ロマン・ロランと日本人たち (1)
    − 影響の一例として ー
小 尾 俊 人


   先日、私は一友人からの手紙をもらいましたが、まずそれを御紹介したいと思います。
「昭和十八年、新聞に「ロマン・ロラン死去」というドイツ軍(あるいはナチ)の発表が載って、ひどく悲しんだのですが、その後、その発表はフランス・レジスタンスに対するナチスの謀略発表であったという五、六行の記事が載ってほっとしたものでした。私どもの徴兵をひかえた夏だったように思います。そのときの思いを手帖にひかえておいたのですが、この二つの新聞報道の日時がはっきりしません。……その思いの控えはつぎのようなものです。
     ロマン・ロランは死んだというドイツ軍の発表があって、
     心が重い日がつづいたのであるが。
   僅(はつ)かなる新聞記事に心和(な)ぎぬロマン・ロランは生きてをりとふ」
というのであります。
   私はびつくりいたしまして、早速、朝日新聞の縮刷版でしらべてみました。そうしますと、たしかにありました。
   昭和十八年(一九四三)十月二十日の記事。
   見出しに「ロマン・ローラン逝く」
   本文「ヴィシー十九日発同盟、パリ来電によれば、フランスの文豪ロマン・ローラン氏は十八日パリで死去した。享年七十七。代表作はrジャン・クリストヱで一九一三年ノーベル賞を授けられている。劇作と評論にも著作が多い。」
   その十二日後の記事。十一月二日ですが、
   見出し「ロマン・ローラン健在」
   「ベルリン特電一日発。仏文豪ロマン・ローランは先般死亡したと報ぜられたが、デー・エヌ・ベー通信は一日に至って「ロマン・ローランはまだ生きている」と報じ、先月十八日彼が死んだといわれたのはロイター通信が悪意に基づく虚報を放ったものだと素ッ破抜いた。デー・エヌ・ベ一によるとロマン・ローランは今なおパリのサン・エティアン街で暮らしていると」
   そして、この記事ののちに、私の友人である人の先ほどの和歌は詠まれたのであります。
   「僅かなる新聞記事に心和ぎぬロマン・ロランは生きてをりとふ」

   この友人にとって、ロラン逝去の記事は、彼のいわゆる学徒出陣、よくテレビに出てまいります雨のなかの明治神宮外苑、あの出陣学徒送別会の前日に目に入ったのであります。平和と人間性の使徒のイメージであったロランの死と、戦争に出てゆく自己の運命の不安とが重なっているのでありますが、その強烈な印象が、十二日後に誤報とわかって、ほっとするという、それが一首の歌として結晶したのであります。
   そして、その翌年一月三日の新聞に、
   「ロマン・ローラン死去」と見出しで、顔写真も出ておりますが、
   「リスボン一日発同盟、パリ来電=フランスが生んだ世界的文豪ロマン・ローランは北フランスのヨンヌ州ヴュズレイで三十日死去した。享年七十九。ローランは一九一六年小説rジャン・クリストフ】によってノーベル文学賞を授与されたが、その他ベートーヴェン、ミケランジェロ、トルストイ、ガンジー等の伝記多く、平和主義論策によって世界的に知られていた。前大戦中は反戦思想の廉で一時スイスに亡命したこともある。」
   これは正確な報道でありまして、一九四四年十二月三十日ロマン・ロランはこの世を去ったのであります。生前の最後の主著の「ペギー」の発行日も、同じく十二月三十日となっております。
本日、すなわち一九九五年一月二十七日は、ロラン没後五十年に二十八日を加えた日にあたります。五十年記念の催しは昨年の秋いらい五回にわたって、あるいはフランスから講演者を迎え、あるいは映画会を持つなど計画され、前回までそれぞれつつがなく完了いたしました。今夕は五十年を記念する最後の日となったのでございます。 


