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新しいヒューマニズムを 笠 原 芳 光
(京都精華大学学長 倫理学)
宮本正清先生が、かつて教授、学長、理事長を歴任された京都精華短期大学の後身である京都精華大学に1989年の4月から人文学部が新設されることになり、あらためて人文主義ということを考えさせられている。 というのも宮本先生は人文主義にふさわしい存在であったからである。いうまでもなく人文主義はヒューマニズムと同義であり、宮本先生にとってヒューマニズムはもっとも願わしい思想であった。いまおられたら、どんなに喜ばれるだろうとおもうと、無念というほかはない。 ヒューマニズム──数十年の昔、それはかがやくばかりの思想であった。ロマン・ロランが苦悩にひしがれた第一次大戦、宮本正清が苦難を受けた第二次大戦のさなかに、ヒューマニズムはどれだけ痛切に望まれ、慕われたことだろう。いたるところで人間性が無視され、人間の生命が大量に抹殺されていた時代であったからである。 だが今日、ヒューマニズムは、それほどにすばらしい思想だろうか。かならずしも実体をともなっていないにもかかわらず人間尊重が当然のこととなっている、この曲りなりにも平和な時代にあって、ヒューマニズムはもはやかつてのブリリアントな光を失ってしまった。先人達が眼をかがやかせ、胸をときめかせた、あのヒューマニズムはどこへいってしまったのか。 近年、従来のヒューマニズムに欠陥があることがわかってきた。一つは今までのヒューマニズムが西欧を中心とするものであったからである。古代のギリシア、ローマからルネサンスをへて近代に花開いたヒューマニズムの系譜は、けっして全人類のグローバルな人間尊重の歴史ではなかった。欧米先進諸国によって人間性を抑圧されてきた人々にとって、ヒューマニズムとはいったいなんであったのか。そして近代の日本もまた、それらの国々に伍していたのである。 いま一つは、これまでのヒューマニズムが人間のみを尊重する思想であったからである。それは人間以外の多くの生物、いな無生物とも共存しようとするありかたではなかった。そのことが環境破壊、環境汚染の進展につれて、ようやく気づかれるようになってきた。人間が、その生存や生活のために他の生物や無生物を利用し、支配する、ヒューマン・エゴイズムともいうべき思想は、いま自然界から拒否され、抵抗されつつある。 いっさいのものに生命が宿っているとするアニミズムが、新しい意味をもってあらわれてきているのも、今までのヒューマニズムに反省を促すものといわねばならない。だが、それは困難である。ヒューマニズムを放棄してアニミズムによって生きるということは、人間にとって容易にできることではないからである。せいぜい極力、自然と調和し、自然とともに生きることに心がけるということであろう。 ともあれ、いまやかつてのヒューマニズムは無効になるところまできている。新しいヒューマニズムがあるとすれば、それはこのような問題に気づくところから始まらなければならないだろう。 その新しいヒューマニズムを理念とする人文学部を創設しようとする時に当って、ヒューマニズムを求めて生きられた宮本先生を、もう一度、おもいかえしたい。
宮 本 先 生 と 英 語 新 道 弘 之
(染 織 家)
今から十数年も前のこと、精華短大に勤務していた頃、春の午後のことだった。かって住んでいた松ケ崎の家の垣根越しに偶然に宮本先生御夫妻が散歩されているのを発見、恐る恐る声をおかけした。先生は「ヤアー君の家でしたか、実はあまり変った家なので家内とどんな人が住んでいるのかと話していたところです」とおっしゃり、お茶にお誘いしたところ気軽に応じてくださった。 何しろ当時、小生は美術科の若僧、教授会で遥かに拝する宮本教授が我家でお茶の一刻を過して頂くなどとは夢にも思わず女房なんかは随分恐縮したものである。というのも我家はアトリエ兼住居のガランドウ、大型ゴミで拾ってきたピンポン台の改造テーブルに再生椅子、天神さんの市で買い求めた伊万里の猪口でコーヒーをもてなす有様で先生はいささかビックリされたに違いない。 でも学者の宮本先生にとっては何とも妙な別世界と思われたのか、我が家の雰囲気が大いに気に入って頂き、何度か夕食に来てくださったり、私達も先生のお宅へ招かれたりするようになった。また私の個展を訪ねてくださった先生は「岳」と題するタピスリーを気に入ってくださりロマン・ロラン研究所に飾っていただくという光栄にも浴したのだった。 さて宮本先生といえば誰でも偉大なるフランス文学者をイメージされるであろうが、意外なことに先生が病床で最後に手がけられていた仕事はタゴール著「The
King of the dark chem-ber」の英訳であったことを知る人は少ないであろう。私はお見舞に伺った時、奥様から翻訳中のメモを見せて頂いたことがある。これは普通の大学ノートにまるで受験生がやるように、自分で罫を引いて単語を丁寧にひろい辞書を引いて対訳を書き込むという几帳面な方法でぎっしり書きこまれてあった。 それはあたかも中学生がはじめて英語の勉強にとりくむような真摯さが伝わってくるもので、私は「ヘエー先生のように経験を積まれた偉大な学者でも、こうして丹念に辞書を引いて一歩づつ吟味しながら仕事を進めていかれるんだナァー」と、この一冊のノートを見せられた時のショックは今だに鮮かに脳裡に焼きついている。 またある日、先生から電話がかかり知人のアメリカ人が古いタンスを処分するそうだから、君にもらってやろうと云ってくださったことがあった。その時に私は一度だけ先生が英語を話されるのをきいたことがある。ゆっくりだけど正確な英語できちんとコミュニケーションされていたのには、さすが!と印象的だった。 思いかえしてみると仏文学者の英語の通訳でアメリカ人から日本の古い箪笥を日本人がもらう、というこのストーリーはいかにも先生の国際性を物語っている。 お会いするといつも「ヤァー」といって満面の笑みをたやさず両手をさしのべるように握手をしてくださった先生…………。 自分に言いきかせるような話術でゆっくり言葉を選びながら、人間の生き方を語ってくださった先生……………。 あの深い人生の年輪をたくわえられた尊顔は僕の人生で出会った一番美しいお顔である。 合掌
