『大洋感情』と宗教の発端 岩 田 慶 治
(国立民族学博物館
 名誉教授・文化人類学)



 一、「大洋感情」とは─
 ロマン・ロランが大洋感情″と言うべきものに着眼した。それがすべての宗教の本質的な部分である。あるいは、そこにきわめて近いところにある、と言った。この着眼、言い換えればロマン・ロランと海との出会いは、きわめて注目すべきことであった。今後、この出会い、この着眼をとおして数多くの宗教の世界のありよう、その根っこにあるものが解明されていくように思われる。
 では、大洋感情という言葉の背後に、いったい、どういう経験、どういう思想がひろがっているのだろうか。先ず、その点を述べておきたい。
 大洋とは、ロマン・ロランによればすべての川の流れ入るところだ。ロランは川の多い国に生れたという。
 「わたしは川の多い国の生まれである。わたしは川を生きたもののように愛する。先祖の人々が川にぶどう酒や乳を注いでやった意味がわたしにはわかる。ところで、すべての川の中でもっとも神聖な川は、魂の奥から、玄武岩の岩間から、砂地から、氷河から湧き出る川である。そこにこそ、わたしが宗教的と呼ぶ始源的な力がある、それは芸術にも、行動にも、科学にも、宗教にも、はかり知れぬ千尋の闇を黒々と湛えるところから、やむにやまれぬ傾斜に沿うて、意識され、実現され、支配された『存在』の大洋に流れて行くこの河に共通なものである。そして、水がふたたび水蒸気となって、海から立ち昇り、天上の雲にいたり、河川の源を養うように、創造の輪は間断なくつながりつヾくのである。源から海へ、海から源へ、すべては同じ『力であり』、『存在』である。始めもなく終りもない。」
 ロランのなかの大洋、あるいは海、それが何を意味しているか、これで明らかである。「源から海へ、海から源へ」とめぐりめぐるものの底に「海」を見ていたのである。そういう存在のあり方が、「大洋」だったのである。
 かれは、また、「大洋」のなかに東洋と西洋との融合、あるいは協力を、いわば予感していた。「つねに平素の立場における東洋と西洋の協力であり、理性の力と直観の力の協力」、それがかれをしてインド研究へ向わせることになったのだ。見えない糸がかれを導いたのであろう。
 大洋がすべての川を受け入れるということは、そこに同時に「東」と「西」の思想、「東」と「西」の宗教を融合させる何物かが、その可能性が見えたということである。ロマン・ロランは実際に、そういう試みに一歩踏み出している。キリストも、仏陀も、ラーマクリシュナも、ヴィヴューカーナンダも、同じ大洋に浮んでいる。それぞれの間に溝はない。そういう卓越した人びとの間にだけ溝がないのではなくて、それらの宗教の信者たち、一般の、普通の人びとの間にも溝がない。溝はなかったのだ。だから、手を取りあって行くのに何の不都合があろうか。
 ロランはこう付け加えている。「河とともに、支流を、小さいものも、大きいものも、また大洋も─生きた神の生動する全体を抱擁するであろう」と。
 その通りであろう。
 「しかし、」とロランは言うのだ。「わたしはけっして立ちどまって、渚にうつむいてはいない。波とともに、海まで歩みをつヾける」と。
 渚に立止らないで海に歩み入る、観賞から行為がみちびかれる。さすがだと思う。
 砂浜を歩いてきて、渚にたどり着いて、そこで立ちどまって渚の光景に見とれてばかりいないで、そのまゝ大洋のなかへ歩み入る。そういうのであるが、ここでは、大洋感情のひろがりとその構造をくわしく考えてみたいので、一応、そこに立ちどまることにする。渚という境界線に立って、彼の打ち寄せる海を眺め、また、陸を振り返ってみようというのである。


