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Rouei, the Japanese Court Song
-Kashin' Reigetsu-
心喪と朗詠

心喪と朗詠
青柳隆志述(1999・4・17)
初出『中古文学』52号

一、はじめに

 朗詠といううたいものが、一つの独立した「歌謡」として確立した時期を特定することは必ずしも容易ではない。「朗詠」という用語自体が、『和漢朗詠集』の前後に至ってようやく成立したのであり(注1)、詩の吟誦そのものは既に平安初期から漢詩人を中心としてほぼ日常的に行われていたことが知られるからである。そうした個人レベルでの吟誦の積み重ねが、漸進的に朗詠の「歌謡」化を導いたことは言うまでもない。
 しかし、朗詠が「歌謡」として認定された直接的な背景としてより重要なのは、これが日常的な吟誦の枠を越えて、宮廷の儀式や宴遊においても取り入れられるようになったことである。その時期は早く十世紀の半ばまで遡りうるが、そうした衆人を前にした実演が、朗詠の音楽的発達を促したことは疑いのないところであろう。こうした二つの要素が綯い混ぜとなって、朗詠は次第に「歌謡」としての位置を確保していったのである。
 それでは、朗詠はどのような経緯から宮廷の儀式・宴遊に取り入れられることになったのであろうか。
 無論、これには詩文吟誦自体の盛行が前提となっているであろう。しかし他の宮廷歌謡に比してあくまで新興のうたいものであり、かつ漢詩文特有の重々しさを持つ朗詠が、こうした場で一般的に用いられるようになるまでには、やはり何らかの曲折のあったことが想定されてくるのである。
 ここで注目されるのは、朗詠がごく初期の段階において、特に人の死ののちに行われた儀式・宴遊で用いられた例がいくつか見られる点である。人の死を悼む際に故人の作詩や古詩を吟ずることは本朝文人の古来の風(
注2)であり、こうしたケースで朗詠が行われることは当然あり得べき事柄であるが、更に服喪中の音楽停止という原則に徴すれば、この朗詠は、本来の音楽の代用となったものとも解される。即ち華美な楽曲が適さないような場合、それに代わり得たのが他ならぬ朗詠であったというわけである。こうした役割は、必ずしも朗詠の本質的特性であるとは限らないが、たとえ代用の形にもせよ、これが宴遊のうたいものとして実際に用いられたことが、朗詠の「宮廷歌謡」化に大きな影響を及ぼしたであろうことは想像に難くない。そしてこのありようは、後に至るまでかなりの実例を持つのである。
 本稿で私は、こうした、人の「死」に伴う朗詠という現象の存在を具体的に検証し、特に「心喪」(制度上の服喪ではなく、心の中での慎み)という状況の下での朗詠について考える。(
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二 心喪と朗詠ー一条朝における認識ー

『源氏物語』幻巻に、次のような記述がある。

御仏名も、今年ばかりにこそは、とおぼせばにや、常よりもことに、錫杖の声々などあはれにおぼさる……梅の花の、わづかにけしきばみはじめてをかしきを、御遊びなどもありぬべけれど、なほ今年まではものの音もむせびぬべきここちしたまへば、時によりたるもの、うち誦じなどばかりぞせさせたまふ。

 これは、紫上を喪った源氏が、すでにその一周忌を過ぎた仏名会の折にもなお、管絃の遊びなどには心を動かし得ぬことを描いた場面である。この時源氏は、管絃に代えて、「時によりたるもの、うち誦じなどばかりぞせさせたまふ」という。物語中の用例から推して、この時「うち誦じ」たのは、時節に適した古詩歌の一部であったと推定される(注3)が、ここに表われている物語作者の詩文吟誦に対する見方は注目に値しよう。
 喪葬令を始めとする服喪の制度のもとでは、服限の間に種々の制約が存するが、音楽の停止はその代表的なものである。しかし喪の期間が終了し音楽が解禁となっても、心中に哀悼の気分の残るうち、いきなり派手な楽を奏することはなお憚りのあるところであろう。その一種の空白状態を埋めるのに相応しいものとして、作者は即ち詩文の吟誦を挙げているわけである。物語中には他にも、故人の追悼に際してそれに相応しい詩句が選ばれ、吟誦される例が数多く描かれており、作者がこれを物語の手法としてかなり強く意識していたことがわかる。

