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Rouei, the Japanese Court Song
-Kashin' Reigetsu-
朗詠曲目一覧

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青柳隆志述(2002・12・5)

朗詠 全十五曲」は現在残っている朗詠曲の曲目です。平安末期、藤原師長によって「朗詠二百十首」が編まれるほどだった朗詠曲も、さまざまな経緯を経て、現在ではこの曲目に落ち着いています。

嘉辰徳是東岸池冷暁梁王紅葉春過二星新豊松根九夏一声泰山花上苑十方

音源情報は「平野健次邦楽文庫 日本古典音楽レコード目録によります。


嘉辰(かしん)

嘉辰令月歓無極 万歳千秋楽未央

(『和漢朗詠集』 祝 774 謝偃)

この曲は、あらゆる「朗詠」句の中で最も頻繁に用いられた曲です。『朗詠譜本』にも巻頭句として掲げられていますし、現在でも演奏機会の最も多い曲と言えます。この句の「朗詠」の初見は、安和二年(969)1月2日、小野宮関白太政大臣藤原実頼の邸で行われた宴遊の際のもので、以後、「臨時客」や「産養」などの儀式や、「勧学院歩」などにおいて、この曲が用いられています。「良き時節にあって、よろこびはきわまりなく、千年万年を祝ってもその楽しみは尽きることがない」という祝言の句で、あらゆる場面に適していたと考えられますが、すべての朗詠曲の中で、この曲だけが「音読」(他の曲は訓読)であることや、旋律形態がやや特殊であることなどから、この曲を「朗詠」の典型と考えるのは、やや注意を要します。また、この曲は三度繰り返されますが、一度目は「令月」から、二度目は「嘉辰」から、三度目は「歓無極」から始めるという変化があります。これは楽家の方法で、儒家では、一度目は「嘉辰」から、二度目は「令月」から、三度目は訓読で歌ったとされます。現在、「訓読譜」が三点ほど残っています。 (↑もどる

この曲は、朗詠の代表曲として度々音源化されています。「雅楽」(宮内庁楽部楽友会・ LKB1001・ キングレコード) ・「雅楽 日本の古代歌謡を尋ねて」(昭49・日本雅楽会・HC-7003・ ミノルフォンレコード) ・「雅楽」(昭50・宮内庁楽部楽友会・ KHA-26・ キングレコード)・「雅楽」「実用シリーズ?日本の祝 雅楽」(昭61・東京楽所・CPY-9211・日本コロムビア)・「日本古代歌謡の世界」(平5・東京楽所・COCF-12111〜4・日本コロムビア)・「そのころ都に流行る音楽 平安の饗宴」(平6・伶楽舎・COCF-11836・日本コロムビア)・「お祝い邦楽特選[雅楽から太鼓まで](平8・宮内庁楽部楽友会・ KICH-116・ キングレコード)・などがあります。また、ビデオ「重要無形文化財 雅楽 宮内庁式部職楽部 第九巻」(平12・宮内庁式部職楽部)のなかで演奏の映像が記録されています。中田太三氏のホームページ「雅楽」では、リアルプレーヤー再生による「嘉辰」の試聴ができ、また、日本コロムビアでも「嘉辰」(東京楽所)の試聴及びダウンロード販売を行っています。 (↑もどる

徳是(とくはこれ)

徳是北辰 椿葉之影再改 尊猶南面 松花之色十廻

(『新撰朗詠集』 帝王 615 大江朝綱)

大江朝綱の詩序の一節で、天皇の徳をたたえ、その千万年の長寿を祈る祝賀の句として、「嘉辰令月」同様、あらゆる宴遊において用いられた著名な曲です。「源家根本朗詠七首」の一曲ですが、『和漢朗詠集』の朗詠詞章ではなく、初見の時期も、康和5年(1103)1月20日の宗仁親王五夜産養と、比較的遅いのですが、当時有力な「朗詠者」であった藤原宗忠らの朗詠によって急速に定着し、主要な朗詠の位置を占めるようになりました。歌詞の中の「椿葉」は八千年に一度改まり、「松花」は千年に一度花をつけるといわれ、いずれも長寿の象徴となっています。(初音源)↑もどる

この曲は最近、「雅楽 御遊」(平14・東京楽所・キングレコード・KICH169)のなかで音源化されました。↑もどる

東岸(とうがん)

東岸西岸之柳 遅速不同 南枝北枝之梅 開落已異

(『和漢朗詠集』早春 11 慶滋保胤)

