リタイヤ理由から見る技術進化


★年代別リタイヤ理由
1950年代のリタイヤ理由トップ3である、エンジン・事故・ギヤボックスは、1990年代までずっと続く3大理由でもある。このころはフロントエンジンで、ミッドシップが主流になるのは1960年以降である。
ドライバーを保護するシートベルトやロールバーはまだない。事故は死に近い意味となり、ドライバー同士のスポーツマンシップが1960年代まであった。それが事故増加を防いでいた時代だった。


1960年代に入り、1950年代には少なかったサスペンショントラブルが増加した。空気抵抗を最小にするため、むき出しのスプリングとダンパーを、車体内部に収めた。ここからサスペンションが進化して行ったが、同時にトラブルも増加したものとみられる。


1970年代に事故が増加し、エンジンを抜いてリタイヤ理由のトップになった。
この時代の特徴は空力の進化だろう。1968年からウィングを搭載するようになり、ダウンフォースをいかに得るかがテーマとなる。1978年以降はベンチュリー効果を発生するウィングカーが全盛となった。しかし空力バランスを失った車は、大事故につながった。ウィングカーは固めのサスのため、ドライバーの体を痛めつけもした。
また、F1はスポンサーの金で動く広告塔の時代になっていく。ドライバー心理にも影響した。


1980年代にのみあらわれる特徴は、ターボである。1977年から1980年まではルノーだけだったが、1981年にフェラーリが採用してから激増し、1984年から1986年まで全車ターボとなっている。FIAにより1989年に禁止されるまで、全盛を誇った。

同じ時期に、電気系トラブルが登場。F1マシンがエレクトロニクス制御となっていった。

FIAは危険なウィングカーを禁止するため、1983年にフラットボトム規制を打ち出す。多くの犠牲者と政争の果てに得た安全だった。

1982年のG・ビルヌーブの死は、アルミニウム製モノコックの限界だった。1984年、マクラーレンが採用したカーボンファイバー素材によるモノコックは、軽量化による競争力向上のみならず、安全性向上にもつながった。

しかしながら、イモラのタンブレロ・コーナーで1987年にピケ、1989年にベルガーが事故を起こし、レースを休む事態になったことに何の対策も施されなかったのは、今、思い起こしても無念である。


1990年代になり、事故が激増した。1982年以降、死亡事故が長い間、発生せず、カーボンモノコックの安全性から、以前よりドライバーが無理をするようになったのかもしれない。1989年〜1990年のセナとプロストの王者同士の遺恨も影を落としたか。

死亡事故が遠ざかったとはいえ、重大事故は依然として起きていた。1989年のストレイフ、1990年のドネリーはいずれも選手生命を終わらせてしまった。

そして1994年、セナとラッツェンバーガーによる12年ぶりの死亡事故が発生してしまった。アクティブサスペンションなどの電子制御が高価であるという理由で禁止され、マシンバランスが不安定になるという背景があった。翌年、イモラ・サーキットは大改修されたが、遅かった。

FIAはサイドプロテクター、速度低下のための排気量減や溝付きタイヤなど施策を出すが、1997年にパニス、1999年にシューマッハが足を骨折してしまうなど、安全対策は十分といえない。

→死亡事故の減少と事故発生率の増加