闘牛を見るにあたって

斎藤祐司

 

 始めに言葉があった分けではない。

 かといって、何気なしに始めた分けではない。初めはいつも偶然の様でいてもそうではない。そうなるべきしてそうなった様な気がする。

 人は、観る事から始まる。観て興奮する。

 人が人を好きになる時もまた、言葉(声)や観る事から始まる。そして、闘牛はそこから始まる。

 

 「競馬をはじめた頃、なにより面白かったのは、一度見たり馬券を買ったりした馬が再びレースに出てくることだった。見知らぬ馬が知っている馬に変わる頃には、出走表の成績欄を隅から隅まで読む必要もなくなり、少しずつ競馬がわかるようになるにつれ、戦績や脚質も呑み込めてくる。そうやって時が流れてゆき、1年たつと同じレースが別の馬で(時には同じ馬で)戦われ、さらに時が流れると、知った馬の子が走るようになる。そして血統の知識も増えていく。だからといって競馬がよくわかるようになったかどうかはわからない。もちろん年とともに予想がよく当たるようになったわけではない。」

             −−−高橋源一郎−−−

 

 そして、闘牛も同じなのだ。牧場(ガナデリア)の牛を知って、血統もすこしは分かったからと言って良い牛かどうかは闘牛士にもよるのでよく分からない。闘牛士が良いからと言って、相手になる牛にもよるのでいつも良い演技ができるとはかぎらない。

 騎手が良くても、馬が駄目なら競馬は勝てない。馬が良くても騎手が下手なら馬は走らない。闘牛も、同じ様なもの。良い牛でも、闘牛士が駄目なら感動的な闘牛は観られない。闘牛士が良くても牛が悪ければ良い闘牛は観れない。

 多くの闘牛ファンは、闘牛士を目当てに闘牛場に行く。勿論、中には牛を目当てに闘牛場に足を運ぶ人もいる。どちらが本当の闘牛ファンか、と言うことは言えないような気がする。だって、競馬でも同じでしょ。

 何故、競馬場に行くかと言えば、レースがあるから行くのだし、何故、闘牛場に行くのかと言えば、闘牛があるからなのだ。そう、その時その場面に遭遇したいから。ただ、それだけなのだ。

 だが、闘牛にはスポーツを越えた感動を観る人に与える。体をはって、人生を賭、命を賭ているのが、観ている観客にも分かるからだろう。闘牛は、人間の奥深くにあるものを刺激する。そうすると観客は、激情に身をまかせざるをえなくなる。何故ならそんな闘牛を観て来たからだ。

 

「小田急線に乗って新宿から何処えゆく?そう網走だ!例の高倉健の網走番外地が流れ、若者は三人網走えゆく。実は小田急の終点・江ノ島につくのだが、海は海だった。幻のオホーツク海だったのだ。

 三人の若者は浜辺でアベックを襲う。そして最後の一人が早朝の新宿で警官に射殺されるまで、前篇に網走番外地のメロディーが流れた。

 アングラ映画の鬼才・若松孝二の最新作「理由なき暴行・現代性犯罪絶叫篇」は右のシーンから始まった。

             −−−(中略)−−−

小田急線に乗って新宿から何処へゆく?」

             −−吉増剛造  小田急線に乗って何処へゆく?−−

 

 スペインの歴史の初めを飾るのは牛である。

 それはマドリードの北400km。ビスケー湾に面したカンタブリア県の県庁所在地サンタンデールの西32kmにサンテリァーナ・デル・マール村で1879年に発見された。 

 アマチア考古学者のマルセルーノ・デ・サトゥオラは幼い娘とピクニックに来ていた。遊んでいる娘の姿が見えなくなって心配していると「お父さん!牛よ!牛よ!」と娘の叫び声が洞窟の中から聞こえた。

 娘が牛に襲われていると思った父親は、あわてて洞窟の中に入っていった。娘は、天井に描かれた壁画を指さして「アルタ・ミラ」(上を見て)と言った。天井には動物の絵が生きているように躍っていたが、中でも野牛が多かった。その中に頭を正面に向け戦闘態勢をとっている牛の姿があった。