@耳かしかましかりし砧の音を、おぼしいづるさへ恋しくて、「まさに長き夜」(和漢朗詠集、擣衣、白楽天)とうち誦じて臥したまへり。【夕顔巻、源氏の夕顔追慕】

A時雨さとしたるほど、涙もあらそふここちして「雨となり雲とやなりにけむ、今は知らず」(劉夢得外集、有所嗟)とうちひとりごちて……【葵巻、源氏の葵上追慕】

B「右将軍が墓に草はじめて青し」(本朝秀句、紀在昌)とうち口ずさびて、それもいと近き世のことなれば…      【柏木巻、夕霧の柏木追慕】

C空暗きここちするに、「窓を打つ声」(和漢朗詠集、秋夜、白楽天)など、めづらしからぬ古言を、うち誦じたまへるも…【幻巻、源氏の紫上追慕】

D蛍のいと多う飛びかふも、「夕殿に蛍飛んで」(和漢朗詠集、恋、白楽天)と、例の、古言もかかる筋にのみ口馴れたまへり。【幻巻、源氏の紫上追慕】

 もっとも『源氏物語』の描くこうした吟誦のありようは、あくまで個人の独吟のレベルに止まるものであり、これを「歌謡」としての朗詠の特性に直接結びつけるのは、やや無理があろう。しかしながら、先にも述べた如く、朗詠が「歌謡」として登場したごく初期の儀式や宴遊においても、これとほぼ同様のケースが生じていたのである。このことは従来全く指摘されていないが、朗詠という「歌謡」の歴史を考える上において、これは見逃すことのできない現象であろう。
 ここで、まず注目されるのは、次の『権記』の記事である。

中宮三宮御着袴、仍参枇杷殿……巡行数度、更大臣以下候南欄、給衝重、暫給禄、蔵人頭右大弁中将以下、々欄渡西取禄、給大臣以下綾大褂為一重。時々有朗詠、@徳辰令月之句也。A天暦六年皇太子着袴之時有朗詠。依朱雀院御事人々心喪。然而非太子服限之外、亦時非諒闇、仍有朗詠、亦以無妨歟。B今此御着袴、是時俗之礼、先例亦存(天暦六年朱雀院上皇崩後、五條太后着袴之例也)仍雖在信點所被行也。C但中宮・皇子共以凶服、今在其実。朗詠律詩不可然歟。

 上は寛弘八年(一〇一一)十二月二十八日に行われた、一条帝の第三皇子、敦良親王(三歳)の御着袴の記事である。ここには「時々有朗詠」と明記され、儀式の上で朗詠の行われたことが知られるが、特に注意されるのはその直後の極めて長い割注である。ここに見られる藤原行成の見解は、当時の宴遊における朗詠についての認識を把握する上で極めて重要な手がかりを提供する。
 右の割注は、更に@〜Cの部分に分けられる。まず@は「徳辰令月之句也」という朗詠詩句の注記で、これは後に常用曲として最も広く行われた朗詠曲「嘉辰令月」(
注4)を指す。つまりこれは個人レベルの任意の吟誦ではなく、明確な「歌謡」としての朗詠であったことが確認される。次に、Aは着袴における朗詠の先例を示したものだが、ここには囑目すべき記述が存する。
 行成の言う「天暦六年皇太子着袴之時」とは、天暦六年(九五二)十二月六日の、皇太子憲平親王(三歳、後の冷泉帝)の着袴を指す。ところが、この年の八月十五日、皇太子の父村上帝の兄である朱雀法皇の崩御(「朱雀院御事」)があった。つまりこの着袴は、院崩御の四月後という状況のもとで行なわれたわけである。これは、敦良親王着袴の寛弘八年のケースにも対応する。同年にはこの着袴以前に一条上皇、冷泉上皇の両院の相次ぐ崩御があり、事態は一層深刻であった。即ち行成はこの特殊な状況の先例を天暦年間の記録に求めたのである。
 天暦六年の場合には、朱雀法皇は今上(村上)の兄であるため、天皇の父母に対する服喪である「諒闇」は行われず、代わって「御心喪三月」が定められた。『権記』にいう「人々心喪……亦時非諒闇」とは、このことを指している。