二、渚とシャーマニズム
 海と自分、自分と海のかゝわり方をいくつかの視点からとらえることができる。
 (1)自分が陸にいて、ひろびろとした海を前にした場合。海の果てしないひろがりを感じ、そこに未知の世界、永遠なものに対面していることを知る。極大と極小の対照を感じとるかもしれない。
 (2)渚に立つ。海と陸の境界に立って、二元的なものをどのように受容し、それをいかに克服していくか、その方法に頭を悩ますかもしれない。世界は一つか、それとも二つか。そこにひび割れがあるのか、ないのか。自分にとって受けいれやすい見方をさぐるわけである。昔、レオ・フロベニウスがそうしたように、渚を陸と海とのたわむれの場と理解して、遊びのなかに文化の生成を読みとることもできる。
 (3)今度は海上に乗り出して、ボートにゆられながら、海とは何かを考える。海に浮ぶ、波にゆれる、自分という乗りものにゆれる。その怖れと不安のなかで、自分の在所、自分のアイデンティティーを求めようとする。
 (4)鳥になったつもりで海の上を飛ぶ。海を鳥瞰する。そこに自分のいない世界を自分で見下す。もちろん、身体を持ったまゝでは飛べない。そうすると、身体が魂になって海を見るということになるだろうか。
 (5)海中に入る。つまり泳ぐのだ。魚になって海を感じる。海との一体感、そして宇宙との一体感を感じとることができるだろうか。もちろん、予感するだけであるが。
 こういう風に自分の位置、自分の視点を変えながら海と自分とのかゝわり、海の感じ、つまり「大洋感情」を追体験しようとする。 どこまでも広々としているだけの海だけれど、それが多面的に違ってあらわれる。とても、一筋縄ではとらえられない。
 もう一度、渚に立って考え直してみる。
 その一。渚は二つの世界、陸と海、この世とあの世の交わるところだ。そこに立つと、二つの世界が一つに見える、ということについてこういう話がある。
 日本庭園についての話である。たとえば京都に多い禅寺の庭を思いうかべていただきたい。庭の内側、あるいは内部には砂がしきつめられ、そのところどころに大小の石が配置されている。石の傍らに苔が陰影のように地をおおっている。しきつめられた砂に流水紋のようなほうきの跡目がついていることもある。
 枯山水の庭は要約するとこういう具合だ。
 なかには、庭の中央に池があり、そこに蓬莱山を思わせる尖った石がすえられ、その向う側に滝があり、木立ちがある。池をめぐって小ぶりの石が並べられ、そのまわりに白砂がしきつめられている。
 天竜寺庭園がこの例である。
 そこで問題は、これらの庭を囲っている土塀─もちろん白壁のこともあるが─の高さが低いことなのである。塀の高さが低く、向う側の森、山、空が借景として取りこまれている。塀を境に、近景と遠景が同時に眺められる。そのように工夫されている。
 このことは庭を構成する風景として面白いだけでなく、仏教的世界観の表現としても巧妙なものだ。この世とあの世、魔界と仏界が区切られながらつヾいているということである。「その心きよきにしたがって即ち仏土また浄し」などといわれるが、自分の参加に応じて、そのこころのあり方に応じて、二つの世界が一つになるということ、仏教の風景学といったらよいだろうか。
 渚、あるいは境界がわれわれに投げかける最初の問いなのだ。
 その二。ここで親鸞と道元について触れてみたい。二人の独創的な思想家の肌あいの違いというか、自然への触れ方の違いというか、かなり微妙な問題であるが、今後の課題としたいのである。 親鸞が「海」についてしばしば触れていることは周知の通りである。流罪になって日本海に浮び、波にただよっていたときの強い印象が身にしみたのであろうか。怖れと信頼、ささやかな自分の存在と巨大なかたまりとしての海、この二つのたがいに矛盾する感情のゆらぎ、あるいは同時存在が罪人の身に深い痕跡をのこしたのであろうか。「大宝海」といい、「本願海」といい、「大智海」という。また、「大心海」といったり、「群生海」、「難度海」という。また「生死の苦海」ということもある。陸地、いや「この世」、われわれの生活の場に由来するもろもろが、善も悪も、浄も穢も、聖も俗も、芸術品もゴミも、すべてが海に流れ入りながら、そこで浄化されてしまう。特別な反応がおこって俗が聖に転化し、悪が善につゝまれるわけではないが、大洋の無限が日常生活の有限を呑みこんでしまうのだ。転じる。変化させる。無毒化するということであろうか。
 ここで性急に結論を出すことなく、もっと二の世界に執着しなければならないと思うけれども、しかし、やがては包まれてしまう。悩みがやすらぎに転じる。「煩悩を断ぜずして捏磐を得る」というのは、その通りだと思わないわけにはいかない。
 『教行信証』の行巻でかれは次のように述べている。「海といふは、久遠よりこのかた凡聖ぼんしょう所修しょしゅ雑修雑善ざふしゅざふぜんの川水を転じ、逆謗闡提ぎゃくはうせんだい恒沙無明ごうしゃむみょうの海水を転じて、本願大悲ほんがんだいひ智慧ちえ真実しんじつ恒沙万徳ごうしゃまんとく大宝海水たいほうかいすいとなる、これをかいのごとしとたとふるなり。まことにしんぬ、経にときて煩悩のこほりとけて功徳くどくの水となるとのたまへるがごとし。」
 また、和讃には、きわめて端的に