慶滋保胤の詩序の一節で、東から芽ぐむ春の柳、南枝から咲くの梅を題材として、春の到来をことほぐ曲です。正月の「臨時客」など、もっぱら春のはじめの時期に限って用いられましたが、演奏の機会は決して少なくなく、前の二曲同様、朗詠常用曲のひとつになっています。初見例は寛治4年(1090)1月2日の藤原師実臨時客です。この曲には、藤家と源家で唱法に違いがあったとされ、源家では、一度目は「東岸」から、二度目は「西岸」から歌い出し、句頭に「ヤ」という囃子詞を入れたと考えられます。(↑もどる

この曲は春の朗詠曲として、音源化されています。「雅楽大系 声楽編」(昭37・紫絃会・日本ビクター)・東京楽所のレコードにもあります。 (↑もどる

池冷(いけすずし)

池冷水無三伏夏 松高風有一声秋

(『和漢朗詠集』 夏 164 源英明)


源英明の詩序の一節で、池のほとりに避暑をするさまを描いた夏の代表的な朗詠曲です。三伏は夏の最も暑い時期をいい、池の水や松の風が涼しさを運んでくれることを描いています。長徳3年(997)6月25日ころの、『枕草子』の記事に「殿上人あまた声して、『なにがし一声の秋』と誦してまゐる音すれば」とあるのが初見ですが、以後、古い朗詠の記録はありません。しかし、『梁塵秘抄』にこの曲をもとにした今様が見えるなど、ひろく浸透していたこことは確かで、江戸期には御遊の際に用いられました。(初音源)↑もどる

暁梁王(あかつきりょうおう)

暁入梁王之苑 雪満群山 夜登公之楼 月明千里

(『和漢朗詠集』 雪 374 白賦)

謝観作といわれる「白賦」の一節で、漢の梁王の兎園から山々の雪を望み、庾が南楼に登って月を賞翫した故事にならって白々と照りわたる月を見る、という「白」をモチーフとした朗詠曲です。前曲と同じく『枕草子』に「明け暮れのほどに帰るとて、『雪、某の山に満てり』と誦したる」として見えますが、その後、南北朝まで朗詠された例はありませんが、江戸期には御遊で行われました。冬を代表する朗詠曲です。(初音源)↑もどる

紅葉(こうよう)


紅葉又紅葉 連峯之嵐浅深 蘆花又蘆花 斜岸之雪遠近

(『新撰朗詠集』 紅葉 283 源道済)

源道済の大井川和歌序の一節です。赤い紅葉と雪のように白い蘆花をよみこんだもので、本来、初冬の作ですが、「紅葉」題としては代表的な朗詠曲です。嘉禎二年(1236)に出家した藤原孝道が、法輪寺でこの曲を「落葉又落葉」と読みかえて朗詠した、という記録があります。以後あまり行われず、現行曲は江戸期の再興によります。(↑もどる

秋の代表的朗詠曲である本曲は、「雅楽 日本の古代歌謡を尋ねて」(昭49・日本雅楽会・HC-7003・ ミノルフォンレコード)・「日本古典音楽大系1 雅楽・声明・琵琶楽」(昭57・宮内庁式部職楽部・ISBN4-06-168611-9(0)(学A)・講談社、キングレコード、東芝EMI、ビクター音産、ポリドール)に音源化されています。 また、近年、ビデオ「重要無形文化財 雅楽 宮内庁式部職楽部 第九巻」(平12・宮内庁式部職楽部)のなかで朗詠演奏の映像が記録されています。(↑もどる

春過(はるすぎ)

春過夏闌 袁司徒之家雪応路逹 旦南暮北 鄭大尉之渓風被人知

(『和漢朗詠集』 丞相 680 菅原文時)

菅原文時が源雅信のために書いた辞表の一節で、雅信自身が定めたとされる「源家根本朗詠七首」に含まれる曲です。源家では特に、同じ辞表の中から取られた「傅氏巌嵐」の曲とともにこの曲をきわめて重んじています。伝説では、作者文時の前で雅信が自らこの秀句を朗詠したと言われますが、以後、朗詠された記録がなく、ほぼ秘曲の扱いに終始したものと考えられます。後漢の袁安(雪に埋もれて暮らした)・鄭弘(薪を取りに行って仙人に出会った)の逸話を引いて、野に遺賢のあることを示唆したこの曲は、あまり演奏の機会にも恵まれなかったものでしょう。現行曲は江戸期の再興によります。(↑もどる