天暦六年八月十五日上皇(朱雀)崩。十七日被定雑事……上卿奏聞、即挙哀・素服、喪司等雑事停止之由先宣下、又至御葬日廃務、御心喪三月……依諸卿定申、本服三月之間、停飲享・作楽・臣下著美服之由、下知官符。唯計日十一月可為限者。(『北山抄』巻四 拾遺雜抄)

 ここにいう「心喪」とは、正式な喪服は着けないものの、心中に哀悼の意を保ち、身を慎しむことを表す用語である(注5)。これは、服喪の代わりとして一定期間定められるものを指す場合もあり、また「人々心喪」の如く、個人がそれぞれ抱く哀悼の感情を表す場合もあるが、ここではその「心喪」のために同年十一月までの三月の間「飲享・作楽(即ち音楽)」等の停止が定められたのである。また更に、この時には皇太子憲平の、叔父(父の兄)朱雀院に対する服喪(同じく三月)も並行していた。十二月六日の皇太子着袴は、この二つの謹慎期間が明けた直後、まさしく「太子服限之外、亦時非諒闇」という状況において挙行され、その中で「朗詠」が行われたのである。これは、現存の記録で見る限り、儀式・宴遊における最も早い朗詠の例でもある。
 しかしながら、着袴という儀式には本来、その饗宴に管絃の催しを伴うのが通例であった。例えば同じ村上朝にあっても、憲平の弟、守平親王の着袴には管絃があり、また一条朝にも、敦良の兄敦成親王の場合には、「絲竹の興」が催されている。

第五親王守平、著袴。(村上)天皇御之、有管絃。(『日本紀略』四、応和元年〔九六一〕八月十六日条)

第二皇子(敦成)、於中宮御方著袴。仍主上(一条)渡御。大臣以下相率參入……饗禄屯食如恒、宴闌有絲竹之興。(同 十一、寛弘七年〔一〇一〇〕十月二十二日条)

 先例を重視する儀式のありようからすると、ここに管絃でなく、朗詠が用いられたことはかなり異例の事態と考えざるを得ない。この段階でいまだ音楽停止が解けていないのであれば、ただ管絃を中止するのみで事は済む筈である。しかしここで敢えて朗詠を用いたのは、祝賀の音曲は必要であるものの、なおかつ派手な管絃は憚られるという板挟みの状態で、当座の弥縫策として思いつかれた方法であると考えられる。つまり、朗詠は音曲と非音曲の中間にあるものとして、臨時にここに当てはめられたのである。これはやはり、非公式の喪である「心喪」という状況の然らしむるところであろう。
 しかしながら、行成は必ずしも、朗詠のこうした用いられ方を尋常の事柄として受け止めてはいないのである。
Bの部分に「今此御着袴、是時俗之礼、先例亦存」とある如く、着袴という儀式そのものは例えこうした場合にも平常時の儀礼通りに行われた。行成の引く「五条太后着袴」とは、憲平着袴の直前(十一月二十八日)に行われた朱雀法皇の女昌子内親王(二歳、後の冷泉后)の着袴であるが、憲平とは異なり、この時昌子は未だ父朱雀院に対する喪(一年)の最中であった。こうした状況下でも、儀式自体は通常通り挙行されたのである。

天暦六年十一月廿八日、昌子内親王初服袴。主上(村上)親結腰給。其膳物従御厨所弁備之……朱雀院殿并上男女官饗。其侍臣十余人召弘徽殿南廊給酒肴。中宮職給禄。(『河海抄』十三、若菜上所引『吏部王記』)

 しかし行成は続くCの部分において、「朗詠」がそのようなものとして習慣づけられることを強く警戒する。それは、天暦の例と寛弘の例との間に、決定的な隔たりがあるからである。
 天暦六年の場合、当事者の憲平親王は服限を終えており、かつ諒闇も発せられてはいない。しかし寛弘八年の場合には、まず六月二十二日の一条上皇の崩御に伴って、中宮彰子とその皇子敦良親王は共に一年の喪に服しており(「中宮・皇子共以凶服、今在其実」)、次いで、十月二十四日の冷泉上皇の崩御によって、その子三条天皇の「諒闇」が天下に発せられた。即ちこれは天暦の場合の如き「心喪」ではなく、服喪・諒闇の双方から最大級の謹慎が要求される局面であったわけである。行成が天暦の場合に「仍有朗詠、亦以無妨歟」とし、寛弘の場合に「朗詠律詩不可然歟」という判断を下しているのはそのためである。即ち行成はここで、いかに朗詠が派手さを持たず、音楽停止時の代用たり得るとしても、あくまで歌い物の一種である以上、このような重き忌みの状況ではおのずから制止されねばならないという批判を展開しているのである。

