ロマン・ロランと中国文学 II 相 浦   杲


 『みすず』(1977年6月号)に「ロマン・ロランと中国文学」をかいてから早いものでもう4年の歳月が流れた。その間にまた別な資料も集まったし,また,前にかいたことではっきりしなかった点が明らかになったところもある。そういうものとしては,「補遺」を『ユニテ』6号(1977年10月)に,翻訳として「ロマン・ロランと魯迅『阿Q正伝』」〔原文は,戈宝権「談『阿Q正伝』的法文訳本」(『南開大学学報77年6期所載)〕を『ユニテ』8号(1978年10月)にそれぞれ載せていただいた。
 今回も4年前の「ロマン・ロランと中国文学」の場合と同じように,その後に蒐集した素材を年代順に排列したものを,「ロマン・ロランに関する資料(中国)年譜(U)」として章末に付しておきたい。前回の年譜と合わせればよいのだが,今,その暇がないし,それに今後さらにふえるものもありうるから,一応,今はこのままにしておいて,いつの日にか統一的な資料年譜を編成することにしたい。
 今回蒐集した資料の項目に番号をつけてみると,45番まであり,「年譜(T)」の48項目に迫るほどに集った。もちろん,より瑣末な資料(作品の中にロマン・ロランの言葉を引用しているもの,たとえば,『人民文学』81年2号所載の黄宗英「八面来風」p.8 )は見出しうるが,そこまでは載せない。逆に大きな資料で落ちているものがあるかもしれないことを恐れる。たとえば,『ジャン=クリストフ』の傅雷【フウレイ】による完訳本は1936年に第1巻が出て,2・3・4巻が日中戦争中,太平洋戦争前に出たことは一応わかっているが,具体的にその本を入手していないので,出版年・月が詳細にわからない。それでここにはそのことを記しておくが,「資料年譜」には今は一応欠いておき,後でわかってから補充することにしたい。この本は新中国が成立してから1953年には再版(実際は,改訳されているのだが)され,さらに57年には人民文学出版社がそのままの版で発行している(羅大岡著『論羅曼・羅蘭』p.179 による)。まったく不合理なことに『ジャン=クリストフ』が文革中は禁書になっていたが,文革後になって1980年9月にはさらに印行された。この文革後発行の本は入手したので,「資料年譜」(41) にかき込んでおいた。大体,そんな風に「年譜」を作成してある。

 さて,今回の「ロマン・ロランと中国文学 U」では,やはり「年譜 (U)」に沿いながら,若干の問題について説明を記しておくこととしたい。
「年譜(U)」の最初は,(1)雁冰「ロマン・ロランの宗教観」であるが,雁冰【イエヌピン】とは,沈雁泳【シェヌイエヌピン】,つまり,最近,亡くなった茅盾【マオトス】(1896年7月−1981年3月)のペンネームであり,中国現代文学史の上でほとんど魯迅についで偉大だと考えられているリアリズム作家であるが,彼もやはりすでに早くロマン・ロランに注目していたことがわかる貴重な資料である。
 今までの資料でいちばん早く直接にフランスでロマン・ロランに接触し,『ジャン=クリストフ』の最初の部分を翻訳し,ロランと魯迅を結びつける役割を果たした敬隱漁という人物の経歴やその意外な人生については,資料(32) 戈宝権『「阿Q正伝」のフランス語訳本について──魯迅作品外国語訳本書話の三』(『ユニテ』3期8号に訳載)が詳細・具体的にこの人物を調査しており,敬隱漁を仲立ちとするロマン・ロランと魯迅との関係について,フランス国立図書館にまで調査と協力を依頼し,かなり真相に迫っている。この戈宝権の調査によれば,「ロマン・ロランは直接に魯迅に宛てて手紙を書いたことはなく,ただ彼の敬隱漁への返信の中で自分の『阿Q正伝』に対する批評の言葉を語ったのであるらしい」とする。
 これが事実だとすると,魯迅研究の中でこの問題について重大な訂正をしなければならなくなるだろう。つまり,すでに紹介したように〔「ロマン・ロランと中国文学」19頁〕,1933年12月19日付けの魯迅の姚克という人に宛てた手紙にある,「しかし,ロマン・ロランの批評の言葉は,永遠に見つからないだろう,と思います。訳者の敬隱漁の話では,それは一通の手紙で,彼はそれを創造社に送りました。彼はながくフランスにいたので,このグループが私を嫌っていることを知らなかったのです。で,彼らに発表するようたのんだのですが,その時からさっぱり行方がわかりません。このことはもうだいぶ以前のことなので調べようもありません。私はもうさがすことはないと心にきめています」という言葉にかかわってくるからであり,もしかしたら,敬隱漁は魯迅に事実とちがうことを伝えたのかもしれない。それに,そうだとすれば,創造社はとんだ濡れ衣を着せられたことになるし,敬隱漁の言葉は,魯迅先生と創造杜との間に猜疑の種をまいたことになる。それとも,もっと他に何かの事情があったのだろうか。戈宅氏はさらに,ロマン・ロランの「阿Q正伝」に対する批評の言葉は公開されたことがなかったこと,ロマン・ロランの『阿Q正伝』に対する批評の言葉は,敬隱漁へのロランの返書の中にかかれたものであった,ことなどを明らかにしている。その全文は訳載したから詳細はここにくりかえさないが,戈宝権氏の論文が,ロマン・ロラン,魯迅,『阿Q正伝』をめぐる問題について事実関係を相当なところにまで追いつめた点は注目に値する。