*

   さて、一九四四年の八月には、パリは戦争から解放されておりますが、日本では翌年八月十五日まで続きます。日本の敗戦直前の新聞紙は、ベラ一枚の二頁に過ぎません。食糧も物資もすべて底を衝いた状態でありましたが、そうした状能だも拘わらず、ロランの記事が写真入りで新聞に三回も出た、という点において、日本におけるロマン・ロランという名の持つ印象力、影響力あるいは雰囲気、アトモスフェアというものがいかに大きかったかが分かると思います。
   明治四十四年、一九一一年、ロランが日本にはじめて紹介されまして、いらい八十五年、このあいだに、五十名以上の方が、ロマン・ロランの本やエッセーを翻訳されておられます。その生前の著作はほとんど訳され、ただ没後刊行のものの一部が未訳でありますが、印刷された部数、読まれた部数の全体については、統計的に知ることは不可能です。
   しかし、その影響の範囲、影響の深さは、外国の著作家としては、比類ないものがあると思われます。それが、どんな形で、どのような姿で私たちの世界と関係を持ったのか、それを六つほどの具体的な例をとおして、観察してみたいと、考えております。

   (一)  大正初期のロマン・ロラン紹介と、教育現場への影響−長野県の例
   (二)  「森有正問題」、又は「精神的亡命」。
   (三)  片山訳「愛と死との戯れ」の影響の一例(魯迅)。
   (四)  大仏次郎氏(鞍馬天狗) の場合。
   (五)  渡辺一夫氏の場合。
   (六)  丸山眞男氏の場合。



(一)


   大正二(一九二二)年の三月、欧州大戦、第一次大戦のはじまる一年前の年です。ヒユーザン会機関誌「ヒユーザン」は、はじめて「ジャン・クリストフ」第四巻r反抗」、高村光太郎の訳で二号連載をいたします。三月号の編集後記に高村は書いております。
   「私は今クリストフを訳しながら激昂しています。クリストフの心理状態をよく了解できるからだと思います。私はこれを訳すことを喜んでいます。その純フランスな魂も私を踊らせます。二十二日」
−般的に、明治から大正にかけて、日本のオピニヨン・リーダーの活躍は、いわゆる「給合雑誌」の誌上で、見ることができるのでありますが、その代表的選手として、中沢臨川の名があげられます。
   当時の著名な評論家だった中沢臨川は、当時三十五才の新進で、総合雑誌の主要ライターだった人でありますが、彼は大正二年の十一月、「早稲田文学」に「新道徳論」のエッセイで、ニーチェとロマン・ロランをとりあげました。翌年五月「中央公論Jで「ロマン・ローラン」、つづいて大正四年六月同じく中央公論の「現代文明を評し、当来の新文明を卜す」、同じ年発行のr近代思想十六講」で「ロマン・ロランの眞勇主義」で、ロランをとりあげております。この最後のものは、当時大変売れた本であります。
   その他、内藤濯「ロマン・ロオランという人」ク「争闘の芸術」この二つのエッセーが一九一四年、第一次世界大我の年でありますが、この年に発表されました。これら論壇での大きな紹介とともに、主著rジャン・クリストNが後藤末雄氏(一九一七)と豊島与志雄氏(一九二〇)によって翻訳紹介されました。それ以後、ロマン・ロランの日本とのむすびつきは、さまざまな形で展開され、今日にいたっておりますが、私はまず、その一例を、長野県の小学校の教師の場合に見てみたいと思います。


