上田秋夫 追悼
   ―詩人 上田秋夫の青春
永 田 和 子



 昨年、1995年3月22日、詩人上田秋夫先生は96歳の天寿を全うされた。「自分が『春』であることを知らない、親しい『愛すべき秋』よ」とロマン・ロランから告げられた詩人は

  こころのはるは
  いつでも
  かえって来る
  このよろこび

の短詩を白鳥の歌として、春彼岸の候、静かに旅立たれた。
 1899年明治32年、県会議員で土佐電気鉄道の創立者でもあった上田保の長男として生まれた上田(以下敬称略)の長い人生は、雑誌『白樺』を愛読した中学生時代、上京して上野美校木彫科への入学、大正14年の卒業、翌年結婚して東京杉並天沼ではじめる新生活、同人誌『大街道』『東方』『新しき村』『成長する星の群』『生活者』への寄稿時代、ロマン・ロランやマルセル・マルチネらとの文通により、かきたてられるように出かけて行った昭和3年から4年にかけての1年3ヶ月のフランス生活の青春時代と恵まれた環境の中でその個性を確立していった。しかし1925年治安維持法が議会を通過し、28年緊急勅令による死刑法に改定されるという激動の時代に、反戦の文学者・詩人たちとの交友を持つことは上田の生き方に強い覚悟があったはずである。
 寡黙であまり自己を語らない、静かな人柄であった上田は貴重なものを残された。疎開してあって高知空襲を免れたサイン入りのフランスの友たちからの寄贈本と彼等からの手紙である。これらの整理をご遺族からおまかせいただいて、私は感動の日々を送ることとなった。手紙は茨城県竜ヶ崎市在住の山口三夫氏が読み取りをお引き受けくださったので、私が封筒と本文の日付を合わせ、年代順に並べてコピーをお送りした。手紙の送付先、発信元、日付、印刷はがき郵便はがき便箋書きの区別、本文中の人名、書名、地名、その他の固有名詞等々、明確に、整然とワープロ打ちされた一部が、すでに高知へ送られているが、長い間、ロマン・ロランやその周辺のご研鑽を積まれた方ならではのお仕事として、敬服の念に打たれる。特にマルセル・マルチネの字体は読み辛く、「一週間ながめて、やっとわかりましたよ。」と薄いコピーの手紙など、ご苦労をおかけしている。
 上田に宛てたフランスからの手紙の内容は次の通りである。
  ・ロマン・ロラン(Romain Rolland)
   手紙17通、電報3通
   ・マドレーヌ・ロラン(Madeleine Rolland)
     ロラン令妹     10通
  ・マリー・ロラン (Marie Rolland)
    ロラン夫人   6通
   ・マルセル・マルチネ (Marcel Martinet)
     48通
   ・ルネ・マルチネ(René Marcel Martinet)
     マルチネ夫人   5通
   ・ダニエル・マルチネ(Jean.Daniel Martinet)
     マルチネ長男  2通
   ・マリー・ローズ(Marie Rose Paupy)
     マルチネ長女  10通
   ・アルフォンス・ド・シャトーブリアン(Alphonse de Chateaubriant)
     5通
   ・ルネ・アルコス(René Arcos)
     4通
  ロマン・ロランからの手紙は、ロラン全集「日本人への手紙」に大半収録されている。蜷原徳夫氏訳で、上田の人柄を偲ばせる部分を抄出してみよう。
○1928年10月18日尾崎喜八あて
   私たちは上田に二日間だけ会いました。──われわれはみんな彼を愛しています。われわれ
      はみな彼の容貌や態度や精神のこまやかさと、彼の気品の高さとに打たれています。──け
      れども不幸なことに、彼と話をすることが非常に困難だったのです。
○1929年1月17日
   妹と私はよくあなたのことを考えています。あなたがパリで孤独でいられるだろう(親しい
      マルチネのそばにいらっしゃっても)と考え、またこの頃のような冬の陰気な日にあなたは
      しばしば心を凍らせていられるだろうと、考えています。そう考えると私たちは悲しくなる
      のです。あなたは若くてけなげな魂の持ち主ですが、憂愁につつまれているように感じられ
      ます。私の思想の息吹きが少しでもあなたを暖めてさしあげられたらと念じるのです。……
      私は最後まで頑張ります。場合によっては万人に抗する一人になります。まずその一人の人
      間になることです。おのれ自身であるところの人間にです。……
○1929年9月25日上田秋夫あて
   あなたの純粋で、克己的で愛すべき姿を、私たちがいつまでも心に深く忘れずにいる、とい
      うことをお疑いにならないでください。……
○1929年11月14日宮本正清あて
   マルチネの言う「やさしい秋夫」から私たちの消息をお聞きになったことと思います。彼は
      私のオリヴィエや私のアエルトの、日本人の弟です。彼のうちには優雅さや、つつしみや、
      貴族的な憂愁さがあります。私たちは彼を深く愛していますし、健康が回復すればよいがと
      念じています。
 マルセル・マルチネの手紙が多いことは注目すべきで(マルチネは上田をジャン・ド・サンプリの兄弟 と呼ぶ)、ロラン1866年マルチネ1887年、上田1899年生まれと、その年齢から父、兄、弟の年齢関係から生じる愛情を感じさせる。しかもロラン、マルチネ共に1944年に死去し、同郷の友、片 山敏彦を1961年に失うので、上田はただ一人で残る40年余を生き抜かねばならなかった。
 雑誌『新しき村』『生長する星の群』『生活者』に寄稿していた上田は第一詩集『自存』を1926年 に出版する。亡き母に捧げられていて、その序で、
  これはロマン・ロランのいう「すべてを在るがまヽに見、且つ愛する」道を得た内面的記録で
    ある。詩は一つの祈りである。欣求である。憎しみと虚偽との世界の流れの中の島である。か
    くれている「聖思」の火花である。「心から心へ」、星から星へ飛ぶものである。……「理想
    主義者」であるよりも一人の「霊魂主義者」である……
と述べている。一篇の詩をとり出そう。