 ここからは、行成の「朗詠」に関する次のような認識が窺える。

@、朗詠は音楽停止時にその代用として使われ得るが、それは服喪中ではなく、あくまで喪の制約が解けた後もなお心中に哀悼を覚える場合、即ち「心喪」の状況に限られる。
A、朗詠は当時、未だ儀式の歌謡として公式に認定されるには至っておらず、その取扱いには一定の基準がない。
B、しかし、儀式での朗詠は個人レベルの吟誦とは明らかに区別されており、「歌謡」の一種と見なされる。

 上のような見解は、他の文献にはほとんど類を見ない。しかしながら、先に掲げた『源氏物語』作者の詩文吟誦に対する見方を併せて考えると、この当時の人士のなかに、朗詠ないし詩文吟誦の使用場面について、このような認識、即ち朗詠が「心喪」に適応するもの、という見方が形成されていたことはほぼ確実であろう。無論、これが朗詠固有の様式的特性であったと軽々に断ずることは避けねばならないが、少なくとも朗詠がこうした一面を持ち、それが「歌謡」化の過程のごく初期に深い関わりを持ったという事実は、やはり注目に値するであろう。(↑もどる

三、心喪と朗詠(二)ー史的展開ー

 『権記』における行成の見解は、あくまで先例の調査を背景とした結論であり、その意味ではやや傍証に乏しいとも見られる。しかし、そのような視点から朗詠の古記録を洗い直してゆくと、行成の記事の前後には、他にも「心喪」と見られる状況で朗詠・吟誦が用いられたと考えられる例が少なからず存するのである。これらを検証してゆくことにする。
 まず第一例は、安和二年(九六九)一月二日、太政大臣藤原実頼の邸で行われた宴遊の記事である。

村上うせおはしましてまたのとし、をのゝみやに人々まいり給て、いと臨時客などはなけれど、「嘉辰令月」などうち誦ぜさせ給次に、一条の左大臣(源雅信)・六条殿(源重信)など拍子とりて「席田」うちいでさせ給けるに「あはれ、先帝のおはしまさましかば」とて、御笏もうちをきつゝ、あるじどの(実頼)をはじめたてまつりて、事忌もせさせ給はず、うへの御衣どものそでぬれさせ給にけり。(『大鏡』巻六 昔物語。『文机談』第二冊にも出)

 この記事は、康保四年(九六七)五月二十五日に崩御した村上帝の遺臣が、その諒闇了の大祓(翌安和元年五月二十七日)を経て初の正月、小野宮実頼の邸に参会した折、音楽の遊びが催された時のものであるが、ここで注意されるのは、他の音曲に先立ってまず第一に「朗詠」(嘉辰令月)が口にされているということである。これはどのような理由によるのであろうか。
 記事中に見る如く、この時参集の臣下は一様に、村上先帝を追慕し、楽曲を口にしながらも悲嘆の涙に暮れていたことが知られる。これは、他文献によっても同じく確認される所である。

安和二年正月二日、左府(源高明)已下皆悉来儀。数盃之後、聊有管絃之興。調絃未畢、満座拭涙。是則、依先皇御時奏曲之倫也。数曲之後、臨昏散去。 (『大鏡裏書』所引『清慎公記』)

安和二年正月二日康辰晴、午時許、公卿五六輩、過臨数盃後参太相府(実頼)。盃酌数巡、間唱絲竹。恋念先帝、涕泣者多(同 所引『小一条左大臣記』)

