ベートーヴェン『第九交響曲』(合唱付)フィナーレについて 森 久 光 雄


  1.思い出。
 ロマン・ロラン・セミナー読書会資料である、ロマン・ロランの 『ベートーヴェン研究V』(第九交響曲)(注1)の序文の中で、ロランは「ベートーヴェンと私は古い道づれ」であり、ロランが一四、五歳のとき「彼(ベートーヴェン)がやってきて私の手をとり、私を選び、私も彼を選んだ」と言っています。また、彼にとって「ベートーヴェンは欠乏していた大気であり、焦がれてやまなかった自然であり、‥‥存在するあるものとのおぼろげな接触なのであった。」と述べています。さらに、「大人となり日常の苦しい闘いを強いられていた時、ベートーヴェンは交響曲という騎馬隊のなかで私を鍛えてくれた隊長であった」とあります。   私が初めて第九を聴いたのは、同じく一四歳のころでした。そのときは何かすごいものがあると感じただけでした。それから一年後、高校生の時、NBS(日本短波放送)でフルトヴュングラー指揮のバイロイトでの第九を初めて聴きました。独特の緩急自在の哲学的な演奏に加えて、短波放送独特のフェージングと共に不思議な印象となって、第九が深く私のなかに刻まれたのはこのときです。
 一九歳のころ、私は大学受験浪人で九州から京都に出て来ていました。
 京都・出町柳の音楽喫茶『柳月堂』にはクラシックレコードが沢山あり、そこで私は受験勉強に疲れた心をしばしばベートーヴェンによって癒したのでした。そのなかで、ベートーヴェンが『第九』で何を言いたかったのかを探求したいとの思いが、弥が上にも増していました。 私はその後、技術者の道を選んでいました。しかし、少年のころのベートーヴェン、なかんづく『第九』への探求心は消えることはなく、以来四年になります。その間、奈良の『第九』合唱団に加わり自ら触れるとともに、ロマン・ロラン・セミナー(読書会)例会(注2)で研究発表し、デスカションして戴いたりしております。

 2.『第九』の最終楽章(フィナーレ)の構成と内容。
 ここでは、第四楽章の流れに合わせ、ロランの著書(注1)の引用(文中☆印)と、私のコメント(文中★印)で解説します。なお、ベートーヴェンの信仰の哲学がうかがえる「(9)宗教的、祈りの部分」の項はやや詳しく記しました。

(1) 開幕。
★ 激しいPresto。重要な意義をもった哲学劇の始まりを示唆します。
(2) 第一楽章から第三楽章までの回想と否定。
★ 各楽章のテーマが一つずつ回想され、また一つずつ否定されていきます。
☆ ロランは‥‥
 R.R.:第一のもの(第一楽章アレグロの動機)は、絶望のいまわしい回帰に反抗する、暴力的なフォルテッシモで、― 第二のもの(スケルツォの動機)は、決然としているが怒りをふくまないフォルテで、― 第三のもの、アダージョの美しい楽句は、魅惑的に靡【なびか】んばかりの愛情をこめたピアノで、だが、クレシュンドで思いなおして、よりはつらつと、他の歌の意志を力強く肯定することによって、いずれも否定される。(73U9 → 73L3)
@ まず第一楽章のテーマが神秘的に響きます。
★ しかし、運命との飽くなき闘争だけでは不十分として否定されます。

A 次に第二楽章のテーマが出て来ます。
★ しかし、これも否定されます。つまり、人間的な楽しみを求めるだけでは駄目と言っている様に私には聞こえます。
☆ ロランは‥‥
 R.R.:いらだったベートーヴェンは夢中になってさがしていたものが(茶番)にすぎないのだということを知って、下らぬものとしてそれを投げ捨てる。スケッチの上部で彼は書いている。「やはりこれではない。こんなものは茶番だ。もっと晴れやかなもの、もっと美しくて良いものでなければならぬ。」(43L3 → 43L10)
B 次は第三楽章のテーマが鳴り響きます。しかし、弱々しいと、否定されます。
☆ ロランは‥‥
 R.R.:ベートーヴェンはアダージョにいたって、第一楽章に示した嫌悪や第二楽章に感じた侮べつをもってそれを投げすてようとはしない。彼がその追憶のあわれみにとらえられ、始めは声を低めて語っていることがよくわかる。だが結局は思い直して、決然とアダージョを投げ捨てる。「れでもない。これはあまりにもやさしすぎる。もっとはつらつたるものを求めなければならぬ」と彼は上部に書いている。彼は夢想を閉め出す。人間の世界に入ろう!(57U2 → 57UB6)
★ このように、第四楽章の始まりに当たってその前の楽章が否定されるのはなぜでしょうか。これは、第四楽章の中に、ベートーヴェンが言いたかった究極のもの、つまり「歓喜」が籠められており、それを際立たせるためと考えられます。音楽家でありながら、耳が聞こえない、それのみならず、あらゆる苦しみの真っ只中にあって、通常であれば、絶望するところでも、「歓喜」を見いだして、生きて生きて生き抜く、力強い生命の境涯を教えてくれているような気がします。

