ロマン・ロランの作品による音楽とレコード 尾 埜 善 司


一 めぐり合い

 ある人とか芸術とか思想について語るときは、自分と無関係に述べるべきではないと思います。きょう、財団法人ロマン・ロラン研究所の主催でロマン・ロランの作品による音楽とレコードについて語り、聴いて頂くに先立って、この点を少し述べさせて頂きます。
 私は高校二年の夏、岩波文庫で『ジャン・クリストフ』を読み、「クリストフよ、一生友達でいてくれ。」とノートに書きました。そのころ、みすず書房が出し始めた『ロマン・ロラン全集』の配本を心待ちにし、片山敏彦著『ロマン・ロラン』に感動しました。その事せな体験を共にした近藤 情君が鎌倉からここに来てくれています。一九五〇年ここの東隣りの京大法学部に入りますと、すぐ宮本正清先生にお目にかかりたくて、この関西日仏学館をたずね、入学し、先生からフランス語初級を教わりました。すでにロマン・ロランの友の会京都支部が、宮本先生を中心にスタートし、ここの教室やサロンで毎月若者らの読書会が開かれ、六月の会に初めて出ますと、教室には早々と、白髪の上品なおばあさんと若い女性が席に着かれ、寄り添うように一冊の本を読まれていました。出版されたばかりの高田博厚『フランスから』(みすず書房)で、私もすぐ買って読み「(師)ロマン・ロラン」に感動しました。この日は、ここにも来て頂いている波多野茂弥さんが『理性の勝利』について話されました。さきのお二人は京大物理学教授の未亡人、玉城芳江さんと一人娘でピアニストの嘉子さんと判り、嘉子さんと波多野さんとは、いつからか存じませんが、いいなずけでした。私が大学を卒業した夕べは玉城邸で、お三人がお祝いして下さり、うれしく酔った私は二階に上げられ、おひる過ぎても降りてこず、ご心配をかけました。七年後、私が結婚した時、玉城のおばあちゃんは(尾上おおのえの大松のごと生い茂り 世の平和たいらぎの力たれ 君)と壮大にお歌を寄せて下さったのでした。一年生の秋、宮本先生は交換教授としてパリのロマン・ロラン研究所へと薪学されることになり、この学館サロンでの友の会の送別会で、玉城嘉子さんがベートーヴェンのピアノソナタ一〇六番のアダージョを演奏され、私らは神戸港のラ・マルセイエーズ号の甲板まで先生をお見送りしました。
 一九七〇年、宮本先生は印税の貯金すべてを拠出し、銀閣寺に土地建物を購入し、財団法人ロマン・ロラン研究所を設立され、弁護士の私も先生のご指名で監事の職に連なり、先生亡きあとは奇しくも私が理事長の職を引継ぎ、大学生時代からご縁を頂いたロマン・ロランを敬愛する方々のご支援のもとに活動し、こんにちに及んだ次第です。

二 ロマン・ロラン唯一の肉声

 さて、ロマン・ロラン (一八六六−一九四四) の作品による音楽を収めたレコード・CDですが、今回はこれらを網羅的に並べるのではなく、ご嫁があって私の手もとにあるオリジナル・レコードから抜粋し、その全休を研究所スタッフの清原章夫さんにCD−ROMに移してもらったのを、私の話の合い間に順次聴いて頂きます。
 先ず、ロマン・ロランの現在聴ける唯一の肉声をお聴き下さい。一九三六年二月スペイン人民戦線内閣が誕生しましたが、七月には叛乱軍が一斉に蜂起し、八月にはフランコの率いる叛乱軍がモロッコから本土に上陸します。八月二十五日アムステルダムのバッファロー・スタディアムで反戦平和集会とデモが行われ、スイスから一時フランスへ帰国していたロマン・ロランが、この集会のため「スペイン共和国へのメッセージ」を録音しました。奇跡的にこの録音テープは保存され、一九五五年頃、フランス・フィリップスが発売したレコード「二〇世紀の作家」十二巻の「ロマン・ロラン」に、「ガンジー」「ジャン・クリストフ」「劇は終った」の抜粋の朗読と共に、一部分収録されているのです。これは日本でも一九六七年に発売されたことがあります。お聴き下さい。(三分十秒)。