 今回の「年譜(U)」でさらに新しく明らかになったもう一つの点は1936年の(13)〜(16)の資料であり,それらはロマン・ロランの七十歳生誕を記念して中国でもロランへの大きな関心が示された時であることを示している。それは考えてみると,日中戦争の始まる前年であり,日本の中国に対する侵略戦争開始前夜の危機的な暗い時代にロランへの深い尊敬と支持が中国の知識人の間に澎湃と広がっていたことを示しているのである。
 たとえば,(13)黄源の「ロマン・ロランの七十歳生誕」という文章では,黄源はロランの『ベートーベンの生涯』の「序」(1903年1月) の中の次の言葉,「空気はわれらの周りに重い。旧い西欧は,毒された重苦しい雰囲気の中で麻痺する。偉大さのない物質主義が人々の考えにのしかかり,諸政府と諸個人との行為を束縛する。世界が,その分別臭くてさもしい利己主義に浸って窒息して死にかかっている。世界の息がつまる──もう一度窓を開けよう。広い大気を流れ込ませよう。英雄たちの息吹きを吸おうではないか。」
 「人格が偉大でないところに偉人はない。偉大な芸術家も偉大な行為者もない。あるのはたださもしい愚衆のための空虚な偶像だけである。時がそれらを一括して滅してしまう。成功はわれわれにとって重大なことではない。真に偉大であることが重要なことであって,偉大らしく見えることは問題ではない。」(以上および以下の引用文はすべて,みすず書房,『ロマン・ロラン全集』14巻,片山敏彦訳「べートーヴェンの生涯」p8,p9によった)を引用して,『これはロマン・ロランが当時の重苦しい世紀末の風潮に反抗した戦いの書である。「世界の息がつまる一もう一度窓を開けよう。広い大気を流れ込ませよう」と。ロマン・ロランの生涯,その七十年間はこのような精神にもとづいて誠心誠意この窒息した世界のために窓を開き,自由の空気を流れ込ませようとしたのだ。それはとりもなおさず,次のことのためである。世界大戦が勃発し,全ヨーロッパが赤く血に染まり,砲声がとどろいていたとき,彼はひとり『戦いを超えて』スイスに逃れ,ただの一人で万人を敵とする精神をもって,大声疾呼して戦争に反対した。また,世界の一角にひとつの新しい世界が現れ,旧世界全体がよりいっそう暗黒につつまれたとき,彼はさらに勇気を振って先頭に立ち,『過去への訣別』を行い,新しい陣営に参加して,自己の精神の祖国のために防衛の戦士となった。………』
 と述べている。戦争反対と,新しい世界への勇気ある前進が,彼の作品を通じ,彼の人格を通じて,この地球上の人と人とを,心と心を結びつけ,遠くアジアにいる中国の知識人たちに感銘と鼓舞を與え,精神の糧【かて】を與えつづけていたのである。そして1937年に始まる日中戦争中の暗い時代にも,若い読者は,『ジャン=クリストフ』の一揃えを所蔵していると宝物のようにみなし,先を争って回し読みをしたといわれている。
 こうして資料(13)から(16)まで,戦争前夜の中国の雑誌や新聞にロマン・ロランへの敬仰の記事が載せられたのである。

 次に述べておきたいのは,ロマン・ロランの代表的な名作『ジャン=クリストフ』の訳本についてである。「ロマン・ロランと中国文学」ではある程度ふれておいたし,著名な訳者である傅雷のこともかいておいたが,その後,中国の新刊書紹介・評論を目的とする『読書』という雑誌に成柏泉という人が「中国における『ジャン=クリストフ』」(39)をかいて,この間題をかなり明らかにしてくれているので,それもここに紹介しておきたい。
 「ロマン・ロランと中国文学」ですでに述べたように,1926年に敬隱漁という人が『小説月報』に『ジャン=クリストフ』を翻訳・掲載したのが中国での初訳であったが,これは雑誌に3回連載されただけで,未完に終った。
 1935年に鄭振鐸(1898−1958)主編の『世界文庫』の企画があり,世界文学の名著の翻訳を目ざしたが,その中に『ジャン=クリストフ』が含まれ,創造杜系の著名作家である鄭伯奇(1895−1979)が翻訳することになっていた。しかし,この企画は宣伝倒れになってしまい,やはり実現することがなかった。