 これは、のちに言うアルタミラの洞窟壁画である。彼はこの壁画が有史以前のものと直感し発表する。しかし、世の中にすぐに認められた分けではない。無名のアマチュア考古学者に対してマドリードの考古学会やジャーナリズムは冷たかった。悪意に満ちた誹謗中傷によって失意の中で死んでいく。

 サトゥオラの死後数年、彼の発表した壁画が考古学的・科学的に証明される。紀元前15000から20000年前の後期旧石器時代のマドレーヌ文化に属するものであった。この制作には何世紀もかけられたであろうと言われている。これがきっかけとなってカンタブリア海沿岸や地中海沿岸の洞窟、南フランスのラスコーなど111カ所で壁画が相次いで発見された。

 これらの壁画は今日の一流芸術家も賛辞を惜しまぬ出来映えの作品も含まれており鑑賞用のものではなく、主に宗教的な象徴とされたと考えられている。

 アルタミラの洞窟壁画を発表したマルセリーノ・デ・サトゥオラ。それを発見した彼の娘の名はマリアといった。

 娘のマリアが牛に襲われていると思ったサトゥオラの頭には、闘牛場で闘牛士が牛に襲われているシーンがあったのは想像に容易い。

 

 初めてスペインに行ったのは1989年の6月。パック・ツーアだった。その時、是非観たいと思ったのがフラメンコと闘牛だった。どちらも日本人には、分かりやすく、素晴らしいものだったが、とりわけ闘牛は凄かった。

 観光客の方が地元の闘牛ファンより多い、6月のマドリードのラス・ベンタス闘牛場。その日、出場していた1人の闘牛士が牛にコヒーダ(突かれる)された。闘牛士は倒れ、配下のバンデリジェロ達が助けに駆けつけた。闘牛士はバンデリジェロに助け起こされ、ほかのもの達は両手にカポーテを握って牛の注意を引いていた。

 彼らは瞬時に危険を回避する為に誰に指示された訳でもないのに、それぞれの役割をこなす。一緒に出場していたほかの闘牛士も助けに入る。

 万が一、闘牛士が死んで、その時、助けに入るのが遅れた場合、評論家やファンに「あいつが助けに入らなかったから死んだんだ」などと言われ、非難される。そしてなにより、同じく牛を相手に命を賭けて戦う男達の仲間意識が、彼等の中には強く、ダッシュで助けに走るのだった。

 闘牛士は助け起こされると、剣とムレタを掴んで、彼を助けに来たバンデリジェロ達に向かって「下がれ!下がれ!」と腕を振って自分は、弱虫ではないことを観客にアピールする。

 バンデリジェロ達がアレナから避難所(ブルラデラ)に待機すると闘牛士はまた牛に向かった。闘牛士の服は破け血が滲んでいた。彼は何度かムレタで牛をパセした。牛を誘うために、牛とムレタの間に体を入れて、ムレタを振っていると牛の頭が闘牛士の腹に向いたまま止まった。

 前の席に座っていたアメリカ人観光客は「アッ」と、声を上げた。体が固くなる。闘牛士は逃げなかった。そしてゆっくりムレタを前に出して、パセした。通り過ぎた牛を再びパセしようとした時、また牛に突き飛ばされた。彼の体は牛の上で何度か跳ね上げられて牛の前方1mの所に落下した。

前の席に座っていたアメリカ人観光客家族の妻は、「ギャアー」と大きな叫び声を張り上げて顔を両手で覆った。白人の白い肌の色は真っ赤に染まった。牛の前1mの所に、闘牛士が頭を両手で抱えて倒れている。

 もし牛の角が背中に刺されば闘牛士は死ぬだろう。

 「走れ!走れ!早く走れ!」息を呑み奥歯を強く噛む。一瞬のうちに全身の筋肉が硬直し緊張する。バンデリジェロ達は一斉に駆け出したが、それがとてものろく見える。まるでスローモーション・フィルムを見ているようだ。「何やってんだ、早く走れ!」と心の中で叫ぶ。

