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お世話にばかりなった話
井 土 真 杉
(放送局勤務)
1959年1月17日は、日頃温暖な三重県では考えられないような寒い目であった。この日、宮本先生は津市に来られ、「津高校ロマン・ロラン友の会」のために講演された。
よく考えて見ると、きわめて近しくおつきあいいただいていたように感じているのに、実際私が宮本先生にお目にかかったのは、あとにも先にもこの日だけだったのである。
「津高校ロマン・ロラン友の会」は、1952年1月、折からの朝鮮戦争のもと、窒息しそうな反動の嵐の中で苦しんでいた教師と生徒たちが、生涯自由と平和のためにたたかったロランの魂に触れようと結成された、県立高校間ではおそらく全国にも例を見ないサークルであった。高校二年生にして「ジャン・クリストフ」に心酔し、ロランを人生の師と仰いでいた私は、このサークルで中心的な役割をはたしていた。
宮本正清先生のお名前は、「魅せられたる魂」(これはクリストフとちがって、高校生の悪童には、少々手に余った)や「ピエールとリュース」の名訳者として熟知していたが、もちろん当時は知己を得ていない。
その後、京都大学の文学部にすすんでからも、私のロラン熱はいっこうに醒めず、卒業論文のテーマにも、ロランの作品を選ぶことになったが、この大学は人的にも資料面でもロランとは縁がうすく、思いあまった私が、恐る恐る宮本先生に手紙をさし上げて助言を仰ぐと、先生は早速返事を下さり、適切な示唆を与えて下さった。
こんな時、高校卒業後も接触を保っていた母校の「友の会」が、講演会の講師を求めていることを聞き、宮本先生にお願いして津での講演を快諾していただいたのである。
なにしろ二十五年前のこととて、ご講演の内容はすっかり忘れてしまったが、殺風景な階段教室で、寒さにふるえながら、教師も生徒も感動して聞き入っていた光景ははっきり思い出される。講演のあと、ストーブの燃える校長室にうつり、先生を囲んで記念撮影をした。その写真は今も私のアルバムにある。
感動の余韻に立ち去りかねている高校生たちに先生は、「今日は津に泊りますので夜はあいています。みんなで夕食に行きましょう」といわれ、宿舎の近くにあるカフェ兼レストランに、最後まで残っていた六、七人を誘って下さった。その中には「友の会」顧問の小出幸三先生、大学四年の私、そして高校三年だった将来の私の妻もいたのである。
先生は「講演の謝礼をいただいたから、私がごちそうしましょう。気にしないで!みんな同じものでいいですね、ビーフカツレツにしましょう」と、有無を言わさず注文される。
高校の貧乏サークルのこととて、満足な謝礼もお渡しできなかったことは明らかだから、きっとあれは足が出たにちがいないと、今でも申しわけなく思っている。
めったに口にしたことのないような料理と、よく効いた暖房に、みんな顔を紅潮させながら、先生を囲んで静かに話し合ったあの夜の数時間は、われわれの生涯の中でも最も印象深い時間のひとつであった。アンネットやマルヴィーダについて語られたであろう先生の言葉の一つひとつには、特に記憶がなくても、あそこに座っておられた先生のお人柄というか、きわめて暖かいものが、その日の戸外のきびしい寒さと対照的に、私の心の中によみがえって来るのである。
まもなく私は民間放送の企業に就職、仕事と労働組合の活動などなどに追われて、ロマン・ロランの世界とは(表面的には)疎遠となり、宮本先生とも、年賀状をさし上げるのがせいいっぱいという状態が続く。
だが1976年、思わぬチャンスが訪れた。パリの血液研究所に遊学していた医学徒の兄をたよって、ほんの一週間あまりだが、フランスを訪問することになったのである。