 1936年になって,中国の大出版社である商務印書館がなんの宣伝も前ぶれもなしに,傅雷が翻訳した『ジャン=クリストフ』第一巻を出版し,商務印書館の『世界文学名著』叢刊の中の一冊に組入れられた。この訳本が出て『ジャン=クリストフ』は一挙に読書界からの歓迎を受けることとなった。小さな例だがそれまで,ジャン=クリストフのジャンは,中国ではさまざまな音訳がおこなわれ,「若望」「哲安」などとかかれていた。また,たとえば,最近亡くなったサルトルの名前も同じJeanであるが,これにはふつう発音が近い「譲」という文字を表記として当てている。しかし,ジャン・クリストフのJeanを傅雷が「約翰」と訳してからは,ロマン=ロランのこの小説に限って「約翰」が用いられることになった。それほど傅雷の『ジャン=クリストフ』(『約翰・克利斯朶夫』)は中国の読者の間に定着し根付いてしまっていて,文革後に出版されたものもずっと傅雷の訳が用いられているのである。
 さて,成氏の文によって,さらに紹介をつづけると,『ジャン=クリストフ』の第二,第三,第四巻は日中戦争中から太平洋戦争前にかけて(1937〜1941)の時期に次々と出版された。当時,中国国内は戦争の影響で交通状況はきわめて困難であったが,相当量のこの書物が内陸部へ運ばれ,桂林や重慶などの大都市に流布した。当時,青年読者の間では,『ジャン=クリストフ』を一揃え所蔵しているものは,みな宝物のように見なし,先を争って廻し読みをした。こうして日中戦争前夜から戦争中にかけて傅雷訳『ジャン=クリストフ』は中国の読者の間では“一世を風靡”することとなったのである。第2次世界大戦が終って,1946年には上海の駱駝書店(生活書店の子会社)がもとの商務印書館版によって再版本を出した。
 傅雷はさらに,新中国成立(1949)後,この大部の書を新たに改訳し,1953年に上海の平明出版社(この書店は社会主義改造の政策に従って,1955年に公私合営企業となり,新文芸出版社に併合された)から新訳本を出した。1957年1月に人民文学出版社から出版されたものはまったくこれの再版本なのであり,さらに文革後に出された『ジャン=クリストフ』もやはり傅雷の1953年改訳本なのである。
 はじめに述べたように,以上は,成柏泉氏の「中国における『ジャン=クリストフ』」によって,別な論旨をとり除いて,『ジャン=クリストフ』の訳本の流れのみをとり出して紹介したのだが,これによって中国における『ジャン=クリストフ』訳本の流れの筋道をかなりよく理解できるものと思う。つまり,第2次大戦前の傅雷の旧訳本と,1953年の新訳本の2種類があったことがわかる。
 成氏も述べるように,『ジャン=クリストフ』にもし傅雷の勤勉な労働がなければ,中国の読者は早く四十年も前にその完訳本をもつことはできなかったのである。
 ちなみに,傅雷(1908−1966)は中国でもことに著名な翻訳家であり,バルザック,ロマン・ロラン,ヴォルテール,メリメ,モーロアなどの作品を翻訳した人である。彼は全部で三十一部の外国文芸作品を翻訳したが,バルザックの翻訳がもっとも多く,そのうち十四部を占めている。ロマン・ロランの作品については『トルストイの生涯』『ミケランジェロの生涯』『ベートーヴェンの生涯』とそして大作『ジャン=クリストフ』の翻訳をした。
 彼は上海市南匯県漁潭郷で生まれた。1927年にフランスに留学し,31年に帰国している。40年ごろから外国文学,ことにフランス文学作品の翻訳の仕事をはじめた。その翻訳態度は謹厳で,原作の精神を重んじ,原作を4,5回精読してからでなければ,翻訳の筆をとらなかったと言われる。傅雷の翻訳に対する考えは,「理想の翻訳とは原作者の中国語による創作なのだ」というのであり,いわば,翻訳を再創作なのだ,と考えていたのである。残念なことに,文革中に迫害され,66年9月3日,恨みをのんで亡くなった。しかし最近では傅雷の遺訳がつぎつぎに出版され,『ジャン=クリストフ』もその苦心になる改訳本が現在中国での完訳定本となって流布しているのである。しかし中国で『ジャン=クリストフ』の翻訳者にこのような苦難の運命が待ちうけていたことに,私は悲しみとも憤りとも言いようのない感慨を覚えるのである。
 年譜資料に沿って,もうひとつ書いておかなければならないことがある。それは資料(36)の羅大岡『ロマン・ロラン論』をめぐる問題である。
