マキシム・ゴーリキーの悲劇
   ──ロマン・ロラン宛の手紙からみる
Tamara MOTYLEVA
               能田 由紀子 訳
 
(京都大学学生)



 マキシム・ゴーリキーが十月革命の前後からレーニンやボルシェヴイキ派との間にズレがあったことが Literaturnoye Obozreniye ジャーナルが出版したゴーリキーの“The Untimely Thoughts”によって明らかになった。そのズレは、有罪を宣告された社会主義革命党員の為に、ゴーリキーが嘆願をした頃から見られる。レーニンはゴーリキーの主張を「ひどい」ものだと1922年9月の Bukharin あての手紙の中で言っているが、「新聞紙上で彼を追いつめる」考えは持っていない。
 ロシアを離れた後のゴーリキーは孤独を感じていた。1922年12月7日付の手紙でロマン・ロランにあてて次のように書いている。
 「親愛なる友よ、人生は困難なものです。ばかばかしいほどに困難なものです。とりわけ読書に飽いたのに眠られないような夜には。
 故郷ではふぶきが吹きあれ、共産党員は怒っています。雪は地面に降り続き、人々は言葉に埋もれてしまっています。それはうまくできた言葉のようですが、豊富だ″という点でなく冷たい″という点で雪のようです。狂信というものが冷淡になると雪よりもずっと冷たいものになってしまうのです。」
 しかし同時にゴーリキーは、「怒っている」共産党員や、その「狂信」に対してもっていた敵意にもかかわらず、強い驚きを率直に認めて次のように書いている。
 「にもかかわらず、私はロシアの共産主義指導者たちが驚くほど強い意志を持っていることに感心しています。たヾ私が残念に思うのは、彼らが知識階級をなくしてしまおうと考えている点です。このことについて私は彼らに同意していないし、決して同意できないであろう、と思います。」
 ロランにあてたゴーリキーの手紙は、1920年初頭に彼が経験した苦しい精神的な不一致が書かれたもので、彼の手紙の中でおそらくいちばん鋭くそれを私たちに感じさせるものである。母国を離れたことが、彼にとって耐え難いものであり、母国の将来を憂うる気持が痛切であればあるほどゴーリキーは自分がロシアと永久に離れてしまったことを知り、それに慣れようとして一層努力をするのであった。
 1923年4月21日にゴーリキーはロランに次のように書いている。
 「私は、ロシアへ帰りたいとは少しも思っていません。ロシアで私が常に殺すな″とくり返し続けねばならないとすれば、私は決して執筆できないからです。」
 ゴーリキーはこの非常に微妙な問題を、1924年1月15日付の手紙で再びとりあげている。
 「私はロシアへもどるつもりはないし、だんだん故国のない人のように感じるようになってきています。ロシアでは私は、すべての人と物の敵という忌まわしい役割を演じなければならないのです。そして自分の演説や思想や行動に対する抑制が不充分なために、私はレンガの壁を壊そうとして、それに頭を打ちつけている人のようなばかげた立場に立っているのです。」 「1918年の初めに、私はロシアにはもはやいかなる種類の権威も存在しえないこと、そしてレーニンだけが、農民や兵士を支配している無政府状態の拡大を抑えることができるのだ、ということも認識しました。しかしながらそのことは、私がレーニンと連合したという意味ではありません。私は何年もの間彼と議論し続けてきました。レーニンはロシアの知識階級をなくすことによって、ロシア人民のまさに頭脳を破滅させているのだ、と私は指摘してきました。私は彼にとても親しみ深い気持を抱き、彼も私を好いてくれていますが、私は二人の議論が互いの心の中に精神的な嫌悪を生んでいると信じています。」
 この手紙はレーニンの亡くなるわずか一週間前に書かれている。
 レーニンの死の知らせは、ゴーリキーが彼に対して「精神的な嫌悪」を持っていたことを告白していたにもかかわらず、ゴーリキーに強いショックを与えた。ゴーリキーのレーニンに対する態度、従ってロシア革命に対する態度に明白な変化がおきたのである。1924年3月3日のロラン宛ての手紙には深い悲しみがあふれている。