 罪障功徳ノ体トナル
 コホリトミツノゴトクニテ
 コホリオホキニミヅオホシ
 サハリオホキニ徳オホシ

 と述べている。
 罪障と功徳、氷と水、障りと徳、この対比からみると、罪・氷・障りというのが人間の本質ということになるであろうか。普通に考えれば水が本質で氷がその状態ということになると思うけれども、今後の問題として考えたいものだ─白隠の座禅和讃を思いうかべると、「水を離れて水なし」というところなど、本質のとらえ方がちょっと違うようでもある─。
 いずれにしろ、親鸞の前に「海」という巨大なかたちが「悪」そのものであるかのように、しかも同時に、それが限りなく優しく迫っているように思われる。
 その三。ここで道元に登場してもらうことにしたい。たヾし、ここでは『正法眼蔵』を詳細に検討する余裕はないから、ひとまず、およその感じを述べるにとどめたい。
 その感じによると、道元は「海」といわずに「水」ということが多いのではなかろうか。海の中に歩み入ると、つまり傍観者の立場から海そのものの中に自分の位置を変えると、まわりは「水」ばかり。形よりも質、ひろがりよりも点、そういう傾向がありはしないだろうか。「氷」を前にして「水」を見るということである。
 もちろん、道元だって「海」に言及していないというのではない。
 「たとえば、船にのりて山なき海中にいでて四方よもをみるに、ただ、まろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞えうらくのごとし。たヾわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり」(「現成公案」)。
 道元その人が船にのって大海に乗り出して行く様がよくわかる。海とはどういうものか。海のかたちはどうなっているのか。道元の眼は海をたずね当てようとする。海というものはとらえ難い。そう思うと道元は魚になって泳ぎまわる。
 「うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。……鳥もしそらをいづればたちまちに死す。魚もし水をいづればたちまちに死す。以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし。以鳥以命あり、以魚以命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。……しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李あんりしたがひて現成公案す(「現代公案」)。
 限りない水のなかを、いま、魚がどこまでもどこまでも泳いでいく。どこかの目的地に到着しようというのではない。水の広さ、深さ、水のかたちを明らかにしようとしているのでもない。水とともに生きる。水とともに目覚める。そのとき、魚も、水も自由なのだ。
 こういう世界の消息について、道元は「海印三昧」として縦横に論じている。
 包含万有ほうがんばんいうという言葉は、「海の本質」を言いあてた言葉だ、というのである。道元の解説はまたしても巧妙を極める。「包含万有といっても、何物かが万有を包みこむというのじゃない。包含、万有だ。大海が万有を包含するというのではない。」この事実を知ろうとするなら、もっと海の中に歩み入らなくてはならない。「なにものとしれるにあらざれども、しばらく万有なり」。動いてやまない自然、その自然そのものが仏であり、祖であり、かれらの悟りの自己表現なのだ。大海がかれらの三昧をあらわしている。
 現象を超え、言葉を超えて、「大海」の本質を直視してやまない道元の眼力に驚くぼかりである.包含・万有という動きが、波のように迫ってくる。
 二人の宗教的天才が、「海」に託して自分の世界を述べていることを理解していただけたであろうか.「海というかたち」と「水という質」と一応はいったけれども、ギリギリのところになれば、親鸞と道元の見解にそれほどの相違があるわけではない。
 その四。ここまできたところで、ロマン・ロランの描くラーマクリシュナを素描してみよう。 ラーマクリシュナの生涯をたどってみると、きわめて卓越したシャーマン、つまり神がかり宗教の中心人物である憑霊者のように見えるが、実際には、言うまでもなくヒンドゥー教の司祭であった。
 ヒンドゥー教は文字どおりインドとインド人の宗教である。それはインドという国土、北はヒマラヤの峰々を含み、ガンジスの流れと乾燥して赤茶けた原野を含み、インド洋の青くギラギラした海を含む広大な国土とそこに住みついた人びと、数え切れないほどの民族と言語と宗教と服装を含み、習俗のさまざま、生から死に至る儀礼の数々を含む人びとすべての宗教である。
