八方美人でない随筆
(2003年9月〜2003年12月)

今年のベスト10(2003年版)

 今年もいろんな本を読んできました。というか、とくに大きな事故や病気、あるいはリストラとかいったものに巻き込まれることなく、無事一年を読書三昧で過ごすことができたこと、そして今年もこのサイトをつづけることができたことに心から感謝したいと思います。本サイトを贔屓にしてくださった皆様、ホントにありがとうございます。

 ついては今年のベスト10ですが、以前はとあるサイトのイベントに参加する、という形で選出していたのですが、今年はこうして随筆もリニューアルしたこともあるので、今回は随筆のネタとして今年のベストをこの場で発表することにします。例によって、順位づけはなしです。

『香水』(パトリック・ジュースキント著 文藝春秋)
異常な嗅覚をもつ主人公の波乱万丈の生涯。ラストの衝撃もすごかった。

『影武者徳川家康』(隆慶一郎著 新潮社)
とにかく熱い男の生き様が書かれた歴史エンターテイメント。影武者の奮闘に応援したくなります。

『いちばん初めにあった海』(加納朋子著 角川書店)
最後の一言に泣いた。関西弁がこれほどいいものだったとは。

『ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹著 新潮社)
どこにも向かわず、どこにもたどり着けない物語のなかに見えた、かすかな希望……。

『ドスコイ警備保障』(室積光著 アーティストハウス)
元力士がガードマンという発想の面白さ! スカッと爽やかな物語。

『ドゥームズデイ・ブック』(コニー・ウィリス著 早川書房)
14世紀のイギリスへタイムトラベルしたキヴリンがそこで見たものは?。

『背教者ユリアヌス』(辻邦生著 中央公論新社)
人間は自らの意志で正義を貫くことができる! あくまで人としての理想を追い続けた短命の皇帝の一生。

『冬の夜ひとりの旅人が』(イタロ・カルヴィーノ著 筑摩書房)
俺が読みたかったあの物語は、けっきょくどこへ行ったんだ?

『穴』(ルイス・サッカー著 講談社)
代々不運つづきだったスタンリー家の、あっと驚く逆転劇。

『葬送』(平野啓一郎著 新潮社)
ふたりの「天才」が生み出す芸術の驚異、歓喜、そしてその生と死。

(2003.12.28)


Web小説の可能性

 Web小説、あるいはハイパーリンク小説、あるいはオンライン小説と呼ばれているものの可能性については、いろいろな方がいろいろなサイトや著書で述べていることなので、今更という感じがしないでもないのだが、インターネットのブラウザ機能をもちいることによって、おそらくこれまで紙媒体だった小説というものの形は大きく変わる可能性があると思うし、またそうあるべきだとも思っている。そして、私がとても興味を惹かれるのは、ただたんに小説をネット上に載せただけの作品ではなく、Webの機能も表現形式のひとつとして組み込んだ、Webだからこそできる物語であり、小説である。

 Webの機能でもっとも注目されるのは、ハイパーリンク機能だろう。
 インターネットという環境に私がはじめて接したのは、私がまだ学生だった頃のことだ。当時、日本では今ほど爆発的に一般ユーザーに普及していたわけではなく、日本においてはせいぜい一部の企業が、実験的に自社のサイトを出している程度のもので、たいして見るべきものはなかった。だが、はじめてインターネットの世界を垣間見たときに思ったのは、サイトの中に貼られているハイパーリンクを次々とたどっていくという概念が、ゲームブックの基本概念によく似ているな、ということだった。

 ゲームブックというのは、小説のように前から順番に読んでいくようなものではなく、いくつにもストーリーが枝分かれしており、その選択が読者にゆだねられる、というものだ。たとえば道が二手に分かれていて、右へ行くなら4番へ、左へ行くなら75番へ、という具合に、読者は指示されている番号を追って、ページを先に進んだり、後に戻ったりして読み進めていく。昔はけっこう流行したものだが、今ではその機能はほぼそのまま「ハイパーリンク小説」として、Web上で楽しめるようになったと言える。ただ、私が知っている「ハイパーリンク小説」とは、たんなるゲームブックの二番煎じではなく、文字どおりひとつのストーリーにいくつかのハイパーリンクを置き、そこから別の物語や、関連する資料あるいは注釈へとつながったりと、いろいろ工夫がされている。