@ ロマン・ロラン ― 付・著者の声
    仏フィリップス (モノラル十インチ) A七六七二二R
  ロマン・ロランの肖像
    日ビクター(モノラル十二インチ) SFX七六〇〇
 「スペインを授けよ。スペインは、われわれのため、われわれフランスのため、われわれデモクラシーのために戦っ ている。この両者が危険に瀕しているからである。敵はわれわれを包囲しようとしている。彼らをピレネー山脈ま でこさせてしまうのか?
 スペイン国民は、侵略者に対する南仏の前線である。いったいだれが、われわれを防衛してくれる者たちを防衛 することを禁じようとするのか?
 スペインの戦いはわれわれの戦いである。われわれを防衛しよう。スペイン国 民を防衛しよう! 国民の多数によって選ばれ、他のすべての政府より承認され、国際連盟の一員であるスペインの合法的政府を封じ込めるがごとき行為は、厚顔かつ非道な行為である。なぜなら、自国民を裏切った将軍たちは、その自国民のうえに、外人部隊の傭兵どもを放ったのだから、叛徒を支持したり、スペインの合法的政府に対し、自国防衛のためのあらゆる手段を拒否している政府は、スペイン国民のうえに振りあげさせている斧が、やがて自分たちの頭上に落ちてくることを理解しないのか? もし、明日にでも、自国の植民地が叛乱を起こし、ヨーロッパが自国を孤立させ、叛徒に武器を与えでもしたら、そのときロンドンはなんと言うであろうか? いかなる反デモクラシー的、反フランス的詭弁によって、フランスにおいては、スペイン国民の合法的政府をも、叛乱を起こしたならず者をも、おなじ中立的な物差で測るようになってしまったのか? 彼らならず者は、おこがましくも、自国民に対してばかりでなく、われわれフランス国民に対しても凶悪な脅迫をあえて口にし、全西欧のデモクラシーを粉砕しようとのぞんでいるのだ。」〔山崎庸一郎訳全集未収載。〕

 七十歳のロマン・ロランの若々しい声でした。このフランス版のレコードのジャケットにアンリ・プチがロランにっいて詳しく解説しています。この人は高校生時代から生涯ロランに師事していました。プチはロランの、このメッセージの声について、次のように書いています。「この声は、作品をとく鍵のひとつであり、交響曲の楽章を読んでいるようで、明確な発声、トーンの透明な上品さ、ドラマチックな知性に、すっかり感動します。」

三 フランス革命劇『七月十四日』

これはフランス革命劇八連作のひとつ(一九〇一)です。ロマン・ロランは一九三六年九月、日本の片山敏彦あての手紙に、こう書いています。
 
 「私は八月にフランスを旅行しました。パリでは私の『七月十四日』の上演に幾日か立ち合いました。俳優と観客とが熱烈な信念に燃え上って、壮大な光景を呈しました。フランスの新しい作曲家七人が、各場面の音楽を担当し合って尊い協力を行いました(音楽においては信じられないことなのです)。コメディ・フランセーズ座の大俳優たちが、労働組合の労働者たちと合同して熱狂し、労働者たちは私の戯曲の群衆となって異常な動きと調子とを示しました。ピカソが幕の絵を描いたのでした。つまり全観客(各階級の人々)が民衆の祭典の歌に声を合わせたのであり、その民衆の祭典は天才的な若いコルシカ人トニー・グレゴリーがみごとに演出したのです。三十五年間も黙殺されていたあげくのことで、私の『七月十四日』にとってはすばらしい償いでした。私はそんなことは期待していませんでした。二十日にわたって上演された間に(それ以上は劇場が空いていなくて今年は上演できませんでした。初めは七月十四日のお祭りを期に一週間ぐらい上演するつもりであったからです。)、毎晩二千人の人の入場を断ったのでした。そして街の子供たち(バスチーユ広場とレビュブリク広場との間の街)は、最後の幕の民衆の祭典の歌を歌ったり口笛で吹いたりしていました。」

 ロマン・ロランは片山敏彦にこのように書いていますが、この手紙の最後の数行も、是非読ませて頂きたいと思います。

「音楽があなたにとっても、私にとってすべてであるのと、同じでありますように。すなわち青春の泉であり、肉体と魂とが身を浸して、そこから行動を得て出てくる清らかな泉でありますように。 心をこめてあなたのお手をにぎりしめます。あまりにも散らばりすぎ、沈黙しすぎている日本の友たちに、どうかくれぐれもよろしくお伝えください。」〔姥原徳夫訳〕

まるで、いまの日本人が呼びかけられているみたいですね。
 さて、若い作曲家七人組が共同して作曲した『七月十四日』の音楽のレコードが、一九七六年に録音、制作されました。

