ロマン・ロラン日記の周辺と出版事 宮本ヱイ子


 大作家と向き合うとき、わたしはいつも、彼が、その時代に、その社会に、いかに発言してきたのかを問うてみたくなる。日記は、またとない生きた肉声である。
 ロマン・ロラン(1866−1944)についていえば、第一次世界大戦時の日記は出版されているが、その後のものは、遺言によって死後五〇余年封印されてきた。二〇〇〇年に解かれ公開された。
 わたしは、その年の秋、保管されているフランス国立図書館(リシュリュー)へ行き、まるでウインドー・ショッピングをするかのように覗いてみた。国立図書館は、シャルル五世の書籍コレクションに遡る。わたしのパリ滞在は正味八日、その間、休館日があるので五日間、終日、日記に向かい合える体力がないので、せいぜい二十数時間割いたのみである。
 入館するにはカードを取得しなければならない。顔写真撮影、書類提出、二カ所の面談と日本円で約5千円の手続き料を必要とした。歴史的な貴重な原本、手書きの草稿を扱う宝庫へ立ち入ることが許されるのだから、そのくらいの労は当たり前である。 
 手荷物を預けて、いよいよ目的の場所へ向かう。室内入り口には、止まり木のような高い椅子のうえで見張るおばさん、彼女に入館カードを最終的に預ける。ゴム敷きの木製机、三十席ほどある籐製の背もたれ椅子、それらは、すでにほとんど占有されていた。専門家、研究者、学生たちが、水を撒いた静けさのなかでめいめい専心していた。室内は十八世紀の趣を残している。壁面は高い天井まで立派な皮表紙の本で埋まっていた。その下の引き出しに、ロマン・ロランの日記や草稿がざっくりと箱に入っているのが窺えた。
 部屋の真ん中に坐っている学芸員から、目的の資料を引き出してもらう。ロマン・ロランの日記は、マイクロフイルムに整理、収録されている。
 わたしは、ロランの晩年(1938−1944)に焦点をあてる。時代はヒットラーやスターリン、そして、日本では軍部の台頭で、太平洋戦争へ突入する第二次世界大戦時代である。そのなかで、身体の弱くなった一人の老人の姿を見ることにもなる。社会的使命を帯びた作家と私人の二つの顔を窓越しに追ってみる。本稿は論文ではなく気まぐれな断章である。
 最初、わたしは、マイクロフイルムを映す機械の前に坐っていた。ロランの羽のような筆跡の解読、もとより語学力不足に加えて機械音痴、結局、机の上に移動して、すべてのフイルムを手元に置いた。学芸員によるペン書きの項目だけを写し取る作業に切り替えた。さらに、時間の都合で四一年と四二年を抜くことにした。それでも約370項目あった。交友名、手紙や電報の受信送信、日常の私生活、ことに健康状態、著作活動、社会的活動が記載され、じわじわと伝わってくる。
 「誰々が来た。誰々から手紙が来た。返事。ピアノを弾いた。レジスタンスの青年がたずねてきた。パリへ病気の診断のため出かけた。レントゲンを撮った。『ロベスピエール』『ペギー』校正、出版など」
 人の名前も、ベルギーの女王からスターリン、ヒットラー、お馴染みのアラゴン、ヴィルドラック、ブロック、クローデル、神父、村役、粉屋や苗木屋まで散見できる。
 ここでは来訪者、往復書簡者名、日常生活、執筆、出版活動の大部省略。ロランの社会活動の項目のみを列記する。その検証はすでにデュシャトレ氏の著作やカイエシリーズに記載されている。
 
 社会活動 
 ロランを取りまく情勢は、1933年、極右民族全体主義のヒットラーが日本と、日独防共協定として結んだ。共通の敵であるソ連に対抗するためである。これにイタリヤも参加する。他方、隣国フランスはナチス・ドイツを孤立化させる外交政策を試み、各国との個別条約締結に努めていた。フランス共産党指導者M・トレーズ(1900−64)はファシズムの危険を克服するため社会共和連盟を創設(1935)して、共産党、社会党からなる<人民戦線>を提唱、1936年、国民投票で勝利した。L・ブルム首班の<人民戦線>内閣(1936−37)ができた。ファシズムに反対するロランの日記には、M・トレーズの名が書簡のやり取り、来訪者として頻繁に出てくる。ふたりの親交を物語っていよう。
 
1938年
 1月、 ソ連邦について、スターリン ディミトロフに手紙
     スペイン内乱
 2/20 ヒットラー演説
 3/17 ベオグラード青年世界大会、ロランへインタビュー
 3/29−4/2 国際ペンクラブ(ロンドン本部)へメッセージ
 3/30 モスクワ公判
 4/6  ドイツ、オーストリアを併合
 4/10 Oscar・Hartoch解放
 5/6.7 人民戦線について モスクワ公判について J・R・ブロック
       と話す
 9/11  反戦、反ファシズム世界委員会へ サイン
 9/12  ヒットラー、ラジオ演説
 9/14  テールマン委員会へ電報、手紙
       ブロックから戦争回避、悲観的情勢の電報
 9/24  ヒットラー演説
       チェコスロヴァキアから悲観的電報
 9/29,30 ミュンヘン協定
         F・ジョルダン、J・Rブロックへ
         反ミュンヘン記事
 10/4  F・ジョルダンへ手紙
        J・ マサリクへ手紙
 11/11−13 ドイツでのユダヤ人迫害
          ダラディエ、ゼネスト失敗
        ニヴェール地方の共産党員たちと
        フランス青年コミニュストへ
        共和制スペイン擁護のアピール