 特別な教義を持っているわけではないが、神への日々の祈りと供犠、数多くの聖地と聖地巡礼の習慣をもち、世俗を離れて山や森に修行する人びとがいる。ヒンドゥー教はあくまでも土着の民族宗教である。土から生れ、ひとと一体になった宗教といったらよいだろうか。その意味で高度に発達したシャーマニズムと言えないこともない。
 シャーマニズムが数多くの神々をもっているように、ヒンドゥー教も多神教である。ヴィシュヌ神、シヴァ神をはじめ多くの神々を礼拝するだけでなく、ときにはキリスト、マホメット、仏陀に加えて孔子、老子なども神々の列に加えられている。その意味で東西の宗教がここに落ちあい、排除することなく共存しているわけで、いわばロマン・ロランの主張が先取りされていると言ってもよい。
 ラーマクリシュナはカーリー女神を祀る神殿の司祭であった。今日でも、カルカッタなどのカーリー神殿に行ってみるとたいへんな数の信者が参詣し、花や供物をそなえ、時には山羊を供犠して祈っている。雑踏しているといってもいい。そのなかで聖紐を肩にかけた司祭が、上半身裸体で腰に白いサロンをまとい、神と信者のあいだをとり持ってすこぶる多忙である。大祭のときになると、花と果物と菓子を盆に山盛りにして神に供え、その前で信者の願いを取りつぐ。神と神話の世界が儀礼として、ドラマ仕立てで、そこに再現されているのである。
 神々の世界が眼前に現出する。
 われわれはそれをドラマと思うけれども、祭りの参加者、ヒンドゥー教信者にとっては、それは決してドラマじゃない。現実なのだ。そのとき、神は人であり、人が神なのだ。この点はシャーマニズムにおけるシャーマンの演技ととてもよく似ている。神がかりの場に目のあたりに神があらわれる。
 ヒンドゥー教の司祭は神像を神として扱う。黒い玄武岩のカーリー女神は生きているのだ。もちろん、司祭だって始めから神と石像とを同じものと思うことはないだろう。しかし、神に仕えているうちに、石像が生きてくるというのだ。
 毎朝、カーリーが眼をさます頃、鐘が鳴り、灯がともり、摘みとられた庭の花が供えられる。できるだけ蕾のまゝがよい。その日の新たな花の香りを神にささげるのだ。九時になるとカーリーの前で礼拝がはじまる。正午には熱帯の酷暑をさけて神が昼寝される。神を寝床におつれするのだ。夕方になると、神はふたたびもとの座につかれ、やがて夜の礼拝がいとなまれる。灯火がゆれ、小刻みに鐘が鳴りわたる。そして夜の九時頃ともなると、カーリーは休息される。
 司祭は一日中、神につきそって、神を賓客のように迎え、主人公に仕えるように奉仕する。そうしているうちに石づくりの神が生きた神になるのだ。
 そうは言っても、始めから神と一体化できるわけではない。
 あるときは、耐えきれないほどの悩みに打ちのめされ、あるときは、苦しみの余り、自分は生涯をとおして神を見ることはできないだろうと思うこともある。狂人のように神を求め、しかも神をとらえ得ない。そういう苦悩の日々がつづくのだ。
 そういうある日、突然、ラーマクリシュナは神に包まれたのだ。
 「わたしは、涯しのない、まばゆいばかりの精神の大洋をみとめた。いずれの方に眼を向けても、見渡すかぎり、この光り輝やく海洋の大涛おおなみが押しよせてくるのを見た。……(その波涛が)わたしをめがけて狂おしく殺到した。たちまちにして、わたしに襲いかゝり、砕け散り、わたしを渦巻きの中に呑んだ。波にもまれて、わたしは息がつまった。わたしは意識を失い、倒れた……この一日とその翌日がいかにして過ぎたか、まったくわたしは知らない。わたしの内心には消しがたい歓喜の大海原がうねっていた。そして底の底で、わたしは聖なる母カーリーのましますことを意識した」。
 宗教的な意味で、これがラーマクリシュナの誕生であり、同時にカーリー女神の誕生でもあった。ラーマクリシュナとカーリー女神と大洋とが恍惚のなかで一体化したのだ。
 大洋感情というのは、ただ、広々として果てしもない大洋を前にしたときの感情というわけではなかった。それは目覚めの感じであり、入神の自覚だったのだ。
 ラーマクリシュナが弟子たちに語ったという言葉がたいへん面白い。
 「わたしはすべての宗教を実践しました。インド(ヒンドゥー)教も、イスラム教も、キリスト教も。わたしはまたインド教の諸宗派の道を歩みました。……すべての宗教が、ちがった道を通って、同じ神に向うということを知りました。……あなたたちも一度はすべての信仰を実践し、それらの種々の道を通ってみなければいけません。 ……水槽には幾つかのゴー(隔段)があります。その中の一つから、インド教徒は水瓶に水を汲み、それをジャルと呼びます。いま一つからは、回教徒が革袋に水を汲み、それをバニと呼びます。三番目から、キリスト教徒が汲み、それを水とウォーター呼びます。……実体は一つです」。
 すべての宗教が同じ大洋に流れ入る。人間はその大洋のなかを泳ぐのだ。ラーマクリシュナはその経験を詩にしている。

