ロマン・ロランとベートーヴェン 青 木  やよひ
        
(評論家)



 ロランという方は大変奥深いと同時に幅の広い方ですから、どういう観点からもアプローチができると思うんです。今日は演題に即して、ベートーヴェン研究を軸にして、みなさまと御一緒にもう一度ロランの仕事をおさらいするような感じでお話をしてみたいと思います。
 だいたいの筋道としては、最初にロマン・ロランとベートーヴェンとのかかわりについて話させていただきます。次にロランのベートーヴェン観の変化を追ってみたいと思います。日本では『ベートーヴェンの生涯』が圧倒的に広く普及してしまったものですから、あれがロランのベートーヴェン観のすべてであるかのように思われておりますけれども、最後のベートーヴェン研究では非常にちがってきているんです。そのあたりのこと、つまり四十年の間にロランのベートーヴェン像がどんなふうに変わっていったかということです。三番目には、いろんなベートーヴェン研究がありますけれども、その中でロマン・ロランの研究はどういう意味をもっているのか、ということ。そして最後に、私とこの二人の巨匠たちとのかかわりをちょっとだけお話しさせていただきたいと思っております。

 1.ロランにとってのベートーヴェン
 ロランという人は音楽的天分に恵まれていたようです。幼時に母親からピアノの手ほどきを受けたといいますが、のちにピアニストになりたいと思うほど演奏にすぐれていました。クラシック音楽を子守歌にして育った人ですが、最初のはっきりしたベートーヴェンとの出会いは、彼が十六歳のときでした。自伝によりますと、その夏はじめて国境をこえ、スイスのひなびた教会で『田園交響曲』を聞くのですが、そのとき窓の外から聞こえてきた小鳥のさえずりと、『田園』のテーマが不思議にとけあっていたと、後年回想しています。
 つぎの出会いは、パリでエコール・ノルマルの試験になん度か落ちていたとき、つまり浪人中に聞いた『第七交響曲』でした。このときも陥ちこんでいたロランに、この曲は自然との一体感というえもいわれぬ喜びを与えてくれたのでした。彼がベートーヴェンから受けたものが、二度とも「自然」というキーワードだったことを、私はたいへん興味ぶかく思っております。
 その後ロランは二十三歳のときにローマに留学して、そこでマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークというヨーロッパの理想主義の権化みたいな老婦人と出会うわけですけれども、彼女との親交が深まったのは、やはりベートーヴェンが仲立ちをしてくれたからでした。この女性はニーチェともワーグナーとも親しくて、ローマの彼女の部屋ではリストもピアノを弾いたといわれています。そこで二人が一番好んで弾いたのはベートーヴェンの作品106だった。そのアダージョを、ロランは「マルヴィーダのアダージョ」と名付けております。
 ローマから帰国後、ロランは結婚していますが、妻となった女性はベートーヴェンが好きでなかったようです。数年後に離婚になるわけですが、その痛手を癒やすために彼はライン地方に旅行しております。ベートーヴェンが聴いたであろうライン河のさざめきを聴いて立ちなおり、1902年に『ベートーヴェンの生涯』を書く。そんなふうにべートーヴェンは、ロランにとって人生の節目ふしめに必ず現われる導きの星のような存在だったわけです。
 あと、ベートーヴェンがモデルと言われる『ジャン・クリストフ』も書いておりますし、1927年、ちょうどベートーヴェンが亡くなって百年目に、ボンでひらかれた記念祭にフランスからはロマン・ロランが呼ばれて、そのときの講演が『ベートーヴェンへの感謝』という印刷物となって残っております。そのあたりが一つの節目なんですが、もうちょっと先までかかわりを述べてまいりますと、第二次大戦の終わりごろ、当時住んでいたヴェズレーの丘をうねうねと走っている道の上を、まず最初にドイツ軍に負けた地域の避難民がぞろぞろと逃げていく。その後続いてナチス・ドイツの戦車隊が土煙りをあげながらその道を通っていく。そうした非常に緊迫した重苦しい雰囲気の中で、ロランの頭の中で鳴り続けていたのは何かといったら、ベートーヴェンの「皇帝」のアダージョだったんですね。三日三晩自分の頭の中でそれが鳴り続けていた、「それはあたかも重いどんよりと曇った空の間から見える青空の目のようだった」、と彼は言っています。忘れがたい感動的な場面です。