 このハイパーリンクの機能を現在もっとも有効に活用しているのは、辞書や辞典のたぐいだろう。私も昔はカラー大図鑑をとりとめもなく読んでいくのがけっこう楽しかった記憶があるが、クリック一発で次々と関連文章へと跳びまわっていくというのは、なかなかに楽しいものがある。しかも、パソコンはたんなるワープロの延長ではなく、音や映像といったものも組み込むことができるし、その気になれば「インタラクティブ! 八方美人な書評ページ」のようなダイナミックな動きを取り入れることも可能だ。これまで紙媒体の小説ではできなかったいろいろな可能性が、基本的には広がっているのだ。

 ただ、今のところWeb小説というと、紙媒体の小説をネット上に載せたものか、あくまで実験的にWebの機能を取り入れたものがほとんどで、どこまで読むべき価値があるのかは一概に言えないし、文庫本のように気軽に持ち運びできないという問題、あるいは横書きであることや、モニターを介して文字を読むことへの抵抗感といった問題、複製や著作権の問題もはらんでいる。だが、Webが持ち合わせているさまざまな機能が、たしかな表現形式のひとつとして物語と結びついたとき、そこにはこれまでに見たこともないような新しい小説の形が生まれてくるような気がするのだ。今はもうネット上から消えてしまっているようだが、Webミステリーと銘打った「メールフレンド」は、その可能性の片鱗を見せていた作品だったと思っている(もしどこかで「メールフレンド」のサイトを見つけた、という方がいらっしゃれば、一報いただければ幸いです)。そして、だからこそWeb小説からは目が離せないのだ。(2003.12.11)

S・キングは「あ行」か「か行」か「さ行」か?

 もしかしたら、こんなことで悩んでいるのは私だけなのかも知れないが、外国人の作家を著者アイウエオ順に並べるさいに、何を基準とするべきなのか、ということをふと考えてしまうのだ。具体的に言うと、外国人作家の姓の頭文字を基準とすべきなのか、それとも名の頭文字のほうを基準とするべきなのか、という問題である。

 これは、私のサイトの著者別一覧を眺めていたときに、「な行」の作家が誰ひとりとしていない、という事実に気がついて、なんか変だなあと思ったのがそもそものはじまりで、その後、いろいろな読書系サイトをめぐってその並べ方を見ているうちに、どうも人によってその見解が異なっているらしいことを知ったのだ。

 おそらく、一番正当な並べ方は、姓を基準とする並べ方であろう。たとえばS・キングであれば、キングという「姓」の頭文字を基準にして、アイウエオ順に並べるというやり方である。これは図書館でも用いられている並べ方であり、また日本人作家の場合は、間違いなく姓の頭文字で統一されているのだから、たとえ外国人の名前であっても姓で統一する、という考えはいかにも説得力があると言える。

 ただ、ひとつだけ問題があるとすれば――そしてごく個人的には、とても重大な問題だと思うのだが――それは、見た目があまり美しくない、ということである。というか、ぱっと見たときに、どうしても著者のアイウエオ順に並んでいるようには見えないのである。これは、外国人の名前の表記の仕方が、日本人のような姓−名という順番でなく、まず名が先に来る、ということに問題がある。著者アイウエオ順に並べているはずなのに、それが「姓」を基準としているがゆえに、まったくアイウエオ順に並んでいるように見えない――あるいは慣れの問題なのかもしれないが、どうもしっくりこないものがあるのも確かなのだ。

 では、外国人作家の場合にかぎり、名を基準としたらどうだろう? じつは、私のサイトの著者別一覧は、基本的にこの方法をとっているのだが、この場合、名前の部分をアルファベットの頭文字で省略しているときはどうするのか、という問題が生じることになる。
 それでも、たとえばS・キングのような大御所であれば、S=スティーヴンの略であることはわかるので、「さ」行で問題ないわけだが、なかには何の略なのかよくわからない、という作家もいたりする場合もあって、こうなってはアルファベット表記で判断するしかないのだが、それで本当にいいのかどうかは、微妙なところだろう。さらに言えば、トルストイやドストエフスキーなどのように、姓なのか名なのかすらわからない著者名だってある。