はじめは、お定まりのパリ名所めぐり程度のつもりだったのだが、せっかくフランスまで行くなら、何とかロランの墓参りだけでもできないものかと思いなおし、久しぶりに宮本先生に手紙をさし上げて、またしても助言を請うた。ご無沙汰ばかりしていて、ご返事などもらえなくて当然と覚悟していたのに、先生は折り返し二回もお手紙を下さった。そのうち一回はフランス語で書かれてあり、二通の紹介状がそえられてある。ひとつはロラン夫人あて、もうひとつはクラムシー市の助役・ギボン氏あてであった。フランス語のお手紙は簡にして要を得ていた。とにかくパリに着いたら直ちにロラン夫人に電話して面会の予約をとりつけること、その上でクラムシー行きの予定をたてギボン氏に知らせること、パリでは日本とちがって、すべてせわしいから、もたもたしていると何もできずに帰って来なければなりませんよ…といった文面、そして最後にパリのサント・シャペルのステンドグラスだけは、必ず観て来るようにとのアドバイスが書きくわえられていた。
仏文科の学生時代でも、ろくにフランス語がしゃべれず、さらに二十年も遠ざかっていた私に、宮本先生が命じられたような芸当ができるわけがないのだが、とにかくお手紙と紹介状をポケットにフランスへ飛んだ。そしてことばの方はすべて在仏の兄に面倒を見てもらって、ロラン夫人に二度までもお会いし、またクラムシーのロランの生家と、近郊ブレーブのロランの墓に詣でるという千載一遇の感動的な経験をすることができたのであった。この時、クラムシーの助役、ギボンさんは、酷暑の中、特に私と兄のために半日を割いて案内して下さり、昼食にはブルゴーニュ特産の白牛のステーキなどをごちそうして下さった。まさに宮本先生の紹介状の威力は絶大だったのだ。
これが縁で、兄はその後もロラン夫人にたびたびお目にかかり、ロラン記念館の落成式にも出席する機会を得た。
1981年、再び訪仏した兄が、ロラン夫人と会い、話題が宮本先生のご病気に及ぶと、ロラン夫人は、<Il
va mourir !>(直訳すれば「彼は死ぬだろう」)と悲しげにつぶやかれたという。日本語にはないニュアンスのことばだが、夫人のあの率直な人柄と、日本の古い友への心情がうかがえる。
宮本先生のご葬儀にはつらい気持ちで参列した。生前のご経歴を紹介するスピーカーの声を道路に立って聞く中で、私は恥ずかしいことに初めて、先生が戦時官憲の弾圧を受け、獄につながれたことを知った。お話でも、文章でも、あまりご自分のことを語られない方だったような気がする。
それにしても、何かというと厚かましく先生のご好意に甘えるばかりで、それこそ何のお役にも立てなかった自分が情ない。せめてもう一度お会いして、お礼が言いたかった。
この拙文をつづるに及んで、なおその思いを深くしている。
宮本先生と津高ロマン・ロラン友の会
小 出 幸 三
(元高校教諭)
宮本先生に私がお会いしたのは一度だけである。しかし、その日の宮本先生の温容は私の眼に焼きついていて、いまも昨日のように鮮やかに思い出すことができる。
私の手もとに一枚の白黒写真がある。裏面に1959年1月と記されている。写真にはストーブを前にした宮本先生を囲んで、津高ロマン・ロラン友の会の生徒が三列に重なりあうようにして写っている。宮本先生を中にして右に当時の三輪校長、左には若い私の姿がある。私の右に友の会の初代部長であった大学生の井土真杉さんがいる。あとは三十四名の高校生。井土さんはロマン・ロランを勉強したくて京大の仏文科に学び、卒論もロマン・ロランについてであったが、京大在学中に日本ロマン・ロラン友の会の懸賞論文に応募して入選、二席になったというロマン・ロランの心酔者であった。