宮本正清先生の想出 谷 口 知 平
(大阪市大名誉教授 民法・比較法)
宮本先生には、日仏学館が九条山にあった頃に親友加古祐次郎氏の御姻戚の関係でお目にかかったように思うが、親しく御交誼に与ったのは仏語主任教授として、大阪市立大学に御赴任になってからである。同僚としての気安さから、フランス語の御指導を仰ぐことになり、国際学会への報告を仏語で書くことを引き受けた場合など、屡々先生に目を通していただいた。方角違いの法学の論稿で随分御迷惑なお願いをしたことだと思うが、先生はいつも(友)として見てやると心よくお引受けいただき、とにかく外国人に分るだろうという気持で責を果すことができた。 先生は関西日仏学館や京都日仏協会、パリ会などの中心として活躍せられ関西の日仏文化交流についての御功績は実に大きいのであるが、これは先生の温厚な人柄と包擁力の大きい社会的政治的な御性格によるものであろう。私は宮本先生がおられることによって、オーシュコルヌ先生や関西日仏学館の代々の館長さんを知り、フランス文化への接触の機会を与えられたわけであり、私のフランス法との関係は少くとも関西においては、宮本先生の御蔭であったことを先生を失ってつくづく感ずるのである。 先生はロマン・ローランの研究におけるわが国第一人者としてその名の高いことは、ロマン・ローラン研究所を遺されたことにより、永遠のものとなっているが フランス紳士のマナーを身につけておられることを、ローラン夫人歓迎会の際拝見して、さすが仏文学の教養を体得せられた大学究であられることを思ったことがある。 私など日本の慣習にそまっている者は、親しい友に会っても握手する手が出ず、まして初めて会う方にはこちらから手を出すことを失礼のように思い、つい遠慮し勝ちになるのであり、在外研究より帰った友人より、親愛の情を態度で示さないことは不快を示すことになるのだということを聞いていたのであるが、宮本先生はローラン夫人の横顔に頬を近く寄せて挨拶をされ、その優雅な敬愛の情を表す態度、その極めて自然なのに敬服し身を以てフランス礼儀を示されたのであった。 仏文で日本の戸籍の説明を書くにつき訂正をお願いしたとき、自分はできぬから日仏学館のムイエー館長に頼めといわれたのが、お目にかかれた最後になった。既に御病気の徴候があったのであろうか。その後お訪ねしたとき門のベルを押したのに対し、しっかりした先生のお声で応答があった。しかし、奥様にだけお目にかかり、先生にはお目にかからぬままに辞去した。老人性胸部疾患だというので、自らお気を使われ面接を辞退されたものであろうが、こんな折にも正しい礼儀を身を以て示されることに感激した。それにしてもそのままに一生お目にかかれぬこととなりまことに残念痛惜の至りである。
追 想 ── 宮本正清先生のこと ユベール・デュルト
(フランス極東学院研究員
法 宝 義 林 編 集
長)
宮本先生について追想することは、先生がその生涯を捧げられた東洋と西洋の友好に深く関わる幾多の思い出を記憶に想い浮かべることに他なりません。 しかしながら、私の第一の思い出と言えば、先生のあの明るいお顔にしばしば咲きこぼれた微笑です。先生が数々の苦難を体験されてきたことは確かですが、先生の輝くばかりの陽気さは、全ての人々にとってと思いますが、忘れ難いものです。 それは先生の御出身が南の国であることに起因したのでしょうか。先生は土佐、現在の高知県の出で、そこは四国の南側斜面に位置し、日本列島の他の諸国より訪れる人々はその地の愛すべき物憂さに心を打たれるのです。願わくば、現在四国と活気ある本州とを結んでいる好ましからざる連絡橋のため、古来からの生きる喜びが損われませんように! 既に鳴戸と徳島間の沿岸地帯が対岸の大阪工業地帯の延長と化してしまいました。 宮本先生が世の中に撃って出たのは、─平和主義にたいしてこのような言い方が許されますなら─ある偉大な大阪人の傍らでのことです。先生は、フランスと関西の友好の船首像であり、日本の工業化のパイオニアであった貴族院議員稲畑氏の秘書でした。稲畑氏は人生を楽しむ垢抜けた人で、前世紀末リオンで絹織工たちと一緒に働いたことを好んで思い出していたようです。 私自身が日本へ赴く以前、既に私の指南役″であったローズ・ウイユー嬢より先生のことを聞いており、お会いできるのを切望していました。ウイユー女史はブリュッセルの王立美術歴史美術館極東部の学芸員で、当時高名な梅原末治教授の指導する京都大学考古学研究室に留学生として在学していました。それは第二次大戦に先立つ数年間のことで、そのころまだ希であった学生達、そしてさらに少ない外国学生達に対する警察での諸々の手続きは煩雑なものでしたが、それも暖かい友情によって償われたのです。しかし、日本を破局へと導こうとしていた体制が、先ず初めに個人主義者の日本人を苦しめていました。 1961年から1963年にかけ私自身日本で勉強した折、今度は私が宮本先生と御家族の厚情に浴しました。さらに嬉しいことに1964年にブリュッセルでウイユー女史と宮本先生に再会しました。ウイユー女史は旧友である先生とお嬢さんを、庭と陽影を落すべメルの谷間に面して日本式にすっかり開かれた家にお迎えしました。この再会の場のすぐ近くに、とても魅力的な美術館、ビブリオテーカ・ヴィトキアナと呼ばれる装丁史博物館が建てられています。 