1939年 
 1月  フランス共産党の国民会議へ挨拶
 1/29  カタルーニャ崩壊
      反戦・反ファシズム世界委員会の国際会議テーマについて回答
      ガンディーへ感謝
      イタリアプレス 、反フランス報道
      スペイン亡命者
 3/19  『ロベスピエール』をダラディエに贈る
      雑誌「ヨーロッパ」に記事 ―ヨーロッパの喪―
 3/27−30 アルバニアをファシスト軍占領
 4/14  ヒットラーとムッソリーニへ、 ルーズベルトのアピール
 4/15  イギリス、フランス 戦争への備え
 4/28  ヒットラーの演説
 7月    セルジュ、来仏。ソ連について
 9/3   ダラディエのアピール。ロラン、ダラディエに手紙
 12/21 ダラディエ ラジオ演説
1943年
  1,2月  スターニングラード、 チュニジア人について
  10/19 ラジオ、ロランの死を報道
        ヴィルドラック拘束
        マルスロ、アルジェリアで拘束

1944年  
 1月   フランス全土 暴力の渦
 2月   アルジェ裁判
 4/29 パリ爆撃
 6/5  アメリカ軍 ローマ侵攻
     ヴェズレーのレジスタンス 地方でのレジスタンス
 7/9  カン侵攻、P・エリオ暗殺
     イヨンヌ県の爆撃
 8/24−30 ヴェズレー近郊でのドイツとレジスタンスの闘い
 8/25 ヴェズレーでのレジスタンス
     アメリカ進撃 パリ解放
 9/6  トラック運転手たちのパリ状況
      ソ連大使館での出会い、ダラディエ宛の手紙について
 11/24 ソ連大使館 映画上映
 
*(共産党党首、1886−1944・殺害 ナチスによって囚われた彼の釈放を求めるための手紙・電報)

 1938−1940年、ダラディエ内閣が発足したが、人民戦線と袂を分けた結果、1938年11月ゼネストが起きた。1939年総動員令が下り、ドイツに宣戦布告(9月2日、3日)。
 ポーランドへ侵攻したナチス・ドイツに憤慨したロランは、今や阻止できるのはダラディエだとみた。出版したばかりの『ロベスピエール』を彼に贈り、ナチス打倒を鼓舞した。ロランがファシズムと闘ったことはロランの標語のようになっている。
 反ファシズムを掲げていたロランは、共産主義のソ連邦に親近感をいだいていた。
 ソ連が崩壊したあとに来る、ロランの社会主義におけるソ連観について、果たしてロマン・ロランは、そこに希望と幻想を抱き続けたのか。最大の関心事である。これについては、デュシャトレ氏の講演や著作で答えが出ている。
 ゴーリキーの死(1936)でソ連との対話の手だてを失ったロランは、その後は直接スターリンに手紙、ディミトロフにも手紙を書いてソ連の状況をたずねるが、返事がない。ロランはこうして徐々にソ連に対して世界人類の希望と信じていたことが消滅していくことになる。
 ソ連では一九三六−三八年、モスクワでの度重なる公判が物語っているように、粛清の嵐が吹きすさぶ。八〇〇万人が逮捕され、北ロシヤやシベリヤに収容されて行った。1939年独ソ不可侵条約が締結されたことで、ロランはきっぱりクレムリンと決別した。
 第一次大戦中に書いた『戦いを越えて』をはるかに越える『新・戦いを越えて』をソ連に対して書きたかった。しかし、モスクワにはマリー夫人の子供、セルジュをはじめ親族がいる。家族のため晩年の彼には出来なかった。

 宗教観
 終生変わらないロランの宗教観は、晩年ポール・クローデルとの友情の再開が物語っているように、神父たちとの「キリスト教問答」交流があった。日記には神父たちの名前が随所にあがっている。さらに『福音書』についてのエッセイの記述も見られる。神父らとの往復書簡や『福音書』については、デュシャトレ氏著『最後の扉の敷居』(1989)、―日本語訳未―に日記抜粋とともにすべて収録されている。それは、『ユニテ』で村上光彦氏によって随時紹介されている。ロランは結局帰依しなかった。
 