津高ロマン・ロラン友の会は1952年に成立、高校のクラブとしては珍しい存在であった。友の会成立に関わってきた私は以後十一年間、津高校を去るまで友の会の顧問を勤めてきた。自由・平和・友愛と人間尊重をスローガンにした友の会は、多くの部員を擁して様々な活動をしてきた。講演会もその一つであった。講師には真下信一、桑原武夫、新村猛、伊吹武彦などの諸先生がいた。地方の高校の一クラブであるから、予算も乏しく文字通りの薄謝であったが、どの先生も快よく引き受けて下さった。宮本正清先生も、そのなかのお一人であった。
宮本先生の講演は「魅せられたる魂」のアンネットを例にして、女性の生き方を述べられたものであった。講演終了後、聴衆の高校生は帰ったが、友の会の生徒は校長室に集まって記念写真ということになった。撮影が終ってから、先生を近鉄の津新町駅まで送るために生徒の一部が同行した。いまと違って、通学道路の両側には家が少なく、田畑を吹きわたる風は冷たかったが、講演で受けた感動と、先生と共に歩くことのできる昂奮とで、生徒たちは寒さを忘れていた。駅に着くと発車まで時間があった。先生は「暖かいところで休みますか」と言われて、駅前のフォーゲルという喫茶店の方に歩き始めた。私を含めて十四、五名の生徒が店内に入った。会計の女生徒が困ったような顔をしていたので、私は小声で「心配するな、ぼくが出すから」と言って安心させた。明るく暖かい店内でくつろぎながら、生徒の質問に答えたりして、先生は楽しそうであった。時間がくると、ウエートレスを呼んだ先生は勘定書を受けとられた。そして、ポケットのなかから薄謝の入った紙袋を出すと、封を切ってウエートレスに差し出された。私が口をはさむ余裕はなかった。釣銭の入った紙袋を受けとった先生は、そのままポケットにしまわれた。店を出てから、礼を述べる私や生徒たちに、先生は「楽しかったですネ」と言われた。別れの時がきた。「皆さんのなかから、きっと新しいアンネットが出てきますよ」という言葉を私たちに残して、先生は車内の人となられた。
社会人となった井土真杉さんが1976年に渡仏して、ロラン夫人を訪れた時「遠い日本の津という小さな町に数多くのロランの友たちがいます」と述べると、夫人が大そう喜ばれた、ということを彼から聞いた。井土さんの渡仏に当って、宮本先生はロラン夫人への紹介状を書いて下さったのである。
先生にお会いすることのできた、あの日の津高ロマン・ロラン友の会の卒業生たち。誠実に悩む自由な魂たちのなかに、アンネットのように社会に目を向け、ひたぶるに歩きつづける女性が何人も出てきていることを、亡き宮本先生にお知らせしたい、との思いが私の胸のなかに強くこみあげてくる。
宮本先生の思い出
杉 本 千代子
宮本先生に始めてお目にかゝったのは、日仏学館でのロラン友の会の集りでした。
其の日は、倉田百三作「出家とその弟子」に対するロランからの手紙に就いて、N夫人からの発表がありました。補足として先生は、ロランの日本の若者に対する深い友愛に関して、少し籠ったような渋い声で、ゆっくり話されました。
もう三十数年前のことなのに、その時の小さな教室と堅い木の椅子、等の情況をよく覚えています。
友の会は、年齢、学歴等に関係なく、ロランを愛する人々、私のような主婦も受け入れられ、今のように、カルチャーセンターのない時代に、ロラン文学の訳者として有名な先生の許で勉強出来た事は、本当に幸せであったと思います。
先生が大阪市大を停年退職されてから、友の会は、田中大久保町の簡素なお住居の二階で持たれました。
其頃お宅では、下のお嬢様とお二人暮しでした。先生は何時も、無雑作に着てられるのに、よく似合う和服姿なので、会は一層家庭的で、万事手ぬかりなく準備して頂き、終会後は表まで出て、見送って下さると云う風な、温かく謙遜なお人柄で、それによって会は育てられていったと思います。
会は、当番に当った方の発表のあと、先生はそれを補足され、作品に対する御自身の深い洞察、ロランの真髄を説明して下さいました。
