ローマ帝国概略史
ローマの誕生(BC753年〜BC509年)

伝承によるとティベレ川の7つの丘のほとりにBC753年4月21日にロムルスによって建設されたのが都市国家ローマの始まりとされている。この時をもってローマの歴史がスタートする。初期のローマは王政であった。ただし、現在ような終身ではあるが世襲制ではない。王政は7人の王によって治められた。建国者ロムルス。法を整備したヌマ。ローマの対外方針の基礎を作ったトゥリウス。地中海への出口を持ったアンコス・マルティウス。ローマを技術的に整備し都市としての機能を完成さしたタルクィニウス・プリスコ、ローマを城壁で囲い、軍事制度を改革したセルヴィウス・トゥリウス。そして、尊大なる王タルクィニウス。これら7人の王によってローマは244年間統治された。そしてこの時代にローマの基礎はできるのである。



王政から共和政へ(BC509年〜BC270年)

エトルリア人の王タルクィニウスを追放したローマは終身の王に変わり任期1年の2人の執政官が治める共和政へとBC509年に変わった。初代の執政官はタルクィニウスの追放に尽力したルキニウス・ユニウス・ブルータスとコラティヌス。こうしておよそ500年にわたる共和政がスタートする。しかしながら、共和政のローマは前途洋々ではなかった。度重なる外敵との戦い、国家指導者層であるパトリキ(貴族)と平民階級との内部抗争。これらの問題をローマは着実に解決していく。国内に於いては護民官の設置、十二表法、リキニウス法、ホルテンシウス法において国内の内紛を解決し、対外的においては近隣諸部族と戦い、その中にはケルト族のローマの一時な占領もあるが(BC310)、やがてイタリア半島内において盟主の座を確立していく。そしてBC270年にルビコン川以南のイタリア半島を統一する。



ポエニ戦争(BC270年〜BC146年)

イタリア半島を統一してから6年後。ローマは海外と目を向けていく状態になる。シチリア半島の国家メッシーナとシラクサとの抗争がきっかけで当時の地中海の大国カルタゴと対決することとなる。これが100年以上に渡るローマとカルタゴの戦い、ポエニ戦争が勃発する。第1次ポエニ戦争においてローマは勝利し初めて海外に属州シチリアを獲得する。それからおよそ20年後、ローマは建国史上第2の危機を向える。カルタゴの名将ハンニバルがヒスパニア(現在のスペイン・ポルトガル)→フランスルートから進軍、一気にアルプスを越えイタリア本土に進軍する。ローマ軍を各地で破り、カンネ会戦ではローマ軍に対し壊滅的大打撃を与える。しかしながらローマを解体するには至らず、しかもローマの若き名将スキピオによってスペインが攻略され、さらにカルタゴ本国からはの援助もなく、ハンニバルはカルタゴ本国へ帰国する。そしてザマ会戦で2人の名将が激突し、スキピオがハンニバルを破り戦役は終結する。これによりローマとカルタゴの西地中海のパワーバランスが逆転する。さらにローマは属州ヒスパニアを獲得する。しかしながら英雄スキピオは晩年は不遇の時代をおくり、ハンニバルも各地に亡命やがて自殺する。そのころからローマは各地に侵出マケドニア、シリアとも戦争が始まっていく。さらに60年後、第3次ポエニ戦争でカルタゴを滅ぼし、属州アフリカが成立する。



混乱の世紀(BC146年〜BC67年)

西地中海において完全なる覇者となったローマ。わずか100年あまりで、それまでの500年間以上の成果をあげ急激に成長したローマに人間の内臓疾患に似た症状が現れる。それはローマ内部の社会問題が発生したのである。戦争による自作農家の減少、大土地所有の拡大、無産市民の増加である。そういったものを解決しようとしてグラックス兄弟の改革、マリウスとスラの対立。スパルタクスの乱、同盟市戦争、ポンペイウスの台頭などローマは混乱の世紀を向える。しかかしながらローマはこれらの事件を一つずつ解決しやがて地中海はローマの海と化していく。