 そして、1941年に『第九交響曲』を「ベートーヴェン研究」の最後として書くんですが、これは亡くなる三年前です。で、ベートーヴェンが『第九』を書いたのも、亡くなる三年前なんです、1824年ですから。いずれも、人類へのメッセージを同じように同じテーマで残しているところが、わたくしには大変感銘深い思いがいたします。 


  2.ロランにおけるベートーヴェン像の変遷
 次に、その長いかかわりの中でどのようにべートーヴェン像が変っていったのかということです。わたくしも昔、『ベートーヴェンの生涯』を読んでたぶん感動したんだろうと思うんですが、後になって読みますと、ちょっと思い入れが強すぎるというか、彼自身の内面の暗さみたいなものを反映して、魂の救済者としてのベートーヴェンみたいなところが非常に強調されていると思うんです。それというのは、当時の世紀末的なヨーロッパの退廃の中で、彼が大切に思っていた理想主義というものをベートーヴェンの中に色濃く投影していたからではないか。つまり、時代に抵抗するロマン・ロランが、ベートーヴェンという芸術家の姿をかりて理想主義を守ろうとしたんじゃないか、というふうに思われるし、彼自身もそのように言っております。それはそれで当時としては立派なことだったし、またベートーヴェンという存在を志ある人たちに伝達するためには必要な方法だったかもしれません。しかし後世から見ると、これがベートーヴェンの神話化″のもとになっていますし、のちにロランがぐっと広げたベートーヴェン像をおおいかくしてしまっているという気がします。
 これが、ロランの中で変わってきますのは、年代的に言いますと1927年なんですね。新しいかたちのベートーヴェン研究として、最初の『エロイカからアバッショナ一夕まで』というのが発表されたのがこの年なんです。ちょうどベートーヴェンの死後百年祭ということもあって当時新しい資料がどっと出たんじゃないか。そういうものを読んだりしたこともその原因だったのではないかと思うんです。『ベートーヴェンへの感謝』の中でもすでにこんなことを言っているんです。「革命と帝政の時代」、これはベートーヴェンの時代のことなんですけれども、「英雄的な情熱″と行為が羽飾りをつけて騎馬行進をしていた時代に生きた人間」、これはベートーヴェンのことなんですが、彼は「雄弁の華々しい衣をまとっていた」、とあります。そして、それをぬぎすてたベートーヴェンがいる、ということにロランは気づき、それに心ひかれるわけですね。「1817年から27年までのベートーヴェンの危機に書かれた作品は、私にとっておそらくもっとも親密な作品である」とはっきり言ってるんです。ということは、これは後の話になりますけれども、ベートーヴェンの《不滅の恋人》事件というのは1812年でして、その後四〜五年の間ベートーヴェンはほとんど廃人のようになってしまうわけです。ロランは、「この間にべートーヴェンは、人間的に変わってしまった」と言っているわけです。けれども、ベートーヴェンが変わったように、ロマン・ロランのベートーヴェン観も変わっているんですね。どこが変わったかといいますと、ポイントが三つあるんです。
 一つは、ベートーヴェンは女性にもてなかったどころか、「彼は女性たちを魅惑した」ということです。これはたぶん『エロイカからアパッショナ一タまで』という、ベートーヴェンの三十代の頃を調べている時に、ハンガリーのブルンシュヴィック家の資料をロランが読んだためだと思います。《不滅の恋人》と一時目されていたテレーゼ・ブルンシュヴィックという女性がいまして、ハンガリーの貴族なんですけれども、そこの資料がたくさん出るんです。それで、テレーゼの日記とか回想記とか、彼女が二人の妹と交わした手紙とか、といったものを読み進むにつれて、それまでの、ふられてばかりいたベートーヴェンというイメージが、まったくちがうんだ、ということか明らかになるわけなんです。その結果、ロランが何て書いているかといいましたら、「彼の禁欲は、これまで誇張されてきた」というんです。つまりベートーヴェンは、自分が魅惑した女性から寄せられた恋心に対してそれを拒絶するどころか恋のたわむれをけっこう楽しんできた、ということに気づくんですね。それはもう、ロランにとってベートーヴェン像の大変化の一つなんです。