 あるいはいっそのこと、外国人作家の場合はアルファベット順の並び方にする、という方法もあるのだが、基本的に著者名がカタカナ表記である以上、これも例によって並び順の美しさにひっかかってくるし、そもそもアルファベット順に並べることにどれだけの利便性があるのか、という問題もある。

 日本人の名前は長くても五文字や六文字で収まってしまうが、外国人作家の場合、姓と名をフル表記するとかなり長い名前になってしまう、という問題もあって、やむなく頭文字のみの省略表記を使ったりするのだろうことはわかるのだが、それでも私にとって、いまだに解決のつかない問題であることに違いはない。(2003.12.01)

こんなマンガを読んできた

 本当は「こんな本を読んできた」というタイトルで何か書ければいいのだが、残念なことに、小さい頃の私はほとんど読書らしい読書をしてこなかった。せいぜい夏休みの読書感想文を書くときに、しぶしぶ読んでみる、といった程度で、今のような読書バカになってきたのは高校生くらいの頃、しかもそのきっかけになったのが、角川スニーカー文庫の『ロードス島戦記』だったりするから、自分で言うのもなんだが変な読書歴だと思っている。

 だから、本サイトによくお越しくださるくらさんやバーバままさんが、自身のサイトでやっていた「読書遍歴」企画なんかを見ると、なんだかとっても羨ましいと思ういっぽう、小さい頃にろくに読書などやってこなかった自身がおおいに悔やまれたりする。そういう意味で、北村薫の『リセット』での、小学六年生の村上和彦と水原真澄との言葉のやりとりには、いろいろ思うところが多かったのはたしかだ。

 どのみち戯言にすぎないような気もするが、マンガに限定すればかろうじて「読書遍歴」に近いものができるような気がするので、ためしにやってみることにする。

●『伊賀の影丸』(横山光輝)
 横山光輝というと、私の周囲では圧倒的に『三国志』が人気だったが、私が読んでいたのはなぜかこちらだった。主人公の影丸が強くない。「木の葉隠れ」という忍法が得意技だが、ほかの仲間や敵の忍法に比べると、ずいぶん見劣りする(敵のなかには不死身の肉体をもつ忍者なんてのもいたくらいだ)。そしてじっさい、大事なときには怪我をしていて動けない、なんてこともよくあった。

●『コブラ』(寺沢武一)
 左手にサイコガンをもつ男、宇宙海賊コブラが宇宙狭しと暴れまわるこのマンガは、それまで読んできたジャンプ系マンガとはあきらかに「脱日本」を意識させる作風とストーリーで、言ってみれば「渋い大人の活躍するマンガ」だった。こんなイカした大人になりたいものだと当時は思っていたが、「どんなピンチでも軽口を叩く余裕」は今もって身についてない・・・。

●『アウトランダーズ』(真鍋譲治)
 いかにもマンガチックな絵柄と露出度が高い女の子の服装と、あと獣人がやたらと出てくるのが特長だが、地球に突然宇宙人の艦隊が攻めてきて、最終的には地球が滅亡してしまう、というダークな内容だった。でも、本質は異星人間の恋愛物語(笑)。
 ちなみに、最近の著作『ビバ!うさぎ小僧』のうさぎ小僧は、もっとも主人公にしにくい性質の男を主人公にしていてわりと斬新だった。

●『魔王の子供達』(舞井武依)
 当時、「ペンギンクラブ」というエロマンガ雑誌に連載されていた、唯一エロじゃないマンガだが、魔法と宇宙と科学、魔物と人間とロボットという、ファンタジーとSFを融合させたかのような世界設定にずいぶん惹かれたものだった。
 でもやっていることは「スーパーナチュラルホームコメディ」です(笑)。

●『うしおととら』(藤田和日郎)
 日本や中国の妖怪てんこ盛りの、妖怪退治マンガだったが、ストーリーは少年漫画の王道まっしぐらだった。笑いあり、涙あり、愛(?)そして感動。

●『魔法陣グルグル』(衛藤ヒロユキ)
 最近連載が終了したギャグマンガ。「ドラゴンクエスト」に代表される日本産RPG(勇者が魔王を倒すというストーリー)を逆手にとったギャグの数々はひとつの伝説だった・・・。

●『So What?』(わかつきめぐみ)
 大学生だったとき、卒業したサークルの女の先輩から譲り受けたものだったが、少女コミックでこんな作品もあったのか、と当時は驚いた覚えがある。恋愛いっさいなし。時空のひずみでいろんなへんてこな生き物が出現したり、別空間に突然つながったりする研究所、という設定は、個人的にかなりツボだった。