帝政への道(BC67年〜BC27年)

歴史というのは2面性を持っている、歴史が人を作るのと人が歴史を作る。ただ、後者の場合には歴史上数々のあまたの英雄が誕生したが圧倒的に少ない。人が歴史を作ったというのは何百年に渡りその後の指針となる方策を打ち出した者に与えられる称号であろう。歴史家モムゼンが「ローマが生んだ創造的天才」と評されたユリウス・カエサルこそこの称号にふさわしい人物であった。
 若き日のカエサルはなにかと失敗も多かったが、その魅力的な人物は徐々に人々の支持を集め実績や頭角をあらわした。なかでも永きに渡るガリアでの遠征はローマ屈指の実力者としての地位を獲得するに至る。ポンペイウスを撃破したカエサルははその創造的天才の感性によってローマに新しい政体を吹きこもうとしたが危機を覚えた共和派の凶刃にかかった。
 しかし、その理念はカエサルが指名したオクタヴィアヌスによって実現することとなりオクタヴィアヌスはかつてのカエサルの部下であるアントニウスを下し、ここにローマは新たなる政体に移行する時代が来ることとなる。



前期帝政(BC27年〜96年)

紀元前27年にオクタヴィアヌスが元老院よりアウグストゥスの称号を受けることとなりここにローマの帝政はスタートする元老院から様々な権力行使権限を与えられるようになったが、すべてはローマ共和政にある権力を合法的に行使したに過ぎない。合法的な権力がたった一人の人間に集中した時に生まれる強大な独裁権力こそ、共和政の仮面を被ったローマ帝政という新たな政治体制のスタートであった。アウグストゥスは長期に渡りローマ皇帝として君臨し帝国はラテン文学の黄金期を迎えるに至る、辺境は軍事的混乱から安定に向い。ここに広義のパクス・ロマーナが成立する。つづくティベリウス帝の時代に皇帝権の磐石が図られ、カリグラの暴政にたいしてクラウディウスの温和な政治、そしてローマ史上最も有名な暴君として歴史に残ったネロのユリウス・クラウディウス朝の時代が80年近く続いたが、ネロの暗殺後、4人のネロとは血縁関係の無い皇帝が乱立したが最終的に69年に騎士階級出身のユダヤ方面軍司令官ヴェスパシアヌスが皇帝に就任することにより帝国は再び発展をする。ユリウス・クラウディウス家以外の者が帝位に就くことによってもはやローマは共和政に戻らないことを意味した。68年〜69年の混乱は新たな平和とローマにおける皇帝の普遍化を共にもたらした。つづくティトゥス帝はウェスパシアヌスの長男でヴェスヴィオス火山の災害復旧対策やわずか2年の短期間であったが人類の寵児と称えられる。続いて即位したティトゥスの弟ドミティアヌスは決して無能な為政者ではなかったが自らの偏執的な性格が災いし、最終的には声望を落とし、暗殺された後、記憶抹殺刑に処せられ公文書から消されていった。



五賢帝時代と衰退の兆し(96年〜192年)

ドミティアヌス帝が暗殺されると、一人の老元老院議員が帝位に就くネルウァ帝の誕生である。ここに歴史家ギボンが述べる「人類が最も幸福だった時代」五賢帝時代が到来する。ネルウァの後継者、トラヤヌス帝時代には再び拡大政策がとられダキア、メソポタミア地方が新たに領土して獲得された。またトラヤヌス帝は有能な為政者であり、元老院から「最良の元首」と呼ばれるようになる。続くハドリアヌス帝の時代には皇帝と元老院の対立はあったものの、彼の時代にはローマ帝国は最盛期を迎え、芸術など文化が盛んな時代でもあった。続く皇帝アントニヌス・ピウス時代は平穏な時代で歴史家が退屈程の安定した時期であった。しかし、五賢帝最後の皇帝マルクス・アウレリウスの時代には辺境の蛮族が再び活性化し帝国辺境を襲うものの皇帝はその困難を切り抜け帝国の安泰を続けていく。また彼は有能なストア派の哲学者で後に哲人皇帝呼ばれることとなる。彼の死後、息子のコンモドゥスが帝位に就くが、狂った狂人は己の快楽と欲望に身をつつみ、12年間の暴政のあと192年に親衛隊に暗殺される。



