ベートーヴェンの二つのソナタ ―ロランとアドルノ―
     −ロマン・ロラン生誕一三〇年記念コンサートで−
              
      岡 田 暁 生



  私はお定まりのベートーヴェン賛歌やロラン賛美をするつもりはありません。むしろここでは、ロランのベートーヴェン観について幾つか批判的なコメントをしてみようと思っております。そして話の落しどころとして次のような結論を考えております。つまり「本日演奏されるベートーヴェンの二つのソナタは、ロランがあまり分かっていなかった作品である」という結論であります。
 さて、言うまでもなく、ロマン・ロランは熱狂的なべートーヴュン信者でありました。彼は小説や劇の執筆の傍らで、無数のベートーヴェン研究書を残し、また暇さえあればピアノの前に座ってベートーヴェンのピアノ・ソナタを弾いていた。彼にとってはベートーヴェンを弾くということは、日々の神への祈りのようなものでした。そして少なくとも一昔前までは、彼の書いたベートーヴェンの伝記は、若いクラシック音楽フアンにとって必読の書でありました。ベートーヴェンのピアノ・ソナタを練習する女学生は必ず先生からロランの書いたベートーヴェン伝記を読むように言われたものですし、また男の場合は「ジャン・クリストフ」に熱狂し、ロランのベートーヴェン伝を読み、そしてクラシック喫茶でフルトヴュングラーの演奏するベートーヴェンの交響曲を聴きながら感涙にむせぶというのが若いインテリ層のクラシック・フアンの一つのパターンだったように思います。
 もちろんロランがベートーヴェンに捧げた途方もない情熱には、ただただ頭が下がる他ありません。にも拘らず私は、大学で教えておりまして、一体今の若者〈新人類と呼ばれるポスト・モダンの時代の若い人〉がロランのベートーヴェン伝を読んで、果たしてこれに感激できるだろうかという疑念を払拭できない。例えばロランの書いたリヒヤルト・シュトラウスについてのエッセイは、今読んでも非常に面白いものです。うがった複眼的な見方、辛辣なユーモア、鋭い観察眼の点で実に冴えている。ロランはこういう文章も書ける人だった。しかし評判の高いベートーヴェン論は、どこかオーバーな熱狂と理想主義が空回りしている印象を与えて、鼻白む時があります。
 今回ここで話をするにあたりまして、ロランの書いたベートーヴェン論にもう一度すべて目を通してみて、この印象がどこから来るのか考え直してみました。そして気がつきましたのは、ロランがベートーヴェンを語る時の語彙が実は〈一見恐ろしく情熱的で冗舌なようにみえて〉非常に限られているということでした。ベートーヴェンを形容するためにロランが使う常套句を並べてみます。まず第一のカテゴリー。これは「苦悩」「絶望」「嵐」「運命との戦い」といった言葉です。次に第二のカテゴリーとしては「祈り」「平和」「光」「真実」といった言葉があります。そして第三のカテゴリーに含まれるのは「歓喜」「勝利」「苦しみからの解放」「自由と愛」などの単語です。要するにロランがベートーヴェンを語ると、すべてが「苦悩から勝利に至る」とか「絶望を突き抜けて光に至る」というパターンになってしまうわけです。
 もちろんロランのこうしたベートーヴェン理解の図式が「ハマル」作品もあります。それは〈英雄交響曲〉であり、〈運命交響曲〉であり、〈第九交響曲〉であり、〈熱情ソナタ〉であって、これらはいずれもロランがとりわけ大好きだった作品(主に中期の作品)です。そして逆に、ロランのベートーヴェン解釈が、最大の欠点を露呈するのがベートーヴェン晩年の作品(ピアノ・ソナタやバガテルやデイアベリ変奏曲や弦楽四重奏)においてであります。
 これは断言してよいと思いますが、ベートーヴェンの晩年作品の多くは、ロラン的な「苦悩を乗り越えて希望へ」式の図式(単純な理想主義というか勧善懲悪的な図式)では絶村に割り切れないものです。〈第九交響曲〉や〈ハンマークラヴイーア・ソナタ〉を例外として、晩年のベートーヴェンの作品は概して、絵に書いたように勝利や希望や光へ向かっていくわけではありません。ベートーヴェンの晩年作品の多くを特徴づけるのはむしろ、矛盾であり謎であり、ほとんど分裂症的と言いたくなるほどの音楽の流れの飛躍であり、支離滅裂ぶりであります。例えば最後のピアノ・ソナタ第三二番の第一楽章では、音楽は急に前へ前進したかと思うと、突然また立ち止まって、謎めいた空白が訪れるという具合で、音楽の流れがひどくギクシヤクしている。またバガテルやデイアベリ変奏曲は、神の声が聞こえてくるような瞬間があるかと思うと、次には俗悪な馬鹿笑いがやってくるという調子です。
 このベートーヴェンの晩年作品の特徴を、ドイツの哲学者アドルノは見事な言葉で表現しております。「客観的なのはひび割れた風景であり、主観的なのはそれのみがこの風景を燃え立たせる光なのだ。彼は両者の調和ある統合を計ろうとはしない。」(ベートーヴェンの晩年作品はまるでひび割れた光景のように矛盾に満ちている。しかし客観的に見れば矛盾だらけのこの音楽に、ベートーヴェンはなお、燃え立つような光によって主観的な統一を与えるのだ。)そしてアドルノは彼のベートーヴェン論を、「芸術の歴史において、晩年の作品は破局なのである。」という言葉で締めくくつております。
 ァドルノのベートーヴェン論の、こうしたひとひねりもふたひねりもしたうがった視点は、ロマン・ロランには無縁のものでありました。ロランのベートーヴェン解釈は、良くも悪くも、もっと無邪気で単純素朴なものであります。一つだけ例を挙げましょう。ベートーヴェンの晩年の弦楽四重奏第十二番〈作品一二七〉の第二楽章です。この約十五分かかる長大なアダージョは、まさに「天から響いてくる神の声」とでも形容する他ない音楽、祈りの音楽です。ところがこの第二楽章に続く第三楽章は、何とも陽気な農民の踊りのようなスケルツォであります。そして先ほども申しましたように、こうした矛盾と断絶こそが、アドルノが「ひび割れた風景」と呼んだところのベートーヴェン晩年の作品の特徴に他なりません。
 ところがロマン・ロランは、こうした「ひび割れた風景」にはまったく目を向けようとしません。彼はあの夢のような第二楽章を、さんざん言葉を尽くして絶賛いたします。いわく「音楽の神殿の一つ」「大いなる瞑想の世界」「感謝と謙譲の気持ちでもって自己を捧げ尽くす、最も優しい、最も信頼に満ちた祈り」「魔術的なアダージョの法悦と清らかな至福に満ちた花園」というわけです(何と八頁!)。ところがそれに続くあの陽気な第三楽章について彼は、「あの素晴らしい第二楽章にこの第三楽章が続くのは乱暴である」「この楽章はない方がよかった」という素っ気ない言葉で片付けているのであります。乱暴なのはそれこそロランの方ではありますまいか? 神聖な第二楽章のアダージョに、俗っぽい第三楽章のスケルツォが唐突に続く。アドルノであれば恐らく、この矛盾の中にこそ、ベートーヴェンの現代性を読み取ったことだろうと思われます。それは例えばマーラーの音楽に通じるような、二〇世紀音楽に特有の分裂性の先取りです。しかしロランの手にかかると、このような分裂矛盾さえもが、ややもすると「苦悩からの解放」といった予定調和の物語に仕立て上げられてしまうのであります。