 しかし、牛は目の前に倒れた闘牛士にびっくりしたように目をむいて、地面に鼻面を付けて臭いを嗅ぐような仕草をしただけで、闘牛士の背中には角を突き立てなかった。助けに走ったバンデリジェロ達はそれぞれの役割を果たした。牛の注意を引くもの、闘牛士を助け起こすものと分かれた。

 立ち上がった闘牛士は、バンデリジェロに剣とムルタ拾わせ足を引きづり、さっきより多く血を流していた。バンデリジェロ達は、彼の体を心配していたが、彼はまた腕を振って「下がれ」と言って再び牛に向かって行った。

 そうまでして闘牛士を牛に向かわせるものは、一体何なのだろうか・・・。そしてその事で体が震えるほどの感動を体に感じた。それは物凄く逞しく、カッツコよかった。そしていつの日か、闘牛だけを観にスペインに来たいものだと思った。

 外国人には、闘牛が動物虐待だと思う人も多い様だ。スペイン人の中にもそのように思っている人もいる。

 だがこれは、スペインの文化であるという事実から目を背けてはいけない。時に異国人には異様に思う事でもその国の人々にとっては当たり前の事であり、とても大事な事であったりするのだから。文化を理解することはそれを観、接触する事から始まる。

 幼い頃、見た光景で忘れられないものの中に、鶏を絞めるシーンがある。

 毎日餌をやって飼っていた鶏がある日突然、木の切り株の上に頭を乗せられて、首を鉈で切られる。首を切られた鶏は、首から血を吹き出しながら、5mばかり羽をばたつかせながら、全力疾走して、バッタリ倒れて全身を痙攣させて死んだ。

 走っている鶏はもう頭がないのに、まるで耳の中で「コッコッコッゴッゴッー」という鳴き声が聞こえるようだった。それが20羽位繰り返された。ションベンをチビリそうになったものだ。緊張とは、男の場合、睾丸が固くなるという肉体的特徴で現れる。

 鶏は足を洗濯竿に結ばれ血抜きされる。首の切り口からポタポタと血が滴り落ちていた。地面に落ちた血が、ゆっくり土に染み込んでいく。その横には、目を閉じた鶏の頭が何個も転がっていた。

 その鶏の頭を一つ取って、瞼を指で開くと、まるで生きていたときのような目をしていた。子供だからこんなことができたのだろう。頭を振ると、鶏冠は歩いていた時のようにプルプル動いた。見た目では何も変わったものはなかった。

 だが鶏は、死体になっていた。血抜きを終えた鶏の毛を、女達がむしり始めた。なんだか、楽しそうだったので手伝うことにした。女達は、「早く毛を抜かないと、抜けにくくなるのだ」と、言っていた。おそらく死後硬直のことだろう。

 毛は簡単に抜けた。体中毛だらけにしながら一匹むしり終えると、いわゆるボツボツした鳥肌が出てきた。それを見たら急に、さっきの首切りの時に、自分の腕に出た、鳥肌を思い出して気持ち悪くなった。腹の方から口に、何かが押し上げて来そうになった。

 夕食は鶏鍋だった。その場にいた子供達はみんな下を向いていた。誰もがそれを食べたくなかった。無理矢理一片の肉を口の中に入れられて「オエッ」と吐きそうになったのだが、大人達の笑い声にかき消されて、真っ赤になりながら喉を通っていく鶏肉を恨めしく思った。

 しかし一口、食べると、それまでの抵抗感は少し薄らいだ。「ほら、美味しいでしょう」と、女達が言った。二口、三口、と食べ進めると段々それは美味しいものに変わっていった。あの時に鶏鍋を食べていなかったら、今でも鶏が嫌いだったかも知れない。

 あれは、人間と食べ物の関係を肉体的に理解したいい勉強の場だった。「人は、他者の生命を奪うことによってしか、生きていけないのだ」と、言うことがよく分かった”事件”だった。人が食べると言うことはそう言う事なのだ。