(3) 歓喜のテーマの出現。
★ 次に歓喜のテーマの断片が鳴らされると、そうだ、と肯定されます。歓喜の表現は、段々明確になって来、ついには、管弦楽フル演奏で示されます。そして、器楽だけでは余りに語り切れない歓喜の意味について、シラーの詩を借りて表現しょうと、再び、新たに開幕のPresto が鳴りわたります。

(4) ベートーヴェン自身の詩句(バリトン、ソロ)[小節216-236]
 おお 友よ/この調べでなく、もっと快い/そして歓喜に満ちた調べに/共に心を合わせよう。
★ これは、大変重要なところであると思います。なぜならば、この部分は、ベートーヴェンが自らの言語で、「歓喜」こそ最も究極の価値のものであり、それに比較した場合、それ以下の価値のものは否定されるものであることを明確に表現した、ベートーヴェンの唯一の言語メッセージだからであります。

(5) 歓喜の原理と事例(合唱、四重唱)[237-330]。
★ ベートーヴェンはシラーの詩句を大切にしていますが、それはシラーの詩を借りて(借文して)いるのであって、シラーの原詩は、第九のなかでは解体されてしまっています。
 以下、和訳は手塚富雄氏(相良守峯編『ドイツ詩集』角川文庫)によります。
@喜びよ、君は美しい火花/天のむすめ、…・
 人はみな兄弟だ/きみ(歓喜)のやさしい翼のおおうところ。=@[237-264]
★ ここでは、歓喜の魔力について、原理、理念を示していると思われます。
A大きい願いが充たされて/ひとりの友の友となりえたものは、‥‥
 だが喜びの天使は神の座ちかく立っている。ー269-330]
★ ここでは、現実生活に於ける歓喜の事例を示していると思われます。

(6) もろもろの太陽が/壮麗な天空を飛びめぐつているように‥‥
 英雄のように喜ばしく勝利をめざせ。“[375−431]
★ 太陽が自らの軌道を飛びゆくように、我らも、我らが決めた道を勇気を持って進め、とのベートーヴェンの激励と考えられます。

(7) 管弦楽。
★ 「歓喜の音律」の再演。信仰の歌への前奏曲とも取れます。

(8) 歓喜の合唱[543−590]。
★ 信仰の領域に入るための、前提としての「歓喜」の確認。
☆ ロランは‥‥
 R.R.:「歓喜」の主題は勝利と自然力に満ちて全合唱で布告され登場する。人はこの作品も終わりに、すなわち「歓喜」の勝利に至ったのだと思い込むだろう‥‥しかし、彼の円熟した思想は、絢爛としているがうつろいやすい人間的勝利の段階を過ぎた。(91U10 → 91L6)


 (9) 宗教的、祈りの部分[595-654]。
☆ ロランは‥‥
 R.R.:すべては不意に変化した。・・この交響曲にまだ出現しなかった宗教的な主題の上に主唱するのは男性合唱のみである。・・ついで女性合唱が賛歌をとりあげる。(92L11 → 92LB3)
★ この部分は歓喜の源泉、根拠となる、信仰についての部分です。