  この状況は、まさしく前述の「心喪」に符合している。すでに服喪の期間が過ぎ、音楽も解禁されているにもかかわらず、故帝への強い追慕は人々に「ものの音」を聞くさえ悲しいという心持ちを惹起させた。その時、管絃や楽曲の代わりにまず最初に行われたのが、他ならぬ「朗詠」であったわけである。即ちこの朗詠は、人々の悲痛な心情を刺戟する派手やかさを持たぬ歌い物として、まずここで採り上げられたものと考えられる。
 この正月の宴遊としては、『大鏡』にも見える如く、後年、朗詠の演奏が恒例となった「臨時客」の営みがある。しかしここでの朗詠は、その先蹤というよりも、あくまでこの「心喪」の状況に沿うて単発的に行われたものであろう。この記事は、先の天暦の例と同様、この「嘉辰令月」という著名な朗詠曲の最も古い演奏例として知られるが、このような、朗詠演奏史の劈頭を飾る実演の例が、いずれも「心喪」をめぐるものであることは、きわめて示唆に富む現象である。
 次に第二例は、一条朝の長徳元年(九九五)九月十日、藤原道隆追善法要の記事である。

清範、講師にて、説く言はたいと悲しければ、殊にもののあはれ深かるまじき若き人々、みな泣くめり。果てて、酒のみ、詩誦しなどする程に、頭中将斉信の君の、「月秋と期して身いづくか」(和漢朗詠集、懐旧、菅原文時)といふ言をうち出だしたまへり。詩はたいみじうめでたし。いかで、さは思ひ出でたまひけむ。(『枕草子』、故殿の御為に、月毎の十日)

 これは、同年の四月十日に没した中関白藤原道隆の月次法要において、詩文吟誦の名手として知られる藤原斉信が、古詩を吟じたという逸話である。
 ここでの筆者の趣旨は、斉信の引いた「月与秋期身何去」(『本朝文粋』巻十四、「為謙徳院修報恩善願文」の一部)という詩句の内容が、如何にこの場に相応しく、適切なものであるかを賞揚することに尽きている。しかし、この記事にはまた、法要に参集した人々が清範の言に触発され、道隆を追慕して涕泣するさまが描かれていることを見逃すべきはでない。即ちこれもまた一種の「心喪」の状態なのであり、従ってここで「酒のみ、詩誦し」というわざが行われているのは、先の例に徴してもきわめて自然のことであると言えるであろう。斉信の秀句の吟誦も、その内容とともに、こうした「心喪」という独特の雰囲気の中で吟じられることによって、より一層高い効果を発揮したものと考えられるのである。
 第三例は、寛仁四年(一〇二〇)十二月二十六日に行われた源師房(十三歳)元服の記事である。

今日故中務卿(具平)親王々子師房歳十三、加首服。於西対南廂有此事……大納言三人勧盃斉信・公任・行成、余(藤原実資)立箸。了復本座。冠者着袍、入自西、中門拝礼。五品秉燭。満座朗詠、一両巡。其後被物(『小右記』)

 この例は一見、人の死とは全く無関係であるように見える。源師房は中務卿具平親王の王子であるが、父具平親王は既に十一年前の寛弘六年(一〇〇九)七月二十八日、師房二歳の折に没しており、師房にもはや服喪の義務はない。
 しかしながら、ここでの朗詠は、朗詠の演奏史上きわめて特異なものなのである。元服は着袴と同様、成長に伴う通過儀礼であるが、着袴や産養の儀には、後には朗詠を伴うことが通例となったのに対し、元服において朗詠が行われたのは、史上これが最初で最後の例なのである。元服の儀では、皇太子等の場合を始めとしてきわめて盛大に舞楽・管絃を奏する風があり、それを省いてまで朗詠を行うのは、尋常の事柄ではない。

一世源氏元服……天皇御侍椅子王卿已下候、有御遊・盃酒。源氏候四位上、王卿給禄。(『西宮記』巻十一 一世源氏元服)

 では何故この時に限って朗詠が行われたのであろうか。ここで注意されるのは、『小右記』の「故中務卿親王々子師房」という記名である。即ち実資はこの元服が、既に亡くなった人物の遺児のそれであると位置づけており、そこには一種の「心喪」の気分が感得される。またその亡父具平親王は言うまでもなく文人の雄であり、その作品は『和漢朗詠集』にも採られている。即ちこのケースは、その遺児である師房に対して、公任や斉信らが、追慕の意味合いを込めた「朗詠」によって賀意を示そうとしたものと解されるのではなかろうか。
 第四例は、永承五年(一〇五〇)四月二十六日に行われた、前麗景殿女御延子の歌絵合の記事である。