   例えば、一志茂樹とか小林多津衛とかいう人々は、教師として、生徒の自発性をうながす教育を行ったことで著名であります。一志茂樹はロランのrトルストイ」を英訳から、日本語に移しているほどであります。
   一般にトルストイやロマン・ロラン、さらに「日樺」などの自由な風潮の、教育の現場への反映は、戸倉事件(T7)、川井訓導事件(大正ほ)などの社会的事件ともなりました。自由教育は、古い教育行政家から「気分教育」という名前をつけられ、警戒され、また警察などの監視対象ともなっておりました。
さて、片山敏彦先生は第二次大戦中、長野県の小諸近在の塩名田村に疎開されておられましたが、このとき出会ったのが、さきの教育者の小林多津衛という方で、現在九十才で御存命でいらっしゃいます。大正四年十九才でロランにやみつきになり、後藤末雄訳のrジャン・クリストヱに感激して、一週間学校を欠席して読了した、という人でありますが、この方r小林多津衛座談録」という一九九三年出版の本がありまして、そのなかにつぎのような言葉があります。
   「片山さんという方は私がこの目でいきあった中でもっともすばらしい人だ。白樺の柳宗悦、武者小路実篤はもちろんですが、この目で見て、これはすばらしい人間だと思ったのは片山敏彦と、諏訪の地理学者の三沢勝衛だね。…
   片山さんという人は新しく日本中全体で見直さなくちゃいけない。私は片山精神が生きれば日本の教育は変わると思うな。つまり日本の教育は、ある時は国家主義で、ある時は文明開化という外国の教育に影響されたでしょう。ところが明治、大正ときてみて、西洋の本当の深いものを理解して生かそうとしなかった。日本の本当に深いものも理解して生かそうとしなかったな。それで深さのない教育がしまいに天皇中心の皇国主義、小学校を国民学校なんていうのに変えて、皇御国(すめらみくに)というやつになって敗戟を迎えたわけですね。ところが今でも、西洋の本当にいいものを理解しているだろうか、今の先生は。日本の本当に深い文化を理解しているだろうか、どうだろう。…
   そういう意味からいって私は、片山さんという人は非常に大事な人だと思うんですがね。ところがほとんど知らないんじゃないかな、片山さんの存在を。」云々。
   大正期の日本に入ったロランの影響を、長野県の小学校の先生方の実例でお話ししたわけでございます。



(二)


