「ポールとヴィルジニー」この作品が私にとって最初の仏文学との出会い──。小学4年の私はあてがわれる子供向けの本に飽きたらず「おとなの本は読んではいけません」との母の言いつけにそむき、奥座敷の床の間の角に隠れて母の愛読している婦人之友に連載の可憐な少年と少女の田園生活の挿絵に見とれるのであった。その私が決定的に私を仏文学に結びつけることになるパスカルには十年後でないと会えないのである。
祖父健吉以来クリスチャンである家庭で育った私は自分の将来についてこれといった考えもないまま米国系ミッション・スクール女子学院、東京女子大学へと進む(両親は私が英語教師になることを期待していたのだろう)。ところが女子学院の卒業式に代表として暗誦させられた詩の内容には無関心で、詩人の名ロングフェローしか覚えていない私には東京女子大英語専攻部のテキストは興味がなく、殊に東京大震災(大正12年9月1日)で九死に一生を得て人間とは何か真理とはとは何かについて考えこむようになり、安井哲学長のご厚情にすがって文学部哲学科へ移ってしまう。一年目にフト図書室で見つけて借りた「ジャン・クリストフ」に夢中になって中央線の座席の角で読みふけり、降りるはずの新宿駅を通りすぎて終点の東京駅でハッとわれに帰った瞬間のことは忘れ難い。が、この時のロマン・ロランとの出会いは一時的のもので、訳者の豊島与志雄氏の方に私は後にたいへんお世話になる。
この大正13年頃にはマルクス主義運動が活発になるのに対して、哲学界では東京帝国大学(現・東大)と京都帝国大学(現・京大)で著名な哲学者が輩出する。ドイツ哲学の研究が盛んで、東京女子大での私の卒論は指導教授の意向に基づきカントの「純粋理性批判」に関するもの。その私は幸運にもドイツでフッサールに師事して帰国されたばかりの山内得立先生の現象学についての講義に出席でき、更に少し遅れてドイツでハイデッガーに師事して実存哲学を学ばれた三木清先生が帰国され、お会いする機会に恵まれる。この時期に現象学と実存哲学が何か一応知ったお蔭で十年後(1934)にベルリンのフランス学院研究生となってこの二人のドイツ哲学者に師事したサルトルが書き上げる大作「存在と無」(1946)の中に「現象学的存在論の試み」とか、人間とは「実存が本質に先立つ存在である」といった表現を見つけた時、私は嬉しい驚きを味わった。
三木清先生については新宿の中村屋二階の喫茶室で向かい合ってコーヒーをいただいたほかに、第二次大戦の直後に西ドイツで、ある国際会議の帰途ハイデッガー氏のご自宅を訪ねた折、氏がニッコリして「ミキのことはよく覚えている」とフランス語で私に言われたのも懐かしく思い出される。が、これらの思い出とは別次元で三木先生が私にとって特別の恩人なのは「パスカルにおける人間の研究」(1926)の著者だからである。「真理は必ずしも矛盾しなくはない。矛盾は必ずしも真理でないことを意味しない」といった言葉が私を捕らえた。現在の私はこの定義こそ〈実存主義〉が提唱する両義性ではないかと驚嘆する。こうしてパスカルに導かれてフランス文学の道の第一歩を踏みだしたのである。
しかし「残念!」と言うべきか「当然!」と言うべきか、私の長い人生の途上では突然、方向転換が幾度となく起こる。(この現象は精神分析の観点からすれば極端へ走る型の私の進路にとって不可避なのかも知れないが。)実は私が女子学院二年生の時家族が東京を去ってからは私の寄宿舎生活が続き、私は思う存分読書、思索、勉学に没頭しつつ日夜を過ごしていたのである。そうした私が大学の卒業が間近なある朝目が覚めた瞬間、「これまで生きてきたのは私の頭だけだ、この個室の中で!今こそ私は街頭へ出てゆくべきだ!」という考えが浮かぶ。そうなるとグズグズしてはいられない私、行きつけの神田の古本屋を呼んで部屋中の本を持っていってもらう一方、朝刊の朝日新聞求人案内を手に就職口を見つけに出かけた。「女子大卒?こりゃ愉快!」と直ぐ雇ってもらえたのが、なんという皮肉!新宿の紀伊国屋書店!店先にちょうど世に出た円本(一冊一円)が山と積まれ、赤い表紙にふさわしく左翼作家の名がズラッと並んでいる。