 スーパーで、パック詰めの肉や、魚の切り身しか見たことのない人には分からないかも知れないが、それが現実と言うものだ。スペインの肉屋には、頭から血を流したウサギなどが、吊されている。おそらく、あっちの方が正常なのだ。

 しかし、スペインでは死を見せ物にしているではないかと、言う人がいるかもしれない。日本においても死者が出る祭りは、一つや二つではない。

 むしろ、日常の中に死が遠いものに感じられる、今の日本人には、死を真剣に感じさせる重要な場のであるような気がする。何故なら死を考える事は、同時に生を考える事でもあるのだから・・・。

 スペインの20世紀の三人の天才画家の1人、サルバドール・ダリは「目に見えるもの、手で触れるもの、口で食べれるものしか信じない」と言ったが、空想よりは現実を、精神よりは肉体を、ここでは語りたい。

 初めに、闘牛士を追いかけて回ったスペイン・フランスのイベリア大地で暮らす人々の三つのエピソードを紹介したい。闘牛を語る前に、前提としてこういう日常があるということを理解していただいてから話を進めたいからだ。そこには、大地にしっかりと足をつけて暮らす人々が沢山いる。他人を理解しようとする無名の生活者がいるのだ。

 一つ目のエピソード。

 スペイン語で言うバジョナ。フランス語で言うバイオンヌでのこと。駅の目の前にホテルを取り、闘牛場にその日の切符(ビジェテ)を買いに行こうと駅のロータリーを歩いていると、横断歩道の向こうから不思議なかっこうの動物がゆっくりと近づいて来た。

 その動物は、6本の手と、10本の足と、4つの目を、持っていた。真ん中にいる二つが大きく、向かって左側の40位の男は、アメリカ人が旅行の時よく使う大きなリュクサックを背負っていた。彼は目が見えず左手は向かって右側にいる、おそらく彼の妻であろう女の右手を握っていた。彼女も大きなリュクサックを背負っていたが、やはり盲人だった。

 彼女の左手は向かって右側にいる10歳ぐらいの少年の右手を掴んでいた。

 10歳ぐらいの少年は両目の見える健常者で、おそらくボランティアではなく盲人夫婦の子供だろう。向かって左端には、夫の右手に手綱が握られ、そこに盲導犬がいた。

 盲人夫婦を導くのは、端にいる少年と盲導犬。

 信号機のない横断歩道。少年と盲導犬はゆっくり左右を確認して盲人の両親の歩調に合わせて道路を横切る。フランスは、スペインと違い、車は町中でもスピードを出す。しかし、彼等は彼等の歩調を守り一歩一歩足を運ぶ。

 この光景を見ながら、盲人にとって一体旅とはどういうものなのだろうかと、考えさせられた。こっちは闘牛士を追って旅を続け、闘牛を観る為にイベリア半島を回る。

 しかし、盲人にとっていつもと違う土地を歩くと言うことは、具体的な違いがあり、その旅とはどういう風に触れることができるのだろうかと思った。

 たとえば、盲人が日常生活をする家の中には、どこに玄関があり、どこに台所があり、どこにトイレがあるのか、そこに行くまでの道順を含めた記憶があるはずだ。

 台所のこの場所に塩が置いてあり、その隣にはコショウがあるという具合に理解しているだろう。トイレは、左側のへその高さに取っ手があり、それを右に回して押すとドアが開き、何歩進むと便器があり、紙は左手を伸ばせば取ることができ、水を流すノブはどこにあるのか、肉体が覚えていることだろう。

 それが旅先では、無の状態になる。

 トイレは、駅、ホテル、公園、レストラン、カフェ、と一つ一つ違う道順をたどり、ちがう場所に便器があり、鍵があり、ノブがある。スペインなどには便座すら壊れているトイレは数多くある。便所はアラブ式か洋式便座の付いたものか、目の見える人なら当たり前に理解できる事でも盲人には分からない。