   いわゆる「森有正閏題」、あるいは「森有正現象」といわれているものが、ございます。これは日本人が外国の文化との接触によっておこったものであります。よく御存じの方もいらっしゃると思いますが、第二次大戟後、東京大学のフランス文学の助教授だった森さんがフランスに毒の予定で留学され、帰国後に、渡辺美のあとを受けて東大教授になるはずであったのであります。しかし、この計画、この予定は、渡仏後忽ちにして崩壊し、帰国は延期され、そのため、主任教授の説得も効を奏さず、当時の東大総長だった南原繁もパリで森さんを説得したのですが、全然効果がありませんでした。日本に残した妻子とさえ一時縁切り状態になる、という始末でありました。
   なぜ、こうしたことが起こったのか。それは、フランス文化、ヨーロッパ文化を理解するためには、フランス人同様にフランス語を修得する必要は勿論でありますが、重要なことは、頭脳や理屈による知識あるいは文字の世界としてではなく、「感覚」サンサションによる全身的な徹底的な吸収が必要なのだ、という、自覚でありました。
   たんなる勉強とか研究でなく、文明の質的な転換、感覚の革命ともいうべきものが、そこにあったのです。いいかえますと、これは一つの亡命現象です。第二次大戟下のような政治亡命ではありませんで、精神的亡命ともいえるでしょうか。その引き金になったのは、おそらく、当時パリに在住していた高田博厚との出会いであったと思われます。それは高田博厚氏が、もっともフランス的なもの、芸術的な至高なものと思われていたものに、彼、森有正を近付けたのであります。
   それは何だったのでしょうか?
   高田さんは書いております。
   「私より二年程前にフランスへ来て、私と行き違いのようにして日本へ帰った親友の片山敏彦でも、わずか二十日間ばかりでも一緒にパリで暮らせたことは私にとって大きな幸になった。彼は私の為にいろいろと好いものを支度しておいてくれた。そうして来るといきなりフランスの魅力の真髄に私を導いてくれた。
   「何をおいてもサント・シャベルを見るが好い。…あそこにこそフランスの精神と夢がある」というロマン・ロランの注意を受けていた彼は、後から来た私にもまずそれを伝え譲ってくれた。
   ……そうして片山と私は、サント・シャベルへ入ったのだった。そうして、そこで私は、披璃を透かして来る金と赤と紫の光のなかで、茫然と、昔ながらのフランスの精神の、というよりゴールの精神の夢のなかにおぼれていたのであった。私は確かに意識を失していた。自分のものとも他人のものともつかぬ無量な幸福がただあたり一杯にこめているのを感じた。私はそこを去りたくなかった。私は酔っていた。決して醒めたくない、このような清純で柔和な酷酎の感情を私はかって経験したことはなかった。祈りの感情というものが向こうから来る…
   「一度行ったのみではサント・シャベルの魅力は十分に分からない。この聖なる灯が外の天候によってどのように変るか。晴れた日、雨の日、朝、夕方、私はあそこに坐った。一つの窓は金色に輝く。他の一つは血のようだ。向こうの方のは青ざめている。御堂の右側はいつも明るい。左側は紫色に影のなかで輝いている。日ざしが移るにつれて、金と赤と紫と青がずれて行く。ちらちら光が移る。私は眼を細くする。一層披璃の光の海だけになる。私はその中で眠る…」
   この文章は一九三三年、高田さんが渡仏したのは三一年ですからその二年後に書かれたものです。
この同じ場面について片山先生の書かれた文章があります。つぎに読ませていただきます。
「彼(高田)がパリに来ると、スイスのロマン・ロランのもとに同行するに先立って、私は第一番に彼を、サント・シャベルに連れて行った。十三世紀に聖王ルイが、キリストの荊の冠を象徴して作ったこの建築と、その中の色披璃窓とはすばらしいものである。パリで何よりも早くそれを訪れるようにとロマン・ロランから指示されていたそれは、フランスの〈美〉の心臓である。一般に主知主義的と呼ばれるフランス国民が、敬慶と感覚との無比の調和(アルモニテ)をここに作り出している。紅は愛の炎のように燃え、プーサン、シャ〜ダン、セザンヌにつらなる碧は、セレニテに澄み、色彩の秘密がもっとも純粋なミスチックと調和している。人間精神の西と東とが、蓄薇窓の光輝となって照る。
   これが、私にとってと同様、高田にとってフランス文化の第一の洗礼であった」(高田博厚、一九五〇・二)
   ロマン・ロランを憧れて、一九三一(大正二)年渡仏した椎名其二さんという方が居られます。また、このフランスの精神的な、芸術的な、また人間的な風土、その文明と言語で、同じような運命を持った人であります。森有正とか、画家の野見山暁治氏と親しい方でした。やはり早稲田大学の教職を捨ててフランスに去って、主任教授の吉江先生の大いなる怒りを買ったそうであります。森さんもそうでしたが、椎名さんも、それにフランスでその最後の日を迎えられたのでした。あるいみではこうした精神的亡命者としては、高田さん、片山さんあるいは古く阿倍仲麻呂なども同じカテゴリーに入るでしょう。
   椎名さんのことはロマン・ロランの日記にも、「彼は非常に聡明で教育があり、洗練された礼儀と清潔さを身につけている」と善かれています。彼は労働者として、「製本工」として、フランスで生活できることを喜びました。
   森有正も椎名さんと親しく、ガブリエル・モノー・へ〜ツエンというロマン・ロランと縁浅からぬ人ですが、この人の「形態学」という本の製本を椎名さんに依頼して、つくつて貰い、それを、「今でも、rもの」というものの象徴のように手にとって眺めるのである」と書いております。(森有正「木々は光を浴びて」)



(三)


