ロランという方は大変奥深いと同時に幅の広い方ですから、どういう観点からもアプローチができると思うんです。今日は演題に即して、ベートーヴェン研究を軸にして、みなさまと御一緒にもう一度ロランの仕事をおさらいするような感じでお話をしてみたいと思います。
だいたいの筋道としては、最初にロマン・ロランとベートーヴェンとのかかわりについて話させていただきます。次にロランのベートーヴェン観の変化を追ってみたいと思います。日本では『ベートーヴェンの生涯』が圧倒的に広く普及してしまったものですから、あれがロランのベートーヴェン観のすべてであるかのように思われておりますけれども、最後のベートーヴェン研究では非常にちがってきているんです。そのあたりのこと、つまり四十年の間にロランのベートーヴェン像がどんなふうに変わっていったかということです。三番目には、いろんなベートーヴェン研究がありますけれども、その中でロマン・ロランの研究はどういう意味をもっているのか、ということ。そして最後に、私とこの二人の巨匠たちとのかかわりをちょっとだけお話しさせていただきたいと思っております。
1.ロランにとってのベートーヴェン
ロランという人は音楽的天分に恵まれていたようです。幼時に母親からピアノの手ほどきを受けたといいますが、のちにピアニストになりたいと思うほど演奏にすぐれていました。クラシック音楽を子守歌にして育った人ですが、最初のはっきりしたベートーヴェンとの出会いは、彼が十六歳のときでした。自伝によりますと、その夏はじめて国境をこえ、スイスのひなびた教会で『田園交響曲』を聞くのですが、そのとき窓の外から聞こえてきた小鳥のさえずりと、『田園』のテーマが不思議にとけあっていたと、後年回想しています。
つぎの出会いは、パリでエコール・ノルマルの試験になん度か落ちていたとき、つまり浪人中に聞いた『第七交響曲』でした。このときも陥ちこんでいたロランに、この曲は自然との一体感というえもいわれぬ喜びを与えてくれたのでした。彼がベートーヴェンから受けたものが、二度とも「自然」というキーワードだったことを、私はたいへん興味ぶかく思っております。
その後ロランは二十三歳のときにローマに留学して、そこでマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークというヨーロッパの理想主義の権化みたいな老婦人と出会うわけですけれども、彼女との親交が深まったのは、やはりベートーヴェンが仲立ちをしてくれたからでした。この女性はニーチェともワーグナーとも親しくて、ローマの彼女の部屋ではリストもピアノを弾いたといわれています。そこで二人が一番好んで弾いたのはベートーヴェンの作品106だった。そのアダージョを、ロランは「マルヴィーダのアダージョ」と名付けております。
ローマから帰国後、ロランは結婚していますが、妻となった女性はベートーヴェンが好きでなかったようです。数年後に離婚になるわけですが、その痛手を癒やすために彼はライン地方に旅行しております。ベートーヴェンが聴いたであろうライン河のさざめきを聴いて立ちなおり、1902年に『ベートーヴェンの生涯』を書く。そんなふうにべートーヴェンは、ロランにとって人生の節目ふしめに必ず現われる導きの星のような存在だったわけです。
あと、ベートーヴェンがモデルと言われる『ジャン・クリストフ』も書いておりますし、1927年、ちょうどベートーヴェンが亡くなって百年目に、ボンでひらかれた記念祭にフランスからはロマン・ロランが呼ばれて、そのときの講演が『ベートーヴェンへの感謝』という印刷物となって残っております。そのあたりが一つの節目なんですが、もうちょっと先までかかわりを述べてまいりますと、第二次大戦の終わりごろ、当時住んでいたヴェズレーの丘をうねうねと走っている道の上を、まず最初にドイツ軍に負けた地域の避難民がぞろぞろと逃げていく。その後続いてナチス・ドイツの戦車隊が土煙りをあげながらその道を通っていく。そうした非常に緊迫した重苦しい雰囲気の中で、ロランの頭の中で鳴り続けていたのは何かといったら、ベートーヴェンの「皇帝」のアダージョだったんですね。三日三晩自分の頭の中でそれが鳴り続けていた、「それはあたかも重いどんよりと曇った空の間から見える青空の目のようだった」、と彼は言っています。忘れがたい感動的な場面です。
そして、1941年に『第九交響曲』を「ベートーヴェン研究」の最後として書くんですが、これは亡くなる三年前です。で、ベートーヴェンが『第九』を書いたのも、亡くなる三年前なんです、1824年ですから。いずれも、人類へのメッセージを同じように同じテーマで残しているところが、わたくしには大変感銘深い思いがいたします。
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