午後8時閉店!するとまだ帝大生の舟橋聖一氏の仲間が集まって店主の田辺茂一氏(慶応出身)と同人雑誌「朱門」のことなどで話しあいが始まる。こうして私は本と雑誌にとりかこまれながらフランス文学には縁がない。ある晩近くの大衆食堂で私が女友達とビールで乾杯をしているところを店主の父上が見かけたとかで翌朝店主の部屋へよびつけられ、「女のくせにビールを飲むとはけしからん」と解雇を言いわたされる。「なーんだ、口では進歩的なことをしゃべりながら本心はなんて古臭いんだ!」とあいそがつき、左翼作家藤森成吉氏が私の弁護を引き受けて下さったのに元のさやにおさまる気にはなれず、ブラブラしながらも東京女子大時代にパスカルとの出会いで始まったアテネ・フランセの授業は受けていたようだ。しかも私のほかにたった二人(岩倉具視氏と新庄嘉章氏)しか学生のいない山田吉彦先生のギリシャ語のクラスにまで私は顔を出していたとみえ、この山田先生(戦後のペン・ネームがきだ・みのる)の紹介で神田小川町の仏蘭西書院に勤めることになり、こんどはフランス書籍と向かいあいの毎日である。それなのに私が読んだのはたった一冊、「ラ・ギャルソンヌ」(女性解放をとなえたヴィクトル・マルグリットの小説)!私自身が文字通りボーイッシュ・カットのモダン・ガールだったのだろう。(この作品を勧めて下さったのは後日パリでお会いする松尾邦之助氏の令弟正路氏で後に小樽の大学教授。)顧客ではキモノ姿の堀辰雄氏、ベレー帽の滝口修造氏などの書棚の本を見つめて立っておられる様子が今も見えてくる。ある日礼服用の縞ズボンをはいた口ひげのあるハンサムな中年紳士から「フランスの婦人運動に関する薄い本を訳してみませんか」と話しかけられる。それからの数年間親しくつきあうことになるこの人は帝大法学部出身、フランス労働法が専門なので官庁の任務をおびて幾度か渡仏の機会をもち、大のオペラ・ファンで、ロマンチスト。帰国中は立教や法政の講師でもある関係でこの頃日本国内で初めて法政の文学部仏文科が女子に本科生としての入学を許可したことが解り、これでようやく私の前にフランス文学の道が開かれた。当時の仏文科科長が豊島与志雄先生なのである。
私の長い人生の途上で「二十代は恋愛至上主義の時代だったな…」と現在の私は微笑ましく思うと同時にラムールはフランス文学の主要なテーマの一つであることも改めて痛感させられる。あの頃の私はジョルジュ・サンドに憧れていたのだから。「生きること、それは私にとって、愛することである」この強烈な愛の宣言に私は共鳴してしまった。正にこの言葉で、サンドが中年以後パリを去りショパンとも別れて故郷ノアンにおちついてから完成した「私の生涯の物語」は書き始められているのだ。永年来の念願が四年前(1991)の秋に叶ってノアンの邸内にたたずんだ私は万感胸に迫る思い!サンドの墓前で時の経つのを忘れた…若き日の彼女がミュッセとの恋愛に悩んで書いた「ある旅人の手紙」(愛の理想像としてフィレモンとボーシスの生涯が羨望の気持ちをこめて語られている)を翻訳して豊島与志雄先生に見ていただいたのがツイ昨日のことのようだ!私より一年上級の蜷原徳夫氏はこの頃もうロマン・ロランと取り組んでおられたと思うが私の卒論のテーマは、どうしたことか、スタンダールの「赤と黒」と「パルムの僧院」の主人公ジュリアンとファブリスを対象としての人間像の比較分析。一体全体私はどこでどのようにこの二つの作品と出会ったのだろう?…何の記憶も甦ってこない。けれどとにかくこの時からスタンダールがパスカルと共に私の人生にとって貴重な存在となってしまった。論文のテーマを仏語でまとめたものをもって私はパリへ向かうことになるのだから。
昭和14年(1939)3月私が法政を卒業するこの年から仏国政府給費留学に女子の応募が許可されて物理学専攻の湯浅年子氏と私が合格。9月初め第2次大戦勃発のため私のパリ着は翌年の1月末日。それから満十年間ソルボンヌの二人の教授(主論文「スタンダールにおけるエゴチスム」の指導教授ジャザンスキー氏と副論文「ゲーテとスタンダール」の指導教授カレ氏)の推薦状に従って私の留学費は(独軍占領時代、解放後も)毎年更新される。スタンダールにバック・アップされているお蔭と言わねばならないだろう。そして論文提出後も「絶対に日本へは帰らない」覚悟でいる私を日本に連れ戻したのが(後述するように)パスカルなのである。