 このことについては実は,『ロマン・ロラン全集』(みすず書房,1981・7・10 発行)の『全集月報20』に,「帰ってきたジャン=クリストフ──羅大岡著『ロマン・ロラン論』をめぐって──」として書いておいた。しかし今,「年譜(U)」に沿ってあらためてその主な経過をかきとめておきたい。

 まず,新中国成立以後の情況を簡単にふりかえっておこう。
 1954年の夏に『文芸学習』の読書リストに『ジャン=クリストフ』が挙げられ,1955年の『訳文』にゴーリキー「ロマン・ロランについて」が訳載されるなど,ロマン・ロランは新しい秩序を形成しつつあった中国文化界でも尊重される位置におかれるようになった。魯迅逝世二十周年記念大会で茅盾が講演をして,魯迅とロマン・ロランが偉大さの性質において似かよっている,ことを指摘した。この評価は中国ではそのままその後もひきつがれていったように見える。こうして,57年1月には傅雷新訳の『ジャン=クリストフ』が出版された。「年譜(U)」によって見ても,57年,58年にはほかに『ロマン・ロラン文妙』(27)と『ロマン・ロラン文鈔続編』(29)の2冊が出版されている。この資料は香港大学中文系講師の黎活仁氏に教示され,目次,序文等のコピーを送っていただいたが,書物は入手していない。訳者の孫梁は,「ロマン・ロランについて──序に代えて」の中で次のように述べている。
 「ロマン・ロランは徹底的に研究するにあたいする。なぜならロランは近代西欧インテリゲンチャの典型的代表のひとりであり,その歩んだ道は,大多数の過渡期の,正義感に富んだインテリの曲折の歴程であるからだ」
 『ロマン・ロラン文鈔』の訳業は,この序によると,1953年夏に開始され,54年に完稿しているが,これはロラン逝世10周年を記念するものであった。『文鈔』には「序詩」として「平和の祭壇」(『先駆者たち』より)が訳され,正編には,
 論文:『戦いを超えて』『先駆者たち』
 日記:『戦時日記選』
 自伝:『内面の旅路』
が訳載されており,附録として,ソビエトのトルスチンコ,ニコラーエワの論文が添えられている。全250頁。
 『文鈔続編』には,
 書簡:『マルヴィーダとの往復書簡』
 音楽評論:『一般史における音楽の地位について』『モーツアルト──その書簡によって』が訳載されている。全250頁。
 これらの情況からみれば,ロマン・ロランの評価は社会主義中国の文学の中に正当に位置づけられていたことがわかる。
 しかし,中国国内の政治・思想情勢を見ると,56,57年には,私がミニ文革と呼んでいる反右派闘争が進められ,厳しい情況が始まっていた。そういう中で,ロマン・ロランのみならず,一般に,外国文学をどう評価し,位置づけるか,という問題が起こってきた。「年譜(U)」(44)〜(47)などにみられる,馮至,羅大岡などの人たちによる論文はこのような情勢にこたえて書かれたものだったと思われる。そうして,今知られる資料によれば,1958年から激しい批判運動が組織されるようになったらしい。
 「思い出してみると,『ジャン=クリストフ』に対する討論は1958年から始まった。当時,個人主義とヒューマニズムに対する批判が政治運動と呼応して,いくつかの高まりを見せていた。クリストフはとっくに個人奮闘と資産階級ヒューマニズムの典型とみなされ,知識人の「反党反社会主義」の思想の根源の一つと見なされてしまっていた。」(資料(43) 柳前「『ジャン=クリストフ』を再読しての随想」による),
 というのであるから,58年ごろから『ジャン=クリストフ』を公然と読むことはできなくなっていたであろう。
 この文化ファシズムの情況は,途中での曲折があったにしても,文革が終り四人組が打倒される(1976)まで続いている。従って「年譜(U)」にもこの間にはロマン・ロランに関する資料は空白である。
 羅大岡『ロマン・ロラン論』(36)は1979年2月に出版された。それは四人組が打倒されてから1年4ケ月たってからである。
 この書物は,中国の研究者がフランス語の第一資料を大量に駆使して全面的・組織的に書いた外国作家研究書としては中国にも数少ない貴重なものであった。中国におけるロマン・ロラン研究の集大成とも言うべき著作であった。著者の羅大岡(1909− )はヨーロッパに14年間も留学し,フランス語による著作もあり,1947年帰国後は北京大学などの教授を歴任した,中国でも第一級のインテリである。この羅大岡の『ロマン・ロラン論』は,全462頁,巻上「作家と時代」(24章),巻中「生活と鏡」(7章),巻下「内面の旅路」(16章)の三部分からなり,資料として「ロマン・ロランと中国」「ロマン・ロランについての参考書」を添えている。日本語に訳せば,頁数はもとの2倍にもなろう。