宮本先生は日本で、とりわけロマン・ロランの専門家として著名で、その幾つもの著作を日本語に翻訳なさいました。この分野での先生の交流は、フランス国内よりも国外での方が一層活発ではないかと思える、ロマン・ロラン「インターナショナル」に大部分関連したものでした。ある警句にガンジーとタゴールの友で、トルストイの信奉者で、ゴーリキーの友でもあるものは、彼のオリジナルの言葉で読むよりも翻訳での方が一層読みやすい″と言うのがありましたが、偉大なシナ学者のポール・ドミエヴィルはこの悪意にたいして憤慨していました。彼はこの警句にロマン・ロランの平和主義のメッセージからフランスの青年連を引離そうとする手管を読みとったのです。とは言え、彼の優美さに欠ける多くの小説よりも、その高潔な生涯、書簡、インドへの愛(宮本先生と共有するもの)の方に私が惹かれるのを許してくださいますように。 ロマン・ロランは、一部はその翻訳家宮本先生のお蔭で、日本に於いて重要な役を果たしてきましたし、今後もそうでありましょう。今日の日本で特筆すべきことは、その平和憲法です。日本憲法の平和条項は、今後ますます他の諸国でも採択されるよう切望されるものですが、その威光を実践するにはあくまで日本国民の平和愛好の精神状態によって支持されていかねばなりません。ロマン・ロラン自身はこの点よりすれば闘争から超然とした″人でインスピレーターとして留まっています。従って、宮本先生が設立したロマン・ロラン研究所が近々再開されることをとても嬉しく思います。付言しますと、平和条項は決して懸念の必要がないものではありません。宮本先生はそのことを身をもって示されました。先生は旧友のジャン=ピエール・オーシュコルヌ氏とともに1945年、窮地に追いつめられた日本軍国政体により投獄されたのです。 宮本先生が数十年間にわたり決定的役割を果たされた関西日仏学館や、フランス極東学院(「方宝義林」研究所)、さらに、将来の九条山センターと同様、ロマン・ロラン研究所は単に日本とフランスの掛け橋となるだけではなく、国際的意義を持っています。宮本先生がロマン・ロラン研究所の書庫と研究室を御生前の住居に設置され、現在京都の最も風光明媚な場所の一郭を占めるよう取計られたのは、仏教用語を引いて付言しますと、それは先生の善き業であります。かつてこのロマン・ロラン研究所に程なくなることになっていたそのお宅の露台に座し、宮本先生御夫妻と一緒に大文字の火を目の前にして瞑想したことは、私の、お盆の最良の想い出の一つです。 (大出 学
訳)
慈父のような先生 直木 孝次郎
(大阪市立大学名誉教授 日本古代史)
宮本先生には、私が大阪市立大学文学部に在職していたとき、いろいろお世話になった。1898年(明治31)生れの先生は、1919年生れの私の二十一歳の年上である。私は神戸の生れであるが、先生はお若いときしばらく神戸でお暮しになったことがあるという。私の父は明治の末に早稲田大学を卒業したが、先生も早稲田のご出身である。私は先生に慈父に接するような思いを抱いていた。実際、先生のおだやかで深みのある風貌は、人の心をおだやかにし、寛容にする力があった。大阪市大文学部の教授会では、多弁な方ではいらっしゃらなかったが、無駄な議論を沈静に導く徳があった。ボン・サンスとはこういうものかと思ったものである。 1950年代のなかごろ、文学部のなかで、ある紛争が起った。事件の渦中に置かれた私たち当時若手の教員数名は、京都の先生のお宅を訪ねて、私たちの意見を聞いて頂いたことがある。先生は賛成して下さって、 「若い人は純粋でいいなあ」とおっしゃられた。事件は私たちの希望する形で解決し、しばらくして教授会には助手以上が参加するように規則が改められた。現在はそういう大学は少なくないと思うが、当時としては他にほとんど例のない民主的改革であった。 1960年(昭和35)4月に私が『持統天皇』という書物を出版して差上げたところ、逐一目を通して、内容も面白いが、文章がよい、と褒めて下さった。同じ年7月に『伊勢神宮』(藤谷俊雄氏と共著)を差上げたのに対しては、高野山からつぎのようなお便り(ハガキ)をいただいた。 お便り有難く存じます。民学研(直木註、民主主義学者研究者の会の略称)のこといろい ろ御配慮、恐縮に存じます。先頃いただきました御著書、専門の必要の書以外、唯一の携 帯書として、当地で拝読しております。当山は、室内では日中も暑気を覚えず、仕事がで きるのが何よりのたのしみです。先は右御礼迄。 敬具 宮本正清 日付は元号で記さず、1960年7月31日、とある。そしてそれから間もなく、先生訳の『魅せられたる魂』岩波文庫版全十冊をいただいた。その第一巻の表紙裏に「宮本正清、直木学兄恵存」と署名して下さったのが、何よりの記念である。 先生がなくなられてもう六年になる。先生から賜わった御恩に対し、何のお返しもできないまま、無為に日をすごしたことをお詫び申上げる。
大地に平伏して 中 江 要 介
(原子力委員、元中国大使)