フランスへ発つ前に未知の方から頂いた手紙にパリでの心得として、ここは昔からラムールの都なのだから「ロチの処女作『アジアデ』を熟読玩味しておかねばなりません」とあり、早速私はこの作品を介してロチにも親しむようになる。この手紙の主がパリの大学都市に日本館を寄付された薩摩治郎八氏。当時箱根の別荘で静養中の薩摩氏は間もなく渡仏、そして解放までは自由地帯にとどまり、パリへ移られると留学生の私の身を案じて大学都市総裁オノラ氏(前文部大臣)へご挨拶にうかがうようお勧め下さるばかりでなく、ご自宅やニースの別荘へもお招き頂くことになる。
四十日間の船旅が終って上陸したマルセイユ港に、思いがけなく、既に着いておられた薩摩氏が出むかえて下さりパリ行きの列車に乗せて頂く。こうしてやっとの思いでたどり着いたパリ!私のパリ!それは燈火、食料、交通のすべてが管制・統制下のパリではないか!二十代のヘミングウェーが「青春をパリで生きたものにとってそれからの毎日はパリ祭の連続である」と賛美したパリ!。若き日の薩摩氏が満喫されたベル・エポックのパリ!そんなパリはどこへ行ってしまったか…世代の交代とはなんと過酷なのだろう!。
ラムールの都であるはずのパリに大恋愛などころがっていなかった。到着後間もない私を出発前に東京で知りあった国立図書館東洋部門に勤務のギニャール夫人がある晩連れていって下さったのはサン・ジェルマン街の地理学会講堂でのジャック・コポー(現代フランス演劇の功労者)の朗読会!満員の聴衆は目を閉じてシャルル・ペギーの「ジャンヌ・ダルク」に耳を傾ける。コポーは暫くしてコメディー・フランセーズの支配人に推されたので、この劇場で私はもう一度独軍襲来直前の土曜のマチネ朗読会で幹部級の俳優たちによる「ジャンヌ・ダルク」を聴く。静寂のうちに終る。と、ラ・マルセイエーズが聞こえてくる。パリ市民の疎開が始まっていて数は少ないが観客一同起立し、悲痛な思いをこめて国歌をうたう。深く感動した私は祖国愛に身を捧げて志願・出征・戦死したペギーの存在はジャンヌ・ダルクというシンボルと重なってフランス国民には特別の意味をもつのだと納得させられた。こうしたペギーの存在の意義を思う時、どうしても対照的な存在として「戦いを越えて」と叫んだロマン・ロランの名が浮かび上がってくる。二人は十九世紀末に起ったドレフュス事件で互いにドレフュス派であるところから知り合い、やがてペギーが出版する半月手帳に「ジャン・クリストフ」が連載されることになった。
この二人とは反対に国民の統一とカトリック擁護の立場から反ドレフュス派にまわった二人の作家が私のスタンダール研究にとって特別の重要性をもつ。ポール・ブールジェとモーリス・バレス!私が一時期愛読した小説「弟子」の作者でブールジェが「現代心理論集」(1883〜5)で扱った作家の中にスタンダールという名が見えたのが発端となってスタンダール自身は苦しまぎれに予言した五十年後より十年早く没後四十年で初めて広く知られるようになる。すると忽ちスタンダールに心酔したバレスが特にエゴチスムに関心を抱き始める。正にこのエゴチスムこそ私自身のスタンダール論の核心をなすものなのである。
1940年6月14日独軍がパリに入城!凱旋門にドイツ国旗がかかげられる。こうした客観的情勢には関わりなく、私は(論文はそれとして)「いかに学ぶべきか」という切実な問題と必死で取り組まねばならなくなる。失った自信を取り戻すにはこのパリで仏語を初歩から学び直すこと、と決意して音声学専門校、海外仏語教員養成校に通う一方ソルボンヌの仏語学の単位取得を目指す。2年目に目的達成!この喜びを伝えながらご無沙汰のお詫びにと国立図書館へかけつけた私を一目見るなり、ギニャール夫人は「まあ、ミチ、すっかりやつれてしまって…」と心を痛め、直ぐに夏休みをロアール河畔で催される女子学生修養会でのんびり過ごせるよう取り計らって下さる。