日本におけるロマン・ロラン受容史 1 小 尾  俊 人



  ロマン・ロランが日本の近代史のなかで何であったか、ということは私にとって切実な課題であります。このサムシングの内容の解明は、当然のこととして日本の過去の歴史にわたることでありますが、それはまた当然のこととして未来への予想を含むことであります。 
ロマン・ロランが国家としての日本をどう考えていたか? 人間として、普遍的個人としての日本人をロマン・ロランはどのように考えていたか? つぎに、ロマン・ロランがではなく、逆に日本がロマン・ロランと、その作品の世界をどう受けとめ、どう受けいれたのか? 国家としてはどうだったのか? 出版としてはどうだったのか? 演劇の上演としてはどうだったか? 日本の読者あるいは観客はどうだったのか? 受け手の側のポジティブな反応はどのようなものであったか? その跡を辿るのが私の役目でありますが、問題が多面にわたり、断片的になり、うまくまとまるかどうかを惧れております。
 ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」が日本ではじめて翻訳されましたのは大正二年(1913)のことで、訳者は高村光太郎でした。それから現在までロランは日本の、無名の、多数の読者の心に生きつづけております。かの十五年戦争の暗い谷間の時期には、以前にもましてロランはよく読まれました。昭和二年に創刊された岩波文庫には、すぐに「愛と死との戯れ」が収録されました。その頃ロラン訳者片山敏彦あての手紙があります。(昭和3年7月)
 ──大衆に買いやすいようにという岩波文庫は、なんというよい考えでしょう。私の「愛と死との戯れ」が半年のうちに二万人の購読者を日本でもつことができるとは、今までに考えたこともありませんでした」
と日本の読者層の幅の広さへの驚きをのべております。大震災後の本の欠乏と廉価で到来した円本時代への批判として登場した岩波文庫の一冊でした。
 岩波文庫に入ったロランの本の売上部数の表(戦争の終るまでの期間)を、岩波書店の緑川さんから頂戴できましたので、その数字をつぎに紹介させていただきましょう。
  愛と死との戯れ(昭和2年)            83,500部
  獅子座の流星群(昭和7年)            17,500
  ジャン・クリストフ(全八巻、昭和10−11年) 204,500
  ベートーヴェンの生涯(昭和13年)        36,000
  ミレー(昭和14年)               26,000
  魅せられたる魂(全七巻、昭和15−17年)    93,000
 このなかの「魅せられたる魂」は昭和15年の秋から昭和17年8月まで、三年がかりで出版されました。検閲と削除をへたのち、ようやく出版されたのです。当時ベルリン=ローマ=東京の枢軸国(ファシズム国家群)で、ほかの二国では後半の三冊が発禁処分を受けたことを考えますと、日本でとにかく出版できたというだけでも驚くべきことかも知れません。しかし訳者の宮本正清先生は、その最終巻のあとがきで「おそらく局外者の想像も及ばぬ各種の困難な事情」と暗示的に書かれております。もちろんそれは、内務省警保局検閲課とのゲラ段階での交渉が、とくに五巻以降は太平洋戦争下に入ったため、とくにむつかしかったものと想像されます。当時の刊本を見ますと、本文中に真白な削除箇所が頻出しまして、内容の理解に苦しみます。先生が終戦前六十一日間、特高警察に拘束され、鉄窓の下の牢獄生活と拷問を受けられたことも、このことと無縁ではあり得ないでしょう。
 この戦時下に出版された「魅せられたる魂」が、若い学生やインテリ、とくに若い女性たちに与えた深い影響は想像を超えるものがあったと思われます。戦争の重圧下、人間を明るく新鮮にし、解放するすべ、また世界の未来をつくる生き方がそこにあったからであります。そして日本の敗戦が、軍事的政治的には敗戦であったが、精神的には解放として迎えられたという現実の事実、その実質的基盤の一つになったでありましょう。
 同志社大学、また研究所の理事でもあられた住谷悦治氏は書いておられます。「魅せられたる魂」を読む以前の私と、読んだ後での私とは、私の「生」の意味が転調していることは事実である。おそらく私の「死」の意味も転調するにちがいない。私はロマン・ロランのつぎの深い言葉をいつも心に繰り返している。『生の意味が転調するとき/死の意味もまた転調する/死を規定するものは生である/かくて生は死の彫刻家である』これが住谷先生の五十歳を超えた頃の文章です。
