ロマン・ロランと結核の時代 福 田 眞 人



1. 結核の時代
 ロマン・ロラン(Romain Rolland,1866-1944)が結核だったかどうかは知らない。また、彼の研究史の中でもそうした病について詳しく触れたものは眼にしたことがない。ただ、彼は結核(tuberculose,1839年の造語)がまだ死病として恐れられていた時代に生きていたことは確かだ。しかも、彼の生きた時代、1866年から1944年というのは結核史を考えるとき、大きな変化の時代であったとも言える。
 世にはまだフランス革命に前後して起こったロマン主義の風潮が残っていたかも知れない。英国では、詩人キーツ(John Keats, 1795-1821)が肺病(consomption, 19世紀によく用いられた結核の病名)で死に、バイロン卿(Lord Byron, 1788-1824)は女友達が美しいと言ってくれるだろうと信じて同じ病に倒れることを望んでいた。英国人もフランス人も、イタリアの輝かしい光のもとで、あるは海岸の潮風の中で肺病を治そうと考えて南の国へやって来ていた。
 しかし、皮肉なことに、彼らの国北ヨーロッパでは肺病は遺伝病としてあまり恐怖の対象になっていなかったが、イタリア、スペインのある南欧では肺病はもっとも恐るべき病として認識され、すでに1699年にイタリアのルッカ共和国で、また1751年にはスペインで肺病予防法が制定され、患者の届出制度のみならず、患者の死後の部屋の始末にまで詳しい規定があって(衣裳やベッドの処置の他に窓や床を剥がすことも含む)、それらには必ず罰則(医師免許の剥奪から、奴隷船での服役まで)が付いていたのである。
 こうした北欧と南欧の違いにもっとも戸惑わされたのは、肺病に冒されてパリからスペインのマジョルカ島にやってきた作曲家のショパン(Frédéric Chopin, 1810-49)であろう。彼は、パリでサロンに自由に出入りして生活を楽しんでいたが、マジョルカ島では到着早々、病気を理由に馬車を貸して貰えなかったばかりか、旅篭はたごでの宿泊も断られたのである。あの有名な「雨垂れ」といった曲は、雨漏りする廃屋の修道院での生活に起因するのである。
 しかし、その扱いがどうであれ、世には肺病患者が溢れていたのであり、それはさらに増加の傾向にあった。現実には、苦しい闘病生活が待っていたし、またそれはほとんど死刑執行状に等しいとも考えられていたのである。
 多くの貧しい医者にもかかれない人々がこの肺病で倒れた。近代化過程で、産業化と都市化が進んだ時、都会にあふれ稠密で非衛生的な労働・住・食環境に置かれた労働者たちは一様に健康を害し、肺病蔓延の元凶となった。

2. 肺病のロマン化
 世に肺病が蔓延し、死んでいく人々が引きもきらなかった時に、その一方でこの病を美しい病、才能を与える病と言った肯定的なイメージがどんどん広がっていった。それこそが肺病のロマン化というべきものである。恐らくそれは英国の18世紀の棺桶派(墓場派、葬儀派とも)と呼ばれる詩人の一派に発するのだが、やがて19歳で自殺した早熟の天才詩人チャタートン(Thomas Chatterton1752-70)の神話化によって一層その拍車がかかったと言ってよい。
 やがて世にロマン主義が流行するに至って、キーツが母と弟を肺病で失い、また自身もその病に倒れた頃、英国はいわば肺病による死亡率のピークを迎えていた。それは偶然の一致だったのかも知れないが、肺病が詩人たちの病と称せられたのには、彼らの多くが、キーツ、シェリーらが、あるいはこの病を悩み、あるいは倒れたということに由来する。その情熱的な生涯が、創造精神に溢れた活動が、彼らに肺病をもたらしたという考えもあったし、またその逆に肺病こそが天才を生んだのであるという考えも広がっていたのである。それは、美的であるという考え、また女性なら美人を生み、この病ゆえに短命であるという、佳人薄命のイメージさえ容認されたのである。それが、独特の意味付けを持ち、どれ程人口に膾炙していたかは、こうした意見を医者さえ共有していたという事で十分理解することができよう。
 世に肺病患者が満ち、その死者が後を断たなかった時に、一種の「死の流行」が起こった。それは単に肺病による死者の増加ということのみならず、そこに死にまつわるさまざまな事象が新たに付加されたことによる。たとえばそれは、葬儀に際し、人々が墓地に集い死者に最後の別れを告げる風習が広がり、棺桶の上に花輪を置くようになったこと、そしてそれは更に病床を見舞う絵や、夫の死後喪に服する若い美しい未亡人を描く絵が非常な流行をみた、墓碑銘に流行の死に関する詩集からの一節を引用するといったことである。
 おそらくは、そうした世の風潮に最後のタッチを加えたのは、英国のラファエロ前派の人々の絵であろう。英国留学中に夏目漱石が愛し、帰国後「永日小品」といった作品の中でその絵画の雰囲気をつたえたラファエロ前派の画家たちは、その美のモデルとしてまったく偶然に肺病患者を据え、その蒼白の顔貌、大きな輝く目、痩せた身体を描いて、よの容貌を広く世に広めたのである。