これが私の人生の新たな〈方向転換〉の奇縁となる。この修養会はマドレーヌ・ダヴィー女史の創立した女性知識人の共同体(修道派としてはドミニコ会)が独軍占領下の女子学生に快適な夏休みをと企画したもので、ここでの2ヶ月間が私を心身の疲労のどん底から救い上げ魂の世界へと導いてゆく。かつて心を打たれて手帖に書きとめたまま長い間忘れていた聖アウグスティヌスの言葉が天から聞こえてくるような思いにかられる、「人びとはなぜ体の美のことばかり気にかけるのだろう、魂の美というものもあるのに。」これはパスカルの言葉ともとれよう。こうして私は留学生としての義務である論文作成は継続する許可を得て、ドミニコ会のシスターの修養に精進する身となった。こうした心境を私はパリを離れる前に(かつて母たちが懇意だったので)兄にでも打ち明けるようにロダンとロランを師と仰いでおられる彫刻家高田博厚氏に語った。高田氏は暫く沈黙のあとポツンと言われた、「『ジャン・バロワ』を読んでごらん。」マルタン・デュ・ガールのこの小説の主人公はドレフュス派の闘士で科学万能の信奉者だが晩年になって娘が教会に行っていることに気づいた瞬間、それまでの信条に疑惑が生じ、合理主義に立つ社会活動対魂の救済の板ばさみになる。〈科学対宗教〉これは時代を越えた永遠の課題と言えよう。その一方で私を根底から揺るがしたあの聖アウグスティヌスの言葉は〈人間という存在は何か〉に関わる定義ではないだろうか。今私は次のことをハッキリ思い出す。──戦後に台頭した実存主義がキエルケゴールに始まるとの一般論に対して中世哲学の権威エチエンヌ・ジルソンはその発芽を聖アウグスティヌスに見出し、パスカルを経てキエルケゴールへという説をとなえてその年のコレージュ・ド・フランスでの彼の講義内容とした。この公開講義に私は熱心に出席したのだった。丁度この頃ここに就任したメルロ=ポンチ(現象学と実存哲学を奉じる)の「児童の心理」を聴講したことも思い出す。そもそもこのフランソワ一世以来の仏国最高学府に私が大胆にもパリ着早々(1940年1月末)駆けこんだのはヴァレリ(1945年没)を聴講するためだった、私は彼の「スタンダール論」の結語を私への大切な激励の言葉と感じとっていたので。「スタンダールについては言い尽くされることは決してあるまい。」このヴァレリとの私の出会いはアテネ・フランセでのイズレール教授のテキストであった。仏文学に関するフランス人の先生でもう一人忘れ難いのは後に関西日仏学館館長となられたロベール氏。先生を囲んでの私たち有志数名のグループにお茶の水の日仏会館の一室で読ませて下さったポール・モーランの「国際的ヴィーナス」!その奇怪な場面を今だに私は夢に見ることがある。
ダヴィー女史の共同体が独軍占領下のパリを避けて運営されることになったロアール河畔の小村ブルーの丘上に建つ白亜のシャトーは庭園と果樹園にかこまれ周辺は平穏な農家なので解放と同時にパリへ戻るまでの日々は私の長い生涯でただ一度の地上のパラダイスであった。水源に乏しいとかでドイツ兵もアメリカ兵も現われず私の身柄は安全であった。こうして私がパラダイスで過ごした歳月の間地上の独仏協調に対抗して地下では抵抗運動が激烈になっていったばかりでなく1944年8月25日の〈パリ解放〉がパリ住民の市街戦で流された貴い血の賜であることも忘れてはならない。
パリに戻って間もなく私たちの共同体が突如ある事情で解散させられる。で、またもや私は〈方向転換〉!こんどは現実の世界へかえされてしまった。以後私は第13区ラ・サンテ街の一軒家の一室に落ちつく。(この家は元の共同体に所属していた数人が女子寮を営むようになったので、日本人の私はここで保護してもらえた。)
解放後の数年間、それはフランス文化の新たなスタート!新聞・雑誌の創刊につづく創刊!講演会のあとでの討論会!演劇界では初演!また初演!私は寝る暇も惜しかった。ある朝学生街で私は足もとの一枚のビラに気づき、拾う。その晩サル・プレイエルでのマルローの公開講演「知識人に訴える」の予告なのだ!壇上につっ立ったままのマルローの口調が次第に熱気をおび、最後に右腕を高だかとかかげて叫んだ、「われわれが、知性のたいまつをかかげなくてはならない、たとえこの手が焼けおちようとも!」