A ロマン・ロランの『七月十四日』
   仏シャン・ドゥ・モンドLDX七八五八六(ステレオ)
   ドンディーヌ指揮(平和擁護の音楽)
    (第一幕)
     序曲(イベール)
     パレ・ロワイヤル (オーリック)
    導入と葬送行進曲(ミヨー)
    (第二幕)
     前奏曲(ルーセル)
     自由(ケクラン)
    バスティーユへの行進(オネガー)
    (第三幕)    自由の祭典(ラザリユ)
    合唱 パリ人民アンサンブル

 これらの七曲が上演に際し演奏された場面と方法はよく判りませんが、どれも四分から六分の短い曲です。お聴き下さい。第三幕の「自由の祭典」は、原作の「最後の場面−民衆の祭典 自由の勝利」に歌われるのですが、ロランは歌詞は書いていません。レコードで歌われるのは、―


  自由、われらの最高の愛
  この日の凱歌
  バスティーユ開放、おお喜び
  人民の勝利を歌おう
  ・・・・・

 ロランがこの場に加えた註釈による構想は、とてつもなく壮大で未来的です。とても実現はしませんでしたが。−観衆自身が終わりの歌と踊りに加わる。一刻も音楽は沈黙してはならない。歓喜と行動、自由のテーマ。私はオーケストラやコーラスの新しい性格を想像する。「第九」の行進曲の様式。舞台と観客席のすべての階で合唱。小合唱団と小オーケストラが観客をとりまき、共に歌う気になるように仕向ける。……

四 オペラ『コラ・ブルニヨン』

 ロマン.ロランは『ジャン・クリストフ』を書き終えると、一九一三年春から一年のあいだに、ほんとに古いフランスの笑いの精神を開花させた小説『コラ・ブルニヨン』を執筆しました。これは窮屈なクリストフのヨロイカブトを脱いだから、という以上に、三十年ぶりにフランスに帰国して古いフランスの風土を満喫したこと、更には当時のソフィーアへの手紙に書いていることです。「新しい青春時代にいるのを感じます。じつ皇冒とその春が近頃、情熱的なアヴアンチエールに引き入れました。日毎に歓喜と光へと登ってゆくのを感じます。」それは二十三歳の女優Tで、ジュネーブで一年ほど共に過ごしたようです。
 さて、「道化師」で有名なカバレフスキー(一九〇二⊥九八九)は三十三歳で、当時ソヴィエトで新訳の出た『コラ・ブルニヨン』を読み、この一作だけでもロマン・ロランは不滅だと傾倒し、折から訪ソしたロランと会い、一九三八年この小説のオペラを作曲します。ロランは、特にフランス民謡の本質やメロディーがすばらしい、作品の精神をよく伝えていると、手紙で激賞しました。しかしカバレフスキーは三十年後、これを全面的に改訂した第二版を出します。
 全曲レコードは、一九七三年にソヴィエトからはじめて出され、七六年に同じ録音のアメリカ盤、九二年にイギリスCD盤が出ました。
 ところで、京大に入った年、同志社大学で世界各国の訳書を集めて「ロマン・ロラン展」をやっているというポスターを見て、かけつけました。入口に立っていて初対面の挨拶を交わしたキャップの学生が、後年児童文学の大作家となる今江祥智さんで、数カ月後、大阪阿倍野筋の古本屋「藤井天海堂」でバッタリ会い、ロマン・ロラン、ロマン・ロランと、電車道を何時間も行き来しました。このことがなければ、いま五十数年来の友人となって今日ここに見えていることもなかったでしょう。ロマン・ロランの愛と力ですね。
 そのころ今江さんは同志社で、新村猛先生を中心にロマン・ロラン研究会を開いていたのですが、先生が彼の家に泊って『闘学の十五年』の訳文を推敲されるのを、とやかく言いつつ同席させてもらったこともあります。彼の父親代りのような先生も数年前になくなられましたが、昨年長女の夏子さんからお便りを頂き、父はかなりレコードを残しているので、今江さんと見に来るようにと言われるのです。早速二人で名古屋のお宅に伺って書斎のレコード棚を拝見し、私は『コラ・ブルニヨン』の珍しいメロディア盤をご遺品に頂戴しました。これからお聴き頂くのがそのレコードです。ロランが讃えた民謡の合唱もと考えたのですが、時間の制約から序曲だけお聞き頂きます(全曲約二時間)。