 読んでみると,著者が20年もかけて集大成しただけに,ロマン・ロランの生涯や時代背景,作品について詳細な叙述を加えている。しかし,この書物の副題は「資産階級人道主義の破産」とかかれており,さらにこの本の最初におかれている「序に代えて」という文の題名は,「ロマン・ロランへの訣別」とはっきり書かれていて,徹底的なロマン・ロラン批判の立場を貫いている。羅大岡の論点は要約すると,
 ロマン・ロランは第1次世界大戦後の世相の中で,しだいに現実に目を開き,進歩的な立場に移ったけれども,その思想や意識は尖鋭・複雑な矛盾に満ち,資産階級知識人として,進歩を求めるジグザグのけわしい道を模索し,奮闘した。そこには学ぶべき教訓はあるが,その最も重要な思想内容は,「資産階級人道主義」であり,その「自由」「人道」「個人的奮闘を分析し,批判しなければならない,と考える。そして,1931年にロマン・ロランの書いた「過去への訣別」と同じ精神で,彼に別れを告げ,彼の思想や観点に別れを告げ,彼の精神に従って前進しよう,と主張するのである。そのために羅大岡『ロマン・ロラン論』は,この「序に代えて」の観点によって批判的立場が貫かれることとなり,ロマン・ロラン像を一面的にゆがめてしまうこととなったのである。
 この書物が書かれたのは,前述のような時代背景の中でであり,出版時期が1979年2月という,中国がまだ文革期の影響から十分に脱しきれていない時であった。もっとも蒋俊「評価を誤った作家論の専著『ロマン・ロラン論』」(45)では,四人組打倒後,2年も経っているのに,著者が相変らずこんな観点をロマン・ロラン批判の根拠にしているのは驚きだ,とまで述べている。しかし恐らく羅氏の原稿は79年2月よりもっと早い時期にまとめられていたであろう。
 今,羅大岡がロマン・ロラン批判の最も重要な観点だとしている「資産階級人道主義」という問題にだけしぼって,羅大岡の次の三つの資料に見られる主張を比較してみたい。
 T.『ロマン・ロラン論』の「序に代えて」(36)(1979年2月)
 U.「ロマン・ロランと資産階級人道主義」(37)(1979年9月)
 V.『ジャン=クリストフ』(79年版)に対する羅大岡の「序」(40)(1980年9月)

 この3資料を比較してみると,
T.「ロマン・ロランの重い思想の風呂敷を開けてみれば,人たちは,もっとも重要な問題が資産階級人道主義であることを,すぐに見出すことができるだろう。ロマン・ロランの誤った観点に対する批判・分析によって,われわれはさらに一歩を進めて,資産階級人道主義の今日における消極的意義と危険性とを認識する助けとすることができるだろう(同書「序に代えて」3頁)
U.ロマン・ロランはかけねなしの資産階級人道主義者だとし,その資産階級人道主義を二つに分析して,積極面と消極面とに分ける。そして「ロマン・ロランの進歩的傾向が一貫して挫折に屈することなくつづけられた」点は評価するが,しかし,なぜ資産階級人道主義という思想の重荷を早く棄てて身軽に前進しなかったのか,という点を批判する。(『外国文学研究集刊』第1輯,57頁)
V.「全体として言えば,この小説(『ジャン=クリトリフ』を指す)の主導思想には二つの面がある。人道主義と個人英雄主義である。クリストフ型の個人主義の出発点は,個人の奮闘を通して人類社会にすこしでも有益なことをやり,人類の相互の友愛と団結に貢献しようという点にある。そこで,このような個人主義を「積極的個人主義」と呼ぶ人もある。実際,このような個人主義の基礎もまた人道主義であり,それは人道を達成するための一つの手段であり,人道主義の一種の表現形式なのであって,人道主義の系列に入れうるものなのである。従って,われわれは『ジャン=クリストフ』の最も根本的な,全体的な主導思想は人道主義なのだと考えてさしつかえない」(「訳本序」9頁)
 文章の中の一部分を直接に翻訳したり,説明として簡単にまとめたりしたために,十分な比較になりにくいと思うけれども,
 Tは,ロマン・ロラン評価について,マイナスの面に重点をおいており,Uは,プラスとマイナスの両面があると主張し,Vでは,「資産階級」というマイナスの規定をとり除いて,真の意味の積極的な人道主義だとして,プラス評価に移っている。