 それからもう一つは、ベートーヴェンって聖者のような人だ、とロランは思っていたんですけれども、必ずしもそうでないということがわかる。たとえば、ズメシュカルという男爵がいるんです。最初からベートーヴェンの天才を見ぬいて、非常に献身的に彼の生涯の友達になるんです。ところが、もう一人の友達に、「あれは好きな時に取り出して弾けるヴァイオリンみたいなもんだ」と手紙で書いてるんですね。要するに、ロランはその手紙から、ベートーヴェンは友人を利用の対象としか見てないんだ、というふうにとってるんです。でもベートーヴェンにはたぶんに気まぐれなところがありまして、私は必ずしもこの手紙の文面を額面どおりにとる必要はないと思うんですけれども。そして、これは『エロイカからアパッショナ一タまで』の中のロランの言葉ですけれども、「私はいささかも理想化をしない、やさしい魂の人々にはすまないが、私はこの目で見たままの人間像を語る」、と言ってるんですね。だからかなりシビアなべートーヴュン像がここででてくるんです、1927年に。
 そういった経過をへて、次は『復活の歌』というのが1937年に出版されています。その間に『ゲーテとベートーヴェン』なんていう間奏曲とか、『ベートーヴェンの恋人たち』とか『ベートーヴェンの不滅並びに不滅ならざる恋人たち』とかいう面白い題の論文が出ておりますけれど、主なものとしては『復活の歌』がその次に十年たって来るわけです。ここでは1812年の恋愛事件の後の四十代の傷ついたベートーヴェンにロランは寄りそって、その深い心の痛みと、そのために広がっていった彼の人格の奥深さみたいなものを非常に丁寧に描いております。この中でロランは「最も偉大な芸術家達は、いつも最も人間的な人びとだった」、あるいは「ベートーヴェンを神格化しようと努めてはならない」、なんて言ってるんですね。「あら、あなたが神格化したんじゃない?」って、わたしはそんな気がしないでもありませんけれども。で、かなり辛辣なことも書いてるんですね。たとえば「彼は高く堅固な倫理的性格″を持ち、その点ではパリサイ人的な天才である」、つまりちょっと偽善的だった、というわけですね。それから、「それを自慢にもしていた」、と言っています。ですから、ありきたりの聖者伝説″の枠を越えたのが、この『復活の歌』だったと思います。
 で、もう一つ三番目は、経済的な面です。ベートーヴェンはけっこう財テクに通じていまして、株を買ったりしているんですよね。またキンスキー公夫人を相手に年金の支払い訴訟なんか起こしている、それもかなりしつこくやってるんです。それを知ってロランはかなり傷ついたみたいです。自分で、彼にはこういうところもあった、ああいうところもあったって並べ立てて、しまいに、「ああ、もうこの老いたる人を責めるのはやめよう」なんて書いているんですよ。ですけど、わたくしはそれについて、今度の本(『遥かなる恋人に──ベートーヴェン愛の軌跡』筑摩書房)でまったく新しい解釈をしております。つまり、ベートーヴェンは単に守銭奴的にそれをやってたんじゃなくて、そのときどうしてもお金が必要だったんです。自分の名誉と誠実さを救うために。そのことにロランは最後まで気がつかなくて、大変ショックだったようですが、ともあれこの三つの点でロランのベートーヴェン像は大きく変わったわけです。しかし、けっして卑小化されることなく、よりダイナミックで感動的な芸術家へと変貌しています。


 3.ロランのベートーヴェン研究の功績
 ベートーヴェンほど大きな芸術家の場合には、いろんな人がエベレストに挑戦するみたいな感じでアタックしているわけですね。たくさんのベートーヴェン研究がありますが、大きく分けると二つの流れがあるように思えます。一つはベートーヴェン学といわれるような楽曲の分析ですね。リーツラーとかヴァンサン・ダンディとかいろんな人がやっています。中にはベートーヴェンにおけるソナタ形式といった専門的なものもあります。で、一方には、ベートーヴェンの人間像というか、伝記的事実だけを書いている研究書もあるわけです。そこで、ロランのように両方を統合できる人はひじょうに稀れです。つまり楽曲分析も、リーツラーやヴァンサン・ダンディ以上に出来る、これはすごいと思うんですね。ロランはベートーヴェン研究の中で全部楽譜を自分で書いてるんですよね。『第九』の何楽章と言われたら、パパッと書けるんですよ、彼は。そういう専門性と、それから一方では御存じのように作家ですから、人間の心理とか人間像に対する洞察力というのは並外れたものをもっているわけです。それがまあドッキングしていて、しかも自分でも言っているように、ベートーヴェンに心酔していたわけですよね。だから、音楽学者としての専門性と作家としての深い洞察力と、それから崇拝者としての敬愛というものが三つ結びついている、三位一体みたいなものです。
