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初めてロマン・ロランの作品に出会ったのは一九八一年頃でした。私はフランスのグルノーブルに到着し、様々な授業を受けながら博士学位論文の作家を選ばなければなりませんでした。そのとき、偶然『ジャン・クリストフ』の最初の数ページを読み、単純ながら感動的な文体の文章と考えました。既に、ソウルで仏文学を六年間学んでいましたが、大した知識をもっていたとはいえません。仏文学に対する強烈な情熱をもつ一方、何故かそこから望んでいることを探せないでいるという思いにとらわれていました。しかしロランの文章が私の文学的渇望を解消してくれたのです。力があり、単純な文の羅列でなくて生命の熱気が感じられる文章、これがその時『ジャン・クリストフ』の最初のページから感じたことでした。結局この考えが、その年の秋、パリのソルポンヌ大学に移ってジャック・ロビシエ教授に会い 「ロマン・ロランを私の博士学位論文主題として扱いたい」と話す契機になったのです。
しかし、実際に論文の具体的テーマ「ロマン・ロランの小説にあらわれる相反する要素の結合」を提案された方は、私の指導教授ロビシエ先生でした。その後四年間、ロラン作品と彼に村する批評書を読むのにも充分でない期間でしたが、突然私はソウルに戻らなければならない事情ができ、論文執筆を始めるにいたらずフランスを離れることになりました。ソウルで四〜五年フランス語と仏文学を大学とアリアンス・フランセーズで教えた後、一九九〇年パリに戻りました。すでに恩師ロビシュ教授は引退し、その方の推薦で、弟子の現在ロランの最高権威、ブレストのブルターニュ・オクシダンタル大学教授ベルナール・デュシャトレ先生を訪問しました。そして氏の指導の下で一九九五年初め博士学位論文審査に合格しました。ソウルで過ごした数年を除いても論文を準備するのに約八年あまりの年月がかかったことになります。
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まず、ロランの日本と韓国での認知度について私が知っている限りで申し上げます。
フランスで学んだとき、ロマン・ロラン友の会が出している会報を読み、日本では彼の小説、伝記、書簡−日記全集など相当量がそれも何版も翻訳されている事実を知って驚きました。一九九四年秋、ロランの故郷であるブルゴーニュのクラムシーで没後五〇周年記念講演と音楽会が三日にかけて開かれましたが、席上、ロランの専門家間で遠い東洋の国日本においてロマン・ロランの熱気がとても熱いということが話題になっていました。
また、私の調査によれば一九九五年初頭までにフランスの大学でロランを主題とした博士学位論文が三〇編余り出て、その中に日本人が一人います。中村要氏です。彼は、一九九二年パリ第七大学で「ロマン・ロランにおける芸術創造」のタイトルで論文を書き、私自身興味をもってそれを読んだ記憶があります。
さらに、欠かすことのできないのが京都のロマン・ロラン研究所であり、おそらく日本ではロランを研究し一般に普及させるのに少なくない貢献をしているのではと思われます。
一方、残念なことに韓国では今までロランはそれほど広く読まれている作家ではありません。翻訳は今だに活発ではなく、おそらくそれが一番大きな障害だと思われます。『ジャン・クリストフ』と『ベートーヴェンの生涯』が、ロランを知らせるのに一番貢献をしていると言えるでしょう。その他に『魅せられたる魂』、『コラ・ブリユニョン』、書簡集『ロマン・ロランとヘルマン・ヘッセ』程度が翻訳されています。ですから翻訳に関していえば、既に終わった作業よりはこれからしなくてはならない作業の方が多いのです。一方、韓国人としてフランスでロランをテーマに博士学位を取った人は九五年初めまでで三人程度です。
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それでは、私の論文テーマの内容について簡単にみていくことにします。
ロランにとって一人の中に多種類の人が存在している″という考えは一種の強迫観念のようにつきまとってくる命題でした。『魅せられたる魂』にはロランのこのような考えがよく現われています。
「矛盾した心の要求の謎を解かなければならなかった。そしてマルクの魂の中で対立するこれらの提から、それらをも包含する一層広大な提をほとばしり出させることだった。」
ロランはマルヴイーダ・フォン・マイゼンブークに宛てた一八九二年三月一三日の書簡で次のように話しました。
「私は一人の「人間」であることを欲します。私は人間の資質のいずれをも断ちたくありません。人間の富のどれもとれないために貧しくなりたくありません。私は理想主義者で、物質主義者で、青春主義者で、官能主義者で、汎神論着で、懐疑主義者で、キリスト教徒で、異端者でありたいとおもいます。それらのすべてでありながら私であることを欲します。」
このときロランは二六才でした。私たちはこの手紙を読みながら、一人の若者、芸術家として彼の夢がどんなに大きな次元のものだったか推してはかることができます。
また、ロランは『内面の旅路』で相反する要素から引き出した調和に対する自分の見解を次のように説明します。
「一つの生きた思想というものは一つ以上の次元を持っものであり、相対立するいろいろなものを包摂し、そして相対立し矛盾するそれらのものによって、自分〔その生きている思想〕のハーモニーのねり物を作るのであることをマルヴィーダはよく知っていた。」
以上で見たとおり、ロランにおいて、一つの存在の中に入っている二つの存在≠ノ対する意識はほとんど明白な真理に近いのです。そして、彼の内部に存在する二つの魂の間に完壁な分離がなされましたが、この分離は決別を意味するのではありません。この分離はもっとよい結合という前提の下だけに可能だからです。
ロランは『エルム街の僧院』で次のように語ります。
「私の中に私が二人いる、私? それはほんとうに私だろうか? 私が何かを一番確実に願うその瞬間にも私は私の中の意思をもつ存在が神であり、私という不完全で病弱な存在の中で強い力をもって私の役割をするのは他ではないその神であることをよく知っている。」
ここでは存在の二元性に対するロランの考えは、神に村する信仰の形態で現われています。多少懐疑的でしたが、ロランは熱烈なクリスチャンに負けない神聖を持った存在があると固く信じました。
ロランはどんな形態の考え、哲学、宗教でも関心を寄せないものはありませんでした。彼の文学的関心は世界全ての国に向きました。それは、生前に出し合った膨大な量の手紙の相手たちを見てもわかります。
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