 われわれ日本人にとってみれば,ひとりの研究者の所説が時流に従って短期間にこれほど目まぐるしく変化することに奇異な感じをもたされるだろう。ここに見られる苦渋にみちた論点移動は,明らかに,「文革」→「脱文革」,という過程に照合している。中国では,政治と文学(研究)の距離が近かった,というよりも,時には両者が融合してしまっていた時期があった。文革期はまさにそのような時期であった。そういうわけで,個人は政治の社会構造の枠組の中にとりこまれたまま変化した,というよりも変化させられたのである。そのことを主体性喪失の悲劇的な情況だときめつけることはもとより容易だが,単に個人の主体性喪失を責めるだけではおさまらない,大きな力が狂暴に働いた現実も凝視しておかねばならないだろう。しかし,今はそのことを論ずるのが主目的ではないから,さらに話の本筋にもどりたい。
 さて,1980年になると,成柏泉「中国における『ジャン=クリストフ』」(39)があり,文革期に禁書とされていた『ジャン=クリストフ』が再び出版されたことを喜び,その翻訳の歴史的経過を述べ,また羅大岡『ロマン・ロラン論』に対する批判を行っている。そして,たとえば,
 「『鋼鉄はいかに鍛えられたか』(オストロフスキー著.主人公パーウェルコルチャーギンが不屈の闘志で自分を共産主義的に鍛えていった物語)を愛読する大衆は,必ずしも『ジャン=クリストフ』を愛読するとは限らない,その逆もまたしかりである」(巻中,四章,177頁) と羅大岡が述べるのに対して,
 成柏泉は,「『鋼鉄はいかに鍛えられたか』を愛読する大衆は,必ず『ジャン=クリストフ』を愛読する,その逆もまたしかりである」(『読書』47頁)
 に改めるべきだと主張する。成柏泉の提案の方が羅大岡のもとの意見よりもずっと妥当な意見だと私は思う。
 羅大岡がその論点を移動させてきていることはすでに見た通りであり,ジャン=クリストフは1980年9月に再び訳者の傅雷とともに中国の読者の前に帰ってきたのである。羅大岡もまたロマン・ロランと訣別することなく,ジャン=クリストフに伴われて帰ってきたのである。そうして,1980年10月には,羅大岡は『魅せられたる魂』上巻の訳(41)を人民文学出版社から出版した。従来,中国ではまだ『魅せられたる魂』の翻訳は完成されていなかった。したがって,これは中国での初訳なのである。もっとも羅大岡『ロマン・ロラン論』附録の「ロマン・ロランについての参考書」(455頁)によると,
 『魅せられたる魂』(中国訳題名は『母與子』)には,『搏闘』(『格闘』という意味)という題名のダイジェスト訳本があり,英訳本から重訳されたものであった。頁数はほぼ原著の5分の1,陳実,秋雲の共訳,広州,人間書屋,1951年初版。
 という本がある。しかし,完訳としては,羅大岡の訳本が中国で最初のものである。『欣慰的霊魂』という訳題名が使われることもあるが,『魅せられたる魂』に中国語題名として『母與子』としたのは羅大岡の持説によるものらしい。
 1980年12月の柳前という人の「『ジャン=クリストフ』を再読しての随想」(42)は,読者として再びジャン=クリストフにめぐり会えた喜びを,文革中の苦い経験とともに語っており,遠慮深い羅大岡への批判となっている。それに対して,1981年の『文芸報』(11期)に掲載された蒋俊という人の「評価を誤った作家論の専著『ロマン・ロラン論』は,真向からの羅大岡『ロマン・ロラン論』批判である。
 蒋俊はこの論文で次のように総括している。
 「『ロマン・ロラン論』の著者の,ロマン・ロランの資産階級人道主義に対する批判は,絶対化され,無限に誇大化されていて,ロランの主要な,輝やかしい面を掩いかくしてしまい,主客を?倒し,評価を誤り,世界的名声をもつ文学の巨匠を,人道主義を宣揚する資産階級個人主義者だときめつけている。このことはこのような歴史的人物を評価するにはきわめて不公平なやり方だ」と歯に衣を着せずにきめつけている。
 さらに蒋俊は,羅大岡が『ジャン=クリストフ』「序文」で,まだ自己批判はしていないが,ロマン・ロランに対する見方をある程度改めた点を指摘して,「われわれは著者が思想を解放し,よりいっそう事実を正視して外国文学を研究し,この領域でより大きな貢献をするよう希望する」と述べている。
 中国における悲劇的な季節の終結とともに,ロマン・ロランも暗い世界を通り抜け,文革後の中国で再び公正に位置づけられ,あるべき尊敬を受けるようになった。ロマン・ロランと中国文学の関係の中で,それは息づまる暗い季節であった。この時期を越えて,ロマン・ロランはもとどおり中国に力強く輝やかしくたしかに存在することとなった。それはまったくロマン・ロランの偉大さのせいであった。
                             1981年7月25日
付:
 羅大岡『ロマン・ロラン論』附録の「ロマン・ロランについての参考書」の中に挙げられた中国語訳本のリストをここに訳載しておきたい。中国国内での訳本を知るのに便利な資料だからである。なお,羅氏も述べているように,なお完全ではない。
