っている時間が急激に増えていった今、湯船に下半身を沈めている何十分かの時間を、はたしてどのように過ごすべきなのかが、けっこう深刻な問題となってきていた。ボケーっと半身浴をしているのは時間がもったいない。いや、もちろんボケーっとしていてもいいのだが、そうしていたくない時もあるわけで、以前は風呂場でも使えるラジオなんかを流していたこともあったが、ボケーっと聞いているぶんにはたいして変わりがないし、なぜか電波の入りがよくなかったりもする。やはりここは、趣味である読書をしたいところである。

 何も、今読んでいる、そして書評するつもりでいるリクエスト本である必要はない。半身浴をしているあいだの、暇つぶしができる本でいいのだ。そう割り切ってしまえば、読むべき本はもう決まったも同然である。それは、フリーペーパー ――よく大きな書店などでタダで手に入る、雑誌とか新刊案内とかいったもののことである。

 以前こそ、このフリーペーパーの存在などまったく知らなかった私だが、ネットで知り合ったある友人から、けっこう面白い短編やエッセイみたいなものを載せている冊子もある、という話を聞いていて、読んでみたいと思っていた。しかもタダ。これこそ、風呂場で読むための本ではあるまいか。

 というわけで、今では私のとってのお風呂とは、半身浴をしながら汗だくになってフリーペーパーを読みふける時間となっている。おまけにしっかり半身浴の効果もあって、まさに体にも頭にもいいお風呂タイムである。(2004.02.22)

ベストセラーの思わぬ効用

 「ベストセラー」あるいは「ミリオンセラー」などという名前を冠せられた本は、ようするに多くの人が買っていった本のことであって、なんとなく「みんな買っているんだから、話題づくりのためにも読んでおくか」みたいな心理を起こさせる効果があるらしい。

 そのいっぽうで、一介の読書家だという自負をもつ人にとって、ベストセラーの本を読むことは、まるで一般大衆に迎合する、忌むべき行為であると思われているふしがあるのも事実のようだ。何を隠そう、私も以前はそんな「俺はそこらへんのにわか読書家とは違うんだもんね」みたいな気取りをもった人間のひとりだったが、なかなかどうして、この「ベストセラー」「ミリオンセラー」と呼ばれる本の知識はあなどれないところがあるのだ。

 某月某日、自宅の電話が鳴る。

 「もしもし?」
 「もしもし、八方美人男様でいらっしゃいますか?」
 「そうですが」
 「夜分遅く申し訳ありません。わたくし、○○という会社の××と申しまして、不動産の会社なんですが・・・」

 どうも私の年齢は、土地や家を買わせるにはちょうどいいらしく、最近こうしたたぐいのテレアポが異様に多い。そして、今の私に不動産に関する興味はまったくない。こうした電話に対しては

 「ああ、悪いけどオレ、不動産関係のことは興味ないから」

 と言って速攻で切ってしまうだけなのだが、今回電話してきた××は、それで終わらなかった。しばらくしてまた電話してきたのである。

 「もしもし?」
 「わたくし、○○という会社の××と申しますが、あのですね、わたくしどもはいい物件があるから買ってくださいとか、新築マンションの展示会のご案内とかいったことではなくてですね、八方美人男様にもっとよく不動産のことを考えてほしいと思いまして、何度もそちらのアパートにおうかがいしたのですが、なかなかいらっしゃらなくてですね、それで電話差し上げたわけなんですよ」

 この男は「不動産関係のことは興味ない」という私の言葉を聞かなかったのだろうか。それとも、誰もがそんなことに興味があると思っているのだろうか。

 「興味ないって言ってるだろう。何度も電話かけてくるな、迷惑だ」

 ふたたび電話を叩きつけ、さらに用心のため電話ケーブルを引っこ抜く。一日目はそれで終了。
 しかし、この男なにをどうしたのか、次の日の夜にまた電話をかけてきたのだ。

 「もしもし?」
 「わたくし、○○という会社の××と申しますが、いったいどうしちゃったんですか? 何を怒っていらっしゃるのですか、それを聞かせてくださいよ」

 ふだんから怒ったり声を荒げたりするのは苦手な私だったが、このときばかりはとうとう我慢の限界を超えた。

 「そんなに知りたきゃ教えてやるよ。あんたとオレの間には「バカの壁」があるからだよ」
 「えっ?」
 「バカの壁、だよ。養老孟司がしゃべったことを本にしたベストセラーだ。内容知ってるか」
 「あの、今はベストセラーとかの話じゃなくて・・・」
 「人の話は黙って聞け。「バカの壁」っていうのは、言ってみれば数式だ。オレの中にはな、こうしたテレアポに対する情報には、常にゼロをかけるフィルターがかかっているんだ。だから、たとえあんたが・・・」
 「あの、私はあんたじゃなくて××っていう・・・」
 「オレにとっちゃ同じなんだよ。見ず知らずの人間からの電話の相手は全員「あんた」だ。これもフィルターだな。だから、いいか、あんたがたとえ100の情報をオレに伝えてもだ、俺の中にテレアポに対する情報をゼロにするフィルターがかかっているかぎり、無効になるんだよ。ゼロに何をかけても答えはゼロになるようにな。だから、これ以上何を話しても無駄だということだ、わかったか? わからなかったら『バカの壁』を読め。ていうか、営業マンなら最近話題になってる本くらい読んどけ、バカ!」

 その後、幸いなことに××からの電話はない。もしかしたら、本当に『バカの壁』を読んでいるのかもしれないが、そんなこと私にとってはまさにどうでもいいことだ。随筆の話題をわざわざ提供してくれて、ありがとう、○○という会社の××さん。(2004.01.13)

 

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