先生の許には当時、波多野先生、南大路先生、池田隆正先生、大橋哲夫氏等の錚々とした研究家をはじめ、京都は勿論、大阪方面からも秀れた愛読者が集られ、内容の高く深いセミナーが行われていました。
友の会では、ジャンクリストフ。魅せられたる魂。などの大河小説はじめ、歴史小説、演劇、人物評伝。日記、回想録、ベートウペン研究、したしいソフィヤ、ローマの春などようにロランの優しさの溢れるような書簡集など、あらゆるジャンルの作品が次々取りあげられ、それ等を通じて、ロランの信仰、思想、人となりに触れ、一人ではとてもこなせない分野に於て、文学のみならず、生きる指針をも学ばせて頂くことが出来ました。
お嬢様が嫁がれて後、或日、お歳暮の御挨拶に伺ったところ、珍らしく、うら若い女の方がお茶を運んで来て下さいました。先生は、
「郷里の親戚の者です。」とすましておっしゃるので、お言葉通り承知しておりました。その時の先生の胸中は、溢れる許りの想いに満たされておられたであろうに、うかつな私は、先生は既に枯淡の境に在られる方と勝手に決め込んでいましたので先にお目にかゝった方と結婚なさったと聞いた時は、本当に吃驚してしまいました。
先生は敬愛するロランに倣い、マリー夫人がロランの遺された仕事を守られたように、若いエイ子夫人に後事を託されるお積りだったのでしょうか。新しく移転された、純京風数寄屋造りの優雅なロマンロラン研究所に於て、以前と変らず友の会の為に尽して下さいました。
研究所の床の間に飾られている先生のお写真は、ありし日そのまゝに、穏やかな程に強い意志を秘め、ほヽえんでおられます。
思 い 出
永 田 和 子
(元高校教諭)
宮本正清先生がお逝きになられて満六年、今年は七回忌にあたられる。同郷とはいえ、何と長く、先生のご指導をいただいたことか。
初めてお目にかかったのは昭和二十九年六月、日本フランス文学会が東京で開催されて先生が上京なさった折、東京ロマン・ロラン友の会の集まりが片山敏彦邸で持たれた。先日、逝去された蛯原徳夫先生、片山敏彦先生ご一家、宮本正清先生、そして波多野茂弥、小尾俊人、山口三夫、美田稔、清水茂姉弟、峯村泰光、北沢万邦の諸氏、隅っこに私。夜は村上光彦氏も参加。皆若い若い。「仏文では仕事ないですよ。」これが宮本先生が一番最初に私に仰っしゃったお言葉。早稲田の大先輩のお言葉だから耳に痛かったことを覚えている。
次は前夫人のご遺骨を持って帰郷された先生を上田秋夫氏と共に高知駅頭にお出迎えした。第三回目は昭和三十三年一月、高知女子大学集中講義に帰高された片山先生を囲んで高知ロマン・ロラン友の会を私の家で持った当日、偶然、帰高された宮本先生がお立寄りくださって、片山敏彦、宮本正清、上田秋夫の「高知ロマン・ロラン三傑」が奇しくも一堂に会した、まことに記念すべき一日であった。新婚ほやほやの夫は、会には出席しない代りにカメラマンの役目を引き受けてくれた。記念写真はもちろん、ロラン演奏のベートーヴェンの「悲愴」、ヘッセの「ガラス玉演戯」の朗読録音のディスクに耳を傾ける片山先生の横顔などをカメラにおさめた。
京都のルーヴル美術展に夫と二人で出かけたら、たまたま会場から出てこられた先生にお目にかゝり、長い長い立話を先生とお話したことだった。そして片山先生ご逝去後、高知女子大学の文学論集中講義は宮本先生にバトンタッチされて、先生はご帰高ごとに、我が家にお立寄りくださった。先生のお講義は大抵、高等学校の二学期期末考査の時期であったから、平素多忙な私は、お食事やお茶をゆっくりといただきながら、たっぷり先生からお話を拝聴することが出来た。今にして思うと大学の連続講義を終えてからであるからさぞお疲れであっただろうに、先生は、にこにこしていつもお迎えくださった。大学教授でいられる先生は、若い者に話を合わしてくださって、とてもお話しやすく、それに、かならず合槌を打ってくださるので話題は途切れることがなかった。郷里へ帰られた解放感もあられただろうか、親密にお話をしてくださった。先生は気さくでいられる上に、マナーが素晴しく、先生の積年の社会生活の豊かさが偲ばれる。私たちが家を建てた時、先生はお泊まり客の第一番目であった。記念に、先年、物故された高知女子大学フランス語教授の正木喬先生をお迎えしてロランの会を持つことが出来た。ロラン百年祭でマリー夫人来日の折は、お呼びいただき、上田秋夫氏、そして長女と三人で上阪した。会場ではただ一人の子供であった長女は、ロラン夫人へのブーケ進呈の大役をさせていただき、光栄なことで忘れられない。
