愛鷹山を歩いていると丸い形をした平らな場所を見る。これらは昭和20年の戦後から昭和35年から遅くとも40年頃までに作られた黒炭の炭焼き窯の跡である。
(愛鷹山登山道にある窯跡 この上には小屋跡や一升瓶などがある)
(位牌沢中腹にある炭焼群で排煙部に使われた土管。愛鷹山各所に残存している。静岡式によくみられる)
(愛鷹難路上にある2連窯跡、他では見られない珍しい窯)
(2連窯跡へ続く道に書いてある文字 読める方いますか?)
その歴史は平安時代以前に遡るが、顕著になったのは江戸時代に人口が増え燃料として盛んにつくられた。江戸期には入会権を持つ集落の農民が薪や炭焼きをしに入会地にて伐採していたが、境界線では常に揉め事があり、須山山入会地と内山入会地や駿東の東組と西組との裁判などの記録が残る。
人口の増える明治初年からは愛鷹山のほとんどが禿山となり、またそれによる洪水による被害も出た。よって炭焼きの後にはヒノキが植林された。
戦後は復興のため大都市圏にて炭の需要が高まり、作っても作っても間に合わない期間があった。この戦後から昭和40年頃までに作られた窯が現在残っている窯跡である。
窯は明治後期から大正にかけて炭製炭伝習所にて普及し、後に静岡式と呼ばれる効率のよい窯が多く作られた。
昭和30年以降には自然林を伐採し、ヒノキや杉を植林する国策により大規模に炭焼きの作業がおこなわれた。これらは山岳での人夫作業で降ろされて馬車にて田子の浦港から大坂方面、沼津港桟橋から京浜地区へ出荷された。
よって家族単位・村落単位・大規模な組合単位の規模の炭焼き場が存在した。昭和35年を過ぎると燃料が安定し、石油燃料にとって代わって炭焼き場は使われなくなった。
その後、山火事等の危険、獣の棲みかとなると小屋や炭窯を覆ったトタンなどは遺棄された。
現在、炭焼き跡にヒノキなどが生えているが年輪を数えると約70年以上を数えるものが多い。 |