名前の由来研究
- ここではビックリマンのキャラクターについての名前の由来を研究したいと思います
- あくまで私の研究結果です。これに対してのご指摘等があればメールをよろしくお願いします。
第1回のテーマ
カーネルダースの由来
- アウグス子’s
- これはローマ帝国初代皇帝アウグストゥスからきていると思われる。
- アウグストゥス(BC63〜AD14)本名ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌス、ローマ帝国初代皇帝、アウグストゥスは尊厳者と言う意味、古代ローマ人はよくあだ名をつける民族であり、そのあだ名がそのまま本名になることが多い。アウグストゥスもその例の一つ。ユリウス・カエサル暗殺後、遺言により若干18歳で後継者に指名される。アントニウス、レピドゥスらと共に第2回三頭政治を行うがレピドゥス失脚後、アントニウスをクレオパトラと共にBC31年、アクティウムの海戦で撃破、単独の覇権を握る。BC27年にアウグストゥスの尊称を元老院より受け、帝政をスタートさせる。その治世はパクス・ロマーナと呼ばれ、ローマは平和を享受する。ただ私生活はうまく行かなかったらしく、血縁後継者の早死、一族女性の不貞などスキャンダルにはことかかなかったらしい。死ぬ前に妻の連れ子ティベリウスを後継者に指名する。
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- ダリ丑
- これはアケメネス朝ぺルシア帝国の国王ダリウス1世と画家のダリからきていると思われる。
- ダリウス1世(BC558〜486)ダリウスはラテン語読みで又はダレイオス、BC552年にぺルシア皇帝に即位、即位後の内乱を平定し、国内を再編し、経済の活性化をはかるため、道路などの社会資本を整備し、税制などの国家体制を確立した。治世にあっては、寛容を是とし各地の旧来の習慣を尊重した。彼の治世によりその後200年間の帝国繁栄の基礎が築かれた。
- ダリ(1904〜)スペインの画家、現代のシュール=レアリズム(超現実派)を代表する画家、非合理な夢や偏執狂的な幻覚世界を、独自の批判的方法で表現。代表作は「記憶の持続」、「燃えるキリン」。
- 私個人的な感想ですが「記憶の持続」は結構好きな作品ですね。あの、異次元の感覚はいつ見ても吸い込まれそうな不思議な感覚になりますね。結構ビックリマンワールドにあってると思うのですが、とにかくご覧になられていない方は一度美術年鑑でご覧になられる価値大です。
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- アン寅ネット
- マリー=アントワネットからきていると思われる。
- マリー=アントワネット(1755〜1793)フランス国王ルイ16世の妃、オーストリア=ハプスブルグ家出身でマリア=テレジアの娘。フランス革命期、国王と家族と共に国外脱出を試みるが、逮捕される。国王処刑後、処刑される。ベルバラで結構知っている人も多いと思う。あの有名なせりふ「パンがなければケーキを食べればいい」と彼女は言ったといわれるが事実は不明。まあ俗に後世の人がよくエピソードを造った一つの。例でしょう。ちなみにナポレオン1世の第2皇妃、マリー・ルイズにとって大叔母にあたる。
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- 卯帝
- 中国皇帝武帝からきていると思われる。
- 中国皇帝に武帝と言う名は多い。中国の場合、皇帝は死後、贈名と言う形で名前がつけられる。これは東洋の独特の形といっていいでしょう。ちなみに三国志の有名な武将、曹操は死後に武王となり、息子の皇帝即位によって、武帝となる。武帝とは、軍事関係に秀でる人に贈名されることが多い。
- ちなみにこの場合の武帝は前漢の武帝、劉徹(BC187〜BC87)のことを指すと思われる。カーネルダークとの兼ね合いからそう考えられる。武帝は前漢の第7代皇帝であり、BC141年皇帝に即位する。その治世は50余年におよび、その治世は漢が実質的な中央集権国家として確立した時期であった。国内においては、封建領主の勢力削減、挙郷里選の法に見られる官吏の途用制度の改善、全国の州の再編、儒教の国教化などである。また外交においては前漢の伝統みたいなものであった、消極的外交から一転、各地を侵略した。北方、南方、朝鮮などである。しかしながらこの政策により前漢の財政は窮乏し、民力は疲弊した。これにより大土地所有者が幅をきかしばしめた。しかし武帝も均輸・平準法により、財源確保を試みたがそれ以上に外交政策の支出はすさまじかったといえる。
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- 辰統一世
- 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世からきていると思われる。
- オットー1世(912〜973)、936年にザクセン朝第2代ドイツ国王、962年、ローマ教皇ヨハネス12世から、西ローマ帝国の帝冠をうけ、神聖ローマ帝国初代皇帝に即位。これによって、カール大帝の西ローマ帝国はドイツが受け継ぐことになった。その後はドイツ統一を進め、積極的にイタリア方面に進出、これが歴代皇帝の施策である、イタリア政策となり、ドイツ本国は逆に皇帝の影響力が弱くなり各領主が封建的分裂を起こす形となり、ドイツ国内に事実上の独立国を造ることとなった。いわゆるローマ皇帝という名の足かせがフランスなどの他のヨーロッパ諸国に比べ統一を遅らした理由であろう。実際イタリアには神聖ローマの旗はたたず。ドイツ、イタリアは19世紀後半になるまで統一はされなかった。また歴代皇帝の対教会政策は歴代ローマ教皇側とことあるごとに対立、カノッサの屈辱など様々な事件を引き起こす。聖俗の権利をめぐっての中世ヨーロッパの普遍的問題の一つとなる。
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- パミロ
- キリストの聖人パウロからきていると思われる。