 戦争が終り、平和が戻りました。1945年以後、戦争直後の時期のロマン・ロランへの関心と読まれ方は、以前の時期を上廻っております。それは日本の検閲制度がなくなり、ロマン・ロランが今までより完全な形で接触できるようになったこと、過去十五年の政治的抑圧のおもしがとれ、軍国主義への反動としてのヒューマニズムへの関心が高まったからであります。それからもう四十四年、いくたの盛衰、多くの山川をこえてロマン・ロランは新しい読者を自らの手で開拓しつつあります。
 私どもの場合の数字で見ますと、
  ジャン・クリストフ              554,000部
  魅せられたる魂                627,900
   (1975年末、全集・文庫・学生版・上製版を含む)
 第三期の全集版は全四十三巻(1979−1985)の構成ですが、これは六千部から三千部で平均五千部、現在は半年間に各巻五十冊づつ売れております。主著は他社の文庫本で沢山出版されております。全集の動きは、全体としてのロランの仕事への関心と見てよいと思われます。
 ロランの音楽論の初訳は1911(明治44)年3月の「太陽」誌で、クロード・デュビュッシイの歌劇(高村光太郎訳)でしたから、それからすでに約八十年、どんなフランスの現代作家も、その長距離選手たることにおいて他に類がありません。こうした持続性は出版界の浮き草性にもかかわらず、完全に確保されてきたのであります。しかしこの八十年の期間の日本の歴史というものは、一面で日本近代化の過程でありますが同時に、日本を支配する暗黒の力が、日本の人民および世界に苦痛を与えた時期であります。つまり帝国主義、軍国主義の日本であったのでした。
 この駈け足の近代国家としての日本、それをロランはどう見たでありましょうか?
 ロランの親友でインドの詩人として著名なタゴールが日本にまいりましたのは、第一次大戦のさなか大正4年(1915)でありますが、彼はそのとき東京大学で「ナショナリズム」について講演をいたしました。彼はそこで軍事力と権力による国家、いわゆるミリタリズムの「国家」を日本の現実のなかに見てとり、それとの対照において彼のもつ人間的理想のあり方をのべました。はじめ日本は、例によって、というのは有名好き、新しもの好きということですが、彼を大歓迎いたしました。熱狂のオクターブの上り方の急速であったように、この日本国家批判の態度によって、彼への関心の冷却は迅速そのものでありました。彼は「敗北者の歌」という詩をつくったのですが、その書き出しは
  「私が道ばたに立っていたとき、わが主は、敗北の歌をうたえと私にいう、
  なぜなら敗北は、わが主がひそかにその愛を求めている花嫁だ……」
 この講演はのちに「日本におけるナショナリズム」の題で公刊され、ロランはこれを「世界史における一つの転機を画するもの」と評価し、その一部は彼によってフランス語に訳されたそうであります。タゴールは大正11年(1922)再度の来日をいたしまして、その時の講演のなかでつぎのように述べております。
「私が最初、日本を訪れたときに、私はナショナリズムに関する若干の論文を書いて、アメリカでそれを講演した。それは日本で初めて、赤裸な醜悪さを示した『国家』というものを見たからである。他方での?刺な日本の民族性に対立して、「国家」精神が傲然と現われ、他のすべてのアジア民族とはまったく性質を異にした悪魔の魂に魅せられている。私はこの「国家」としての精神を日本に到着したときに感得した。これはいかなる民族でも、急に富強になったときに遭遇する困難な試練であって、いまや日本は本来の均衡を失っている。日本は道徳的盲目の病いにかかった。突然日本人は傲慢になった。繁栄とともに国家としての爪牙を出しはじめた。この爪牙は文化国を堕落せしめ、遠近到るところに驚くばかりの惨忍と詐りとを撒布するものである。私はこれがために特に日本を責めるのではないが、しかし名誉ある法典と完全に対する理想をもち、日常生活に「優雅」の必須なことを信ずる日本が、エゴイズムの流行病・傲慢病に感染したことを慨歎してやまない。これが私の心を傷める。私は、はじめて自分の眼前に「ネーション」なるものの巨大な醜さが展開されるのを見た。」