 音楽
 ロランが偶像崇拝的なものより一層心酔して身を投じたものは、やはり心の海である音楽だった。
 晩年の音楽を分かち合う友人は、ヴェズレー近郊に住む若い音楽教師リュシアン・ブイエ夫妻であった。彼との親交、往復書簡も出ているが、ロランをどれだけ癒したかが、ほのぼのと伝わってくる。その証のひとつのエピソードをまたもや引用することを許されたい。
 ロラン最後のクリスマスの日、『私たちのミサをあげよう』と、いってロランは傍らのリュシアンに支えられてピアノに向かった。ベートーヴェンの後期ソナタop111を弾きはじめた。ロランはその6日後の12月30日息を引き取った。ロラン日記の最後のページ、訪問者の最後の名、ブイエ。「愛の本質」を表現できるのは音楽であり、それこそ不滅であるとするロランにふさわしい。
 
人生
 ロランは一人の人間としていかに生きたか。それはとりもなおさず、いかに老いて死んでいったかでもある。青春文学のシンボルのように理想化された著者のイメージが日本では強い。今、わたしが彼の老いを見つめていることに戸惑いを覚える人もあろう。
「曙」「燃え立つ茂み」の行く手には、黄昏や暗夜がある。人生の両翼である。川が大海に注がれていくその河口を見る。
 日記は、1943年から44年にかけて健康悪化、病気という文字が頻繁に出てくる。1990年に私はヴェズレーの家を訪ねた。ロランが亡くなったときのまま保存されている寝室で見たものは、彼自身の手で体温記録がメモ帳に残されていた。その時の衝撃的な印象もふくめ雑誌えひめに「ロマン・ロランの旅」として一年間連載したことがある。 
 ロランは夢を見る。人生の最後、病気で衰弱した熱のあるからだで、まるで、アンネットのように、マリー夫人、マドレーヌに見守られて横になっている。彼は人生の大河を振り返る。彼の著作活動もすべて遠い幻想の世界へ追いやられていく。確かにあるのは、家族愛、愛であると語っている。ソ連に対する第二の『新・戦いを越えて』を書かなかったのも私人として、家族愛を選んだためだった。「愛それはすべてのはじまり」―『リグ・ヴェーダ』は『魅せられたる魂』扉句を思い出す。
 ロランは病床のなか、78歳で逝った。1944年12月30日。
 日記日付最終日は、12月1日、 ベルナール神父、アヴァロン助役訪問
               モスクワの家族からの近況を待つ
          訪問者 グラッセ、マルスロ、ブイエ。

 ロラン・晩年のシルエットが透かし模様のレースのように目の前に立っている。社会に対する良心を問い続けた巨きな存在、わたしはその重みをクリストフのように感じながら、日記のページ「おわり」と記されたところへ目を遣った。目的の品物をケースのなかから取り出せなかったものの、それでもわたしは、大事なセレモニーをなした感慨に包まれる。日記の全コピーを学芸員に依頼してきたが、未だに回答はない。
 1968年、マリー夫人がロラン展のため、来日した。本国フランスにも存在しないロマン・ロラン全集が日本で刊行されていた。愛読書にロランをあげる人がフランスに比較するまでもなく大勢いる。ミリオンセラーを続けるなかで、彼女と翻訳者宮本の間で、ロラン晩年日記の一部を日本語訳して出版するはなしが進行していた。「本国フランスで公開されていないものを日本で先にすること」に、当時の駐日フランス大使が疑問を呈した。夫人は態度を一変した。
 ロラン夫人来日から、30年以上経たが、皮肉なことに、今日、日本では、ロラン読者の激減で、ロランの本の出版は悉く困難に遭遇している。翻訳者は1982年に、夫人は85年にそれぞれ世を去った。ロラン晩年の日記に、老いて生きるヒントを見いだそうと希求していた晩年の宮本のことが、わたしの脳裏を横切る。
 昨年10月、東京でロマン・ロランと標題の付いたエッセイが出版された。その出版社に、わたしは多くの読者があるかどうか尋ねた。社長は答えた。「本は売るためのものではなくなっている。朝日新聞の全国版で第一面の書籍広告欄に広告を出したところ、100冊売れた。広告代金は**万円、こういう状況です。出版社では出版費用も、ましてや広告代金など一切出せません。こういう本を出したいと思い続けてきたものがお金も出す。ロマン・ロランに限らず今の出版界は、広告料金の一割還ってくるのが現状ではないですか」ロマン・ロラン研究所も、その朝日新聞の広告を見て一冊買ったことを伝えておいた。
 いずれ、遠くない日に、ロランの日記はフランス国立図書館で発行され、インターネットで見られるようになるだろう。関心のある者だけが読めばいいのである。時代は動いていく。舞台は回る。    
  
参考文献 デュシャトレ著・編『ロマン・ロランー最後の扉の敷居でー』(1989)、『モスクワ紀行』(1992)、『ロマン・ロランーリュシアン&ヴィヴィアン・ブイエ 往復書簡 1938−1944』(1992)、『思想と行動』(1997)、『あるがままのロマン・ロラン』(2002) 以上日本語訳未刊。 『どこからみても美しい顔』(1979)、『ユニテ』1−30号。
                         
((財)ロマン・ロラン研究所理事)