 「ああ親愛なる友よ、レーニンの死はロシアにとってとり返しのつかない損失であるのはもちろんのこと、私個人にとってもひどい打撃です。私は彼を愛していました。激怒を感じながらも愛していたのです。私は彼に対して厳しく、決して寛大ではありませんでした。しかし私は特に彼の、人々の苦難を憎んでいる気持や、人間性をゆがめるようなものすべてに対する不屈の敵意を好んでいるのです。」
 「レーニンは驚くほど偉大なロシア人でした。トルストイと彼の二人は、真に偉大なロシア人でした。私は自分が両者に出会っていることを誇りに思っています。」
 ロマン・ロランはその著書「闘争の十五年」の中で、ゴーリキーのイデオロギーを探求する上での転換期として、レーニンの死がどのような意義をもっているかを正確に位置づけている。
 「ゴーリキーがヨーロッパとロシアに対してもっていた悲観的な考えは、1923年の彼の手紙にあったほど暗いものではなかった。レーニンの死の前後に彼がレーニンについて書いた手紙には、彼の感傷の激しさがあらわれている。彼はその感情にあらわれていたように激怒しながらもレーニンを愛していたのだ。彼はいつもレーニンと議論していた。お互いに好みあっていたにもかかわらず、二人のどちらも相手に降服することはしなかった。しかしレーニンは死後に決定的な言葉を得た。ゴーリキーはレーニンが正しかったことを認めたのだ。」
 最近になってロランの分析は、ゴーリキーがロシアを離れていた何年かのあいだに、彼の知人であった Nina Berberora の記録の中で、思いがけずも確証された。彼女はその著作「鉄の女」の中でこういっている。
 「レーニンの死はゴーリキーを驚かせたのみならず、彼のレーニンに対する態度を急激に変えた。ゴーリキーは悔恨の気持に打たれたのだ]
 彼女はさらにこう言っている。
 「レーニンの死に照らして、ゴーリキーは十月革命や初期のボルシェヴィキの思想、レーニンの役割、レーニンが正しく自分が誤っていたことに対する自分の態度を再評価してみた。彼はレーニンとの相異点をすべて忘れ、自分の不平や恨みをすてて、レーニンをたたえている多くの人々の気持に屈した。彼はきわめて誠実に自分はロシア全土と共に、あるいは全世界と共に孤独であると信じていた。彼はレーニンについて語る際に涙を流した。」
 ゴーリキーは大変躊躇した後にロシアへ戻る決心をした。しかし一度決心してしまうとそのことに非常に忠実だった。1925年に彼はロランに自分の気力を奪うような、反動的な勢力による攻撃について書き、次の結論を出している。
 「おそらく世界革命しか、ひどくもつれてしまった私たちの関係上の難問題を解く手段はないのだろうか。しかしそうならばモスクワは絶対に正しいことが証明されるだろうし、私たちはそれといっしょにやってゆかねばならない。」
 ゴーリキーは「世界革命」を、遠く離れた夢のように、漠然とした捕え方でしか考えていなかった。しかし再びモスクワに近づき、その人々と協力することが徐々に彼にとって必要になってきていた。
 しばしば言われるように、ゴーリキーは世俗的、利己的な動機からロシアに戻ったのだ、と言うことは誤っていると思われる。彼がロシアへ戻った動機は、内的な気持、故郷を懐しむ気持、ロシアに対する義務感であった。またレーニンの記憶に対する義務感もあった。
 一度ロシアへ戻ると、ゴーリキーは初めから「賞讃し」たがった。1920年代初期の混乱と著しい対照をなしている新しい、あるいは復興された工場や街を見て喜んだ。また自分の本の読者と会って親しい歓待をうけるのを楽しんだ。この時期の彼の論説や手紙は快い調子である。より落ちついた見方が少しずつ生まれてきていたが、それを彼の新聞の執筆のなかに特徴として認識するのは難しかった。この時期からの彼の手紙すべてが知られているわけではなく、彼の文通に「空白の部分」が多くあるのだ。私たちは彼のイデオロギーの発展の内的な論理を再構成しうるであろうか。
 晩年のゴーリキーは、たびたび、革命直後に自分のいた立場に関して自己批判を行ったことで知られる。その自己批判は誠実なものであった。