B オペラ『コラ・ブルニヨン』
    露メロディア三三CM〇四二四五−五〇(ステレオ)
    チェムチエーチン指揮 国立音楽劇場管弦楽団
    米コロンビアM三 三三五八八 (ステレオ)
    〔CD〕英オリンピアOCD二九一A+B (ステレオ)

C 組曲『コラ・ブルニヨン』
    英パラフォーンPMC一〇〇七
    シュヒクー指揮フィルハーモニア管弦楽団
    米コロンビアML五一五二
    ゴルシュマン指揮セントルイス交響楽団

 次にポーランドの作曲家ベイルド(一九二八−一九八一)は、一九五一年『組曲コラ・ブルニヨン』(全六曲)を作曲しました。彼は現代音楽も得意としましたが、他方この組曲のように、バロック、ルネッサンスの伝統に忠実で、精神性と情緒性を重んじ、あふれ出る美しさが、この作品を体現しています。次の機会に是非お聴き下さい。

D ベイルド『組曲コラ・ブルニヨン』
    独エレクトローラLC〇二三三 (ステレオ)
    マクシミウク指揮 ポーランド室内管弦楽団

五 グルック『精霊たちの踊り』

 前半を終るに当たり、グルックのオペラ『オルフォイスとエウリディーチェ』の一部をふくむ組曲(モットル編)から、『精霊たちの踊り』を、しみじみお聴き下さい。戦後みすず書房から『ロマン・ロラン全集』が順次刊行されましたとき、第六巻『アントワネット』があまりにも美しいので、別に特製本が作られ、訳者片山敏彦は一九五三年番、次のように「あとがき」に記しました。「この姉弟の物語は世界文学の中での不滅のエレジーである。フランスで早くこの巻だけが出版されていたのは、グルックの『オルフォイス』の、特に『精霊たちの踊り』のフルートを聴きたくなることがたびたびあるのに似た動因が、『アントワネット』自身の中にあるからだろう。」
 片山さんがこう書いた、まさにその頃、東京荻窪の片山さん宅に若い者が集ったとき、片山さんはSPでこの曲をかけて下さったのでした。美しくはるかな思い出です。
 さて、お聴き頂くのは、ケンぺ指揮ウィーンフィルハーモニーのレコードです。ルドルフ・ケンペ (一九一〇−一九七六) は私が長らく傾倒し、先年世界初の伝記まで執筆、出版してしまいましたが、一九五一年ケンペが音楽総監督を務め制作された映画『ベートーヴェンの生涯』では、エロイカの演奏をバックに、ロランの『ベートーヴェン研究』のエロイカの部が朗読されました。お二人は様々に共通なのです。ではお聴き頂いて、休憩に入ります。

E グルック『精霊たちの踊り』
    独エレクトローラASD四七八 (ステレオ)
    ケンぺ指揮 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 
   〔CD〕 英テスタメントSBT一二一七

六 フランス革命劇『獅子座の流星群』

 『獅子座の流星群』(一九二八)は『フランス革命劇』の終曲で、ロランは特にこの作品を愛しました。革命前の公爵は亡命して五十八歳、革命議会議員のルニョーも追放されて六十歳。それぞれスイス、ジュラ山中の町ソリエールに来て共に生活しています。一七九七年秋。仇敵であった二人の間には宇宙の運命を愛する「和解」 の心が深まります。私は「和解」と言えばこの作品を思い出します。公爵はルニョーの十五歳の息子を愛します。第二幕。彼は病弱で一日歩き疲れ横になり公爵は彼を抱く、その時、若い農婦たちが背景で山を下りながら、ソリエールの民謡の子守歌「クリスマスの歌」を合唱し、公爵も口ずさむ。静かで美しい場面です。
 戦前からの岩波文庫の『獅子座の流星群』の巻末には、この歌のロラン自筆の楽譜と片山敏彦の邦訳とが添えられていたのに、第二次、第三次のみすず版全集には、なぜか欠落し、今は読めないのです。そこでこれは「ロランの作品による音楽」ではなく「作品のなかの音楽」ですが、私が歌って聴いて頂くことにしました。楽譜はプログラムにあります。〔本文別添〕
 一方、さきにふれました波多野茂弥さんが、今日の催しを聞いて、ポール・デュパン作曲ピアノ独奏曲『ジャン・クリストフ組曲』の全楽譜という珍しいものを私に提供して下さったのです。これはすばらしい。特に「ゴットフリートおじさん」の曲(一九〇六)はすばらしい。すると、この独奏と私の伴奏を引受けてくれるピアニストが必要ですが、すぐに最高の候補者が頭に浮かびました。ここにお越し頂いた沖本ひとみさんです。プログラムに書きましたように、一九六〇年朝比奈隆指揮の大フィルと皇帝協奏曲を協演してデビューされた卓抜のピアニストで、今は後進の指導に当たっておられます。しかもこの人は私の高津中学の恩師のお嬢さんで、古い友だちなのです。私のために「クリスマスの歌」のピアノ伴奏曲を編曲し、練習用テープまで作り、友情出演してくれることになりました。人生、めぐり合いですね。
 さて私の企画によれば、次に私が独唱することになりますが、失策でした。一時間以上トークして少しの休憩後すぐその人間が歌うなんて、無謀だったと休憩前に気付き、お茶のペットボトルを持って秘かに裏庭へ廻り必死にガラガラやっていると、ひとりこの様を見てニコニコしている五十がらみの男がいる。何と私の大学時代の下宿の孫で、ニコニコしていた五歳の裕ちゃんではないか。人生、めぐり合いです。