●『ヨコハマ買い出し紀行』(芦奈野ひとし)
 女性のロボットが喫茶店をやっている、という設定だが、このロボット「アルファ」がなんとも人間っぽい顔をするのですよ。私も常連に加えてほしい・・・。
 ほとんどストーリーらしいストーリーはなく、世界の黄昏での日々の生活を描いているだけなのだが、ストーリーでもなく、言葉でもなく、絵柄と雰囲気で勝負しているマンガ家、という意味では、もっともマンガ家らしいマンガ家だと思う。

●『おまかせ!ピース電器店』(能田達規)
 少年チャンピオンで連載されていたマンガだが、本質は「ドラえもん」に通じる児童コミックだと思っている。同じ一話読みきりものだが、「ドラえもん」と違うのは、彼らが電器店であり、必要なものはなんでも自分たちで発明しちゃう、というところ。頑固親父、いつもやさしいけど怒ると怖い母親、人情あふれる商店会といった、あたたかい人間模様も大好きだ。

●『最終兵器彼女』(高橋しん)
 おもわず一気買いしてしまったマンガ。『最終兵器彼女』というタイトルが、まさかそのままの意味で使われるとは・・・。

●『仮面ライダーSPILITS』(村枝賢一)
 とにかくひたすら「アツくてカッコイイ」仮面ライダーたちが登場します。これぞ正義のヒーローの真髄、といった感じです。
「なぁ、信じてみないか、この世に神も仏もいないとしても、仮面ライダーはいるって」
等、歯が浮く台詞も彼らが言うとさまになるから不思議。

 こうして並べてみてわかった事実がひとつ。どうやら私は「人外もの」がお好みのようだ・・・。(2003.11.21)

古川日出男『サウンドトラック』補足

 古川日出男の『サウンドトラック』という物語において、メインを占めているのはトウタという名の少年と、ヒツジコという名の少女である。本書はこのふたりが小笠原諸島の無人島で巡り合ってから、亜熱帯化していく東京都心でふたたび出会うまでの物語であるが、この作品を語るうえでどうしてもはずすことのできない重要な登場人物として、レニの存在が挙げられる。

 レニは日本で生まれたアラブ系の人間で、純粋な意味での日本人ではないが、それ以上に大きな特徴として「性の変容」がある。つまり、レニは時と場所によって自身の性別を男に変えたり、女に変えたりするのだ。もちろん、まだ第二次成長期を迎えてはいないものの、身体的な特徴としての性別というものはある。だが、レニはとくに女装とか男装とかいった外見を装うことなく、ごく自然なこととして、自身の意識を切り替えてしまうのだ。男としてのレニから女としてのレニへ。あるいはその逆もしかり。それは、性別不明というよりは、性別というカテゴリーから解放された存在であり、そういう意味でもレニはトウタやヒツジコと同じ領域に立つ人物だと言うことができる。

 トウタ、ヒツジコ、そしてレニ――この三者を「性」という要素でとらえたとき、それぞれ男、女、無性という属性とともに、きれいな三角形ができあがることになる。私は当初、レニがトウタとヒツジコの中間に立って、物語において何か重要な役割をはたすのではないかと期待していたのだが、物語のなかでレニはトウタとは出会うが、ヒツジコとはついに出会うことはなかった。つまり、三角形はその一辺を欠いたまま、ついに三角形になることなく物語は終わってしまうのである。だが逆に、この不完全さこそが、物語の拡散と変容を目指す著者の持ち味として機能していると言うこともできる。

 レニにとって、トウタはマサミチイヌキにつづく、二人目の使徒――マサミチイヌキがレニに映像を撮ることを教えたのだとすれば、トウタはいわばその映像を含めたレニ自身を守る男として認識される。トウタにとってのレニは、幼少のころに父親から叩きこまれた「男らしい男」として生きることを、あらためて意識下で思い出させた存在として認識される。トウタにとってのヒツジコは妹のようなものであり、ヒツジコにとってのトウタは兄のようなものである。そしてこれらのベクトルは、ただひとつ「生き残ること」という要素で結びついている。本書が近未来の東京をサバイバルする少年少女の物語であるとするなら、いまだ語られていないレニとヒツジコとの関係もまた、「生き残ること」という要素で結びつくべきであることは容易に想像できるのだが、はたしてヒツジコの生み出す躍りと、レニの生み出す映像がぶつかったとき、いったいどんな衝撃が生じることになるのか――そのことを考えてみるのもまた一興かもしれない(2003.10.30)。

