不定期連載〜思い出の名馬〜

「不屈の闘志」 ―オフサイドトラップ―  
                  語り:本山薩摩守忠度さん


 「あ〜っ、故障! 故障です、サイレンススズカはコーナーの外へ…」
 悲鳴とどよめきの駆け巡る1998年11月1日の東京競馬場。世紀の逃げ馬が舞台を降りたその内で、まだレースは続いていた。「抜け出したのはオフサイドトラップ! ステイゴールドが差を詰める! 大外を回ってメジロブライトも来ている! オフサイドトラップ! オフサイドトラップ!…8歳の天皇賞馬の誕生です!」
 1991年4月21日、新冠村本牧場に一頭の栗毛のサラブレッドが誕生した。父トニービン、母トウコウキャロル(父ホスピタリティ)。
 創業昭和29年の家庭的なこの牧場では、過去にトーワヘレン、トーワタケシバ、トーワルビー、トーワダーリンといった活躍馬が出ていたが、一度もGIはおろか、重賞もとっていなかった。それだけに牧場内では、ある程度は頑張ってくれるかも、という位でこの仔馬の評価は高くなかった。トウコウキャロルの初仔で、どこか薄っぺらく小さな馬だったようである。
 競走馬名はオフサイドトラップ。サッカー好きな馬主、渡邊隆氏に買われ、加藤修甫厩舎入りを果たした。
 「今年の期待馬」として雑誌社には評価された3歳時の新馬戦は2着2回に終わったが、4歳未勝利戦に勝ってから素晴らしい走りを披露し、若葉Sを勝ってクラシックロードに臨んだ。結果は先行して皐月賞7着、ダービー8着といまいち伸び切れなかった。その訳は、このクラシックロードにはあのナリタブライアンがいたというばかりではない、この馬自身、既に病魔に蝕まれていたのである。慢性的屈腱炎…いつ壊れてもおかしくないガラスの足で、オフサイドトラップは必死に好成績をあげていく。厩舎も我慢に我慢を重ね、騙し騙し使うより他はなかった。万全の体制で出すことも叶わず、従って重賞にはあと一歩届かないままであった。中山記念2着、ダービー卿CT2着、東京新聞杯3着、新潟大賞典2着…その間、5歳に10ヶ月、6歳には11ヶ月、7歳でも10ヶ月の療養放牧を繰り返している。それでも小さな体をいっぱいに伸ばし、必死に勝ち馬に喰らいついていく…。
 4歳迄の主戦であった安田富男に「俺が引退しないのはこの馬がいるからよ」と言わしめた逸材は遂に重賞善戦馬の列に加えられたかに思えた。しかし迎えた25戦目からこの馬に大きな変化が訪れる。主戦が蛯名正義に変わってから途端に七夕賞、新潟記念を連覇するのである。
 その勢いを駆って初めて万全の状態で迎えれた第118回天皇賞・秋。彼の前に立ちはだかったのは5歳になってから無敗という世紀の逃げ馬サイレンススズカ、ステイヤーとして一級品の実力馬メジロブライトなどそうそうたるメンバー。主戦蛯名がオープンで一度も勝っていないのにGIになると2着に頑張るステイゴールドに乗った関係で、彼の手綱は柴田善臣が握った。そして…
 今、村本牧場には3つの重賞が飾られている。一つは七夕賞、一つは新潟記念。そして最後の一つには…「第118回天皇賞・秋」と刻まれている。
 「悲劇の天皇賞」として長くその名を残すことになるであろう第118回天皇賞・秋…その勝ち馬は門別ブリーダーズステーションで、種牡馬生活を送っている。サイレンススズカの残せなかった次の世代を残す為…

オフサイドトラップ 
1968年生 父:トニービン 母:トウコウキャロル 栗毛
静内:村本牧場生産  供用地:門別ブリーダーズステーション  馬主:渡邊隆  調教師:加藤修甫 
成績:28戦7勝(3〜8歳)
主な勝鞍:天皇賞秋GT・七夕賞GV・新潟記念GV