東京の友の会の連中は、片山、宮本この両巨頭の相貌が土佐人の海洋型、山岳型の代表などと噂するけれども、片山、宮本、上田と三人三様、非常に異なる性格で、私にはまことに興味津々たるものがある。片岡美智女史の存在も、大きい。人はその置かれた時代、環境、性格、などによって自己形成をなしてゆくが、ロランにつながったこの四人の先達は、土佐の誇りだと私は思っている。
宮本先生の人なつこい性格は、万人から愛されたのではないかと想像される。私が不在の折も日本近代文学専攻の夫と二人でゆっくり話をなさってお帰りになられる。歩くことが大好きで、歩いて片山敏彦先生の墓参にお伴させていただいた。ある夏、あまりに暑いので先生と先生の姪御さん、私、私の友人の四人で愛媛県の面河渓谷に避暑の一泊旅行に出かけた。翌朝、私たち女性群は、大寝坊をしたのだが、先生は早朝のロシヤ語講座を聴き、フランス語日記も書きつけ、一仕事を終えておられた。年の暮に来高される時は、カバンの中に上書きだけした年賀状を、たくさん入れて、添書をして片端からポストに投函される。田舎者の私などからみると先生のご精励ぶりは見事であった。ときどき、宮本先生が実業家でいられたらと想像するのが楽しかった。
エイ子夫人とご結婚になってからは必らずお二人でご帰郷、先生の講義中、夫人と私はおデートの楽しみを味わった。同じ四国の人間であるせいか、気さくなエイ子夫人のおしゃべりは、また格別に面白い。宮本先生とエイ子夫人のご結婚を私は、ロランとマリー夫人になぞらえてみたりして一人で楽しんでいる。ロマン・ロランに賭けておられた宮本正清先生のことを思う時、後に続く私たちは、うかうかしていてよいものだろうか。
「心のアルバムから」
成 田 雅 美
(公 務 員)
読書ノートにはさまれた一枚の新聞記事。1974年、レジョン・ドヌールを受勲なさった宮本先生の快活な笑顔がございます。お礼を拙く述べた殆んど見ず知らずの私の葉書に丁重な御礼状を下さいました。その四年後、銀閣寺前町の御宅をお訪ねした際、気さくに並んで下さったスナップでは、心なし御病気のお疲れが伺えるようです。そして御逝去後奥様からいただきました和服の御姿は、温かな慈愛に充ちたまなざしでございます。
これらは、ロマン・ロラン、いいえ一度しかおめにかかれませんでしたが、宮本先生に出逢えました私の幸運な人生のひと駒です。
中学生時代、「魅せられたる魂」という題名に惹かれ読み始め、それ迄の世界文学と違う何かを感じました。話しあえる仲間や友も身近に居らず、青春の悩みと共に寂しさを抱いていた或る日、研究会の案内記事を見かけました。早速、若さにまかせ感想等を連ねた問い合わせの手紙を出しましたら、数ヶ月、どこかを巡った末、宮本先生の元に届いたそうです。あきらめ、忘れかけていたところへ何と訳者であられる方から御返事が届いたのですから驚きと感激で胸一杯でした。
1971年、渡欧なさるとの事で、便せん三枚の会についてご説明の末尾に、「留守中何か聞きたいことありましたら○○先生が友人ですから…」とご親切に連絡先まで書き添えて下さいました。