 それを少年は、盲人の両親に一つ一つ説明し理解させる為に行動しなければならない。

 便器の位置は覚えても鍵やノブは、覚えるのが難しい場合もあるだろう。その時少年は、トイレの外側からノブを押さえているのだろうか。その時には、両親の排尿排便時の音が当然耳に入ってくるだろう。排便時には安らぎの中で用を足したいものだが両親はどういう気持ちで用を足すのだろうか。

 用の済んだ後で水を流すのも少年がしなければならないとしたら排泄物も当然見なければらないだろう。

 今日は下痢だ、今日は少し固い、と両親の健康まで判断するのだろうか。10歳の少年は、母親が旅行中に生理になったとしたら、そのことについても手助けが必要だろうか。女の生理というものを母親の肉体から学ぶのだろうか。

 そんな事を考えた。そして盲人の両親と目の見える子供がそうやって旅すること自体に大きな意味があるのかもしれないと思ったのである。

 二つ目のエピソード。

 その日の闘牛が終わって次の地に移動する夜行列車の中でのこと。酒を飲んで寝ていると、夜中の二時頃車掌が若い女を連れてきた。寝台車の一室には、通路をはさんで両側に上・中・下段とある。その下段に寝ていた。

 女は1歳にも満たない赤ん坊を抱えていた。若い母親は向かい側の下段のベッドの壁際に子供をうつぶせに寝かせた。ベッドの幅は子供を寝かせた為に、壁際半分のスペースがなくなった。残りのスペース半分に若い母親は右側を下にして横になった。

 狭い二等寝台の中。落下防止の金具も出さず寝てしまった。おそらくあまり夜行寝台に乗った事がないのだろう。お金を払って二つのベッドにという発想は、この若い母親にはない。夜行列車は動き出した。若い母親は進行方向に向かって横になっていた。彼女の背には通路がある。

 ガタゴト揺れる夜行列車の中で彼女の体も揺れる。丁度通路をはさんだ向かい側のベッドに寝ていたこっちは、彼女がベッドから落下するのではないかと、心配になってきた。

 さっきまで眠かったのに目がさえてくる。

 揺れる列車の中で彼女の左肩が振り子のように振幅運動を繰り返す。背中が動く。いつ落下してもおかしくない状態だ。ハラハラする。目はますますさえてきた。

 下手な闘牛よりよっぽど緊張感がある。ガタゴト揺れる夜行列車の中若い母親の上半身がベッドからはみ出し、頭がコックリコックリと上下に動く。「あっ落ちるぞ」と思う。いざとなったら足を出して落下を防ごうと思うのだが、若い母親は落下寸前の所まで行くのだが微妙にバランスを保ち落下しない。

 ベッドから床までは30cm位で、落ちてもそんなの痛くないだろうが、それでも頭を打ったらかなり痛いだろう。うつぶせに寝ている赤ん坊は熟睡している。若い母親は赤ん坊を気遣い、起こさないように自分は不自然な姿勢で寝ている。この母親を昔見たような気がした。

 かつて日本にも、子供の睡眠を優先させ、自分の疲れよりも子供の心配をする母親がどこにでも沢山いたものである。

 しかし、今日このような光景は日本には見ることはできない。夜行寝台が極端に少なくなったこともあるだろう。人前でオッパイを出して赤ん坊に呑ませている母親も見かけなくなった。

 これを言葉にすれば、母親の子供に対する無償の愛と言うのだろうか。だが、無償の愛は具体的に目に見えるものではないが、今、目の前にいる母親の体がベッドからはみ出し、落ちそうで落ちない姿を見ていると、この光景と無償の愛と言う言葉が自然に結びついて結婚してしまった事に気づいた。

 時計を見たら4時半になっていた。その間ずっと落ちはしないかと心配して眠れなかったのだが、この母親はどんなことがあっても落ちはしないだろうと思った。

 子供を思う母親の気持ちが、ベッドからの落下を防いでいる。母にとって、子供を守ろうとするならば、自分もまた守れるだけの健康な肉体を持っていなければならない。その事に気づいたら、急に眠くなってきた。