 ロマン・ロランの友人であるシャルル・ヴィルドラックが日本を訪れたのは昭和元年(1926)のことですが、それに関連してロランは日本の友人・片山敏彦あての手紙のなかで(1926年8月)、つぎのように述べております。
 「ヴィルドラックが日本の精神状況から受けた印象は、あなたがたのグループ以外では、かなり悲観的なものでした。彼は日本の到るところで、国家主義的な、また帝国主義的な諸傾向を見たのでした。しかし私の考えでは、一国民の精神状況を判断するのに、その国の言語を理解しないで二、三週間の旅行の見聞にもとづいてすることは不可能です。一国民の最良のものはいつでもまた最も隠れたところにあるものです。」
この手紙のなかで、ロランはさらにつぎのようなタゴールの文章を引用します。
 「《国家》を宗教的に礼拝してこの恥ずべき礼拝のために人間をいけにえとすることを、私は自分の著述のなかでつねに否認してきた。どんな政体になるにせよ、一国の勢力増大のために理不尽に実行される犯罪行為の邪道を私がとするかのように人々に思いこませようとする仕方は、私にとって極度に忌まわしいことに思われる……言論の自由を無慈悲に抑圧し、個人的良心に、それと反対の義務を強制し、暴力と、犯罪と、虚偽との血なまぐさい道を進む《ファッシズム》のような運動を私が支持するだろうと想像するとは非条理なことである……
 国家主義を伝播するための、こんな理不尽の暴力崇拝は、国際間に憎しみの火を焚きつけて、やがて世界じゅうの戦火の導火線となり、世界をすさまじい荒廃へみちびく……」
 こうしてロランの深い同感をよんだタゴールの言葉が、日本人の一人・片山敏彦に対しのべられたのでありました。また尾崎喜八あての手紙では、つぎのようにのべられております(1928年)。
 「私たちは国家と共謀してはなりません。また国家を相手とするいたずらな汚れた闘いなどに力を消耗してはなりません。私たちには私たちの世界、つまり地球上のすべての自由な魂たちにとっての避難所となるべき世界があるのです。それは各自が神聖な本質的一致ユニテを意識している魂たちにとっての聖なるです。私たちの「魂の大伽藍」をその最尖端まで建て上げるまでには幾世紀もかかるかもしれません。しかし幾世紀などは何物でしょう。私の視線はその幾世紀を越えて、ちょうどツバメのように、大伽藍の尖塔の頂きの上にすでにとまっています。その尖塔は他の幾つもの塔を見おろし、外陣の窓の頂上にそびえているのです。」
 また宮本正清あての手紙(1929年)では、
 「私の『敗れし人々』が日本の若い人たちの心をひいているとしたら(ちょうど私の『アエルト』が中国の若い人たちの心をひいたように)、ご当地には多くの悲しみと精神上の重圧とがあるにちがいありません。私も若い時代にその悲しみと重圧とを知っていました。けれども私はそれを克服しました。友たちよ、あなたがたも私といっしょにそれを克服してください。「魂」の軍勢は無数です。それにはなにものも打ち勝つことができません。その流れを鎮圧しようとすればするほど、それは数多くの泉からき上がります。私の兄弟である泉たちよ、噴き上がれ!」
 この時期(1929年10月)のロランの日記にはつぎのように記されています。
 (中国や日本の私の若い友たちが、私の作品のなかでも最も暗くて最もペシミステイクなもの、たとえば『アエルト』や『敗れし人びと』にいきなりおもむくこと、そして今ではもうこの私がそこに見いださないであろう慰めや鼓舞を見いだしているということ、それに私は気がついて驚く。それは彼らが精神的に抑圧されていることをじゅうぶんに語っている。)