 けれども、その上にもう一つ私が感じたのは、彼の歴史家としての目なんです。つまり、ロランは歴史家でもあったわけですね、エコール・ノルマルの史学出身ですから。それで、ベートーヴェンのような偉大な人物を語る時には、彼が生きた時代というものをぬきには語れないんです。だけどたいていの人には、そこまでは見えない。人間というのは自分の身の丈でしか相手を見れないって言いますけれども、ロランはそういう時代というものの背景の中でベートーヴェンをしっかりとらえている。そこが余人のおよばぬすごいところだと思うんです。
 そういう視点でベートーヴェンを見ますと、彼は時代精神に非常に敏感だった人なんです。芸術家の中には、自分の芸術についてはものすごく素晴らしいけど世の中のことについてはまったく無知でとんちんかんなコメントしかしない、という人がままあるものです。けれども、ベートーヴェンという人は決してそういう音楽馬鹿じゃなかったんですね。だから、ベートーヴェンはまさにフランス革命の申し子だった、というようなことも書いていますし、晩年のベートーヴェンは共和主義者でした。あの当時共和主義者であるってことは反体制的な危険分子だということだったんです。それでスパイにつけねらわれていたんですね。そういう政治的にラジカルだったベートーヴェン、というのを書いてる人はまずロランの他にはいないと思います。
 もっと細かい点でロランのベートーヴェン研究への功績について申しますと、ベートーヴェンの《不滅の恋人》とは誰かという歴史的な研究にロランも貢献しています。これはベートーヴェン好きな人は一度はとりつかれる謎でして、古今東西これにとりつかれた研究者は五万といるわけなんです。それでこの話をちょっといたしますと、要するにベートーヴェンが亡くなった翌日に、彼、さっき申し上げましたように株券を七枚持っていたわけなんですね。それでこれを甥のカールに遺贈するという遺言を書いてまして、その執行人に幼な友達のゲルハルト・フォン・ブロイニングが指名されてるんです。それでブロイニングは、ベートーヴェンが亡くなったらまずその株券をさがすんです。二日目にやっと秘密の場所からそれがみつかったんですが、その株券と一緒に他の物が二種類入っていたんです。一種類は何かと言いますと女性の肖像画のミニアチュアが二枚。それから手紙です。それがのちに有名になる恋文だったんです。ベートーヴェンの手紙というのは、最初に編集した時点で千四百通あったんですけれども、その中で恋文っていうのはそれしかなかったんですね。だから、いったい誰に当てたのか、いつどこで書いたのかって、伝記を書くために特定する必要があったわけです。ところが不思議なことにその手紙には、相手のフルネームもなければイニシァルも出てこないんです。しかも、これは私の発見なんですけど、自分の署名もいつもとちがうんです。ベートーヴェンは、自分の姓名を略してBと書くことはあるんですけど、この手紙のように、ルートヴイッヒあるいはLって書くことはめったにないんです。千四百通全部あたってみたんですが。ルートヴイッヒっていうのは日本でいったら太郎とか次郎とかっていうごくありふれた名前なんです。要するに、落としても他人に見られても、受け取り人も分からなければ差し出し人も分からないように書いてるわけです。そして年代もなくて、偶然のように「七月六日、月曜日」と書いてある、それだけが唯一の手がかりなんです。それで、いろんな研究者が研究をして、1812年だっていうことがわかるんですが、ロマン・ロランもその12年説を確定するのに一役買っておりまして、ベートーヴェンのこの種の研究書にはたいてい彼の名が文献に上っております。
 そういうふうに非常にすぐれた仕事なわけですけれども、まあ時代的制約っていうのはどうしてもまぬがれられないですね、どんな偉い人でも。で、ロマン・ロランの場合にもそれがあったと思うんです。一つは、理想主義を投影しすぎたという、最初の『ベートーヴェンの生涯』にみられるようなものが、どうしてもなんかチラチラと最後までつきまとったために、せっかく自分で12年説を確定しておきながら《不滅の恋人》を特定するにいたらなかった、ということがあります。 
 もっともこれには、当時の文献の不備という条件が大きく、そのことに触れなければ公平を欠くことになります。現在とちがって今世紀の前半には、印刷技術もコピー技術もいまほど発達していませんし、関係者もまだ生存していたことから、ベートーヴェンの秘密をときあかすなまの文献を、研究者が目にすることはひじょうに困難だったからです。