 しかし、The Untimely Thoughts″にみられるような悲観的な態度や予測がありながらも、ゴーリキーは1920年代初期の新聞執筆にみられた信念や、苦悩をもってそれまでに言っていた重要なことすべてを、実質上打ち消してしまった。そして革命における暴力の放棄という考えに帰っていったのだ。彼は、人々が、階級の価値をめぐって闘争を行っている際に、普遍的な人間の価値を無視することがないように、単純で永遠な道徳基準に対して忠実であり続けるように、と自分から主張したのである。
 スターリン時代の残酷で不寛容な雰囲気はゴーリキーにも影響を与えた。かつて革命派の恐怖政治の行き過ぎからうまれるロシア文化の著しい姿を擁護していた作家が、法による産業派閥の迫害が正当なものである、と認め、ロランへの手紙にそのことを書いているのだ。富農から財産を取りあげるという粗野な過程も含めた集団農場化は、彼の文章によると全く牧歌的なことのように見えた。
 おそらくゴーリキーはすべてを知っていたわけではなく誤解していたのだろう。とにかく誤解することに甘んじていたのだ。なぜか。わざと目をとじて心の平静を保つ為に聞かないようにしていたのだろうか。おそらく彼は自分を黙らせ、自分の国を傷つけることを恐れて自分を苦しめていた誤った義務感に従っていたように思われる。
 1933年の日記の最初に、ロマン・ロランはロシアの友人が自分に知らせたように、ソヴィエトの状況について楽観的に見ることに疑念を表わしている。
 「私は、人民の苦しみと社会不安がゴーリキーに伝わっていないままに、彼が熱狂的な雰囲気に浮きたっているのだと思う。」
 1935年にロランはゴーリキーと会って、彼は多くを知っており、秘かな悲しみを心に持って生きているのだ、という結論に達する。
 私たちはゴーリキーの古くから交際のある友人の I.S.Shkapa が昨年のインタヴューの中で言っていることに心を留めるべきである。
 「私たちは光を見、恐怖で打撃をうけたこの偉大な作家の悲劇について明らかにし、充分に分析してきました。彼を分類したり、その墓を踏みにじったりすることは、あまりに安易な行動です。賢者の中の賢者であった彼はどのようなことがひき続いて起こるのか、ということを多く予見していたのです。」
 「賢者の中の賢者」という表現は、おそらく全く正しい、というわけではない。ゴーリキーも時の人であったから、幻想や迷いから完全に解放されていたわけではなかった。彼もスターリンの恐怖のみによってではなく、国を導いている人として敬意をもっていたことによって、無力になっていたにちがいない。少しずつではあるが、彼のその敬意は表には出さないけれども忌む気持へ変わっていったのだ。生涯の最後に向かうにつれて、ゴーリキーは人格がむしばまれていったにちがいないが、それこそが彼の本当の悲劇だった。
 西側の学者は長い間、A.Orlov のStalin's Secret Crimes″に述べられている事実を認めてきた。ゴーリキーの死後、OGPUが彼の家に、未出版の原稿をいくつか発見した。Yagodaがそれらを読んだあとで言っている。「豹は、その居場所を変えることはできない。」ゴーリキーの家を捜索した者は黙っていることを誓わされ、発見された原稿は、ゴーリキーのスターリンに関する日記とともに燃やされてしまった。
 これまでに引用したものはこゴーリキーの知られざる面を明らかにするテキストの一部でしかない。彼の晩年の手紙からおのおのがゴーリキーの立場について異なった見解を持っていることがわかる。ゴーリキーについての真剣な探究──うまく言いつくろったり、もみ消したりせずに、事実とそれを伝える文書による探究──が、今や可能なのである。そのような探究によって正確なゴーリキーの人物像をつかむことが可能になるだろう。


 世界文学協会が、マキシム・ゴーリキーのロマン・ロランにあてた手紙を出版する準備を進めている。これが実現すれば、多くの記事や手紙、記録にもかかわらず、ほとんど知られていない彼の晩年に光が投げかけられるであろう。この一文はそのことに関してモスコーニューズウイクリーの1990年第4号に記載された記事である。            編集部