廃れゆくパンティー神話

 この世から「パンティー」という単語が使われなくなったのは、いったいいつの頃からだろうか。私の記憶がたしかならば、鳥山明の漫画「DRAGON BALL」の初期で、エッチな子豚のキャラクターが神龍に「ギャルのパンティーおくれー!」と叫ぶのを聞いたのが最後だったような気がする。

 パンティーという言葉は、たんなる女性用の下着という意味を越えて、世の男たちにとっては甘美な響きをともなう、特別な存在だった。それが知らないうちに使われなくなってしまったのだ。そして今では「パンティー」という言葉は、それ自体が死語と化しつつあるほど、使うのが恥ずかしいものとなってきているようだ。

 こうした現象を、たとえばフェミニズムの観点から論じるのはそれほど難しくはない。「パンティー」という単語が、たとえば水着のねーちゃんがにっこり笑ってビールのジョッキを持っているポスターと同じように、女性を性の商品と化すもの、ひいては女性蔑視につながる単語であるという認識から、今の衰退がはじまったとかなんとか書こうと思えば書くことは可能だ。だが、私が問題としたいのはそんなことではなく、では「パンティー」に代わる単語として、何かあてはまるのか、ということである。

 女性の下着という意味で現在一般化しつつあるのは、「パンツ」だろう。「パンツ」というと、私などは男性用の下着という意識がまだ強いのだが、男も女も「パンツ」というのは、なんだかあまりしっくり来ないというか、女性の下着に対する神聖性が大きく殺がれるような気がしてならない。だいたい「パンツ」というと、今では下着だけでなく普通のズボンやスラックスのことまで指すというではないか。ややこしいことこのうえない。それに「ブラジャー」という単語との愛称もいまひとつだ。「ブラジャーとパンティー」。何気に左右の均衡もとれていて良い感じだ。だが「ブラジャーとパンツ」というと、その絶妙なバランスが一気に崩れてしまう。

 では、女性用下着を「パンツ」に統一するとして、男はどうするか? 考えられるのは「ブリーフ」あるいは「トランクス」という単語を使うことだが、ここでもひとつ問題が生じることになる。それは、世論が「ブリーフ派」と「トランクス派」に大きく分裂してしまうということだ。どちらも同じ男性用の下着なのに、そのじつその単語が内包する意味が大きく違ってくるというこのふたつの単語を併用して使うというのは、あまりにも危険な賭けだと言わねばなるまい。

 女性用の下着をあらわす単語として「ショーツ」というのもあるようだが、これはどこまで一般的なのだろうか。女性の「ショーツ」という単語の使用頻度については男の私には想像できないものがあるのだが、ごく個人的な意見として、なんとなく生理用品というイメージがあったりするのが正直なところだ。もし認識が間違っているようならぜひ指摘してほしいところである。

 ともあれ、世の中から「パンティー」という言葉が廃れたと知ったとき、同時に私のなかで青春の1ページが静かに幕を下ろしたことを知ったのだ。そして、世界は「パンティー」に代わる単語をいまだに見つけられないまま、迷走をつづけている。(2003.10.21)

へそで人の未来はわかるのか

 いや、別にどうでもいいようなことなんですが、前回紹介した『ALONE TOGETHER』という小説のなかに、へそを見て占いをするヘンな人物が登場しまして、それでちょっと気になった次第です。

 よくよく考えると、へそというのはへその緒の名残であり、この先生きていくのにまったく必要のない器官のはずで、もし何かの役に立つとすれば、文字どおり「へそ占い」でもするときくらいかなあ、などと思うのですが、たまーに自分のへそを見てみたりすると、その無関心さを露呈するかのように「へそのゴマ」がたまっていたりして、妙に掃除してやりたくなります。

 でも、へそはあまりいじったりすると熱をもって痒くなったり痛み出したりすることがある上に、内部構造がかなり複雑なこともあって、なかなか耳掻きのように掃除するわけにもいかない、というのが実情だと思うのですが、どうやって掃除してやるのがベストなのか、いまだによくわからなかったりします。(2003.10.05)