  智者の瞑想は
  水また水─
  上も下も、はてしない水─
  人は魚のように楽しげに泳ぐ

  無限の大洋よ、水に極みなく
  そのなかに一つ、瓶がただよう
  瓶の外も、中も水─
  智者はさとる、すべてこれ至上我パラマートマ

  ではこの瓶は何だろう?
  これあるため、水は二つに
  これあるため、私″を感ず
  私″なければ、語る口もなし

  無限の大虚空に、つばさひろげて
  鳥、たのしく翔ぶ─智者の瞑想
  純粋意識チダーカシャの大空に、真我アートマの鳥
  あまかけるその歓喜よろこびも果てなし  (ラーマクリシュナ『不滅の言葉』)

 祈りと行為(儀礼)と思想からなるヒンドゥー教信仰のエッセンスであろうか。「海」とは何か、大洋と自分がどういう構造のなかで一体化しているか、よくわかる。ヒンドゥー教は仏教と違って、無我じゃなく大我をたてる─宇宙の絶対者ブラフマンと個我アートマンの合一─と言う人もいるが、大我の境界あるいは神の輪郭をことさらに意識することはないだろう。宗教の至りえた自由の世界が、この詩によく表現されているように思われる。
 ラーマクリシュナはカーリー女神に仕える司祭であるが、かれが深い祈りときびしい修行のすえにたどり着いた境地は、すぐれたシャーマンのそれと同じであった。
 私はヒンドゥー教を低く見てこう言うのではない。シャーマニズムを高く評価した上でこう言いたいのである。天と地が継ぎ目のない一枚の布となって、そこに一匹の魚が泳いでいくのだ。水に跡を残すことなく─。