F 『クリスマスの歌』
    『獅子座の流星群』第二幕
    スイス・ソリエールの民謡
           独唱 尾 埜 善 司
           伴奏 沖 本 ひとみ


 ロマン・ロランは一九二八年夏スイス山中からソフィーアに宛て、いま『獅子座の流星群』の出版にかかっていると告げ、続いて次のように書いています。〔宮本・山上訳〕
 「私はいちばん美しい国民祭典に参加しました。幾百の火が峰々にともされ、町々や村々の鐘が、家畜の群れの鈴の音にまじって、闇のなかに高まり、正しい澄み切った、美しい声で古い小曲リートヘンが四部合唱で歌われました。そして、ひなびた歌も山々の上から、火の番人たちの方から聞こえてきました。− そのまわり全体に、闇のなかに、歌とともに、小さな日本の提灯の行列が、けわしい山坂の道をうねりくねって行くのでした。私は富士山へゆく日本の巡礼たちのなかにいる心地がしました。」

 『獅子座の流星群』の山中で、これほどまでに、未だ見ぬ日本、いまは失われた日本のなかにいるロマン・ロラン。感動しますね。

七 『ジャン・クリストフ』

 一九〇四年頃にロマン・ロランにめぐり合った若く貧しい作曲家ポール・デュパンは、一九〇六年から八年までの間に、当時刊行されつつあった『ジャン・クリストフ』によって、四つのピアノ曲を作曲し、組曲『ジャン・クリストフ』として出版しました。さきに申しましたように、波多野さんがご所蔵のこの貴重な楽譜をこんど提供して下さったのです。最近のロランの研究書には、デュパンの名が、しばしば現れ、深い交友が偲ばれます。

G ポール・デュパン『組曲ジャン・クリストフ』
    1 ゴットフリートおじさん
      (ゴットフリートおじさんと彼の若いジャン・クリストフとの対話)
    2 瞑想
    3 息子ジャン・クリストフによるルイーザへの子守歌
    4 キリスト教徒の旅の歌
    (パルウ・ゲルハルトの詩による)バリトンとコントラルト

 沖本さんと意見が一致したのですが、今日は取りわけすばらしい「ゴットフリートおじさん」を聴いて頂くことにしました。彼はクリストフの母ルイーザの弟で、小柄で貧弱で静かな旅の行商人です。クリストフの少年の頃に現れる彼の姿と言葉の魅力を、読者は生涯忘れることができないでしょう。彼はクリストフに音楽のたましいを伝えたのです。
 お配りしたプログラムに、この曲の楽譜の冒頭をコピーしました。その左上に『ジャン・クリストフ』の一節の原文が掲げられていますが、下にその、私による訳文を載せました。〔本文別添。亡き山口三夫さんの若者のための『ロマン・ロランの生涯』 (理論社) にはロラン自筆のこの部分の楽譜と文章が載っています。〕
 この曲は、この一文の情景に続き、ライン河畔を散歩する二人の対話を音楽にしたものです。その対話の精髄をここで読みます。たくさんの名訳がありますが、今日は宮本正晴訳を読みたいと思います。
 宮本さんは早稲田大学の卒論にロマン・ロランを選び、子供たちのために『ジャン・クリストフ』の、主に幼少年時代の部分を訳し、卒業してこの関西日仏学館(当時、九条山)に赴任してきた二十五歳、大正十五年にこの本が出版されました。いまは実に珍しいその本が、この美しいブルーの三〇〇ページの小型本です。「ロマン・ローラン物語『ジャン・クリストフ』文学士宮本正晴述(文教書院)」と記されている。なぜこの本が私の手もとにあるのでしょうか。高津中学の沖本先生の教え子、私の同級生も何人かこの席に見えますが、肥田暗三君は江戸文学の大家で、古書の菟集でも名高い人物です。いつか、この人から小包が届きました。「君の傾倒しているロマン・ロランの本。よぅやく書庫から出て来たので贈ります。」とあり、この本が包まれていたのです。古い友情を深くさせるロランの愛と力に感動しました。読みます。〔中間省略し、ドイツ語を付加。現代表記に。〕

