洗礼の秘跡を受けずに亡くなった幼児に関する見解

 

 

 

松 本 信 愛(2003年)

 

 

 標記の件に関して以下の順序で論を進める。

 

(本稿で、「救い」というときは「神のもとでの永遠の至福に入ること、いわゆる天国へ入ること」を指し、「洗礼」というときは「水による秘跡の洗礼」を指す。)

 

T.第二バチカン公会議の「未受洗者の救いの可能性」を認めた「普遍的救い」の教義を受けて「洗礼を受けずに亡くなった幼児」(以下「死亡した未受洗幼児」という)の救いについて


U.(幼児)洗礼の「意義と必要性」について


V.「死亡した未受洗幼児の救い」と「過去の教会の教え」との整合について


W.司牧的配慮と勧め 

 

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T.「死亡した未受洗幼児」の救いについて

 

 第二バチカン公会議が、いわゆる「普遍的救い」について述べたのは以下の三カ所である:


(1)「教会憲章」16・・・ここでは、「未知の神を探し求めている人々」「正しい生活をしようと努力している人々」が対象なので、「幼児」は含まれないと考えられる。


(2)「教会の宣教活動に関する教令」7・・・ここでは、「本人の側に落ち度がないままに福音を知らないでいる人々を、神は自分だけが知っている道で信仰・・・へと導くことが出来る」という表現なので、「幼児」を除外する根拠はない。


(3)「現代世界憲章」22・・・ここでは、「このことはキリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。・・・したがって、われわれは神だけが知っている方法によって、聖霊が復活秘義にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない。」という表現なので、確かに「幼児」も含まれていると考えるべきである。

 

 カトリック教会の教えでは、大人も幼児も「原罪」は皆等しく持って生まれてくるはずであり、大人は「自罪」も持っている可能性が非常に大きく(「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いていおり、真理はわたしたちの内にありません。」1ヨハネ1:8参照)、このことを考え合わせて上記の公会議の教えを見るならば、実際にどれだけの「大人」が救われるかは分からなくても、少なくとも「自罪のない」「本人の側に落ち度がないままに福音を知らないでいる」「心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての」「幼児」は救われると考えるべきである。

 

 

U.(幼児)洗礼の「意義と必要性」について

 

 第二バチカン公会議以前の、いわゆる「要理」の本やその解説書は、洗礼をまず第1に「原罪、自罪およびその罰を赦すもの」として捉えていた。特に「幼児洗礼」の説明のところでは、まさに「洗礼が原罪を取り除くものとして強調されていた。」要するに「洗礼の意義と必要性」を、先ず、「救われるため」「天国へ入るため」という点に結びつけて、その点を強調していたのである。確かに、この説明は、洗礼の意義と必要性を納得させるためには非常に分かり易い説明である。そして、現在も、洗礼は原罪・自罪を赦し、天国へ入る基盤を築くものであるということを疑う必要はない。

 
 しかし、現在、洗礼の意義として「罪の赦しのため」「救われるため」「天国へ入るため」という点を強調しすぎると、第二バチカン公会議の「普遍的救い」の教えを考えたとき、洗礼の意義と必要性が色あせてしまう。それでも、「大人」の場合は「そのような説明の洗礼」でも、一種の「保証」として成り立つであろうが、「幼児」の場合は、ますますその必要性が見えなくなりそうである。

 
 旧来の洗礼の説明の仕方は、「神に与えられたこの世の人生」をよりよく生きるということにあまり目を向けないで、ただ「天国へ入ること」を強調しすぎた感がある。「天国へ入ること」が人生の直接の目的ならば、「早く死んだ方がよい」のである。「死ななければ」天国へは入れないのだから・・・

 
 しかし、まさに、ここに「秘跡」の意義と必要性の第1のポイントがあるのである。天国へ行ってしまえば、「その時には、顔と顔を合わせて見る」(1コリ13:12)ことが出来るのはずであるが、地上にいるわれわれは、キリストを見ることも触れることも出来ない。そのキリストと「この世で」出会う術が「秘跡」であり、「洗礼」こそ、初めてキリストと直接出会う具体的な方法なのである。「洗礼」において、最初の、そして決定的な出会いをした者は、それ以後、ずっとキリストと共に生きることができるようになるのである。