土器あまたたびになりて、御琴などは憚からせ給へば、大納言殿(源師房)「淵瀬となる声」(和漢朗詠集、帝王、紀淑望)と侍りしに、あまたうち加へ給しも、思ひ深う聞こえ侍りしほどに、曳出物の馬にや、灯火の影に見ゆるは、久方の月毛ならねど眼とまり侍りしか。

 この例においては、歌合の主催者たる女御延子の祖母、源明子(道長の妻)が前年の永承四年(一〇四九)七月二十二日に没している。この歌合の実施時点では既に延子の服限(五月)は明けているものの、状況はやはり「心喪」と称すべきものであった。「御琴などは憚からせ給へば」という記述はまさに「心喪」ゆえに音楽が自粛されたことを示しており、その代用として朗詠が行われたことが確実に判明する好箇の例となっている。
また、大納言師房の吟じた「淵変作瀬之声 寂々閉口」の句は『古今和歌集』真名序の一部であるが、この当該部分は昨日の淵が即ち今日の瀬になる、という世の無常を表すものであり、内容的にもやはり「心喪」の状況に適合する。
 そして、このような、朗詠と「心喪」とのイメージの結びつきはかなり後にまで保存され、例えば平安の末期、養和元年(一一八二)一月十四日に崩御した高倉上皇追悼の日記である『高倉院升遐記』(源通親)においては、その追慕の料として、実に数多くの詩句が吟じられたことが記されるのである。

(高倉院の)作らせたまひたりし詩どもを取り集むとて、(源通親)「遺文三十軸」(和漢朗詠集、文詞、白楽天)とうち口すさまれて、竜門原上の土さへうとましくて……その御屏風を御目とまりしかば、法花堂に立てられたるを見て、「雲衣范叔が羈中の贈物」(和漢朗詠集、鴈、具平親王)とうちながめて……庭の気色を見れば、いつしか草も青みわたり、石も苔むして「なにがしが墓に草初めて青し」(本朝秀句、紀在昌)とうちながめられて……。

 以上に見たように、朗詠ないし詩文の吟誦が「心喪」と結びつく例は、かなりの数に上ることが分る。しかし、それでは、何故朗詠や吟誦はそのような場合に用いられたのであろうか。
 これには、いくつかの理由が想定される。例えば、詩文という表現形態が、死や別離などの痛切な心情を盛り込むのに適しており、本朝の文学的伝統の中にもこうした傾向を見出しうることが挙げられる。また、漢文特有の重々しさに加えて、韻律や曲調の上からも、その吟誦に他の華やかな宮廷歌謡にはない重厚な音声的特質が存していたであろうことは、これまで見た例からも明らかである。この雰囲気は、例えば同じく人の死と不即不離の関係にある「経文」のそれにも通じるものがある。実際、詩文の吟誦が誦経や仏教歌謡と共に用いられた例は数多く、もってその聴覚印象の一端を類推することができる。

道ノ間ニ声ヲ同クシテ居易ノツクレル「百千万劫ノ菩提ノ種、八十三年ノ功徳ノ林」トイフ偈ヲ誦シテアユミユクニ、ヤウヤク寺ニキヌルホトニ、僧又声ヲ同クシテ、法花経ノ中ノ「志求仏道者 無量千万億 咸以恭敬心 皆来至仏所」ト云偈ヲ誦シテマチムカフ。(『三宝絵』 下十四 比叡坂本勧学会)

僧侶誦伽陀。或倶舎、或唯識。人々入遊興、又朗詠。及深更事了退出。(『中右記』元永二年〔一一一九〕十月二日条)

崇徳院御位の時、保延六年の秋の比、御夢に、白河の僧正増智まいりたりけるよし申ければ、「しばらく候へ」 とてやがて御対面ありけるに…御夢さめさせ給てのち、御心地例ならずおはしまして、時に朗詠・読経などせさせ給へり。(『古今著聞集』巻十七 恠異廿六)

(平清経)舟の屋形に立出でて、やうでうねとり朗詠してあそばされけるが、閑かに経よみ念仏して、海にぞしづみ給ける。(『平家物語』巻七、大宰府落)