人間は神様ではない。だから、往々にして間違いを犯す。たとえば、忘れてはならない人のことを、いつの間にか忘れてしまう。あるとき、ふと、その人のことを思い出す機会が与えられると、穴があったら入りたいような気持で恥じ入り、悲しみ、悔やみ乍ら、その人のことを追憶し、詫び、大地に平伏す。 いま、私は、そんな気持で大地に平伏し、その人のことを追憶し、詫びている。 その人のことを思い出す機会を与えて下さったのは、他ならぬ宮本ヱイ子夫人、といっても、私はヱイ子夫人とは一面識もなく、文字通り無縁であった。それは、言う迄もなく、私が、忘れてはならない人のことをいつの間にか忘れてしまっていた、その罰である。 そのヱイ子夫人からの一通のお便りが、突如として、私の心の大きな部分に、宮本正清先生を甦らせ、そのころのことを鮮明に思い出させずには措かないのである。 そのころ……それは、今から四十三年前、敗戦に伴い価値観が根こそぎ倒錯した昭和二十年から二十一年(1945年から46年)にかけての頃である。 学徒出陣という勇ましい名の下に戦争に徴発された私は、負け戦さの果て、復員した。さてどうしようかと、一年余り考えた挙句、外交官になって、世界に再び愚かな戦争の起らぬように微力を尽くそう、と決意した。 外交官試験を受けるため、フランス語の勉強を再開した。私は、旧制第三高等学校の文科丙類を卒業していたので、フランス語が、いわば、第一外国語であった。従って、戦後のフランス語の勉強は、敵性語″として意識的に忘れさせられていたフランス語を意識的に思い起こさせるという大事業であった。私は、京都の関西日仏学館に通った。 ロベール館長の下に、オーシュコルヌ先生、折竹錫先生、このお二人は三高時代からの恩師でもある。そして、新たに、宮本正清先生を師と仰ぐことになった。私の勉強は、目標がハッキリしていた。即ち、外交官試験突破、そのための外国語試験準備、特に、仏文和訳と和文仏訳の力をつけること、だから、ロマン・ロランは、正直いって、どうでもよかった(何と浅はかな!と思われるだろうが、そういう世の中であった、悲しいことに)。 ロマン・ロランを学ぶ代りに、私は、新聞の社説の、面白そうな部分、特に外交に関するものなどを、フランス語訳にしては、宮本先生に添削して戴いた。それだけが、私の勉強であった。この功利的な、我儘な生徒を、宮本先生はイヤな顔一つせずに丹念に教導して下さった。 私は、昭和二十二年末、外交官試験に合格した。宮本先生のお蔭である。そして、昭和二十七年七月、外交権の回復した日本の、最初の在フランス日本国大使館の「外交官補」として赴任した。プロペラ機の南廻りで、機中二泊の上やっとパリに着いた。 パリでのフランス語の先生は、マダム・カミユであった。当時大使館館員の幾人かが、マダム・カミユのルソンを受けていたが、私にとっては、それだけではなかった。この恥知らずで恩知らずの生徒が、いよいよパリに赴任することになったと、宮本正清先生に恐る恐るお便りを書いたところ、丁重な祝辞と共に、二通の紹介状を賜わった。一つは、ロマン・ロラン未亡人あてで、もう一通は、マダム・カミユあてであったのだ。 マダム・カミユは言った。「ムッシュウ・ミヤモトは、得難い日本の友人です。それまでフランスに勉強に来たこともないのに、会ってみると、素晴らしいフランス語を話し、読み、書き、ロマン・ロランを深く研究していることに感心してしまいました……」 そのマダム・カミユは、私の拙いフランス語を根気よく訂正し、教えて下さった。そのマダム・カミユの後には、いつも、宮本正清先生の温顔があった。その温顔は、しかし、鋭い眼差しを中心にひろがっていた。いつか、この人、この師、この先生をパリにお迎えすることがあるに違いない、そのとき、私は、立派な日本の外交官として先生の前に直立、最敬礼をしよう………と思っている中に、二年でパリを去り、あと、東京──リオ・デ・ジャネイロ──ニューヨーク──東京──サイゴン──パリ──東京──ベオグラード──カイロ──北京と歩いて外交官生活四十年、昨年秋退官した。 その間、忘れてはならない人のことを、いつの間にか忘れていた。宮本先生が亡くなられたのは、私がカイロに在勤していた頃のことで、迂闊にも全く知らなかった。今、思い出す機会を与えられて、追憶し、大地に平伏して、貧しい心を恥じ、恩知らずを詫びている。 それにもまして、ロマン・ロラン夫人あての紹介状が、とうとうそのままになっていることも、私の心を、改めて痛めている………。 宮本先生、おゆるし下さい。
宮本正清先生とロマン・ロラン 中 川 久 定
(京都大学教授 フランス文学・思想)
宮本正清先生を個人的に存じあげていると申しあげられるような資格を、私はもっておりません。京都大学に私が入りたての1949年(昭和24年)頃、宮本先生は関西日仏学館の主事をなさっていましたから、百万遍界隈でそのお姿はよくお見かけしていました。しかし私は、その当時学館に出入りすることもなかったので、当然、宮本先生のご面識をえるような機会もありませんでした。 最初のきっかけはどういうことだったのでしょうか。名古屋で10年間勤めたあと、京都に移った私たち夫婦は、時々、日仏学館のセリエ館長から、学館の館長居室で食事に招待されることになりましたが、主賓はしばしば宮本先生とヱイ子夫人でした。宮本先生がまだ矍鑠としていらっしゃった時代のことです。 しかし、こうしてお目にかかる以前から、宮本先生のお仕事は私にとっては決して未知のものではありませんでした。宮本正清という名前は、大学に入る前後に読んで、強い印象を与えられていた「養徳叢書」外国篇の一冊、ロマン・ロラン『ピエールとリュース』の翻訳者として、私の記憶のうちにとどめられていました。『ピエールとリュース』から受けていた強い印象は、その後宮本訳の翻案を映画化した監督今井正の作品『また逢う日まで』1950年(昭和25年)によって、さらに増幅させられました。 今から八年前のことでした。必要があって、私はロランの「ヴィヴェカーナンダの普遍的福音」の原著を学校の図書館で検索したのですが、見当りません。万一と思って当ってみた『ロマン・ロラン全集』(みすず書房)の、ちょうど出たばかりの第十五巻(1980年)のなかに、幸運にも、宮本正清訳「ラーマクリシュナの生涯」と「ヴィヴェカーナンダの生涯と普遍的福音」が収められていました。宮本先生が残されたお仕事の──そして先生があとの時代の人間に託そうとされていた事柄の──大きな意味が私にはっきりと理解できたのは、その時からです。 