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Rouei, the Japanese Court Song
-Kashin' Reigetsu-
藤原宗忠と朗詠

藤原宗忠と朗詠
青柳隆志作成(2002・12・6)

長承3年(1134年)3月23日、当時73歳の内大臣、藤原宗忠は、弟の左兵衛督藤原宗輔より新作の硯を贈られました。宗忠はいたく悦び、早速筆を染め、以下の句を記した、と日記に書き残しています。
左兵衛督(藤原宗輔)被及新作石硯。染筆試之処、誠一物也。誠為悦、傍書之「佳辰令月歓無極 万歳千秋楽未央」(『中右記』)。
この句は、『和漢朗詠集』 の「祝」部に載るものであり、硯の書き初めとしてはまことに相応しい佳句ではありますが、宗忠が、ことさらこの句を選んだ背景には、もう一つ、別の要素が考えられてます。すなわち、宗忠と「朗詠」とのかかわりです。
 藤原宗忠は、音曲の家、中御門家の当主として、あまたの御遊に列していますが、とりわけ注目されるのは、彼が平安朝を通じて最も多くの「朗詠」を行った人物であるという点です。その実演は、記録に見えるだけで三十回にも及び、その数は前後を通じて全く類を見ません。また「佳辰令月」は、宗忠の朗詠した曲のうち、最も多数
(18例)を占めています。宗忠にとってこの句は、自らが最も得意とした朗詠曲であったと言えます。宗忠はこのほかにも、朗詠曲「徳是」を自家薬籠中のものとして広く一般に定着させたり、藤家の「朗詠九十首」を藤原忠実とともに選定するなど、朗詠の音楽的定着にすこぶる大きな役割を果たしました。『中右記』の筆者として高名な宗忠ですが、もし彼の朗詠がなければ、朗詠という歌謡が今日このような形で残り得たかどうか、疑わしいとさえ言えます。『天子摂関御影』に残された、老体ながらもなお強烈な意思を感じさせる上掲の宗忠像を、本頁「佳辰令月」のバナー画像といたしましたゆえんであります。

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