3. 医学と肺病
 肺病による死亡率が最高に達していた18世紀末から19世紀全般にかけて、医学は肺病に関する限り無力であったというのが実情である。
 それは、ようやく聴診法と打診法によって(臨床観察とと病理解剖との突き合わせによって)肺病の診断がじょじょに正確になってきはしていたものの、世にはなお肺病遺伝説が有力で、伝染説には十分な説得力がなかったということと共に、まだ効果的な治療法が開発、使用されていなかったことと無関係ではなかった。
 つまり、医学的に肺病を発病する原因も不明だったし、治し方も不明だったということである。そのことは、肺病の原因が不満や鬱屈した精神状態によるという考え方、コーヒーや煙草の摂取過多、ダンスのし過ぎ、房事過多、勉学への過度の集中、肌の露出過多等々によるという、およそ医学の無力を示す様々な説が流布されていたことと共に、効果的と医者が勧めた療法は、瀉血しゃけつ(放血、刺絡しらく)、下剤をかけること(鉱泉飲用もその一端だった)、軟膏を塗布、安静療法、転地療養、食餌療法、運動療法としての乗馬だった。特に瀉血は、ギリシャ時代から20世紀までも続いたもっとも医学の正統的な療法だった。人が、病気の時に血を抜かれ、下剤をかけられ、軟膏を塗られ、食事を制限されて馬に乗せられたら、たいがいは死ぬであろう。それが19世紀初の医学の常識であった。

4. ロマン・ロランの時代と肺病
 ロランは、そのような肺病患者にとって不安な時代から、次第に19世紀中頃に隆盛になった細菌学の黄金期に生まれたのである。もちろんその黄金期を支えたのはフランスのパスツール(Louis Pasteur, 1822-95)であり、ドイツのコッホ(Robert Koch, 1843-1910)であった。
 コッホは1882年に肺病の原因としての結核菌を同定し、それを世界に向けて発表した。しかし、1890年にコッホが発表したツベルクリンと共にこの肺病(結核)を駆逐するかと思われた結核菌の発見は、結局、医学的に何の恩恵もなく、ただ顕微鏡による結核菌の有無の検査に役立っただけだった。
 再び医学的ニヒリズムが立ち現れ、まるで医学の無力を証明するように、医者は患者を転地療養に送り出すか、あるいは新しいサナトリウム療法(医学的監視のもとの大気開放療法)を処方するしかなかった。このドイツのブレマーによって始められたサナトリウム療法は、山岳地帯の療養所で医師の監視の下、栄養療法、大気療法を行うものであった。
 それ以前に存在した方法としては、田舎に篭ること、温泉地に行ってそこで鉱泉に漬かり鉱泉を飲用すること、海浜にでかけそこで海水浴をし海水を飲用することなどであった。この山岳サナトリウム療法は、スイスやドイツの山岳地帯に肺病患者が少なかったという事実に立脚するものであったが、その理由付けとして、山岳の寒く薄い空気、大気圧の低いのがよいと考えられていた。実際には、そうした地方にたまたままだ肺病が蔓延していなかっただけなのだが、そうした事実を科学的に理解することはまだできなかったのである。
 1890年にコッホが創製したツベルクリンも、肺病患者に有害であれ効果が無いことが分かって、また人々は一種の虚無主義に陥り、いわゆる通俗療法などに頼ることが多くなっていたのである。サナトリウム療法は、そうした中で唯一医者の面子を保てる説得力のある処方だったのである。