 1.≪約翰・克利斯朶夫≫『ジャン=クリストフ』,1948年,駱駝書店出版。1953年,平明出版社再版。その後,人民文学出版社が平明出版社の訳本を翻刻した,全4冊,傅雷訳。(注:これは羅氏の誤りであり,53年の平明出版社版は傅雷の新訳本であること,成柏泉の論文(39)に指摘されている。)
 2.≪母與子≫『魅せられたる魂』,には≪搏闘≫という題名のダイジェスト訳本があり,英訳本から重訳されたもので,ページ数は原著のほぼ5分の1,陳実・秋雲の共訳,広州,人間書屋,1951年初版。
 3.≪現代音楽家評伝≫『今日の音楽家たち』(?),白樺訳,上海,群益出版社,1950年版。
 4.≪愛與死的搏闘≫『愛と死との戯れ』,李健吾訳,上海,文化生活,1950年出版。
 5.≪狼群≫『狼』,沈起予訳,三聯書店,1950年出版。
 6.≪韓徳爾伝≫『ヘンデル』,厳文蔚訳,新音楽出版社,1954年版。1963年北京第二次印刷,中国語訳名は≪亨徳爾伝≫。
 7.≪七月十四日≫『七月十四日』,斉放訳,作家出版社,1954年出版。
 8.≪羅曼・羅蘭革命劇選≫『フランス革命劇選』,斉放訳,人民文学出版社,1958年出版。
 9.≪哥拉・布勒尼翁≫『コラ・ブルニヨン』,許淵冲訳,人民文学出版社,1958年出版。
 10.≪羅曼・羅蘭文鈔≫『ロマン・ロラン文抄』,孫梁訳,上海,新文芸出版社,1957年出版。
 11.≪羅曼・羅蘭文鈔続編≫『ロマン・ロラン文抄続編』,孫梁訳,上海,新文芸出版社,1958年出版。
 12.≪愛与死≫『愛と死との戯れ』,夢茵訳,上海泰東書局,1928年出版。
 13.≪七月十四日≫『七月十四日』,賀之才訳,商務印書館,1934年出版。
 14.≪聖路易≫『聖王ルイ』,賀之才訳,世界書局,1944年出版。
 15.≪理智的勝利≫『理性の勝利』,賀之才訳,世界書局,1947年出版。
 16.≪李柳麗≫『リリュリ』,賀之才訳,世界書局,1947年出版。
 17.≪哀爾帝≫『アエルト』,賀之才訳,世界書局,1947年版。
 18.≪丹東≫『ダントン』賀之才訳,世界書局,1947年版。
 19.≪群狼≫『狼』,賀之才訳,世界書局,1947年版。
 20.≪愛与死之賭≫『愛と死との戯れ』,賀之才訳,世界書局,1944年出版。
 21.≪托爾斯泰伝≫『トルストイの生涯』,傅雷訳,商務印書館,1947年出版。1950年第6版。
 22.≪貝多芬伝≫『ベートーヴェンの生涯』,傅雷訳,商務印書館,1947年出版。
 23.≪弥蓋朗h羅伝≫『ミケランジェロの生涯』,傅雷訳,商務印書館,1947年出版。1950年第3版。
 24.≪甘地奮闘史≫『マハトマ・ガンジー』,謝済沢訳,上海,卿雲図書公司,1930年出版。
 25.≪甘地奮闘史≫『マハトマ・ガンジー』,米星如,謝頌羔編訳,上海,国光書店,1947年出版。
 26.≪甘地≫『マハトマ・ガンジー』,陳作梁訳,商務印書館。
 27.≪弥菜伝≫『ミレー』,五四時期からしばらくして,北京に『駱駝草』という題名の不定期刊行物があり,『ミレー』のいくつかの部分の中国語訳を登載したが,完全ではなく,単行本にもならなかった。
 28.新中国成立以来,『世界文学』等の刊行物に,少しばかりロマン・ロランの著作の訳が発表されたことがある。たとえば,1961年4期には,『過去への訣別』が載せられた。これらについては,それぞれの調査をまだしていない。


         ロマン・ロランに関する資料(中国)年譜(U)
                                    (相浦)
                                   1980・8・20

1.1921.5.15
雁冰<羅曼羅蘭的宗教観>(≪少年中国≫第2巻11期)〔≪中国新文学大系≫(10)史料索引,≪五四時期書刊紹≫第1集,≪茅盾評論集≫第5集,孫仲田≪茅盾著譯年表≫(吉林師大学報1978・1)などによる〕
2.1924.7.17
ロマン・ロランの敬隠漁への返書(≪小説月報≫16巻1期 1925・1・10所載)〔<羅曼羅蘭給敬隠漁書>手蹟,敬隠漁譯文〕
3.1926.1.24
敬隠漁(在リヨン)の魯迅への第一信(<阿Q正伝>の翻訳の件およびロマン・ロランのことについてふれている。魯迅はこの手紙を1927年2月20日に受取った)
4.1926.3.2
全飛・栢生<羅曼羅蘭評魯迅>(≪京報副刊≫1926・3・2)〔≪洪水≫2巻5期,敬隠漁<読了「羅曼羅蘭評魯迅」以後>の編者後記による〕
5.1926.5.?