「後方一気の風雲児」−ヒカルイマイ−  語り:しんけんさん

 ヒカルイマイは北海道新冠町で馬好きの爺さんが営む農家に生まれました。が、育った環境は恵まれたものとはとても言えず、足りない飼料のの代わりに牛乳を与えられたり、冬は粗末な厩で雪を被るような状態で眠るような状況で、いつもほとんどほったらかしだったそうです。だから、ヒカルイマイの肋骨が何本か陥没しているのが分かったとき、それがいつそうなったのか誰も分からなかったらしいです。
 さらに、ヒカルイマイは母系をたどっていくと血統書のない馬にいきつくため、「サラブレッド」ではなく「サラ系」(※現在の基準では「サラブレッド」になるそうです)とされたため、セリに出しても競走馬としては全く買い手がつかず、廃馬になる寸前のところでやっと買い手が付いたという逸話もあります。
 そして、ヒカルイマイは栗東の谷八郎厩舎に入厩し、3歳時は初戦の新馬戦を勝ち、その後もなでしこ賞やオープンレースを勝つなど5戦3勝2着2回の好成績を挙げ、明けて4歳になってからはシンザン記念(4着)→さざんか賞(2着)と出走し、きさらぎ賞では阪神3歳Sの勝ち馬ロングワンを破って勝利しました。しかし、次のスプリングSでは4着に破れてしまい、4番人気で第31回皐月賞を迎えることとなりました。しかし、この皐月賞でヒカルイマイは主戦騎手の田島良保によって大変身を果たすことになります。
 レースは、向こう正面では最後方待機していたヒカルイマイが直線で大外を追い込み、1番人気のメジロゲッコウ(弥生賞,スプリングS)やニホンピロムーテー(毎日杯)などを見事に差し切って優勝、谷厩舎及び田島騎手に初のクラシックタイトルをもたらしました。
 次に、大一番である日本ダービーを前にして、陣営は前哨戦のNHK杯に出走し、そこでは内から差して勝利を収め、万全の体勢で第38回日本ダービーに臨みました。ここでもヒカルイマイは後方からレースを進めて、最後の直線で粘り込みをはかるハーバーローヤルを始め、大外から何と16頭もぶっこ抜いて優勝するという離れ業を成し遂げたのです。
 このシーンはビデオで見たんですが、当時の多頭数でのレースを考えると、絶望的とも思えるような位置から弾むようにして突っ込んでくる姿は異次元のものを感じました。
 また、史上最年少(現在も。ちなみに2番目は藤田伸二)でダービージョッキーとなった田島騎手が、嬉しさの余りに歴代のダービージョッキーの鞭を競馬博物館で展示することになっている決まりを忘れていたのか、ウィニングランを終えて検量室に引き上げる際に、レースで使用した鞭を観客席に放り投げてしまったことや、レース後の会見で「私はダービーに乗ったんではない、ヒカルイマイに乗ったんだ」とコメントしたことはあまりにも有名なエピソードです。
 ダービーの後、小休止をはさんで札幌のオープン(3着)をたたいたヒカルイマイは京都新聞杯に出走したんですが、レースではニホンピロムーテーの9着に破れてしまいました。そこで屈腱炎を発症していたことが分かり、ヒカルイマイはやむなく引退となりました。ちなみに、その京都新聞杯の勝ち馬ニホンピロムーテーは菊花賞を勝
ち、鞍上の福永洋一に初のクラシックタイトルをもたらしています。
 引退後、ヒカルイマイは種牡馬になりましたが、ここでも「サラ系」というのが引っかかって不遇な時を過ごすことになってしまい、またしても危機に瀕していました。が、そのことを聞きつけた有志が「ヒカルイマイの会」を結成してヒカルイマイを引き取り、同馬は九州で余生をのんびり過ごして一昨年に永眠しました・・・。
 現在の馬産地は、当然の傾向とはいえ血統が最優先で、マイナーな血統の馬やあか抜けない感じの馬は全然人気が無く、早熟のスピード馬ばかりがもてはやされつつあります。
そんな中で、ヒカルイマイみたいな血統や見栄えは良くないが能力を秘めている、という馬は僕に勇気を与えてくれます。
 これからも、そんな馬を見つけたら応援していきたいと思います。 (終)

(データなどの詳細は関西テレビ「名馬物語」による)

ヒカルイマイ 
1968年生 父:シンプリアニ 母:セイシュン(サラ系) 黒鹿毛
静内:中田次作生産。 供用地:服部文悟。 馬主:鞆岡達雄。 調教師:谷八郎。
成績:15戦7勝(3〜4歳)
主な勝鞍:皐月賞、日本ダービー、きさらぎ賞
JRA賞:1971年最優秀四歳牡馬
主な産駒:ヒカルスレンオー、ナンシンミラー

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