 三つ目のエピソード。

 ある朝マドリードのバルのカウンター席に座ってカフェ・コン・レチェ(ミルク・コーヒー)とクロワッサンを摘んでいると1人の老人が入ってきた。老人はたどたどしい足取りで一歩の歩幅が20cm位しか踏み出せない。こういう老人はスペインには沢山いる。

 しかし、その多くは杖を突いているものなのに両手はポケットの中に突っ込んだままだった。何か不自然な感じがした。

 老人は二つ離れた左側のカウンター席に座りコーヒーを注文した。給仕は老人の前のテーブルにコーヒーカップを持ってきて置いた。ここで老人は初めて背広のポケットから両手をカウンターの上に出した。

 手には掌があったが10本の指全てがなかった。

 年の頃は70位だから、おそらくスペイン内戦の時に無くしたものだろう。たどたどしい足取りなのに杖を突いてない理由が分かった。杖を突きたくても持てないのだ。

 どうやってコーヒーを飲むのだろうかと思って見ていると、右手にわずかに残る指の痕跡、正確には人差し指のわずかに残る突起をコーヒーカップの耳に入れて上手に摘み、おいしそうにコーヒーをすすった。

 スペインのバルなどで出すコーヒーカップやティーカップは、指のある人でも持ちにくく、耳に指を入れるスペースが小さいので、親指と人差し指で摘んで呑む人が多い。しかし、老人はあざやかにコーヒーカップを摘んだ。カップの耳の大きさと、老人の右手人差し指の痕跡はうまい具合に合っていた。

 カウンターの内側では給仕が忙しそうに動き回る。50歳位の太った給仕はぶっきら棒で無愛想。おまけに怖い顔をしている。老人はうまそうにコーヒーを飲み終えると「クアント・クエスタ」と言って値段を尋ねた。

 怖い顔した給仕は「シエント・ベインティ・シンコ」(125)と早口で言った。

 老人は背広の右ポケットに指のない右手を入れて、パンダが掌で竹を掴むようにして小銭入れを取り出して左手の掌の上に置いた。

 左手の掌の上で小銭入れを掴んで押さえ、コーヒーカップを掴んだ右手の、人差し指の痕跡である突起と、親指の痕跡で、小銭入れのチャックを摘んで開けて100ペセタコインを出した。

 老人は、「シエント?」(100?)と言って聞き直した。

 怖い顔した給仕は「ベンティ・シンコ」(25)と言って、老人の右手から100ペセタを受け取り、左手の掌の上の小銭入れから25ペセタを一つ摘んで、嫁さんか子供にでも見せるような満面の笑みを浮かべて「グラシアス・セニォール」(ありがとう、旦那。)と老人に言った。

 その間約2分。怖い顔の給仕は微動だもせずに待っていた。

 日本のレジで、出会うような「早くしてくれよ」というような態度は、ここにはない。

 だからといって息を詰めて、待っているのでもない。ごく自然な感じだった。これが日本人にはできないのだ。関心と言うより、ショックと感動を感じた。

 日本は経済大国かもしれないが、世の中、なにか間違っていないだろうかと思うのだ。物が溢れていると言うけれど、農薬や添加物まみれの食品しかないのに、それが本当に物があると、言う事なのだろうか?おそらく何かがずれているのだ・・・。

 そして、この様な生活が行われている所で、闘牛はやっているのだ。

 さて、闘牛の話のための環境設定がこれで出来た筈だ。

では、いざ闘牛の世界へ!

 

 新宿からJRに乗って何処へ行く?そうスペインだ。実は成田エクスプレスの終点・成田空港に着くのだが、その先の空は青く青かった。

 大地は、雨を吸い、血を吸い、命を育む。そしてそれは、死も育む。死があって、初めて生命が誕生する。生物の環境連鎖とはそう言うものなのだ。青い空の下にある大地には、生と死、二つの相反するものが同時に存在していた。それは、人間の営みの中にあった。


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