5. ロマン・ロランの経験
 このような医学、社会状況でのロマン・ロランの肺病、結核経験とはどのような形で彼の作品の中に反映しているのであろうか。今、とりわけ自伝的要素の濃い作品に触れながら、彼の時代の肺病像を見てみよう。
 1882年から1889年の間の日記の写しを1952年に発表した『ウルムの僧院』(以下、『ウ』、引用はみすず書房全集第6巻、蝦原徳夫訳による)の描写を見ると、
 「ぼくたち1866年から72年にかけて生まれた世代が青春時代をどのような精神的環境の中で過ごさねばならなかったかは、後世には理解しがたいものになるだろう。(中略)ぼくらにとっては、死は目の前にぶらさがっている定まったもの、すなわち戦争なのだ。」(p.183)
 この世代がとりわけ戦争による死を意識しなければならなかったと言っているのだが、同時に、彼らを取り囲んでいたもう一つの状況とは、結核を含めた様々な病気による夭折ようせつ(若死、早世)であった。死がそれだけまだ親しい時代であったからこそ、不安が日々の生活を彩っていたのであり、またそうした中でロランは、「当時のぼくの本性(ぼくの健康、その健康が遭遇した危機)は、あまりにひ弱かった」(p.234)ということを痛感しなければならなかったのだが、それは生涯彼が背負っていた呼吸器系の疾患であった。
 しかし、ロランが生涯背負ったこのひ弱さと不健康は偶然のものではなく、彼の説明するところによれば、次のようになる。
 「私は、用事の一つの出来事のつらい結果を生涯になうことになった。というのは、私がまだ満一歳に充たなかったとき、若い女中が不注意にも冬の寒さの中に私を置きっ放しにして忘れていたため、私はもう少しで死ぬところであり、このことが私の一生涯に、気管支炎と呼吸困難との弱点を残した。」(『内面の旅路』1956年,p.290)

 こうして、結核に関連ある事象にとりわけ強い興味を示し続けたロランは、自らの文学の中に、そうした呼吸器疾患患者特有の記述があることに自ら気付かないわけにはいかなかった。それは、次のように書かれている。「私の書くものの中には、砕かれる飛躍みたいに次のような言葉が、思わず繰り返して出て来るのを人は見るだろうー『呼吸の』(respiratoires)ー『息苦しさ』(etouffement)ー『開かれた窓』(fenêtres ouvertes)ー『自由な大気』(air libre)ー『半神たちの息吹き』(souffle des héros)ー羽ばたく鳥、あるいは、傷ついた胸の篭の中に熱を病んで身をくぐませている鳥。」(同所)
 この一節は、フランスの象徴詩に傾倒し、やがて肺結核に倒れることになる堀辰雄の不思議な詩「死」(昭和3年)に暗合する。そこで彼はこのように歌っている。

 「僕の骨にとまっている
  小鳥よ 肺結核よ

  おめへが嘴で突つくから
  僕の痰には血が混じる

  おまえが羽ばたくと
  僕は咳をする」(以下略)

 不思議なことに、ロランがさかんに心配していた彼自身の「ほとんど病的ともいえるほど過度な感受性や、情熱的な理想主義」(p.245)はまた、19世紀よりはるか以前から医者がしばしば肺病の原因と考えているものだった。既に述べたように、肺病の原因が不満や鬱屈した精神状態によるという考え方が支配的だった時代においては、ロラン自身が、自身の病的身体状況を考える時に、その病的精神状態をまず考えたという点が興味深い。
 しかし、ロラン自身よりは、友人の間で結核ののろしが上がるのである。それは、ロランが貴重な友人と見なしていたミルの発病と療養、そして死だった。1888年6月6日に病気と感じていたミルは、6月20日に医師に結核と診断され、「空気のいい牧場で、肉体と精神とを絶対的に休息させるよう」命ぜられたのである。この一見奇妙な転地療養の命令は、しかし、当時流行していた医学的治療法としての牧場休養を示していて興味深い。なぜ牧場かと言うと、牛舎の藁敷きの独特の湿気と匂いが肺によい効果をもたらすと考えられていたからであった。またそこには、牛乳が栄養療法のひとつとして称揚されていたことも無関係ではなかったかも知れない。(もっとも、人乳、驢馬ろば乳、山羊やぎ乳、牛乳の順に効果が下がると言う説も長い間有力だった。そのため、乳女めのとを雇うということもあった。)転地し、休養し、栄養を摂る他、医学的と言える治療法は皆無だったのである。