〈実存主義〉という言葉が大流行となり、片やマルセルの〈カトリック実存主義〉、片やサルトルの〈無神実存主義〉!ある晩私はクラブ・マントナンへサルトルの「実存主義は一個のヒューマニズムであるか」を聴きに出かけて驚いた。アッという間に超満員!講壇の上まで顔!顔!顔!私などは廊下へ押し出されてしまった。これら二つの講演会とは対照的なジャコブ街の小さな教室でカミュを囲んでの〈不条理〉に関する真剣な討論会!終了後私は大胆にもカミュに私の試みた日本人の特質についての小論を読んで頂きたいとお願いしたのがきっかけで、カミュの得難い自筆の手紙四通を恵まれる。
演劇界ではコメディー・フランセーズのレパートリーに入っていて初演(1945)から満50年の今年話題になっているカミュの「カリギュラ」の初演に成功したジェラール・フィリップが独特の印象を残している。一方、演出上の意外性がとても効果的なサルトルの「出口なし」も今だに上演されているのは、「なるほど!」とうなづける。
小説では私はカミュから「ペスト」の邦訳の委任状を頂いたが出版の手続き上フランスにいる私の立場は不利で実現せず、残念!サルトルの「嘔吐」の方は帰国後の私に中・上級テキストとして編注の仕事が一任され、現在も出版されていて嬉しい。
翻訳の分野ではジードの作品中私にとって最も興味深い「背徳者」が「ノーベル賞文学全集(1971)に採用され、喜んで引き受けた。思えばそれより20年も前、ジードの満80歳(1949)を祝ったラジオが「ジードとの対談」34回連続放送を行った際私が聴取、邦訳して日本へ送った関係で私はジードと親しいド・レトランジュ夫人の紹介でジードの自宅(ヴァノー街1番地)へ二度お邪魔したのだった。応接間の隣室の入口の壁にかけてある版画を私に見せて「これ、オ(ホ)クサイね」とニッコリされた顔が目の前に浮かんでくる。永眠されたのはそれから間もなくのことで、その模様は中央公論へ書き送ったと記憶している。
この頃サン=テクジュベリの「星の王子さま」が人形芝居でも演じられたりして、たいへんな評判だったからだろう、リュクサンブール公園の南口近くにプチ・プランスという本屋が開店した。「オヤ!」と入ってみる。若い女主人から「シモーヌ・ヴェイユに興味がおありでしたら、すぐそこに両親が住んでおられますよ」と教えられる。当時ガリマール社で顧問のカミュが〈希望叢書〉と名づけて未知の思想家、文学者を紹介し始め、ヴェイユの「根をもつこと」が刊行されたばかりなのである。直ぐにオーギュスト・コント街へ走った私はヴェイユの小柄で温和な人柄のご両親に迎えられ忘れ難い感慨の一時を味わった。シモーヌがいつも枕もとにおいていたギリシャ語の聖書、それに未発表の原稿の分厚い束も手にとらせて頂く。「同胞があれほど苦しんでいるのにベッドでなんか眠るわけにいかない」とシモーヌは台所の床の上にぢかに寝ていた。「丈夫ではない娘の身が案じられてね…。その点では親不孝な娘でしたよ」と母上は顔をくもらせておられた。この時から二十年余り経って私は「シモーヌ・ヴェイユ──真理への献身」を書く機会を与えられたのだった。
翻訳という作業はあまり好まない私がみすず書房のロマン・ロラン全集「ゲーテとベートーヴェン」をひきうけた動機の一つは私の副論文が「ゲーテとスタンダール」であったことかもしれない。(指導教授のカレ氏は比較文学者で著書に「ゲーテ」がある。)フランス人のゲーテとの関わり方を探求しているうちにロランの青年時代から晩年までのゲーテ観の変遷が非常に興味深く思えたのである。この時の私にとってのロランとの出会いにスタンダールが一役買っているのだから面白い!いや、この時だけではない。スタンダールは私をロラン夫人のもとへ連れていくことになるのだ。