 むろん、これらのことは必ずしも、朗詠なり、吟誦なりという行為や声調そのものの中に、人の死を悼むという固有の特性が確固として存在することを意味するものではない。詩文を吟ずる、という営為はきわめて多様な場面に適合するわざであり、時にはきわめて晴れがましい場において朗々と歌いあげられる場合もある。しかしながらなお、詩文の吟誦およびその「歌謡」である朗詠の深奥には、「心喪」という場面への適用を誘発する要素がやはり幾許か胚胎していたものと見られる。これまでに見たいくつかの例は、いわばその顕著な露頭なのである。(↑もどる

四、結語

 以上の如く、「朗詠」は人間の死に関連して、特に「心喪」という特異な状況において、音曲の代わりに用いられる歌謡という側面を有していたものと考えられる。これは哀悼の心持ちを表す方法として個人の吟誦のレベルでは豊富な実例を持つが、それが「心喪」時の儀式・宴遊においても応用されたのである。
 「心喪時の祝典」は弔意と賀意の相半ばする複雑な状況であり、催馬楽・神楽・管絃などの宮廷音楽はいずれもこうした場に適さず、そこに、内容面では祝賀を表し、かつ聴覚的には粛然たる印象を与えうるものとして「朗詠」がクローズ・アップされたのである。
 この現象が、朗詠が儀式・宴遊に用いられたごく初期の段階に見られることは注目されるべきである。朗詠は院政期以後、臨時客を始めとして、殿上淵酔・産養・着袴・読書始などの諸行事の宴席において晴れの歌謡としてごく頻繁に用いられるようになるが、その原因としては朗詠そのものの一般的流行のほかに、極めて早い時期に本来儀式音楽のあるべき位置での臨時代行の役割を果たしたことが影響しているであろう。新興の歌謡が儀式の中に定着するまでには極めて長い期間を要するはずであるが、その中で朗詠が比較的早くに宮廷歌謡としての位置を固めること得たのは、こうした儀式に、代用ながら登場しており、それが諸人に印象づけられていたことが大きいと思,われる。現に、同じく新興の歌謡である「今様」には、この、朗詠のような儀式への接近の傾向が薄弱である(
注6)。このように「心喪」と朗詠との関わりは、朗詠が宮廷歌謡として定着する上においてその筋道を付けるという大きな副産物を残したのである。(↑もどる

(1)拙稿「『朗詠』という語について」(『日本朗詠史 研究篇』第三章第一節)参照。

(2)例えば、島田忠臣は弟良臣の死ののち「題舎弟玉大夫詩巻」(『田氏家集』中)なる詩の中で「不似何兌吟詠艱 珊瑚処々有声寒」と記し、また菅原道真も文章生藤原某の死を傷み「傷藤進士呈東閤諸執事」(『菅家文草』 巻二)詩に、「此生永断倶言笑 且泣将吟事母詩東閤孝経竟宴、進士事母詩、故云」と記している。

(3)古詩の一部9例、当座の詩1例、古歌の一部16例、当座の和歌4例、詩・歌不明(当該例)1例。経文2例。

(4)『和漢朗詠集』祝、謝偃の詩句。「徳」は「佳」(「嘉」字の古記録に見える習慣的表記)の誤りか。拙稿「朗詠曲『嘉辰令月』の唱法」(『日本朗詠史 研究篇』第四章第一節所収)参照。

(5)吉川幸次郎氏「心喪の説」(『文藝春秋』昭20・10)には、「心情は服喪せんことを欲しても、制度がそれを許さぬ場合、服喪した如き気持でゐることが許される。それを『心喪』といふ」とある。「心喪」の語は、本朝では『令義解』巻九喪葬に「凡天皇、為本服二等以上親喪 服錫紵謂凡人君位、服絶傍朞、唯有心喪、故云本服」とあるのが初見である。これは本来の服喪に代わるものの謂で、後には「御心喪」として日限が定められた。ま た、個人の哀悼の心持ちを表す例としては『北山抄』巻四に「養父母、仮卅日、服五月、已有其限。但随其志、可有心喪」(請仮)というものがある。
(6)今様が「穏座の歌謡」として、例えば朗詠などよりくだけた場で行われる傾向の強かったことは、大木桃子氏 「宴席の今様の成立と固定化ー穏座の視点からー」(『国語国文』第六十三巻第九号、平6・9)に詳しい。↑もどる



『日本朗詠史 研究篇』

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