三、海と人間
 ロマン・ロランの着眼した大洋感情という言葉を導きの糸として、手短かではあったが、海とその向う側にある思想のひろがりを追ってきた。必ずしも歴史の流れにしたがうのではなく、はじめに日本仏教のなかの二人の天才、親鸞と道元の思想をふりかえり、次いでラーマクリシュナの信仰と入神のありさまを思いやった。
 大洋感情、あるいは大洋そのもの、あるいは海と水は、われわれに何を伝えようとしていたのだろうか。もちろん、その広さ、その深さ、その色、その大波、小波の表情だけではなかった。それらによって構成される具象的な風景というよりも、むしろ、一度はそれらを離れたところにこそホントの海が見えるのかもしれなかった。
 神秘体験の多様なあらわれのなかに海の本質を読み取ったらよいのだろうか。
 神人合一、梵我一如、エクスタシー、あるいは三昧─たとえば海印三昧─、これらの言葉のうちに、いや、これらの言葉の志向するところに、海の本質が見えるのであろうか。
 そうであるようでもあり、そうでないようでもある。これらの言葉はとても深みのあるすばらしい言葉であるが、それにもかかわらず、それが言葉であることによって一種の袋小路、行きどまりの性質を残しているように思われるからである。
 そこで、いや、ここまで来てしまったのだから、ここで私の海を呼び出してみたい。
 もう、三十年余り以前のことになってしまったが、初めて東南アジアに渡って─稲作民族文化綜合調査団の一メンバーとして─かの地の稲の文化を調査しようとしていた頃のことである。
 われわれ三人─他のメンバーは飛行機で行った─は神戸からバンコクまで船に乗って行った。一万トンぐらいの貨物船だったが、客室が二つあった。白ペンキの匂う船室に眠り、またデッキの片隅に坐って海を眺めた。夏の日射しをあびながら二週間、船はひたすら走った。時速十ノットということだったから、自転車で走るのと余り変らない。しかし、同じ速さで昼も夜も、来る日も来る日も、波を押しのけながら、休みなく海上を走ったのである。私にとっては日本を離れるのが始めての経験だったから、何もかも、身にしみとおる旅だった。
 玄海灘では台風とすれ違った。船は黒灰色の波にゆられた。東シナ海では大波のうねりのままに上下し、シーソーに乗ったようだった。台湾海峡は夜、光の点がトンネルのなかを走るように進んだ。香港に近づいたところで蛋民タンミンのジャンクに行きあった。かれらの褐色の帆船は私にとって異文化のかたまりだった。ベトナム沖の南シナ海は鏡のように平らだった。夕方にはピンクのさざ彼の向う側に日が沈んだ。深い静けさが立ちこめていた。コンドル島は島というより漂流する流木のように見えた。やがて、シャム湾を北上して夜中にメナム川を遡上しはじめた。デルタ地帯を蛇行する大河を何に喩えたらよいだろうか。しどけなく脱ぎ棄てられた日本女性の帯といったらよいだろうか。船は前進すると見えて後退し、右へ向うかと思うと左へ向った。 夜明けに猛烈な雷雨があり、稲光が光った。船はニッパ椰子で葺いた川岸の小屋の近くをすべるように走って、とうとうバンコクに到着した。まわりから聞こえてくるタイ語のひびきが賑やかで、軽快で、浮き立つようだった。
 久しぶりに陸に下りたつと、からだが傾き、ゆらゆらした。からだから海が抜けていない。そこに青い海ヘビが横たわっている。神戸からバンコクまで、長い長い帯がくりひろげられ、いまだに波とともにゆれていた。そんな感じだった。
 二週間の海の感じ、あれは、一体、何だったのだろうか。大洋感情、海の感じ、それはそれに違いないのであるが、しかも、あれは一つの認識、感じるということに限りなく近い認識だったのではないか。自分と世界を同時に認識する経験だったように思う。