──今私の前にあるテーブル(それはパンテオン脇のサント・ジュヌヴィエール図書館なのかソルボンヌの図書館なのか現在の私にははっきりしないのだが)の上に開かれているのはシャンピオン版スタンダール豪華版の「ハイドン、モーツァルトおよびメタスタジオ伝」の冒頭におかれたロランの序文。それを写している私が不意に左手の男の人から声をかけられる、「マドモアゼル、ロマン・ロランに関心をおもちならロラン夫人に会いにゆかれたらどうです?」私のことだから「是非!」とロラン夫人の住所(モンパルナス街89番地)を教えてもらう。この親切な男の人はカンの大学教授アンジェローズ氏だったのである。それからの3年間、毎年春から秋の終りまで私はヴェズレーのロランの家でキュヴィリエ夫人(ロラン夫人の母上)に祖母のように親しみ仕えながら勉強させて頂くことになる。ここでロマン・ロランが長逝されたのは僅か2年前(1944)なので愛用のピアノを初めテーブル、椅子、ベッドなどすべてがご生前のままであった。書棚に並ぶ蔵書のうちではゲーテの仏訳本は勿論のことシェークスピアの仏訳全集もスタンダールのこの大劇作家との関わり方を扱う私にとって欠くことのできない資料であった。
パリではロラン夫人が「日本へのメッセージを依頼してみたら」と私をクローデル、ヴィルドラック、デュアメルなど日本人にとって親しみのある文豪たちに紹介して下さり、私はそれぞれのお宅へ出かけてゆく。先ずご高齢のクローデルがわざわざ原稿の形で書いて下さった日本女性へのメッセージは私を驚かせる同時に当惑させた、日本女性の典型として江戸時代の「女大学」の美徳がほめたたえられているではないか!敗戦(つまり帝国主義=軍国主義の崩壊)によって「やっと解放された」と言える今日の日本女性は開いた口がふさがらないだろう。このようなメッセージが人目にふれてはと私は無断でこれを没にしてしまったことを今初めて告白する。映画や芝居でお馴染みの「商船テナシティー」の作者ヴィルドラックの方はインタビューをまとめて朝日新聞へ送ったと思うが内容についての記憶は惜しいことに全く無い。ところがデュアメルとの対談は予想もしなかったような顛末!応接間へ通された私の前ににこやかにゆったりと腰をおろされたデュアメルに私はごく無邪気な口ぶりで尋ねてみる、「先生は日本がお好きですか?」すると一瞬顔がサッと赤くなったデュアメルは身をのりだし、威圧的な激しい語調で「ええッ?ニッポンが好き?ニッポンという国はわれわれのインドシナであんなひどいことをやっているじゃありませんか。絶対に許せないッ!」震えあがった私はジーッとうつむいたまま。しばらくして恐る恐る目を上げると、そこには元通りのにこやかな顔!「たいへんお邪魔をいたしました」と立ち上がった時、デュアメルは「お役に立てることがあったらいつでもね」と私の肩にやさしく手をかけて玄関口までつきそい、私が一歩外へ出る時にはサッと私の左腕を支えて言われた、「マドモアゼル、ここに一つ小さな石段がありますよ。足もとをよく見て!転ばないように!」
こんなふうに〈日本へのメッセージ〉をお願いして歩く当時の私自身はどうかといえば、42年の夏以降日本人の顔を見かけることさえないのだから日本語を聞かず話さず、日本を恋しいと思ったことなど一度もない。それは日本を発つ前の一つの出来事のせいでもあったろう。──9月3日英仏の対独宣戦で渡仏が延期され私は下宿を変わる。一人の中年女性とのつきあいが煩わしくなった私が引っ越し先を教えなかったことに腹を立てた彼女は麹町警察署に「あれはけしからん女だ」と私を訴えた。閉じこめられた一室で威たけだかにかまえた特高から私はどなりつけられる、「お前のような女は死んだ方が御国のためだぞッ!」無言で下を向いている私は心の中でこう叫んだのである、「こんな窮屈な日本へなんぞ、誰が帰ってくるもんかッ!」