この曲は、朗詠の秘曲ながら、幾度か音源化されています。「雅楽 日本の古代歌謡を尋ねて」(昭49・日本雅楽会・HC-7003・ ミノルフォンレコード)「雅楽の世界 上」(平2・東京楽所・C0CF-6194〜5・日本コロムビア) ・「日本古代歌謡の世界」(平5・東京楽所・COCF-12111〜4・日本コロムビア)などです。(↑もどる

(以上七曲、明治9年撰定)

二星(じせい)

二星適逢 未叙別緒依々之恨 五更将明 頻驚涼風颯々之声

(『和漢朗詠集』 七夕 213 小野美材)

小野美材の詩序の一節で、出会う牽牛と織女の短い逢瀬の切なさを描いた佳句です。『平家』において、後徳大寺実定と待宵小侍従の対面に引かれる句として有名で、『朗詠譜本』にも「七夕」の唯一の朗詠曲として掲載されていますが、平安朝には実演の記録がなく、初見例は、弘安七年(1284)7月7日の「二星之佳会」になります。七夕の乞巧奠には、古くから、管絃・和歌・詩・連歌を星に手向ける習慣があり、時に朗詠も行われたことが、『中右記』などによっても知られますので、「二星」はもっと古くから歌われていた可能性があります。室町〜江戸期にかけて、乞巧奠がひろく行われた結果、「二星」は朗詠常用曲としての位置を確保し、他の朗詠が衰微して行く中で、最後の四曲のなかにも残ることになりました。「二星」は「じせい」と読む習慣です。(初音源)↑もどる

東儀秀樹氏「雅楽 天・地・空〜千年の悠雅」(平12・TOCT-24293・東芝EMI)で「二星」が演奏されています。東儀氏の解説は次の通りです。

平安時代の中頃に歌曲として完成された朗詠は、中国やわが国で作られた漢詩に曲をつけ、一管ずつの笙、篳篥、龍笛の伴奏で歌われるものです。内侍所(宮中の神殿のある所。賢所)の御神楽の儀に奉仕していた殿上人たちが神楽歌(御神楽の儀で使う歌曲)のような旋律を宴席などで歌いたいと思い、それを漢詩につけて歌い始めたのがきっかけだとされています。古くは数百首近くあったといわれますが今では15首くらいしか残っていません。                    
 ひとつの詩を一の句、二の句、三の句と三つに分け、それぞれの句のはじめを独唱し、途中から斉唱(合唱)となります。二の句の独唱部は特に高音(通常より1オクターブ高い)なのが特徴的で男性にはとても苦しい音域となります。一の句が終り、いきなり高音をとるのが大変むずかしいことから、声につまる、つまり「二の句が告げない」という言葉はこの朗詠に語源があるのです。それでも私は二の句が好きで今回も二の句の独唱部を担当しました。                 
 「二星」というのは彦星と織姫のふたつの星のことで七夕にちなんだものです。年に一度の出逢いの喜びを語り合ううちに夜が明け始め、別れが近づく。出逢いの喜びと別れの悲しさの間の短い逢瀬のせつなさを描いた詩です。         
 現在残っている朗詠のほとんどが祝賀の内容を表わしたり自然描写で哲学的な表現をするものが多いなか、この「二星」はとてもロマンティックな内容をテーマにしている点が個人的に興味深いところなので収録しました。
 

また、ビデオ「天と地と空ー一○○○年の悠雅 東儀秀樹」(平12・TOVF-1343・東芝EMI)にも「二星」の演奏の映像が収められています(解説は同文です)。

伶楽舎+ブライアン・イーノ「music for 陰陽師」(平12・VICP-60980・ビクターエンターテイメント)のなかで「二星」が演奏されています。通常の男声朗詠とは異なり、下野戸亜弓氏(三絃奏者)の歌になる、「女房の朗詠」という設定になっています。また、橋本一子氏のピアノソロ「雲珠(うず)」とのコラボレーションがあるなど、きわめて実験的な試みがなされています。岡野玲子氏+夢枕獏氏のコミックス『陰陽師』(スコラ社)に寄せた音楽CDで、雅楽十五曲とブライアン・イーノによる六曲の二枚からなり、細部にわたるまで岡野氏本人の意図を活かしたものとなっています。コミック第8巻「太陰」には、源博雅が安部晴明を前に「二星」を朗詠する場面があり(17P)、晴明をして「こいつもうるおっている・・・」という名台詞を吐かせています。(↑もどる

新豊(しんぽう)