インドの伝統が生み出した二人の巨人ラーマクリシュナ(1834─86年)とその弟子ヴィヴェカーナンダ(1862─1902年)の生涯と教説に捧げられたロマン・ロランの二冊の著書。──宮本先生によるこれらの本全体のご訳業が、記念碑的な労作であることは申すまでもありません。古く長い伝統をもつインド哲学、十九世紀におけるアメリカ、イギリス、ヨーロッパの思想的・宗教的潮流、プロチノスに始まり、偽ディオニシウス・アレオパギタをへて、十七世紀フランスにいたるキリスト教神秘主義の伏流、現代の比較宗教学、および現代の心理学・精神分析学の発展──これらすべての領域に関する著者ロランの深い知識に彩られた原著を、これ程分かりやすく訳しおおすために、どれ程の努力が費やされねばならなかったことでしょうか。 ですが、私がいいたいのはそのことだけではありません。二冊の本の 「訳者のあとがき」を一読すれば明らかなように、この本のなかには、宮本先生ご自身の理想が、ロランのことばを通して、はっきりと語られています。──「ヨルダン河とガンジス河」とを「合流」させること。「二つの河が、合流──(それとともに多くの河も)──して広くなった河床をともに流れて」行けるようにするために(訳書212ページ)。新生したロマン・ロラン研究所が、この理想に忠実に、それぞれ異なる伝統に属する諸文明の出会いと、対話と、合流の場所とならんことを。 宮本先生は、大学での公務以外は、翻訳のお仕事に埋没するようにしてその一生を終えられました。──ロマン・ロランは、次のように美しいことばを書き残しています。「もっとも偉大な人間というのは、自分自身のカルマヨーガ〔善なる行為の道〕を実現することさえ断念して、他の人々がそのカルマヨーガを実現するのを援ける人々であろう」と(訳書、381ページ)。よき書物のよき翻訳者こそ、他のひとびとのカルマヨーガの実現のために、自らのそれを断念することさえもいとわぬひとなのではないでしょうか。
私 の 宮 本 先 生 長谷川 治 清
(京都精華大学教授 経済学)
心に残る思い出が二つある。その一つは、お会いしたときに、いつもにこやかな笑みをたたえられていたことである。あの笑みはどこからきたのだろう。人生を歩まれるなかで、ある精神的な境地に到達され、心のやすらぎをえられた方の笑みのようであった。そして、そこには暖かさがあり、愛があった。それ故であろうか、現代の人間関係に嫌気を感じ、希望を失った冷たい心に、生きる力を与えて下さった。同じように生れた人間のなかに、このような人がおられることに気づいたとき、人間不信の雲が遠のき、人間や社会に対し、積極的な希望をもたせてくれる青空があらわれるのである。あの笑みは多くの人々の心に今も希望を与えているにちがいない。
もう一つの思い出は、先生が京都精華短期大学(現・京都精華大学)で学長をされていたときのことである。卒業式で『戦いは人に対してではなく、自分に対してである』と話された。なんと厳しいお言葉であろう。先生自身もこの言葉のように生きておられたにちがいない。言葉そのものは欧米的な響きをもつが、私にはそれがなぜか東洋的な内容をもつものに感ぜられた。私たちは、欧米社会の支配的な競争原理に強い影響を受け、競争が常に友人や他人に対してであることを意識させられる社会に住んでいる。戦いは自然や隣人に対してであり、それが人類の進歩に至ると信じてきた者にとって『戦いが自己に対してである』という考えは価値観の大きな転換を意味している。先生のお仕事は、生き方そのものに示されており、隣人との競争にかりたてられる現代社会に警告を発しているように思われた。
ロンドンにて
宮 本 先 生 と 私 長谷川 正 海
(医師、庭園美学)
宮本先生と私との出会いは、今から約五十五・六年前のことである。大学の医学部へ入った私は、医学論文の解読や作成の上から、英独仏の三ケ国語は、当時最小限度の必須外国語とされていたので、仏語の習得を思い立って九条山の日仏学館へ入校したのである。
と云うのは、それまで私は英語とドイツ語としか知らなかったからである。そこで先生と生徒という関係で宮本先生との結び付きが生れたのである。医学部を卒業するまでの四年間を真面目に通った私は、語学力はともかく、同館で多くの知人ができたのは何よりの収穫であった。卒業後は本職の医学研究に多忙で語学を楽しんでいる暇がなくなり、必然的に学館との縁は切れた。しかし学館も亦軈て九条山から医学部に近い今の地に移ったので、時々夏期講習を受ける程度には有縁であったのである。そのうちに支那事変、第二次大戦と世の中は物騒な時代となり、私の人生もその世相に翻弄されて紆余曲折していた。先生と生徒と云う関係以外に、特別な個人的関係ではなかった宮本先生との間も、勿論のこと疎遠になっていた。
戦争も終わって二十年、学館と疎遠になって三十年程経ったある日、突然先生から電話があって驚かされた。なんでもフランス婦人の筋腫手術依頼のことであった。
それは電話だけのことで済んだが、次に先生と顔を合わせたのは、マルシャン老館長夫人来日の歓迎打ち合わせ会合のときである。ステーションホテルで先生始め羽田先生や原先生など五・六人集まった時である。何十年振りに集まった面々はすでに老境の人達であった。四十何年に近い年月が過ぎているのだから当然である。その時先生はお住いが私の診療所の近くであることを話された。そしてこの顔合わせを機に、以後先生は屡々私の診療所へ来られた。いつもの温厚な笑顔と話し振りで楽しそうに、話すこと自体を楽しんでおられた。私自身も、すでに本業の医業を副業化し、本格的な入院手術は全廃して外来だけに限定し、道楽の庭園学に三昧の境であったので、度多く先生のお宅へお邪魔した。宮本先生ご夫妻を介して多くの外国人とも知り合いになり、忘れ得ぬ多くの思い出もできたし、いろいろ見聞を拡めることもできた。