     樹
 静かな夜明の光の中に
 ひとりたっているのは樹だ。
 暗い真夜中に不思議な歌をうたっていた樹だ。
 深い魂の泉からひびいて来る波音だ。
 宇宙の中の最も深いものを吸う息吹きだ。
 純潔な風をつむぐ軸だ。
 神聖な黙示の指だ。

この詩集を日本語のまま、題のみ「Ce qui est」と訳してロランやマルチネに詩人は送った。「自存」こそ上田の生涯の在り方を示す道であった。
 渡仏中も雑誌への寄稿は続けている。特に『生活者』昭和4年1月号に投稿した「マルチネの戯曲」はマルチネ戯曲のホットニュースであって、大正15年『築地小劇場』第3巻11号に「Marcel Martinet」を書いた尾崎喜八の文章に応答している。上田は付記として
 直情なレオン・トロッキーはロマン・ロランがスイスにいて『争いを超えて』いるというので特
  に非難し ているが、ロランこそ「独裁者も、暴力も、右翼も、左翼も知らない」のでは決して
  ない。ロランが今、殆んど稿を終えようとしている『ラマクリシュナとヴィヴェカナンダの福音
  』は争いのなかでの新しい光でなければならない。
の文を書いている。また『生活者』昭和4年8月号寄稿の「アンデパンダン」は、いかにも上田らしい芸術的な感想文で、死まで描き続けたクレパス画、パステル画の色感の豊かさ、色彩の愛らしい暖かさ、繊細な筆触等、芸術家上田秋夫の感性は、この滞仏中、本物との接触によって十分に磨かれたことであろう。
 昭和4年秋に帰国した上田は翌5年『マルチネ詩選』6年『続マルチネ詩選』を出版する。『マルチネ詩選』の表紙は 昭和4年、マルチネより寄贈された『Les Temps Maudits』(呪われた時代)の表紙を使っていて、F・Mのサインからフラン・マズレールの木版である。『続マルチネ詩選』の表紙はマルチネの『La Nuit』(夜)の最終頁を飾るガストン・パスツレのデッサンで、階段をあがる女主人公マリエットが「アンヌ・マリー、起きるときが来たよ、夜が明けたよ」と訴える姿である。(1926年11月築地小劇場において、戯曲「夜」(佐々木孝丸訳)は山本安英がマリエットを演じた。)『マルチネ詩選』より訳詩一篇、

     星
 星よ、海の広い夜の中に孤りいる火よ、
 折重なった浪の上の目に見えない浪が
 なんのざわめきもない五月の生温かい夜の 
  星よ、人間のさまよえる心への忠実な呼かけよ

 天体の干潮と満潮にのって流転する星よ、
 黒い深渕のなかで唯一つの金色の点によって
 事物の公正と美とを刻みつけるものよ、
 やがて私の心がおんみを憶い出すその時は
 近づいている。

 昭和6年には詩集『五月柱』を幸子夫人、感想集『薔薇窗』を父への献辞とともに出版した上田は7年に高知に帰省して印刷会社「新生社」を設立する。洋館の書斎のある唐人町の家は学生インテリの憧れであったらしい。投獄された毛利孟夫氏は上田邸での日々は人生の小春日和であったと私に話されたことがある。11年には雑誌『鉱脈』も名前がいかがわしく、左翼の若者たちが関係したかどで没収、幻の雑誌となった。その後昭和31年まで高知新聞社に勤務し、詩選者として高知詩壇のために尽くされた。制限枚数の中で詩人上田秋夫の青春を中心に述べてきた。
 上田秋夫先生をお訪ねするたび、かならず先生は書斎で詩を書き、画を描いていられた。ご不在の時は一日もなかった。清雅な雰囲気に包まれ、魂が清澄になって私はいつも辞去するのであった。目利きでいられたから、展覧会のお供をして批評のお言葉を詩のように感じて私はメモを取っていた。「日本的な清楚さに魅せられながら、西欧の深さに惹かれ」て先生は、その長い生涯を歩まれた。六女いつ子さんが、ふと私に洩らした一言──「父ほど心の綺麗な人を他には知りません。」──と。残された書籍の間には、押し花や、押葉が挟まれている。一体、何十年前の、どこの国の花かしら。