 
 「秘跡」の意義と必要性の第2のポイントは、栄光化されたキリストの愛がわれわれに注がれる手段としての秘跡であり、「洗礼」はまさにわれわれをそれらの諸秘跡へと招いてくれるものである。すなわち「洗礼」によってキリストの最初の愛の招きに応えた者は、神との出会いという対神的行為を可能にする「存在論的基礎」がもたらされるのである。

 
 以上のように、洗礼を「この世で直接キリストと出会うこと」「この世にいながらキリストの愛を直接受けることが出来るようにする手段」「神との交わりの存在論的基礎をこの世にいるうちにもたらすもの」として理解するならば、「大人の洗礼の意義と必要性」は当然のこと「幼児洗礼の意義と必要性」も理解することが出来るはずである。理性未発達の幼児がいろいろなことをまだ理解できないからと言って、「幼児が物心つくまで親と会っても仕方がない」と、その時まで幼児と親を離しておくようなことは誰もしないはずである。そして、ひとたび両者の出会いがあれば、親は、子供がたとえ分からなくても、その溢れるばかりの愛情を注ぐのであり、子供は歳月と共に、徐々にそれを理解し、応えるようになるのである。幼児洗礼における幼児と神の関係も同様に考えればよいのである。

 

 この観点からも、「死亡した未受洗幼児」について、「洗礼を受けないで死んだこと」を親が嘆く必要は全くないことは明らかである。洗礼はこの世にいる者にとって必要であり意味のあることであるが、天国へ行ったものにとっては不要なのである。そこでは、秘跡を通さず、直接に神と出会い、愛を受けることが出来るのだから。

 

 

V.「死亡した未受洗幼児の救い」と「過去の教会の教え」との整合について

 

 この点に関して確認するべきことは、以下の5点であると思われる。それぞれの点に関して、過去の教会の発言で考察するべきと思われる箇所をあげ、必要に応じて解説を加える。(引用は、デンツィンガー・シェーンメッツァー『カトリック教会文書資料集』浜寛五郎訳、より。出典は便宜上、DSの番号のみとする)

 

(1)「死亡した未受洗幼児の救い」も、もちろん、「キリストの贖いの業」が前提である。

 

(2)「死亡した未受洗幼児の救い」を認めても「幼児洗礼」の意義と必要性は色あせることはない。

 

「自分の罪を犯すことができない幼児も、罪の赦しのために、そしてこの再生によって出生によって受けついだ汚れから清められるために洗礼を受けるのである。」(DS223)


「このキリストの功績が、教会の定式にしたがって授けられた洗礼の秘跡を通して幼児にも大人にも適用されることを否定する者は排斥される。」(DS1513)


「洗礼を受けている両親から生まれたにしても、『母親の胎内から生まれた幼児に洗礼を授けることを拒否する者』・・・は排斥される。(DS1514)


「自分の罪を犯すことができない幼児も、罪の赦しのため、そしてこの再生によって、出生によって受けついだ汚れから清められるために洗礼を受けるのである。」(DS1514)

 

<解説>上記の箇所は、本論「U」より明らかなように、特に矛盾するものではない。

 

(3)「死亡した未受洗幼児の救い」を認めても「すべての人は生まれたときに原罪の汚れを持っている」ということを否定するものではない。

 

(4)「死亡した未受洗幼児の救い」を認めても、死亡した未受洗幼児が「原罪を持ったまま」天国へ行くという意味ではない。

 

「天国には洗礼を受けずに死んだ幼児が行く何か中間的な、またはどこか別の場所があると解釈すべきであると言う者は排斥される。」(DS224)


「・・・原罪だけの状態でこの世を去った霊魂はすぐに地獄に落ち、種々の罰によって罰せられる。」(DS858)