こうして、九条山日仏学館で初めて先生に仏語の手はどきを受けてから、疎遠な時が何十年か流れた後、再び親しく温顔に接し得た喜びも束の間で、数年後には、先生は病床の人となられた。老人性肺炎や老人性結核が増悪し、病床に横たわること五年にして、先生は遂に不帰の人となられた。 先生の日仏文化交流への功績は、フランス国よりの受勲によって知られるし、先生とロマン・ロラン研究は切っても切れない関係で、世界文学全集の「魅せられたる魂」は今尚多くの人に愛読されている。先生からは、親交のあったタゴール翁やロランの話しをよく聞かされて感動したものである。私は厚かましくも、先生に先生のオリジナルなロマン・ロラン論を著述されることを勧めていた。先生の叡知も何時かはそれを意図されていたと思う。しかし先生の片肺は休火山ではあるが、レ線像は正に廃虚であった。一寸したことが大事に至る可能性を常に抱えておられた。一寸した風邪から肺炎へ、そして老人結核の復活へと、齢八十を越して病勢は急速に進んだのである。
先生のなくなられた後、ロマン・ロラン研究所も一時休止されていたようであるが、今再び活発な活動に入っていられると聞く。先生の喜びこれにすぎるものはないであろう。
京都に今活躍している日仏文化交流の組織として日仏協会や日仏学館があるが、その創立や発展には、いづれも宮本先生の大変な熱情があづかっていることを思えば、先生は大恩人である。協会の発展や学館の隆盛はまた先生の霊を慰める所以である。ロラン研究所や協会、学館の発展を祈ること切である。
宮本先生の「若さ」 原 田 武
(大阪外国語大学教授 フランス語・文学)
宮本先生について語るとすれば、何といってもロマン・ロランに注がれた、あのひたすらな情熱に触れないわけにはいかない。それは先生のほとんど全生涯にわたって流れつづけ、生活のあらゆる面にいきわたるほどの強さであった。人生のさまざまな問題を考えるにあたって、先生はまずロマン・ロランに問いかけ、ご自分のうちに深く蔵されたロラン的なるものに判断の基準を求められたように思われる。これほどまである作家・思想家を同化し、自己の血肉と化した研究者はちょっと他に例がないのではないだろうか。
さらに宮本先生の場合、活動の範囲がただ文学研究にとどまっていなかったのを、私はことのほか貴重だと思う。先生が関西日仏学館の創設と発展にどれほどの努力を傾けられたかは、ヱイ子夫人の委曲を尽くした労作に明らかである。私は九条山の時代は知らないけれど、東一条でフランス語を学び始めた一人であり、あの瀟洒なフランスふうの建物に足を向けるにつれ胸の高まりを抑えきれなかったものだ。戦前の暗い時代から今日にいたるまで、関西日仏学館はいわば自由と理性の灯台でありつづけてきた。ここで学ぶ者は多少とも先生の恩恵を蒙っているのだ、ともいえるであろう。
そのほか、先生が日本におけるロマン・ロラン研究の広汎な組織化に多大の貢献をされたこと、大阪市立大学に籍を置かれてからも大学行政のうえでも尽力を惜しまれなかったことは、私がここで事新しく述べるまでもない。先生にとって、人間は研究者であると同時に、一人前の社会人であることが肝要なのであった。特定の作家に傾倒しつつもそれを自分だけの関心にとどめておかないこと、必要とあれば社会のただなかでも十分に活動をなしうること、これは一つの立派な生き方だと思う。
しかし、先生がいくら現実に立脚した活動家であられたとしても、胸のうちには若々しい情熱、あえていえば夢見る青年のおもかげが晩年にいたるまで宿っていたことを、私はとくに強調しておきたいと思う。先生がつねに快活にして座談に長じ、世上の万般におよんで理想家として鋭い観察を下されていたのは忘れがたい。先生にはいくつもの詩作があり、詩を作るのをひそかな楽しみとされていたようだ。私は思い切って、詩人であるのが宮本先生の本質だと考えてみたい気がする。
今にして思えば、むしろ歳をとるにつれ、先生は若さの度を強められたようだ。自分が馬齢を重ねてみると、老いて若くあるのがなかなか困難だと気づく。他界されて早くも六年になる宮本先生を偲びながら、私は今、若さをむしろ到達点として、いわば人生を逆に生きる生き方を、自分も大いに学ばねばならないと思っている。
宮 本 先 生 松 下 明 治
(洋 画 家)
先生は生涯の仕事としてロマン・ロランの研究をされた。『魅せられた魂』の翻訳は先生の大きな仕事の一つである。その全訳を終られた後記に「訳筆を措いて」一九四〇年として一文を残しておられる。大体つぎのように書いておられる。
十年の長きに渡ってこの仕事を続けたが、十年といえば自分の一生にとってけっして短い時間ではなかった。自分は常に変ることない情熱をこの仕事にさゝげた。自分にとって荷の重過ぎる坂道であった時にも片時も手離そうとはしなかった。この翻訳は自分にとって常に一本の杖であり、頼りであり、慰めであった。朝はひとときでも早く、夜は少しでも多くこの仕事に時を心して過ごした。
この一文にも先生の研究者としての真摯な毎日を見ることが出来る。なお続いて先生は長きにわたったこの仕事の完成の喜びと安堵の中にも自分のこの仕事が原作を充分に読む人々に伝え得る内容に出来ただろうかどうかと反省を忘れない謙譲な良心に先生の人柄生き様を語られているように思うのである。
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先生と私の出会いは私の父の紹介である。古い話で私もあまりくわしい事は知らないが、日仏学館がまだ九条山に在った頃、私の父が友人で親しくして頂いていた方に松岡新一郎さんといわれる方がおられ、日仏の親善に大変尽力され功労のあった方だと聞いていた。その頃は先生は未だお若く、松岡さんのもとで一緒に仕事をしておられ、そんな関係で父は先生とも親しくさせて頂いていた。私が東京美術学校洋画科に入学、洋画家をめざしたことを知って松岡さんは大変喜んで下さって、息子さんのフランス行きは自分が引き受けると言って頂いてたそうだが、私が渡仏する頃には松岡さんは亡くなっておられ、結局私のフランス行きは先生に大変なお世話になってしまった。