   口マン・ロランの戯曲、フランス革命劇のr狼」(高橋邦太郎訳)および「愛と死との戯れJ(片山敏彦訳)が、日本で築地小劇場で上演されましたのは一九二四(大正十三)年、つづいて一九二六(大正十五)年であります。ちょうど年号が昭和にかわる直前ですが、そのときの印象を、高村光太郎がつぎのように書いております。
   「築地小劇場で、ロマン・ロランのr愛と死との戯れJを見た僕たちは、冬の壮麗、オリオン、大夫、牡牛、獅子というような連中が頭の真上で大眼玉をむいている築地の薄くらがりの焼跡じみた道路を歩いていた。外套や二重まわしの襟をかき立てたこのサンキュロットの六七人は、皆深い感動に胸をふくらまして、時々は路ばたに立ち止まりながら互いに叫び合っていた。話をしたというにしては、皆互いに相手の言葉を聴かなすぎた。皆何かしら自分の胸からこみ上げてくる言葉を投げ出すことに気をとられていた。それは殆ど連絡のない単句の急渾であった。やがて皆だまってしまった。皆深く静かに湛えた心を抱いて尾張町の方は歩いて行った。私はこの夜ほどロマン・ロランの深い心と、殆ど古代文学的な高い清らかな精神とに直接打たれたことはなかった」 (「ロマン・ロラン六十回の誕辰に」大正十五年一月)
   この築地の上演の台本となったのは、片山敏彦の訳でありますが。これは叢文閣によって昭和二年に出版されました。翌三年、一九二六年でありますが、中国の作家、魯迅その三月二十三日の日記に、彼はその住所のある上海でのことですが、「東亜公司に行き「愛と死との戯れ」 (一円四十銭) r支那上代画論研究」「支那画人伝Lを印早っ」と記録されております。
   その二日後の三月二十五日に、彼は「死地」 (又は危険地帯)という文章を書いておりますが、彼は、ここに買ったばかりの「愛と死との戯れ」の核心部分をひいて、その一週間前に起こったいわゆる「三・一八事件」の批評をしております。これは当時の軍閥、段祓瑞政府が純真な青年たちの請願の動きをわなにかけて、死傷者三百人以上を出した虐殺事件であります。魯迅は、この三月十八日を、「民国以来最も暗黒なる日、これを記す」とのべておりますが、その魯迅の書いた文章の一節を読んでみますと、
「いまちょうどロマン・ロランの「愛と死との戯れJが私の前にある。その中にこういっている。カルノーは人類の進歩のためには、多少の汚点は差し支えない。万やむを得ない場合は、多少の罪悪さえも妨げないと主張した。しかし彼らは却ってクールヴオアジエを殺したくなかった、なぜかなら共和国は、彼の死骸を腕に抱いているのを喜ばなかったら。それはあまりにずっしりと重すぎたから。“
   死骸の重さを感じ得て、抱いているのをねがわない民族のなかでは、先烈の「死」は後人の「生」 への唯一の霊薬である。だが、もはや重さを感ずることのない民族では、押しっぶされてともに亡び去るものでしかありえない。
   改革の志を抱く中国の青年は死骸の重さを知っている。だからとかく「請願」だ。だが他に死骸の重さを感じない者らが別におり、しかも「死骸の重み」を知っている心をひとまとめにして屠殺していることには、彼らはまるで気づかない。
   死地はまぎれもなく、すでに前方にある。中国のためを思えば、覚醒した青年はかるがるしく死ぬようなことをしてはならない」 (三月二十五日)
   以上が魯迅の引用です。
   これは国家と正義との最大の村立の瞬間においての、魯迅の判断でありました。そしてそれがまたロマン・ロランの思想そのものでもありました。片山訳がここに一つの触媒的役割を持ったことを興味深く思うのであります。なおロマン・ロランは、中国人に告げる一文を草しており、中国版「ジャン・クリストフ」に付けられたものですが、つぎに御紹介したいと思います。
   ジャン・クリストフから中国の友人たちへ 
   「私はヨーロッパとかアジアとか、そうした区分は知りません。私の知っているのは、世界の二つの兄弟であります。一つは上部へ向かって上昇する魂であります。他の一方は、下方へ向かって堕落してゆく魂であります。
   前者は、忍耐づよく、情熱をもっており、ねばりづよく、勇敢です。彼らは光りの下にある人々です。そのまったき光とは科学であり、美であり、愛であり、共同の進歩であります。
   後者は圧迫的なさまざまな力 − それは暗黒です、無知です。残虐さです。また頑固な偏見や野蛮さです。
   私は前者の側に立ちます。そうした人びとが、どこにあろうとも彼らは私の友人たちであります。そして同盟者、兄弟なのであります。私の祖国は、解放された人類全体です。もろもろの偉大な民族のそれぞれは、この祖国の一つの地方であり州なのです。そして万人の、すべての人間の財産は神=太陽なのであります。
               一九二五年一月                    ロマン・ロラン」
   同じ年の十二月、ロランは「日本の友人たちへ」の文も書いております。                                                      (つづく)


(ロマン・ロラン研究所理事)