軍人皇帝の時代(192年〜284年)

コンモドゥス帝暗殺の後、数人の皇帝が立ったがいずれも暗殺、敗北死という惨めな後であった、そんな中、セプティミウス・セウェルス帝が即位(193年)し一時の安息をローマは得ることとなる、しかしセプティミウス・セウェルス帝がブリタニアで病死すると再びローマに暗雲が立ち込める。セプティミウス・セウェルス帝の不肖の息子カラカラ帝はアントニヌス勅法によるローマの全自由民に対しローマ市民権を付与したが、己が欲望を満足させる為の政策でしかなかった。その一方、元老院の権威は著しく失墜し、さらに東方ではパルティア王国を滅亡させた、新たなる強敵、ササン朝ペルシアが台頭、ついにローマ皇帝ヴァレリアヌスがペルシア王シャンプール1世に捕虜となる事態まで混乱する。この間、ローマはアレクサンデル・セウェルス帝の死後(235年)からディオクレティアヌス帝の即位(284年)の約50年間で26人の皇帝が立ち代る混乱のきわみとなり、帝国属州各地で皇帝を僭称するものまで現れた。しかし、そのような中、クラウディウス2世・ゴティックス、アウレリアヌス帝といった軍人皇帝が帝国の威信を回復していく、ローマは再びかつての威光を取り戻していのだった。



後期帝政とキリスト教(284年〜395年)

ローマ帝国に再び安定をもたらしたのは、かつての指導者層である元老院や騎士階級出身者ではなかった。父が解放奴隷出身と噂されるくらいの卑賎の出であるディオクレティアヌスであった。一兵卒からたたき上げで皇帝となり天成の統治者の才能を示す。ディオクレティアヌス帝により帝国は再編、4人の皇帝による分割共同統治とすることによって帝国は20年近く平穏が訪れる。しかし皇帝の権力はオリエント世界の君主制的性格を帯び、これ以降の帝政をドミナートゥス制と一般的に呼ばれるようになる。そしてディオクレティアヌス帝の4分統治は相対的に首都ローマの地位を下げることとなる。彼の退位後、帝国は再び混乱に陥り、コンスタンティヌス帝の単独皇帝就任までの20年間一時6人の皇帝が覇権を争う形となった。
 コンスタンティヌスが再び帝国の一時的な平穏を確立し、その死後息子3人が分割統治をするものの兄弟間の争いが活発、コンスタンティヌス単独皇帝就任後の一族の血生臭い争いや粛清に彩りを添えることとなった。さらにゲルマン身族の帝国侵入は帝国の軍事力のゲルマン民族傭兵化とゲルマン民族との戦いというゲルマン民族同士の戦いが起こり、皇帝は蛮族対策に追われていく。そんな中、ユリアヌス、ウァレンティニアヌス、テオドシウスら有能な皇帝が無能なる皇帝の間に即位するものの、分裂傾向をたどる帝国をとめることができずテオドシウスの死後、帝国は東西に分裂する。
 その間にも迫害されながらもキリスト教は拡大し、313年のミラノ勅令、330年のコンスタンティノポリスの完成でキリスト教は完全にローマ帝国内の宗教のイニシアティブをとることとなる。その間ユリアヌス帝の古代伝統宗教の復興政策があったものの392年にテオドシウス帝のキリスト教が唯一の国教であるとした勅令を発表したことに伴い、帝国からローマ古来の宗教的寛容性が失われた。