昭和二十八年当時は海外に出るのが、まだ非常に困難な時分で、両方の国に身元引受人を必要としたり、フランスでの学校の入学証明、費用、何やかやと書類を必要とした。パスポートひとつ取るにしても大変な時代であった。何しろ京都からは未だ海外渡航は二人目というような戦後であった。
先生は事に当って首を少しかしげ慎重に考えてから行動されるという、いつものポーズで色々と御指導いたヾいた。それは単に渡航についてのことだけでなく、一介の画学生であった私に対しても、学業の友として共に語って頂いた。留学に対する態度、フランス文化の吸収、外国生活。
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先生の見送りを受け神戸からフランス船ラ・マルセイエーズ号に乗船した。私は主にパリーに住んだ。二年間の滞在だったが、先生から色々お話し頂いてたことは充実の日々を過すのに役立ったように思う。あちらで得たものは静かに自分の仕事の中に生かしてゆきたいと思っている。
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船がシンガポールに入港して先生のお便りを手にした時には、あらためて先生の温さを感じることが出来た。
宮本正清先生の思い出 宮 崎 市 定
(京都大学名誉教授 東洋史)
宮本正清さんは日仏学館で、私のフランス語の先生であるが、どうも先生というような気がしない。これは宮本さんがどこまでも遠慮深くて先生ぶらない、反って逆に私を先生など呼ばれるくらい謙虚な方であるせいであるが、また別に故廉子夫人が私の家内と学生時代、同窓同寮の誼みで親しく往来して居り、そのため裏側から先ず知りあっていたという関係もあった。廉子(実名廉)さんは宮津出身の大審院判事加古虎次氏の三女で、次兄の祐二郎さんは彼の京大の瀧川事件に殉じ、真先きに助教授を辞任された。同郷の名家同志で、廉子さんは前尾繁三郎氏と許嫁の仲であったが、前尾氏が胸を病み、長期療養に恵念したいからと、婚約解消を通告された。廉子さんは何事にもはっきり決めることが好きで、お名前の廉はどういう字かと聞かれた際、廉潔の廉と言っても通じない、低廉の廉と言っても通じない、たまたま新聞広告を見て思い当り、売残り品大廉売の廉だと言ったら、すぐ分って貰えたと、大笑いで話された。正清さんとの結婚には家内も相談に與った。お見合いのあとで、「貴女こそは私の理想の女性、若しことわれるようなことがあれば、毒を呑んで死んで了う」と言いよられたという秘話もある。お子さんが生れる前、女なら小枝子、男なら周作と、豫め定めておかれたのがそのままに実現出来た。周作は周作人にヒントを得たものである。この命名は正清さん独自の発想で、廉子夫人は一言も口を挿む余地がなかった。雅子さんの場合も同じ。
私が入門したのは昭和十年の後期で、翌年フランスへ東洋史学研究のために渡航することが定まり、泥縄式語学の必要に迫られて駆けこんだ次第。当時日仏学館は九条山にあって、蹴上から長い坂道を登ってやっと辿りつく。教室の片側はごつごつ岩のつき出た断崖に面し、窓から空が望めない。
教科書は当時の館長のマルシャン先生の著わした デュポン一家、Famille Dupontで、この本ほ実によく出来て居り、今でも手許において役立てている。薄暗くなって帰りかけると、庭で草花の手入れをなさっていたマルシャン先生が、オオロンバ・ムシュー
Au revoir Monsieur と声をかけて下さるから、此方もオオロンバ・ムシューと答えて坂を下りた。往復の道程が長すぎるので、あまり長く続けられなかった。
二年ほどの後に帰国し、暫くしてからお訪ねした時は、学館は工芸専門学校が移転した跡地、今の所に立派に完成していた。宮本さんは主事として、この学館の建設に骨身を削って尽力され、その苦労話を委細に話して下さった。日本政府から土地を借りた上なので、政府に誓約書を提出し、この学館を引払う際には、建物を全部取壊して、まっ平な土地にして返却します、という所まで書かされた。こんなことには、もう二度と関わりあうのは真平ごめんです、と笑って居られた。
戦争中は敵性国家ということで、更に一層の辛苦を重ねられた。特高警察がお宅へ踏みこんで来て書棚を検査し、赤い表紙の本を見つけて押収し、アカの嫌疑で拘置所にぶちこまれた。拘留六十日間にも及び、夫人はその間亀岡へ避難したが、京大教授の落合太郎先生が心配し、保証の一札を入れて貰い受けて帰った。これは戦争末期のことで、私などまでが召集にあい、何も知らなかった。その戦争が終ると今度は戦勝国の側で、遽かに明るい時代が訪れた。そういう際に宮本さんはよく不遇な文化人の世話を見られた。石川淳などもその一人で、私も学館で紹介されて話合ったことがある。
宮本さんが学館からも、協会からも引退されると、段々御無沙汰を重ねるようになった。ロマン・ロランでは私などには全然とりつく島もない。今度そのロマン・ロランの会からのお命つけで、拙文を草して、会友諸賢と共に宮本さんを偲ぶことになった。せめてこの文の標題にでも、先生と呼ばせて頂くことで、これまでの長い間積もり積った借金のいくらかでもお返しした気持になりたいと思う次第である。
情 熱 の 人 山 田 忍
(関西ピアノ専門学校校長
ピ ア ニ ス ト)
宮本正清先生と初めてお目にかかったのは、私がフランス留学から帰国して大阪日仏協会の会合に出席した時であった。