  ロマン・ロランの日本人あての手紙は今日百通ほど残されております。シュテファン・ツヴァイクはつぎのように書いております。「トルストイが一人の未知の青年のために犠牲にした時間は(つまり、若いロランのために返書をしたためたことですが)、無数の未知の人びとにあてたロランの無数の手紙のなかによみがえり、たヾ一つ播かれたこの好意の穀粒から生まれた無限の種子が今日、全世界に吹き散らされている」。その無限の種子のうちの一つとして、私はいま精神的な意味で存在しているということを、大きな喜びとするものでございます。
 さきに申しましたように高村光太郎による「ジャン・クリストフ」の訳が、大正初年の雑誌ではじめて紹介されたわけですが、これは全訳ではなく、しかも巻初ではなく選択されて第四巻「反抗」のはじめの部分なのであります。文の始めは、脱却 libre、自由という言葉です。この反抗また自由という言葉は二重の意味でシンボリックであると思われます。
 まず第一に高村光太郎個人の personal history における意味です。高村は大正2年には三十一歳で、詩集「智恵子抄」で知られる長沼知恵子と婚約の年であります。この詩集にある「人類の泉」の書かれたのは大正2年3月15日で、「ジャン・クリストフ」の訳の発表時期とほぼ同じであります。

  
人類の泉

世界がわかわかしい緑になって
青い雨がまた降って来ます
この雨の音が
むらがり起る生物のいのちのあらはれになって
いつも私を堪らなくおびやかすのです
そして私のいきり立つ魂は
私を乗り超え私を脱れて
づんづんと私を作ってゆくのです
いま死んでいま生れるのです
二時が三時になり
青葉のさきから又も若葉の萌え出すやうに
今日もこの魂の加速度を
自分ながら胸一ぱいに感じてゐました
そして極度の静寂をたもって
ぢっと坐ってゐました
自然と涙が流れ
抱き志める様にあなたを思ひつめてゐました
あなたは本當に私の半身です
あなたが一番たしかに私の信を握り
あなたこそ私の肉身の痛裂を奥底から分つのです
私にはあなたがある
あなたがある
私はかなり惨酷に人間の孤獨を味つて来たのです
おそろしい自棄の境にまで飛び込んだのをあなたは知つて居ます
私の生を根から見てくれるのは
私を全部に解してくれるのは
ただあなたです
私は自分のゆく道の開路者です
私の正しさは草木の正しさです
ああ、あなたは其を生きた眼で見てくれるのです
もとよりあなたはあなたのいのちを持ってゐます
あなたは海水の流動する力をもつてゐます
あなたが私にある事は
微笑が私にある事です
あなたによつて私の生は複雑になり、豊富になります
そして孤獨を知りつつ、孤獨を感じないのです
私は今生きてゐる社會で
もう萬人の通る通路から数歩自分の道に踏み込みました
もう共に手を取る友達はありません
ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです
私は此の孤獨を悲しまなくなりました
此は自然であり、又必然であるのですから
そして此の孤獨に満足さへしようとするのです
けれども
私にあなたが無いとしたら−
ああそれは想像も出来ません
想像するのも愚かです
私にはあなたがある
あなたがある
そしてあなたの内には大きな愛の世界があります
私は人から離れて孤獨になりながら
あなたを通じて再び人類の生きた気息に接します
ヒュウマニティの中に活躍します
すべてから脱却して
ただあなたに向ふのです
深いとほい人類の泉に肌をひたすのです
あなたは私の為めに生れたのだ
私にはあなたがある
あなたがある、あなたがある
                  (三月十五日)
 詩人・伊藤信吉氏は評伝「高村光太郎」のなかでこの詩について、
「これはまさしく愛の歌だけれども、私どもが普通にいう愛の歌からはみ出るようなところがある。「あなたの内には大きな愛の世界があります。」という言葉にしても、一人の女性に対する愛そのものだけではない、もっと別のものが内包されているかのようである。」
と述べております。ふつうの恋歌・相聞歌にはおよそ現われることのない人類、孤独、ヒューマニティ、愛というような抽象語が頻出します。それは高村の自由への憧れを示すとともに、ロランとの関連が見られると思われます。
 第二は、明治時代への反抗であり、自由の要求であります。政治的には大逆事件、文学的には自然主義的宿命論、それらが重苦しくのしかかった青春、自由な個性にとってはまさにくびきヽヽヽでしかありません。
 第三は、家への反抗であり父への反抗であります。有名な「父の顔」とか「のっぽの奴は黙っている」という詩に現われています。世俗への反抗とすべきか、「父と子」の対立とすべきか、心にグサリ突き刺す力を持った詩であります。
「舞臺が遠くてきこえませんな。あの親爺、今日が一生のクライマックスといふ奴ですな。正三位でしたかな、帝室技藝員で、名譽教授で、金は割方持つてない相ですが、何しろ佛師屋の職人にしちや出世したもんですな。今夜にしたって、これでお歴々が五六百は来てるでせうな。喜寿の祝なんて冥加な奴ですよ。運がいいんですな、あの頃のあいつの同僚はみんな死んでしまつたぢやありませんか。
 親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか、何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。なる程、いろんな事をやるのがいけませんな。萬能足りて一心足らずてえ奴ですな。いい気な世間見ずな奴でせう。さういへば親爺にちつとも似てませんな。いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。やれやれ、式は済みましたか。ははあ、今度の餘興は、結城孫三郎の人形に、姐さん連の踊ですか。少し前へ出ませうよ。」