6. 投影された結核の影
 ロランが書いた多くの伝記の内で『ヴェートベンの生涯』(1903年)ほど、結核の影を色濃く見ることができる作品は少ないだろう。それは、この作品の中でロランが楽聖ヴェートベンの真に偉大であった意味を探ろうとしているのだが、そうした文脈の中で病気、ひいては結核が普通以上に意味を帯びていることから察することができる。
 そうした観点から、この作品の冒頭でいみじくも語られているように、一般論としての英雄を語る際、「悲劇的な運命が彼らの魂を、肉体的なまた精神的な苦痛、病気や不幸や金床の上で鍛え」(片山敏彦訳、p.9)たとし、「彼らが力強さによって偉大だったとすれば、それは彼らが不幸を通じて偉大だったからである」と断じている。ここでは、ロマン主義者ほどの強烈さをもって、本来人間にとって負い目であるはずの病気が正の意味付けを施されている。
 その論調は、ヴェートベン自身を語る時にも受け継がれる。彼の苦悩を語る時に抜かしてはならないものとして結核が登場するのである。
 「母は肺結核で亡くなった。そしてヴェートベンも同じ病気にかかっていると思いこんでいた。彼の健康はすでに絶え間なく悩んでいた。」
 ロランは、この作品の注にも事細かに病状を書き記すことになる。それは、たとえば「聾病は完全に進んでしまった」という一節に付けられた注の詳しさに見られるものである。「1816年の十月以降、彼は激しい炎症性カタル(Entzündungskarrh)を病んだ。1817年の夏彼の医者はそれを肺患だと思った。そのため1817年の冬には、このいわゆる肺病のことを思いつめて苦しんでいた。」
 この作品の記述に従えば、ヴェートベンの弟カルルもまた1815年に結核で亡くなっていて、その子、つまり甥の面倒を見ようとして彼は大変な消耗を経験するのである。また、ヴェートベンの晩年を特徴づける聾病も、何人かの医師はその原因を「遺伝性(母の肺患)」の中に求めさえするのである。
 確かに1824年から25年にかけての冬、彼の容態は悪く、さらに25年の5月には喀血かっけつしているというのであるから、相当症状は進行していたものと考えられる。喀血とは、普通肺から鮮血(動脈血)を吐くことで、色の鈍った胃からの静脈血を吐く吐血とは自ずから違う。
 では、そんなヴェートベンが受けた医療とはどんなものだったのだろうか。すでにロランの時代の医学状況を概説したが、実はそれはヴェートベンの時代と大差ないものだった。ロランが引用しているヴェートベンの手紙の中に列挙されている治療法のいくつかは、たとえば強壮剤であり、扁桃油、冷水浴療法、ドーナウの温湯浴、潅水かんすい浴、電気療法、発泡膏、薬草塗布、さらには「どこか景色の佳いところに百姓家を一軒借りてくれないか。六ヶ月ほど百姓の生活がしてみたい。おそらくはそれが僕には良い効き目があるだろう」と言っている田舎への転地療法等なのである。18世紀まで医療の常套手段であった瀉血に関する記述は皆無だが、それとて完全にはまだ消滅していた訳ではなかった。真に効果的な療法が確立していなかったという点で、ロランもヴェートベンも同じ地平に立って死の恐怖を味わっていたのである。
 そしてロランは、こうした不安な状況を正直に吐露しているのである。
 「十歳から十二歳ころまで、自分の生命が死におびやかされているという考えにとらわれていた。たびたびの充血、気管支炎、咽喉の病気、止めにくい鼻血、それらの病気が私の生の勇気をくじいた。そして自分のちいさな寝床の中で私は繰り返していたー
『私は死ぬのはいやだ!』と。」(p.210)
 それは、近年の日本の評論家や小説家、たとえば江藤淳や吉村昭が言っているように、現代の文学が衰退している理由のひとつは、豊穣な文学のテーマである戦争と結核(病としての)が喪われたからだと言う説を肯定するようになるのだが、ロラン自身が病気に正の意味を賦与し、それをヴェートベンの生涯に投影したように、自らの創造的生活の源泉をまたそこに求めていたと言っていいのかも知れない。
そのことは、彼の作品と共に彼の生前のままに保たれた書斎に数多の呼吸器系の薬袋が残されているということが雄弁に物語ってくれているだろう。それは、彼がまさに結核の時代を生きたのであり、また生涯呼吸器系の患いを背負ったまま生きたことを示している。



(名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)