「・・・原罪だけの状態で、この世を去った霊魂は、死後ただちに地獄におち、種々の罰によって罰せられる。」(DS1306)


「原罪だけの状態で死んだ者が火の罰によって永遠の罰を受ける(信者が一般に幼児のリンボと呼んでいる)場所は、ペラギウス派の作り話である。・・・この説は誤りであり、軽率(無謀)であり、カトリックの諸学派に有害である。」(DS2626)

 

<解説>これらの教会の説明は「原罪を持ったままの状態の霊魂」は天国へいけないということであり、洗礼以外に「神だけが知っている方法」で、神が原罪を取り除く可能性を認めた第二バチカン公会議の「普遍的救い」の教義と矛盾するものではない。 

 

(5)第二バチカン公会議が認めた「普遍的救い」の教義に基づいて「死亡した未受洗幼児」の「原罪」は、「(神のみが知る)洗礼以外の方法で」神が取り除くことができるということを認めるのである。

 

「洗礼の恩恵がなくても永遠の生命の報いが幼児に与えられるというのは、非常にばかげた意見である。」(DS219)


「生まれ変わることなしに永遠の生命を得ることができると主張する者は、洗礼そのものを否定する者である。」(DS219)


「彼らは洗礼なしに永遠の生命に達することができると信じている。これは洗礼が無用であると言うことである。」(DS219)


「・・・洗礼なしに天国すなわち永遠の生命にはいることは出来ない・・・」(DS224)


「幼児は死ぬ危険性が大きいため、悪魔の支配から救い出され、神の養子となる洗礼の秘跡以外の方法で救いようがないことがある。」(DS1349)


「義化とは、人間が第1のアダムの子として生まれた状態から、・・・恩恵の状態、・・・への移行である。しかし、この移行は福音が述べられた後は『再生の水洗い』なしに、あるいはそれについての望みなしにはありえないのである。」(DS1524)

 

<解説>「普遍的救い」を認めた第二バチカン公会議は、「本人の側に落ち度がないままに福音を知らないでいる人々」「心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人」に、神は、洗礼の恩恵と同じような恩恵、すなわち、原罪の汚れを除き天国へ入れるようにする恩恵、を与えることができるという可能性を認めたのである。上記の教会の教えが発表された時代では、「洗礼以外の方法」で「洗礼と同じような恩恵」を神が与えるであろうというところまでは及んでいなかったが、そこまで踏み込んだのが第二バチカン公会議の「普遍的救い」の教義である。大人の場合に、秘跡の洗礼以外に教会が認めたいわゆる「望みの洗礼」(DS1524参照)と同様に、「望むことさえできない」人々および幼児のために、神は何か他の切り札を持っていても不思議ではないと考えたのである。すなわち、「洗礼の秘跡」を編み出した神が「洗礼以外の方法」を編み出す可能性を認めたということである。 

 

 

W.司牧的配慮と勧め 

 

 司牧的には、本稿「U」で見たように、幼児であっても洗礼を授ける必要性とその大きな意義についてはっきりと説明する一方で、不幸にして洗礼を授ける前に亡くなったとしても、「その子供は天国へ行った」とはっきり言うことによって、その親を慰めるべきである。

 

 「幼児洗礼」のテーマの最後に、その問題点を一つ指摘しておきたい。生まれたばかりの赤ん坊を一度親と会わせても、それ以後離れ離れの生活をして、物心がついた頃に「私があなたの母親ですよ。」と名乗り出ても、子供はピンと来ないように、幼児洗礼を授けても、それ以後、キリストと離れ離れのような生活をさせれば、物心ついた頃に「あなたは洗礼を受けているのですよ。」と言ってもピンと来るはずもなく、キリストに対する愛も起こってくるはずはない。このような場合、信者としての生活ができないのはむしろ当然である。現実に「幼児洗礼」が問題となるのはこのためであろう。幼児洗礼の問題は、幼児に洗礼を授けること自体が問題なのではなく、洗礼を授けた後の育て方が問題なのであり、これこそ司牧上の大きな問題である。