西ローマ帝国の滅亡(395年〜476年)

東西ローマ帝国という2つの国家は明暗を分けた。東は長期在位の皇帝にみられるように安定した帝国運営をしていたが、西ローマ帝国は、ゲルマン民族の侵攻に悩まされ続けた。かつての帝国属州はゲルマン民族の諸王によって統治され独立国家として運営されていく。カエサルをはじめとする、ローマの英雄の成果はここに来てその影を無くしていった。すでに西ローマ皇帝は傀儡皇帝としてしか機能しなくなる。ホノリウス帝の無気力さは、古代ローマ最後の有能な忠臣スティリコの命を宮廷策謀で失わせた。410年、ローマ市は西ゴート族の略奪に合い、455年にもヴァンダル族の略奪にもあう。ホノリウス帝の死後、9人の西ローマ皇帝がいたが、キングメーカーによって作られた皇帝でしかなかった。そのキングメーカーも激しい権力争いで交代し、476年最後の西ローマ皇帝、ロムルス・アウグストゥルスがゲルマン民族出身の傭兵隊長オドアケルによって退位させられ、オドアケルは東ローマ皇帝に西ローマ帝国の帝権停止を伝え、ここに西ローマ帝国は滅亡した。



東ローマ帝国の地中海制覇(476年〜565年)

西ローマ帝国の皇帝権の停止により、イタリアはゲルマン民族出身の傭兵隊長オドアケルが支配する王国になったもののローマ元老院はいまだに存続していた。しかし、オドアケルの王国はすぐに東ゴート族の王国にとって変わられた。かつての西ローマ帝国の領土はゲルマン民族の王国が各地に出現するようになり、西ヨーロッパは暗黒の中世に時代をシフトしていく。それ対して東ローマ帝国は唯一のローマ帝国として安定した政情を保ちつづける。イリリクムの農村の出身であるユスティヌス1世が即位し、その後、その甥であるユスティニアヌス1世が即位すると東ローマ帝国は積極的な外征に打って出る。優秀な将軍ベリサリウス、ナルセスらがアフリカ、イタリア、スペイン南部を獲得すると地中海の制海権を制覇し再びローマの海とかした。さらに彼の元でトリボニアヌスが「ローマ法大全」を再編纂された。彼の外征はローマ帝国の復興という歴代の東ローマ皇帝のもつ宿命的な一面で一時的な栄光でしかなかった。ユスティニアヌスが残した栄光は数々の傷跡となり東ローマ帝国がこれを回復するのに300年にかかることとなる。



東ローマ帝国の危機とイコノクラスム(565年〜867年)

ユスティニアヌス1世の地中海帝国の再興は東ローマ帝国にとって痛恨の傷跡を残した、彼の死後わずか3年後にランゴバルト族のイタリア侵入でイタリア領の大半は失われ、さらに40年後、東ローマ帝国の小アジア、シリア、エジプトの領土がササン朝ペルシアのホスロー2世よって奪われる。しかしながら、東ローマは新たな英雄ヘラクリウスの即位によってホスロー2世から奪われた領土を奪還し、国内を整備した、しかしヘラクリウス帝の死の直前、これらの栄光の殆どが無に帰すアラビア半島から勃興した宗教国家イスラム帝国によって奪われ、帝国領土はバルカン半島、小アジア、イタリア半島の一部だけとなる。さらにスラブ民族のバルカン半島南下により、帝国は東と南はイスラム勢力、北はブルガリア族などのスラブ民族と対立していく。このころに西はローマ・カトリックとの宗教対立が始まる。717年にレオ3世が即位し、イサウリア朝が成立するとローマとコンスタティノポリスの宗教対立は聖像破壊運動により、より深刻となり、東西ヨーロッパは宗教においても分裂傾向をたどって行く。やがてフランク王国のカール大帝が西ローマ帝国皇帝として即位すると、東ローマ帝国の西方世界の影響力は完全に失われ、結果として新た聖像としてイコンが普及することとなる。さらに国家的にはバルカン半島の大半の領土を失い、イスラムの攻勢に押され東地中海の制海権も喪失していく。このころの東ローマ帝国は宗教、政治においても多難な時代であった。