ロマン・ロランの研究で著名な、このフランス文学者を以前からお名前だけはよく存じ上げていたが、じかにお会いした印象は物静かで温厚で包容力があり、またプロフェッサーとしての威厳をも持ち合わせた方とお見受けした。
以後亡くなられるまで、私はフランス芸術文化についてわからないことがあるとおたずねし、広範囲にわたっていろいろ教えていただいた。大変お忙しい方であったから、それは大阪においでの機会に時間を割いていただいたり、私が銀閣寺のロマン・ロラン研究所をお訪ねしたり、長い間おつきあいをさせていただいている間に、先生のことが少しづつ理解出来るようになった。そして先生も私のことを可愛がって下さった。
私が最初のエッセイ集を出版する時に、「僕が序文を書いて上げましょう」と、おっしゃって下さり私はいたく感激した。
ただ一つの共通のテーマが私たちにはある。彼女のフランス音楽と、私のフランス文学への愛着である。私たちは、いつ会っても、どんな問題について語っても、本質的なことでは変わらない。私は、いつなんどきでも、なんの懸念もなしに出かけて、彼女の意見を聞き、率直に私の考えも述べることができ、その上で、もっとよいイデーや方法がないものかと考慮もできるように思う。芸術に対するひたむきな傾倒の仕方。どうしてそんなに好きなのか?「好きだから、好きにちがいない」それほど単純で、明瞭で、深いものはない。″
序文にこんなふうに書いて下さった先生と私は、フランス芸術を語り合い、それを模索し、追究することに、この上もない幸福を感じていたものである。
大阪市立大学を退かれた後も、先生は常に若々しかった。
大阪へ出て来られる時は、必ずアポイントメントの時刻より半時間ぐらいは早い目に淀屋橋に到着され、中之島公園や御堂筋を研究課題について考えながら散策するのだと言っておられた。
ボーッと過ごす時間はもったいないといった様子で、とにかく常に時間を上手に使う方であった。
「僕は、いつも三十代の青年のつもりです」と、よくおっしゃっていた。このことは、ロマン・ロランに傾倒し、その道にかけてはヴェテランでいらっしゃる先生らしいお言葉である。ロランも精神的には万年青年であり、情熱の人であったから。
関西日仏学館をこよなく愛し、日仏文化交流に尽力された先生が、いつも言っておられた言葉を、あのおだやかな表情と重なり合うようにして今も思い出す。
「山田さん、芸術の道に終わりはないんですね。何かに取りつくことはやさしいが、それをやり遂げることは、どんなに困難なことか!
そのためには、私はいつも前向きの姿勢でぶつかっていくことしかないと思うんですよ。」
宮本先生は、いつも大胆に、それでいて謙虚な姿を崩すことのなかったフランス文学の大家であった。
心の人、宮本正清先生を偲んで 山 口 善 造
(山口特殊電線且ミ長)
宮本正清先生にはじめてお目にかゝったのは、たしか昭和十二年の夏であったと記憶している。昭和十年より同十二年にかけて、欧米、特にフランスに服飾美術等の研究で滞在して、支那事変の為帰国したのがこの頃であった。懐しい彼の地の想い出をしのび、且又幾分でも身についた仏語に親しみ続けてみたいとの軽い気持で、仕事を終えてサッパリした気分で吉田の日仏学館の夏季講座に、一ケ月程大津より通ったのが、先生とのご縁のはじまりであった。それ以後は、自分の忙しい研究や仕事に追われて、学館で仏語に親しむ機会は皆無で、先生には何かのおりに拝眉の歓びには恵まれつゝも昭和二十年を迎える事になった。
戦争中には実に色々の事があり、九条山で、それも先生同様に親しくして頂いたオーシュコルヌさんご夫妻との奇しきご縁もあり、難しい時代の乗り切りに、お互に浮身をやつしたものである。そして昭和二十年の秋。この年は日本国民にとり永久に忘れ能わざる年であり、又私自身と宮本先生とにとっても今迄のご縁が、更に深まる想い出深い年とはなった。それはこんな出来事があったからである。
私がかねがね大変懇意にさして頂いていた南禅寺の稲畑勝太郎翁が、私に是非日仏協会の会員になるようにいわれ、ご自身で会館に案内され、直ちに宮本先生をお呼びになり、その日の特別の幹部の会合の席上、自分が皆々に山口君を紹介するから、手続きをとって欲しいと発言されると同時に、大阪の岩井さんや京都の山田九蔵さんのお顔などお一人づつ眺めまわし乍ら、いとも懇切に私の事を話されたのであるが、特に私にとって印象の深かったのは、自分の伝記が一部山口君に著名入りで贈ってあるが、この記事の内にリヨンのことが随分詳細に書かれているが、それでも尚々精しいことは多々書き足りぬ点があり、久しく遺憾に思っていたが、自分同様若い時に同地に滞在して、色々研究していた山口君が、この古い都市で精励していた当時の事どもをも理解し、又市街にも精通して居て、後生稲畑のリヨンに於ける在りし日を想起するに一助となる仁、これが日仏親善に貢献する処ともなり、フランスを愛する事自分におとらずと思うので、この協会に入って貰うことにしたと、切々と説かれたのをすぐ傍で聞いて居られた宮本先生は、いたく感動された。この時以来先生とは終生心の交りが続くことになった次第。或る時は隅然出会った大丸での立話だけであきたらず、地階のコーヒー店で二時間余も話しこんだり、又或る時はロータリーの例会後、たまたま話題が心の問題に及び、これまた時を忘れて語り合った想い出など、今回顧して懐しさの情禁じ能わず、さすが先生はロマン・ロランと一つの人なりしと確信しています。
数々の先生との交りの内でも、私にとって、いつも先づうかぶ面影は、温顔極り無き心の人としてのそれである。実に宮本正清先生は、ご生前心に触れるお話しの至ってお好きな、又感激されるご仁であった。
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