 とくにロランの死後出たものとしては、重要な二つの文献があります。一つは1956年に突如として世に出た「ヨゼフィーネ・ダイム伯爵夫人宛てのベートーヴェンの十三通の恋文」というのがあります。この人は例のテレーゼ・ブルンシュヴィックの妹でして、薄倖の美女という形容詞がぴったりの女性です。1804年から7年末まで、ということはベートーヴェンの35歳前後の四年間にわたる、彼女への正真正銘のラヴ・レターだったんです。伯爵夫人と言いましても、当時は未亡人でしたし、むしろベートーヴェンの誠実さがしのばれる感動的な内容です。もしロランがこれらの手紙を読んだらどうだったろうか、と興味をそそられます。少なくともテレーゼ説″は完全に廃棄されたと思います。
 もう一つ、ロランをはじめテレーゼ説″を立てた研究者にとって衝撃になったろうと思われる文献は、「ベートーヴェンの日記」の底本として使われてきた「フィッシュホフ写本」にかわる新しい「グレーファー写本」の登場です。だいたいベートーヴェンという人はひじょうに思索的なタイプで、常日ごろから、思いついた考えや読んだ本からの引用句などを、スケッチ・ブックや家計簿にまで書きつけるクセがあったんです。
 それが、1812年に《不滅の恋人》と破局的な別れをしたあと、その内面の苦悩をまとめて書きしるすようになるんですね。それだけが自分の心の支えだったわけです。しかしその貴重な記録は、三葉を残しただけで散佚してしまうんです。後世の研究者が引用してきたのは、散佚以前に唯一フィッシュホフなる人物が写しとって、のちに印刷されたとされてきたものでした。そしてその第一ページには、「]とのことは瓦解してしまった」とあって、それが《恋人》のイニシアルであることは万人の認めるところでした。しかしその文字は、tともAとも読める判読しにくい文字だったために、《恋人》の推定を大きく混乱させて、それがこの事件を迷宮入り″にさせる一つの原因になったのですね。
 ところが最近になって、いままでのものは写本の写本で、オリジナルの写本(形容矛盾ですが)が別にあることがわかったんです。そのくわしい経緯ははぶきますけれど、その「グレーファー写本」がファクシミリの形で出版されたのは、1990年、つまり去年のことだったんです。それが手に入ったときは、私などはもう興奮しまして、例のところをすぐ見たわけですね。すると、それはもうはっきりA″なんです。これがはじめから世に出ていたら、150年ものあいだ、あんなに多くの研究者が──ロランもその一人でしたが──悩まないですんだのではないかと、感無量でした。私にとっては、これは自説を確信させるもう一つの証拠となりましたが。
 こういったことが、ロランの死後、ベートーヴェン文献の世界でおこっております。


  4.私にとっての二人の巨匠
 19歳のときに『魅せられたる魂』を読みまして、私の青春はロランからはじまったと言ってよいかもしれません。きょうも、この会の役員でいらっしゃる永田和子さんと新幹線の中でお話ししてきたんですけれど、私たちはよかれあしかれアンネットの精神的孫みたいな気がいたします。よく言えば自分に誠実な生き方を選んできたわけですが、反面では世渡りが下手で世間的には損な人生だったかもしれません。しかし自分としては、さわやかな気分です。しかも尊敬する一人の人の思想や行動にじっくりつき従ってきた二十年の歳月が、自分の精神形成にとってどんなに大きなものだったかということを感じております。
 また私がベートーヴェンの音楽の中で、いわゆる名曲といわれる中期までの作品ではなく、晩年の『弦楽四重奏曲』や作品番号100以後のピアノ曲に最初に出会ったのも、ロランの影響だったのではないかと思います。だってロランが「自分にいちばん親しい作品」って言っているんですから、ファンとしてはそこから入るしかないですものね。私が《不滅の恋人》を最初に直観的に特定したのも、ベートーヴェンの最後の三つのピアノ・ソナタをロランがプレンターノのソナタ″とよんでいたことと関係があるかもしれません。
 ともかくロランの研究書をあれほど精読しなければ、私のカンもひらめかなかったのはたしかです。ロランという人は思いこみの強い人ではありますが、こと楽曲分析となるとさすがに専門家でして、三つのピアノ・ソナタや『ディアベリのワルツによる33の変奏曲』についての分析では、自分では思ってもいないことまで読みとって書き残しております。それが私にはすごいヒントになったわけです。ですから私は、ロランの後継者として、この世紀の謎とき″に挑戦したのだと思っております。あるいは、本にも書きましたが、「ロランがなん度もついそこまで行っていながら気づかなかった秘密のカーテンを、私がかわってひきあけた」ようなものだと思っております。