@”さあ、抱きあおう。千万の人々よ/この接吻を全世界に。=@[596-610]
★ これは人類の連帯の呼びかけです。
A兄弟たちよ − あの星空の上に必ず一人の父は住んでいる。=@[611-626]
★ 「偉大なるもの」の実在への確信を、私たちに村し呼びかける。
B脆くのだね君たちは? 千万の人よ/世界よ/きみは造物主を予感するのだね。“[627-638]
★ 「偉大なるもの」への求道を示す。
C”星空の上に彼を求めよ、星々の上に彼は住む。“[639-654]
★ 「偉大なるもの」の住所について示唆する。
D(合唱) [655-729]
★ いままで出て来た全ての概念がフーガで再現される。
E”脆くのだね君たちは? 千万の人々よ/[730-745]世界よ/きみは造物主を予感するのだね/星空の上に彼を求めよ。
★ 再び、「偉大なるもの」への求道を訴える。
F兄弟たちよ! 星空の1に彼は住む。″[745-762]
★ 再び、「偉大なるもの」の住所を示す。この部分が、この曲の一つのクライマックスであること、ベートーヴェンの信仰の哲学がうかがえるので、やや詳しく、以下、コメントします。
@「偉大なるもの」の実在への確信について。
 楽譜上で、muß(必ず)“の出てくる所が六ヶ所(615,622,645,653,735,867)あり、その中で、622小節の”muß(必ず)″にべートーヴュンは、「forte(フォルテ、強く)」の指示をしています。これは、”Vater/Er(父、偉大なるもの)“が必ず実在することの深い確信をここで強調するためであったと思われます。なお、”muß(必ず)“への合唱者へのforte指示は指揮者により様々ですが、メンゲルベルク(注3)は615,645,653,753の各小節のmuß(必ず)≠forteで強く歌わせています。
A「偉大なるもの」の住所について。
・ベートーヴェンは、「歓喜」の根源としての「Vater/Er(父、偉大なるもの)」がどこに住んでいるかについては、シラーのÜber Sternen(星々の上)/Über sternenzelt(星空の上)″を文の上ではそのまま使っています。
・ベートーヴェンの住んでいた世界はキリスト教文化のなかであり、神の住所を、天空にあるSternen(星々)/Stelnenzelt(星空)″の上と、シラーの詩を借りて表現したのは一応、当然と思われます。
・しかし、興味深いことに、ベートーヴェンは、楽譜上ではこのSternen(星々)/Stelnenzelt(星空))≠フ箇所には、muß(必ず)“の箇所にあったような、強調を示す「forte」は指示していません。
・これは、ベートーヴェンはカントの『実践理性批判』等に触れることを通して、内面の宇宙と外面の宇宙の共通性を理解しており(注4)、その「偉大なるもの」の住所を天空と限定するのでなく、私たちの生命の奥底にも必ず「偉大なるもの」が存在するとの覚知をしていたと思われます。
・このことについての真相は、ベートーヴェン自身に聞いてみるしかありませんが、それも叶いませんので、さらに研究を重ね、思索してみたいと考えます。
(10) 各主要歌詞の再現[767-920]
☆ ロランは‥‥
 R.R.:しかし「祝祭の日」は終わっていない。‥‥いまやあたらしい光りにまったくひたされた歓喜の賛歌を再び取り上げる。…・(95U7 → 95L1)
(11) 閉幕[921−940]。
★ 開幕がPrestoで劇的に始まったように、閉幕もPrstissimoで締めくくられます。これは第九全体の中で、第三楽章までは序論で、第四楽章が独立した一纏まりのものであり、結論であることを示していると考えられます。

 3.むすび。
 この原稿を書いている一九九八年二月七日、テレビで一九九八年長野オリンピック開会式のセレモニーの一つとして、小沢征爾指揮で五大陸の各都市(ベルリン、ニューヨーク、北京、シドニー、ケープポイント[南ア])と長野を結ぶ 「歓喜の歌」の初の世界同時合唱を中継放送しておりました。ベートーヴェンが第九を完成(一八二四年二月)して一七四年後、最新の衛星通信技術ツールで初めて実現したものであり、ベートーヴェンもさぞビックリしていることでしょう。私は、ベートーヴェンが第九で私たちに与えてくれたメッセージのコンテンツを、より深く読みとり、それをもとにグローバルな対話をすることをライフワークの一つとしたいと考えています。                         以 上
                    
(一九四一年生れ、シャープKK、C・A・Eセンター社員)


 
(注)
(1) 口マン・ロラン全集(みすず書房)第二五巻『ベートーヴェン研究V』の『第九交響曲』の章より 文 中のR・R≠ヘ同書からの引用、下記記号例はページ、場所を示します。 
 (例)・3U12:同書三ページ目、上[Upper]欄、前から一二行目
        ・9LB11:同書九ページ目、下[Lower]欄、後[Back]肖から一一行目
(2) 第一八七回読書会(一九九七年一一月二二日午後二時−四時、ロマン・ロラン研究所にて実施)資料:「ベートーヴェン交響曲第九番(合唱付き)フィナーレについて一口マン・ロランに学ぶー」
   (第一五三回、第一五四回、第一五五回読書会での発表をもとに纏めたものです。)
(3) メンゲルベルグ。オランダのアムステルダム・コンセルト・ヘボウ管弦楽団の指揮者。一九四〇年五月 録音のライブ演奏は、個性的、開放的で、しかも管弦楽、合唱の歯切れの良さは格別でありながら、強い確信の信仰の感じられる名演である。(CD:PHILIPS・四一六  二〇五−二)
(4) 筆談帳から:カントの『実践理性批判』より。「われわれのうちなる道徳律、われわれの頭上なる星空! カントM!!!」