本を読むということ

 以前、オフ会で「読んだ本はみんな書評しているのですか」という質問があって、思わず「そうです」なんて答えてしまったのですが、厳密にいうとそうではない。

 たとえば、今もまだ連載中の「グイン・サーガ」なんかは、学生時代に読み始めたものの途中で挫折、つい2年ほど前に読書を再開、ようやく最新刊に追いついた状態ですが、これはまだ書評していない。それ以外には、たとえば過去に本屋で立ち読みした本についても書評していない。

 「読んだ本はみんな誉める」などと宣言しておきながら、看板に偽りあり! と言われてもしょうがない状況ですが、ここでひとつはっきりしてくるのは、今のところ私にとっての読書は、このサイトで書評を書くことを前提とした読書と、そうでない読書の2種類を使い分けている、ということです。

 そういう状況をふまえて、あらためて「読書」というものを考えたとき、いったいどこまでが「読書」と呼ぶべき行為なんだろうか、ということが妙に気になったりします。
 たとえば、学校などで「朝の読書」みたいなものが盛んになっていたりする。子どもの活字離れを防ごうという運動の一環としてあるこの読書推進運動ですが、子どもたちにもっと本を読むように望んでいる人たちは、けっしてただ「本を読む」ということだけを期待しているわけではなく、「本を読む」という行為から、たとえばあることに疑問をいだいたり、あることを深く考えたり、またある知識や事実を知り、教養を高めたりすることを期待しているわけで、だからこそ毎年のように「課題図書」なるものが選定されるわけです。

 そうなると、当然のことながらただ「本を読め」とハッパをかけたり、どれだけ本を読ませたかを競ったりするだけでなく、どのようにして読みたい本を探し、どういう姿勢で本を読み、そして読み終わった後どうするのか、とかいったことも含めて「本を読む」ということを考えるべきなのでは、とも思ったりするのです。

 もっとも、本を読んで「楽しい!」と思う気持ちさえあれば、本なんて個々の好きなように読んでいけばいいのだろうとは思うのですけどね。(2003.09.27)

そろそろヤバいんじゃないかなぁ

 最後に「八方美人な随筆」を書いてから、もう2年以上経っているわけですが、さすがにこの開店休業状態はヤバいんじゃないかなあ、と焦燥をつのらせているわけです。

 そもそも、この随筆をコンテンツのひとつとして立ち上げたのは、書評を書いているうちに本とはあまり関係ない、個人的な考えや意見に近い文章ができあがることがたびたびあって、それは本来なら「没」となるわけですが、せっかく書いたものを捨ててしまうのもなんかもったいないという、言ってみれば廃物利用的な要素があったのです。

 おそらく、このコンテンツに載せる文章がなくなってきた、というのは、自分で言うのもなんですが、メインコンテンツである「八方美人な書評」に載せる文章に、自分の言いたいこと、感じたことをあますところなく書くことができるようになった、ということなのだろうと思うのです。そして、それは本来ならば、喜ぶべきことなのでしょう。以前よりも書評をうまく書くことができるようになった、ということなのだから。

 しかし、逆に言えば、それは本を読むという行為を通じて湧きあがってくるさまざまな思いや考えが、柔軟でなくなりつつある、ということでもないだろうか?

 ここに載せられている古い随筆リストは、書評と呼ぶにはあまりに中途半端な文章ですが、「八方美人な書評」に載せる書評同様、それはまぎれもなくその本を読むことによって生まれてきたものです。そして、読書というのは本来、そうした雑多な考えや思いを想起させるものではないか、とも思うわけです。

 読書は楽しい。その本の書評を書くという行為も、大変で時間も多くとられるけど、でもやっぱり楽しいし、達成感もある。でも2年以上も放っておかれたこのコンテンツについて考えるたびに、ひょっとして、私の読書に対する姿勢は、少しずつズレていっているんじゃなかろうか、と思わなくもない。それが、良い傾向なのか、悪い傾向なのか、それはわからないけど。

 というわけで、唐突ながら今日からこのコンテンツは、私のとりとめもない考えや思いを、書きたいときに書く場にしようと思う。それにともなって、名前も「八方美人でない随筆」に改名することにした。(2003.09.21)

 

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