「皆さん、食堂をひらきます。」

満堂の禿あたまと銀器とオールバックとギヤマンと丸髷と香水と七三と薔薇の花と。
午後九時のニッポン ロココ格天井がうてんじょうの食慾。
スチュワードの一本の指、サーヴィスの爆音。
もうもうたるアルコホルの霧。
途方もなく長いスピーチ、スピーチ、スピーチ、スピーチ。
老いたる涙。
萬歳。
麻痺に瀕した儀礼の崩壊、隊伍の崩壊、好意の崩壊、世話人同志の我慢の崩壊。
何がをかしい、尻尾がをかしい。何がのこる、怒がのこる。
腹をきめて時代の曝しものになつたのつぽヽヽヽの奴は黙つてゐる。
往来に立つて夜更けの大熊星を見てゐる。
別の事を考へてゐる。
何時と如何にとを考へてゐる。 
          「のつぽの奴は黙つてゐる」(S5)

 高村光太郎にたいする北川太一氏の聞き書によりますと(晩年の回想ですが)、
「ロランは『今日の音楽家』や『昔の音楽家』などをはじめ読んだ。それからだんだん『ジャン・クリストフ』の方にはいっていったんだ。──『ジャン・クリストフ』は『反逆』のはじめの方を訳したんだが、あの巻は全部訳すつもりだった。その頃はやはりそういうかどかどした処でロランを見ていたんだな。全体的にロランを感じたのはやっばりもっと後、大正の終り頃だと思う。戦争がはじまるまで同じような考えをもっていたな。──
 ロマン・ロランのようなことをよく考えたが、それでは日本では生きていられない。心理の上で困るなと考えた。僕の考え方は本当はロランのようなので、ロランとは文通していたが、その苦しみをロランに話し、天皇制などについての考えを聞きたいと思ったことがある。片山さんなどはよく文通していたが、そういう問題には触れずにしまったろう。」
また「私の好きな世界の人物」というアンケート(大正15年)にこたえて
「1、躊躇なしにロマン ロラン
 2、彼が世界で最も高い精神であるが故に。彼よりも博学な、賢明な又新らしい主義をも 
  つ人物は少なくないが彼ほど清冽の心を持ちながらその英雄主義_______に他を凌駕する意識のほとんど感じられない点は全く人類の宿弊を破つてゐる。」   (大正十五年)

といっています。この英雄主義とはロランのことばによれば、「私は公正または力によって偉大であった人を英雄とは呼ばない、心によって偉大であった人を英雄と呼ぶ。」(ベートーヴェンの生涯序文)
                                    (つづく)