東ローマ帝国の再興とマケドニア朝(867年〜1057年)

867年に皇帝バシリウス1世が即位することにより2世紀間続くマケドニア朝が成立した。この時より東ローマ帝国は反撃を開始する。国内は再び整備され、ニケフォルス2世フォカスの時代にはイスラム勢力に反撃を与え東方においてはシリアまで再び国境を回復、西においては神聖ローマ帝国皇帝オットー1世に対してイタリアにおける東ローマ帝国の権益を確保して威信を高めていき、東地中海の制海権を回復した。さらにバシリウス2世の時代になると再びバルカン半島を回復、さらにイタリア南部を併合し、帝国は再び威信を回復していく。しかし、バシリウス2世の死後、帝国は再び衰退の道をたどり、1054年に東西教会は大分裂(シスマ)をおこす。さらにコンスタンティヌス9世モノマクス、ミカエル6世の文治統治は軍人貴族の台頭や大土地所有貴族の台頭を許し帝国は空中分解の一途をたどっていく。ちなみにマケドニア朝の時代文化的活動も活発化し後世からマケドニア・ルネッサンスと呼ばれている。



衰退する東ローマ帝国と十字軍(1057年〜1261年)

イサキウス1世コムネノスが1057年に即位することによりコムネノス朝が成立するものの、帝国は弱体化の一途をたどるのだった。1071年には新興国セルジューク・トルコにより、皇帝ロマヌス4世がマンジケルトの戦いで捕虜になるなどして、このころよりイスラム勢力の小アジア侵攻はついに4世紀間守られてきた地域を永久に明渡すこととなっていく。1092年に皇帝アレクシウス1世コムネノスの依頼によりローマ教皇ウルバヌス2世が提唱した十字軍はキリスト教史において永久に脱ぐ去ることできぬ蛮行として2世紀間続くこととなる。そして1204年、第4回十字軍によって首都コンスタンティノポリスは陥落し、十字軍国家ラテン帝国が成立する。一方、ニカエアを首都として東ローマの名門貴族であるラスカリス家のテオドルスが亡命政権を樹立、孤立するラテン帝国を徐々に追い詰めていき、やがてパラエオログス家のミカエルがミカエル8世として即位して2年後の1261年、東ローマ帝国は再びコンスタンティノポリスを奪還する。



東ローマ帝国の滅亡(1261年〜1453年)

ミカエル8世が成立させた、パラエオログス朝は帝国最後の王朝としてコンスタンティノポリスと運命を共にしていく。そして1299年、ブルザを首都として成立したオスマン・トルコは後に東ローマ帝国に最後の引導をわたす役目をおう。14世紀に入ると帝国は独自の軍事力すら維持できなくなるほど弱体化し、海軍力はジェノヴァに頼ることになり、陸軍力も近衛隊に限られることとなる。さらに1371年には、オスマン・トルコの宗主権を認めることとなりその実質領土はコンスタンティノポリスの城壁内に限られることとなる。さらに帝国は西方の援軍を頼る為に、屈辱的な偽りの東西合同を受けざる追えなくなり、現実と信仰の間に揺れていくこととなる。1402年にオスマン・トルコのバヤジット1世がティムールの捕虜となることによってつかの間の小康状態を得るが、オスマン・トルコは1451年にメフメト2世が即位すると再びコンスタンティノポリスに攻撃を開始、2ヶ月ほどの攻防の後に1453年5月29日、コンスタンティノポリスが陥落し良き紳士である最後の皇帝コンスタンティヌス11世パラエオログスも首都と共にする。