 全身で、自分の皮膚と海の皮膚をかさねあわせながら、同調し、感覚し、思考する。海の宗教と海の思想がそこから生れてくるに違いないと思った。
 時速数百キロから千キロ近くの速さで矢のように、空中に突きささったキリのように飛んでいく飛行機と違って、大洋のさまざまな部分を自分ですべる、かのように航行する船旅は、考えるに適しているように思われた。
 私は数年ののち、今度はボルネオ内陸のカヤン族の村にいた。ラジャン川中流の町カピットから二日がかりで、急流、激流を乗り切ってたどり着いた村であった。しかし、いろいろの点でくい違いがあり、予定した調査はうまくいかなかった。それでも二週間ばかり泊っていただろうか、その間、私は昼食のインスタント・ラーメンを食べ終ったあとで、何時も、ロング・ハウスの裏手の森に出かけて休息することにしていた。疲れていないのに休息するというのだから、あれは一種の逃避あるいは冥想だったのだろうか、森のなかに坐って一時間あまり、眼をあけたり、閉じたりしながら自分のこころを静かに保とうとしていた。ところが、毎日々々そうしているうちに森のその場所が好きになってしまった。森は一様に淡い緑のカーテンにつつまれていた。大きい、木蓮の葉のような、しかし、すこし木蓮とは違う形の葉が重なり合いながら陽光をうけて透けていた。ときどき、黒い鳥が音もなく通りすぎた。カラスではない。もっとつばさの広い、大きい鳥。黒い布切れがひらひらしながら緑の大気に浮び、森を横切っていく。そんな感じだった。私はそこに腰をおろして、見るともなく、しかし、引きつけられるようにそれを見ていた。ボルネオの森だからといって不安と怖れがあったわけではない。そうかといって、深いやすらぎの状態には至りえないで、自分という存在が森の緑の大気のなかに浮んでいるような不思議な感じに包まれていた。海の底のような場所といったらよいだろうか。そのなかを縦横、ななめに飛び交う黒鳥。その鳥は森という生きもののなかに瞬く眼のようであった。ふと、そのとき思い出したのは村長の家の板壁に描かれた絵であった。全面に纒繞てんじょう植物のような、大柄の唐草模様のような力強い文様がえがかれ、画面のそこここに数多くの眼のかたちがはめこまれていたのである。その画面が眼の前の森と鳥の風景と重なったかと思うと、私もまた画中の人となっていた。私の眼が文様の眼になり、同時に森のなかの鳥の眼になっていた。
 眼が外に開かれ、また、内に開かれる。
 それを幻想というのか、冥想というのか、知らない。いずれにしろ、私という存在、そのかたちはそこになかったのだから。

  海と私が近づく
  海の皮膚と私の皮膚がかさなる
  海の深層と私の深層が交換する
  海の本質と私のアーラヤ織が一つになる
  そうかもしれないが、そうでもない
  もともと名前のないものが
  ゆらぎ、たゆたい、波立って
  眼となり、耳となり、鼻となり、口となる
  どれもこれも渦巻の中心だ
  そこに宗教の発端があるのではないか
  もっとも──
  発端はすでに終末を含んでいる
  いや、終末がそのまゝ発端なのだけれども


〔引用文献〕本文のなかの引用はすべて左記による。
 1. ロマン・ロラン全集(15) ラーマクリシュナの生涯、宮本正清訳   1880年(みすず書房)
 2.ラーマクリシュナ 田中嫺玉、奈良康明訳「不滅の言葉」(中公文庫)   田中嫺玉、インドの光─聖ラーマクリシュナの生涯(中公文庫)
 3. 親鸞「教行信証」(岩波文庫)、道元「正法眼蔵」(岩波文庫)。

                                (1992・6・26)