 ただ、これはいまになってわかることですが、『魅せられたる魂』を読んでフェミニストたらざるをえなくなった私と、ベートーヴェンに魅せられてきた私とが、これまで仕事の上では別々だったのですが、今度の『遥かなる恋人に』という本の中ではじめて統合されたという思いがするわけです。端的に申しますと、《不滅の恋人》の謎はフェミニストの視点なしには解けなかったということです。
 いま、フェミニズ批評ということが、アメリカなどではさかんに言われております。そのはしりは70年代のケイト・ミレットの『性の政治学』だったのかもしれません。この本では、ヘンリー・ミラーやノーマン・メーラーなど男性作家の作品分析を、徹底した女の視点でやったわけです。名作といわれている作品の中で、女性がいかに性的玩弄物として扱われているかを徹底的に暴露しています。いささか過激ですが、いままで男女の関係が一方的に男の側からしか描かれてこなかったことを気づかせるために、これは一つの方法だったかと思います。
 ベートーヴェンの伝記作家たちにも、似たことが言えるわけです。いままで著者は圧倒的に男性が多かったし、彼らの頭には十九世紀的性モラルや結婚観がしっかりインプットされていたわけです。ですから、《楽聖》は一生「情事」なんか持ってはならないし、まして人妻と恋愛などするはずがないと思いこまれていたんじゃないでしょうか。しかも、結婚して一家の長となり子どもをたくさん持つことが「男の証明」だと思われていた時代に、妻子もなく、家族でない人たちに看とられて死んだベートーヴェンの生涯は、偉大ではあるが悲惨だったというイメージが強くなってしまったんだと思います。
 ところが、ロランも晩年には気づいていたように、ベートーヴェンは若い頃には、自分の「情事」を自慢さえしているんですね。これはなにも彼の不名誉になることではなくて、フランス革命の「自由・平等・友愛」が、当時異性間のモラルにまで浸透していた一つの表われなわけです。女性の方も、服装からして、かつての体をしめつける宮廷風のドレスからゆったりしたルネッサンス風に変わっている。ですから、テレーゼみたいな、知的で行動的で、ウーマン・リブのはしりみたいな女性が出てきたのも不思議ではないんです。彼の周りにいたほかの女性たちも、みな知的で活動的なんですね。そういう自由な雰囲気の中で、ベートーヴェンの青春はすごされているわけです。
 しかもベートーヴェン自身、フランス革命の申し子として、徹底した自由人でした。思想的に共和主義者だっただけでなく、日常生活でも自分の自由をおびやかすものには敏感に身がまえています。彼が結婚に対して消極的だったのも、そのせいだと考えられます。とくに《不滅の恋人》事件のあとで、彼は男女の関係性について、驚くべき透徹した見解を述べているんですね。つまり、いまの世の中では、どうしても女が男に支配されがちだ、しかもそれによって男の自由も束縛されてしまう。自分にはそういう人間関係のすべてが居心地悪く思われる。お互いに自由な関係の中で至高のものを分かちあえるような関係がのぞましいと、ファンニー・デル・リオという女性に語っています。
 そして、こういう事実をとりあげるにしても、私などは、ベートーヴェンてなんてすごい人なんだろう、150年も前にこんなことを考えていたなんてすばらしい男性だと思ってしまうんですが、男性の学者たちだといまだに見方がちがうんです。メイナード・ソロモンという、これはベートーヴェンの研究家としては頭の下るような業績をあげている現代のアメリカ人で、私も大変恩恵をうけているんですが、その彼にしても、こうなるんです──「ベートーヴェンは相手の女性と恋人としての関係は維持したいとのぞみながら、家父長となることを忌避するというジレンマを抱いていた」と。
 「家父長となることを忌避したい」なんて、いまもナウい男たちが追求している課題ですが、こうした点からも、ベートーヴェンという人が男としてもいかに魅力的だったかわかります。女性に対して、つねに対等なパートナーを求め、しかも卓越した天才のエネルギーを秘めていたんですから。しかし彼の芸術がそうであったように、彼の愛の理想もまた時代をはるかに超えていたわけです。これは悲劇になる運命を、当然背負っていたというべきかもしれません。しかしその悲劇がなければ、彼の晩年の変容″もなかったし、あの心を打つ作品群も生まれなかったと思えば、それは聖なる悲劇″と言えるのではないでしょうか。
 これが、私がロランからひきついだ《不滅の恋人》の謎ときの結論だったのだと、いま思っております。