その後、必ずしもロマン・ロランの熱心な読者と言えない時期もありましたが「生命の歌」を知った頃から、宮本先生ご自身に親しみを覚えさせていただきました。凪・Moment・秋のこころ・冴え・おもひ・微光″等々。感動を筆に致しましたら、ユニテ第二号を送付下さいました。いつか京都へ行けたら、学びの浅い私は隅で眺めていられるだけでも、と宮本先生の研究所に集う方々の存在は大きな励みにもなりました。
ひき続いて、「若い頃の詩集です」と『レ・トロワ』をも送って下さったのです。1954年のその詩集は大切な思い出の品になっております。
ご健康がすぐれないらしいと知り、尚更、お逢いしたいと願い、とうとう北海道を発ちました。友の会の方がお世話下さったものの、緊張の余りぼうっとし、礼儀も行き届かぬ私を御夫妻は暖かく歓待下さいました。
知的で洗練された雰囲気の奥様に見とれ、自分がますます小さく思いました。書庫の中は宮本先生がご案内下さり、中の一冊を手に取られ、フランス語をつぶやかれました。自分の不勉強を色々心の中で恥じたものですが、宮本先生は終始にこやかに、こちこちの私を解きほぐそうとなさるかのようにお話し下さいました。奥様の御心尽しのお料理やデザートも忘れがたい味わいでした。
今日の想い出に、お土産にと「ロマン・ロラン─母への手紙」(みすず書房)をいただくことになり、「何かお言葉を‥」と図々しくお願い致しましたら、ちょっと思案なさって別室にいらっしゃいました。戻られる間、試験の結果を待つ生徒のような気持でした。その立派な本の表紙裏にはこう記されています。
「お互いに小さな力を出し合って、
援けあいましょう
ロマン・ロランを愛しうる人々!」
1978年 訳者 宮本正清
本当にもう十年が過ぎました。宮本先生のご逝去という大きな悲しみを経て、なおかつずうっと、私に多くの励ましと御教示を下さいます奥様に深ぐ感謝致し、宮本先生が結んで下さった御縁かしらとありがたく思っております。まだまだ生き方を模索中の私です。宮本先生の信念を学び、歩んで行きたいです。
宮本正清先生の想い出
森 口 康 子
宮本正清先生が昭和五十七年に逝かれてから早や六年、私が先生を知ってから四十年という歳月が流れ過ぎようとしている。
昭和二十三年秋、日仏会館のフランス語講座の初級に入り、そこで初めて先生に出会った。翌春入学した同志社女子大学で、偶然フランス語の講師として先生からフランス語を習った。一年あまりしてフランス政府の招きで渡仏されることになり、大きな希望をもって神戸から旅立たれた。在仏中の先生へフランス語で手紙を出すように言われたので、辞書を片手に四苦八苦して書いた文にきちんと朱で訂正を入れて送り返して下さった。
帰国されてから再び女子大の教壇に立たれ、新たにロマン・ロランについての講義を始められた。人頬のユニテを信じ、自由な精神の為に生きたロランの生涯と数々の作品を紹介して下さり、私は次第にロランに傾倒するようになった。当時、発足して間もない大阪のロマン・ロラン友の会の例会にも参加して、ロランを敬愛してやまぬ多くの人達を知ることが出来た。
大阪市立大学の教授をされていた先生のおすゝめもあって、その後市大に学士入学をして、宮本・蛯原両先生から暖かいご指導を受け、卒論に「魅せられたる魂」を選んだ。
それから三十年あまり、数々の遠い想い出の中で、特に昭和四十三年九月、先生のご尽力で実現した「愛と平和に生きたロマン・ロラン展」の感動と、その時来日されたロマン・ロラン夫人を迎えて催された歓迎晩餐会での先生の喜びに満ちたお姿が今でも鮮かに蘇ってくる。
現実の生活の中で、いつとはなく疎遠になっていたロマン・ロランの作品の幾冊かをこの機会に読みかえして、若き日にロランへと導いて下さった亡き宮本正清先生を偲び、心から感謝の気持を捧げたいと思う。
尚この八月に他界された蛯原徳夫先生のご冥福を合せてお祈りしたい。
昭和六十三年八月末記す
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