  では以上のことを踏まえたうえで、本日の演奏曲目について簡単な注釈をしておこうと思います。まず(順序が演奏の順とは逆になりますが)第二一番〈ワルトシュタイン〉は、肩の力を抜いた時のベートーヴェン、朗らかになった時のベートーヴェンの見本のような作品です。要するに〈運命〉や〈第九〉で馴染みの、演説調であるとか、握りこぶしを振り回したり、絶望して頭をかきむしったりするジェスチャーをしない時のベートーヴェンの代表と言えましょうか。あるいはフランス的なべートーヴェンと言ってもよいかもしれません。ただし、解説にも書きましたように、ロランにはこうした明朗快活なべートーヴュンは物足りなかったようです。
 次に第二八番のソナタですが、弾き手にとっても聴き手にとっても、これは非常に難しい作品です。まず技術的にはこれは、ひょつとするとベートーヴェンのソナタの中で一番難しいかもしれない。例えばホロヴイッツがライヴで弾いた録音がありますが、あのホロヴイッツがミスタツチだらけになっていることからも、この曲の難しさが分かるかと思います。また内容的にもこの作品は非常に難解です。解説にも書きましたが、これはいわば分裂症的な作品でありまして、ともかく音楽の気分が非常に急激に変化するので、それについていくのは並大抵なことではない。そしてロランもまたこの作品の分裂気質的な気分の変化についていくことが出来なかったようです。本日はこの謎めいた作品から、北住さんがどのような解釈を引き出されるのか、私は大変楽しみにしております。         

〈神戸大学助教授〉