新豊酒色 清冷於鸚鵡之盃中 長楽歌声 幽咽於鳳凰之管裏

(『和漢朗詠集』 酒 479 公乗億)

晩唐の詩人、公乗億の「送友(人)帰大梁賦」の一節とされます。「新豊」県は長安城外の酒の名所で、「鸚鵡盃」とはオウムガイの盃で、平安朝の人々もこれを珍重したものらしく、初見の寛弘七年(一○一○)一月十五日、敦良親王五十日祝の例は、宴席にこの盃があったために、この句が朗詠されたものです。その後、藤原宗忠と同時代の藤原長忠がこの朗詠を持ち歌として多くの儀式で披露したため、次第に公宴常用曲、とりわけ正月の「臨時客」の曲として盛んに行われました。(初音源)↑もどる

松根(しょうこん)

倚松根摩腰 千年之翠満手 折梅花挿頭 二月之雪落衣

(『和漢朗詠集』 子日 30 尊敬)

菅原道真の子の日の祝いの詩句に和した尊敬の詩序の一節です。正月初子の日には、常盤の松に触れてで腰を撫で、健康を祈る風習がありました。江戸期の御遊で朗詠されましたが、藤原定家の『顕注密勘抄』のなかに、「音曲人、朗詠『松根によりて腰をすれば為也』」という記述があって、「腰を摩る」が物事を「する」という発音で唱えられていたことがわかります。(初音源)↑もどる

九夏(きゅうか)

九夏三伏之暑月 竹含錯午之風 玄冬素雪之寒朝 松彰君子之徳

(『和漢朗詠集』 松 424 源順)

源順の「河原院の賦」の一節です。源融の邸宅「河原院」の風景を描いたもので、暑熱の夏の竹、厳寒の冬の松のすがすがしい姿を描いています。いまだ古い時期の朗詠の実例は見当たりません。(初音源)↑もどる) 

一声(いっせい)

一声鳳管 秋驚秦嶺之雲 数拍霓裳 暁送山之月
(『和漢朗詠集』 管絃 462 連昌宮賦)

唐土の賦「連昌宮賦」の一節です。「鳳管」は笙の別名で、その音色は雲を響かし、霓裳羽衣の舞人の舞が夜明けまで観客を魅了する、という内容で、管絃の曲としてひろく知られています。法隆寺献納宝物『朗詠要集』の紙背には、この曲のところに「笙詠」という注記があり、この曲が特別扱いされていたことが知られます。古い朗詠の記録は見あたりません。(初音源)↑もどる

泰山(たいざん)

泰山不譲土壌 故能成其高 河海不厭細流 故能成其深

(『和漢朗詠集』 山水 499 漢書)

漢書の一節で、いわゆる「塵もつもれば山となる」というたとえです。泰山や黄河が大きくなったのは、些細なものもそのまま受け入れたことによるとして、度量の肝心さを説くものですが、朗詠の記録としては、建長6年(1254)10月16日に、橘成季が『古今著聞集』の完成を祝って催した竟宴の際に用いられたのが唯一の例でしょう。現行曲は江戸時代の再興によります。(初音源)↑もどる

花上苑(はなじょうえん)

花明上苑 軽軒馳九陌之塵 猿叫空山 斜月瑩千巌之路

(『和漢朗詠集』 花 113 閑賦)

唐土の賦「閑賦」の一節です。上苑は漢の武帝が長安に作った上林苑のことで、花見客の車が濛々たる砂塵をあげているさまが描かれています。下句には一転して、猿の叫ぶ秋の物寂しい様子が対照的に配されます。弘安8年(1285)3月2日、後深草・亀山両上皇の妙音堂行幸で朗詠された記録があります。現行曲は江戸期の再興によります。(初音源)↑もどる

(以上七曲、明治21年撰定)

十方(じっぽう)(伝承曲)

十方仏土之中 以西方為望 九品蓮台之間 雖下品応足

(『和漢朗詠集』 仏事 588 慶滋保胤)

慶滋保胤の書いた極楽寺建立の願文の一節です。治安2年(1022)8月、法成寺でこの曲が朗詠されていたことが『栄華物語』に見え、朗詠曲としてだけでなく「伽陀」の曲としてもひろく知られています。この曲はいわゆる明治撰定譜には入りませんでしたが、これは「仏事」の歌謡であることが原因と考えられ、「伝承曲」という特別な扱いを受けています。現行曲は江戸期の再興によります。(↑もどる

日本古代歌謡の世界」(平5・東京楽所・COCF-12111〜4・日本コロムビア)に音源化されています。(↑もどる

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