- パウロ(?〜64?)ローマ帝国初期の原始キリスト教会における異邦人への偉大な伝達者。彼の功績は、片田舎の宗教であったキリスト教を世界宗教になるための基礎を確立、後にパウロの様々な書簡は、新約聖書の半ばを占める。もともとは熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教徒の迫害の先頭にたっていた。ところがシリアのダマスクス付近で突如キリスト教に回心し、3回にわたる地中海世界への異邦人への布教により、世界宗教への脱皮をはかるための基礎となったといえる。ネロ帝の迫害により殉教したと伝えられる。
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- 午ノフ王
- ロシア帝国のロマノフ朝からきていると思われる
- ロシア帝国の最後の王朝、ロマノフ朝(1613〜1917)初代皇帝はミハイル=ロマノフ、ピョートル大帝の時に絶対主義体制、西欧化政策などで帝国の基礎を確立、エカテリーナ2世のとき、農奴制貴族国家としての最盛期をむかえる。しかしながら、この国家体制が結果的にロシアの近代化を阻害する要因となり、イギリス、フランスなどに遅れる形となった。二コライ2世のとき1917年の三月革命により退位、ロマノフ朝は滅亡する。二コライ2世はその後、ソヴィエト政府により銃殺される。
- 私のロマノフ朝の見方だが全般的に身分固定の前近代的な体制が続くことによってヨーロッパ諸国に取り残された形となったために、社会資本が確立されておらず、これがソヴィエトを建国して80年という短期間で崩壊させた最大の理由であると思われる。そして、今もロシアはロマノフ朝の負の遺産を背負っている。農奴制とが、この国の一面を見せているのは間違いないだろう。
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- コンスタン未
- ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世からきていると思われる
- コンスタンティヌス1世(274?〜337)、ローマ皇帝のひとり、306年父、コンスタンティウス1世が死亡すると、西の正帝になる。その後、次々と競敵を倒し、313年に東の正帝リキニウスと共に、ミラノ勅令を出し、キリスト教を公認する。その後、リキニウスを324年に打倒。ディオクレティアヌス帝から続いている分割統治を終了させた。330年首都をコンスタンティノポリスに遷都する。内政、外交に卓越した能力を発揮、五賢帝以来の帝国の威信を取り戻す。だが彼もアウグストゥス同様、家庭内はうまく行かず、皇妃ファウスター、長子クリプスの殺害など血なまぐさい一面を残す。彼の死後、帝国は3人の息子に分割され、またその3人も含む一族は再び単独の権力を握るために争うのである。ローマ帝国はもはやこの時期には単独で統一できるほどの力は有していなかった。
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- 申る伯
- フランスの一般的な名前シャルルからきていると思われる。
- ここでは代表的な王を一人、紹介することにする。シャルル7世(1403〜1461)、勝利王と呼ばれ、百年戦争を終結させる。オルレアンの英雄ジャンヌ・ダルクに救出され、当初の劣勢を挽回、1453年には北フランスの港町カレーを除く全土からフランス軍を駆逐し、勝利のうちに戦争を終結させる。また国内においては、財政を整え、封建領主の抑制、聖職者の国王監督権の強化、国王常備軍の設立など来るべき絶対王政の基礎を築いた。
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- ぺルセ酉主
- アケメネス朝ぺルシア帝国の首都ぺルセポリスからきていると思われる。
- ぺルセポリスは現在のイラン南部のシラズ市の北東約65kmにあたる場所にあった。アケメネス朝の皇帝ダレイオス(ダリウス)1世が新構想をもとに造りはじめた。最後の皇帝ダレイオス(ダリウス)3世の時代まで、歴代皇帝が改修、増築を行った。現在も発掘が続いているが、その全容が解明されるのはまだまだ先であろう。世界各地の様式を取り入れながら、ぺルシア様式にまとめた宮殿は、百柱の間、宝物庫、会議室、後宮などがあった。BC330年、アレクサンドロスの東方遠征により焼失、その後は廃虚となった。
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- 戌ドリヒ大王
- プロイセン王国、国王フリードリヒ大王からきていると思われる。
- フリードリヒ大王又は2世(1712〜1786)、プロイセン絶対主義を確立した。18世紀半ばの啓蒙専制君主ホーレンツォレルン家出身、「君主は国家第一の下僕」としょうして国内整備に努めた。彼の父の死後、1740年に即位、父王の残した強力な軍隊、財力を背景に、オーストリア継承戦争、ジョージ王戦争、7年戦争などを戦い抜き、またポーランド分割にも参加。プロイセンを強国にまで押し上げた。又、国内においては法典の整備、学芸の奨励、産業振興、税制の整備、軍隊の強化など、プロイセンが戦い抜くための力をつけ、中央集権化を進めた。。しかしながら身分制度は改革されることはなく、ユンカーと呼ばれる身分層が、軍隊、官僚などを独占していくのである。
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- ムガール亥
- ムガル帝国からきていると思われる。
- ムガル帝国、インド=イスラム政権として1526年〜1754年まで存続した国家、初代皇帝はバーヴェル、当初は不安定な状態で国家運営をせざる負えなかったが、3代皇帝アクバル帝時に帝国の基礎が確立した。しかしながらアクバルの死後、帝国は宮殿の豪華さに反比例して非常に不安定な状態であった。5代皇帝シャー・ジャハンの時に有名なタージ・マハルが造営された。複雑に入り組んだ民族、宗教、身分制度が帝国の統治を困難にした。6代皇帝アウランゼーブ帝のとき帝国は最大領土となるが、慢性的な内乱は同時に地方領主を独立させることとなった。そしてイギリスなどの西欧諸国が侵攻し新たな勢力となった。1754年にイギリス=インド帝国が成立すると滅亡する。
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