1950年には論文提出も一段落し、コレージュ・ド・フランスの哲学教授ラヴェル氏の推薦によって国立科学研究所(C・N・R・S)研究員の資格を得、また豪華版予約刊行社(ビブリオフィル社)の依頼で「金色夜叉」の仏訳を手がけ始めており、終戦後花花しくスタートしたユネスコでの仕事も望めそうに思えた。そしてフランス人の間には信頼できる友人知人もできていて、ド・ボーモン伯邸での新進作曲家オリヴィエ・メシアンの最新作発表の夜会に招かれたりしていた。その一方で私は1946年夏の金山政英氏ご夫妻のご厚意によるイタリア旅行を皮切りに、国際親善、学生交歓会を戦後いち早く主催したカトリック系の文化活動に参加して、西ドイツ、イギリス、オランダ、ベルギー、スイスへと出かけていった。仏国留学生という身分証明書が日本人の私に国外へ出入りすることを許可してくれた、言い換えればこれらの国々と関わりをもったスタンダールが私の研究対象であるお蔭であった。このような私のところに51年の秋、パリへ来られた木村太郎氏(クローデルの戯曲「マリアへのお告げ」の翻訳者でカトリック信者)からのお手紙が届く。お会いしてみると、木村氏は戦後に大学となった名古屋の南山大学の仏文科科長であられ、学長パーへ神父のご希望で同大学へ私に来るようにとのこと。あまりにも意外な申し出に、とっさには私はお返事の仕様もない。暫くしてからようやくこうお答えした、「私にはとても〈学生に教える〉といった資格などはないと思います。それに…12年前に日本を発つ時、もう絶対に帰ってこないと自分に誓った私ですので…」こうして即座にお断りしてしまった私はお詫びのしるしにもと、先生のご帰国の前日パスカルがかつて過ごしたポール・ロワイヤルへご案内することにした。リュクサンブール公園脇から出ている郊外電車ソー行きを利用して散歩したポール・ロワイヤル(十七世紀のジャンセニストの修道院跡)は淡く紅葉した周囲の樹木がなんとも言えない雰囲気をかもしだしている。後髪をひかれながらも暗くならないうちにと乗りこんだ帰りの車内で、「どうです、もう一度考え直してみては?」と誘いかけられる度に私は「折角ですけれど、どうしても日本へは帰りません」を繰り返すばかり…。間もなく終点!!という一瞬のことである、私の口がパッと開いて、「先生、行きます!」この一言はパスカルの口から発したものとしか考えられないのである。これが私の長い生涯を通して度々起った〈方向転換〉の最終回なのかもしれない。
スタンダールとの私の関係の方は、〈人間としての自己の存在を絶えず念頭におきながら今日を生きていく〉という意味で、私は彼の自伝の表題「エゴチスムの回想」として後世に伝えられたこの〈エゴチスム〉という言葉の忠実な信奉者であると自認している。
自分という個人と取りまく環境との関わり、この観点に立つならば、俄然シャルル・ペギーとロマン・ロランの人間像が私の前に現れてくる。一方でジャンヌ・ダルクを忘れられないフランス人!他方で大革命の時モットーとして自由、平等と並べて友愛を揚げたフランス人!この両方の必然性を私は四年前の秋と今年の春訪れたパリで再確認したように思う。地下鉄の通路に、キリストの肖像が紙面一ぱいのポスター!ロベール・オッセンの劇「イエス、それが彼の名だった」がスポーツ・センターで超満員の観客に向かって、「互いに愛しあいましょう!」の大合唱で幕!私は感動し、改めて考えさせられた。──ペギーの巡礼の地シャルトル!そこには今日も見渡すかぎり彼が「大海のうねり」と歌った豊かな麦畑の真只中に天へ向けて細い直線を鐘楼が描きだしているゴチック様式のノートル・ダム大聖堂!これより少し早く十二世紀前半にヴェズレーの丘上に建てられたサント・マドレーヌ寺院の方は堂々たるロマネスク様式で、パイプ・オルガンの荘厳な音色が今も響きわたっている。パリでは、通りすがりに見かける大小それぞれの教会の扉を押して中をのぞくと、時刻に関係なく、祭壇の前の信者の集まりが目に入る。このような光景は戦中戦後の十二年間私は見なかったと思う。1940年の初めにパリに着いた私が二年目にすっかり自信を失ってしまい、心神ともに憔悴しきって、ときどきフト見つけた教会の中へこっそり入ってゆき、片角の椅子に腰かけて、ジーッと祭壇の方を視つめている間、会堂内に誰一人姿を見せないのがあの頃の実状であった。
これらのことは、世紀末の今日、私たちに向かって一体どんなことを暗示しているのだろう?…
ペギーとロランの考えを聞きたいものである。 |