 クリストフは、もう息もつかなかった。身動きさえもせず、感激のために身に寒さを覚えた。唄が終るとクリストフはゴットフリートにすり寄って叫んだ。
 「伯父さん!」
 「坊や……」
 「ありゃ何なの、伯父さん?教えて!何を歌ったの?」
 「知らないよ。歌だよ」
 「伯父さんの歌かい?」
 「ばかなー・わしの歌かい! 古い歌だよ。」
 「誰が掃えたの?」
 「わからないよ……」
 「伯父さんの小さい時分にかい?」
 「わしの生まれる前だ。わしの父さんの生まれる前だ。お父さんのお父さん、そのお父さんのお父さんの、またお父さんの生まれる前だ…‥・あの歌は苦からあったのだよ。」
 〔クリストフは成長し、恋もしました。ある冬の朝、ゴットフリートと今は亡き父の墓に参り、散歩しながら、心の苦悩を打ちあけます。〕
 「僕は誓いに背いたんです。」
 「希望のぞみをもつのだよ。」
 「でも望んだって無駄だったら?」
 「神さまにお祈りするさ。」
 「でも僕は神を信じないんですもの。」
 ゴットフリートは微笑にっこりしていった。
 「いいや、信じていないならお前は生きて行かれないはずだ。誰だって、心のいちばんの奥底では信じているものだ。祈りなさい。」
「何を祈るんです?」
 ゴットフリートは丘の端にまっ赤に現れかかった太陽を指さした。
 「お陽さまの出ないうちからお祈りするのだよ。十年も先のことを考えるのはお止し。今日一日のことを考えるのだ。……今に春がきて、立派な地面は目をさますのだよ。お前の心も立派な地面のように辛抱づよくなくちゃいけない。……人はみんな自分で出来るだけのことをしなければならん。A−sichkanロ自分にできる限り。」
 二人は丘の頂きについた。そして優しく接吻して別れた。小さい行商人は疲れたあしどりで遠ざかって行った。その叔父の後姿を見送りながら、クリストフは黙って立っていた。
 「自分に出来る限り……」という叔父さんの言葉が何ペんも練りかえされた。微笑ほほえみがうかんできた。

               

 Ach ich kann 私にできるだけのことを。指揮者ケンぺも晩年にこの言葉を繰り返しました。ロマン・ロランは死の年、『ジャン・クリストフ』特別版の一冊の扉に、次の言葉を書き遺しました。

    〈私にできるだけのことを。)これはソクラテスが好んで繰り返した言葉であった。実に中味の濃い言葉である。
                             ― モンテーニュ

               

 お手もとの楽譜〔本文別添〕に見えますように、デュパンは、何個所かの楽節の頑に「ゴットフリートおじさん」とか「クリストフのおじさんとの対話」とか「クリストフは続ける」とか、註を付けています。そこでこの七分間のすばらしいピアノ曲が、いっそうよく判りますように、沖本さんに、二回演奏して頂きます。初めには演奏中、その個所で私が註を入れます。次に再び全曲を演奏して頂きます。では、沖本先生お願いします。

G ポール・デュパン作曲『ジャン・クリストフ組曲』から
   「ゴットフリートおじさん」(ゴットフリートおじさんとジャン・クリストフとの対話)
           ピアノ独奏 沖 本 ひとみ


  〔追記〕これは、二〇〇三年五月十日、関西日仏学館で開かれた催しの状況に、少し補足したものです。当日稲ホールに溢れ、二時間半にわたり終始傾聴して下さった、ロマン・ロランと音楽を愛する皆さんに対し、あらためて感謝します。
                      
((財)ロマン・ロラン研究所理事長・弁護士)