宮本正清先生の思い出 小田 秀子



 私事で恐縮ですが、夫の転勤で東京、名古屋で数年過ごして京都に帰ったのは一九六七年の春でした。名古屋時代の社宅は千種区徳川山町にあり、近くには名古屋大学教授の方々がお住まいでした。湯川博士と同じ物理の坂田昌一教授の奥様は、本好きの私とは毎月鶴舞図書館の読書会に出たり、国文学者の高木市之助先生の会にも参加していました。そこで学ぶ楽しみを知ることができました。
 短歌会館の広い和室で高木先生はウィスキーの小瓶を横に置かれ、文学、映画、演劇と談論風発、楽しいひとときでした。
 京都に帰ってからも数年がたって何か学びたく思っていました。『宮本正清教授がご自宅でロマン・ロランセミナーを一般に開放』という新聞記事を見たのです。ロランは西洋で最も好きな作家で、長女の高校卒業のお祝に『魅せられたる魂』を贈ったところでした。
 セミナーに出席のお許しを得るためお電話をしましたら、宮本先生は優しく丁寧に道筋をお教え下さいました。その頃京都を走っていた市電に揺られ閑静な銀閣寺近くのお宅を訪れました。ご門を潜ると優しい植込みに迎えられ、お玄関からはヱイ子夫人がご案内下さいました。立派なお座敷二間を通した床の間を背に宮本先生が、その両側に波多野先生と大橋様が坐ってられました。
 リポーターのお話のあと先生が補足され、皆の討議となり、セミナーの終る頃には大皿に盛られたクッキーと、紅茶が配られました。心満たされ、お礼とお別れのご挨拶をすると、先生は玄関まで見送りにいらして「来月もまたいらして下さい。」と優しく仰言るのでした。
 いつか雑談の折、「戦前の日本にヒューマニズムはあったのでしょうか。」とつまらぬ事を尋ねましたら「それは大変いい質問です。」と言って下さいました。
 日本は江戸時代の長い鎖国や、武士道精神は歪んだ形で軍国主義となり、知性や良識を押し切り無謀な戦争に突入してしまいました。敗戦にもかかわらず日本の驚異的な発展の陰に、どれ程多くの有為な若者たちが貴重な生命を失ったことでしょう。
 若き日私は京都大学文学部木村素衛教授に私淑していました。ある日、大学の先生の研究室にお伺いしている時、突然見知らぬ男が入って来て先生とお話をして出て行きました。「今のは特高で少々うるさいんだよ。」と素衛先生が仰言いました。
 そのうるさき特高は、一九四五年六月十五日突然正清先生を連行、拘禁、八月十六日、敗戦の日まで先生の自由を奪いました。お優しくて、ロラン文学に生涯を捧げてられた先生がなぜそのような非道な苦痛を受けられたのでしょうか。
 先生の詩集『焼き殺されたいとし子らへ』にはその時の先生のお苦しみが詠まれていて読み続ける事が辛くなり、先生から直接頂いた詩集『生命の歌』を拝読したのです。先生の二十代頃の詩ですばらしく、形容し易い感動でいっぱいになりました。宮本先生は元来優れた詩人でいらしたのですね。先生が偉大なるヒユーマニスト、詩人でいらした故に、ロマン・ロランの膨大な作品の名訳が成されたのですね。
 先生が逝かれて早くも二十年近い才月が流れ去りました。ロラン研究所は理事長、尾埜善司様、ヱイ子夫人のご熱意、ご献身によってより充実発展の形で継続されています。
 〈日本ロマン・ロランの友の会〉創立50周年記念では園田高弘先生のピアノでベートーベンを聴き、例会では、岡田暁生先生の音楽談義は強い印象を受けました。最高の知性の諸先生のお話を親しく聴講し、日仏学館のガーデン・パーティーには世界的音楽家も参加されました。 また最高の女性として尊敬していた故千登三子夫人も会員でいらしてパーティの折に親しくお話させて頂きました。
 去年はロマン・ロラン研究所設立三十周年記念で、神谷郁代先生のピアノでベートーベンの『熱情』、その他を聴き、ラ・ミューズでフランス料理のすてきなディナーパーティを楽しみました。常に精神のこよなく高い所で心の贅沢を享受させて頂いていますロラン研究所に心から深く感謝致して居ります。 正清先生のご遺徳を深く追慕し、研究所の益々のご発展をお祈り申し上げます。
 拙きペンにてどうかお許し下さいませ。                       

(賛助会員)