敬隠漁<読了「羅曼羅蘭評魯迅」以後>〔≪洪水≫2巻5期〕
6.1926.5.15
敬隠漁訳<阿Q正伝>前半(第1章〜5章)〔ロマン・ロラン主編≪Europe≫41期に掲載,“La Vie de Ah Qui”,ただし,原作の序文を省いているので,原作の第2章〜6章の訳,魯迅の名を誤ってLou−Tunにつづる。訳の前に魯迅および<阿Q正伝を紹介した短い前文を付す〕
7.1926.6.15
敬隠漁訳<阿Q正伝>(“Europe”42期)〔<阿Q正伝>訳の資料は戈宝権「談≪阿Q正伝≫的法文譯本──魯迅作品外文譯本書話之三」(≪南開大学学報≫1977年6期)による〕
8.1926.7.1
魯迅≪Europe≫(たぶん5月号)を受取る
9.1927.10.
R.M.Barlette<中国革命の思想界の指導者たち>(“Current History”)〔この中でロマン・ロランの<阿Q正伝>評を紹介している。前記戈宝権論文による〕
10.1933.11.5
魯迅のY・K(姚克)への手紙〔「法文本是敬隠漁譯(四川人,不知如何?法)」,≪魯迅書信集≫および戈論文による〕
11.1933.12.19
魯迅の姚克への手紙〔「但是,羅蘭的評語,我想將永遠找不到。据譯者敬隠漁説,那是──封信,他便寄給創造社──他久在法国,不知道這社是很討厭我的──請他們發表,而從此就永無下落。這事已経太久,旡可査考,我以為索性不必捜尋了」≪魯迅書信集≫による〕(年譜T(27)に12・11とするは誤りにつき訂正)
12.1935.1.
エドガー・スノウ「魯迅──口語文の大家」〔≪魯迅──白話文的大師≫,≪アジア≫所載,前記の戈論文による〕
13.1936.4.15
黄源<羅曼羅蘭七十誕辰>〔≪作家≫第1巻1号(1936年4月15日出版)〕
14.1936.
≪譯文≫羅曼羅蘭七十誕辰紀念
 <法蘭西與羅曼羅蘭的新遇合>(布洛克作)黎烈文譯
 <・恩克里士多夫論>(亜蘭作)陳占元譯
 <貝多芬筆談>(羅蘭作)世彌
 <向高爾基致敬>(羅蘭作)陳占元譯
 <論個人主義與人道主義>(羅蘭作)陳占元譯
〔第一巻第二期の≪詩文≫所載.──これは上記≪作家≫第1巻第1期(上海雑誌無限公司19 36・4・15)の広告にもとづいてとりあげた〕
15.1936.6.1
ロマン・ロラン<70年の回顧>の中国語訳〔荻譯<羅曼羅蘭七十年的回顧>(≪西北風≫半月刊,第3期,1936年6月1日出版,漢口華中図書公司発行)〕
16.1936.6.17
梁宗岱<憶羅曼羅蘭>(≪大公報≫1936年6月17日「文藝」欄164期)
17.1936.10.24
王釣初<魯迅先生逝世哀感(パリ≪救国時報≫)〔“前些年当≪阿Q正伝≫譯成了法文出版時,法国当代文豪羅曼羅蘭讀了曾為之下泪,並有好評発表在≪世界≫雑誌上”──(32)戈論文p49による〕
18.1941.1.10
羅曼羅蘭,蕭伯納,高爾基,巴比賽等作<関于列寧>(≪文芸陣地≫第6巻1期,1941年1月10日,<列寧逝世紀念特輯>)〔≪中国現代文芸資料叢刊≫第1輯所収の<文芸陣地総目による〕
19.1945.6.12
懐悼羅曼・羅蘭(特集)〔≪抗戦文藝≫10巻第2・3期合刊所載──≪中国現代文藝資料叢刊≫第1輯(上海文藝出版社,1962)の総目録による〕
 羅曼・羅蘭像(木刻)余所亜
 <悼念羅曼・羅蘭>(悼辞) 中華全国文藝界抗敵協会
 永恒的紀念与景仰 茅盾
 大勇者的精神 蕭軍
 羅曼・羅蘭 法・阿拉貢作 焦菊隠譯
 従人道主義到反法西斯 焦菊隠
 敬悼羅曼・羅蘭 孫源
 羅曼・羅蘭年譜簡編 冷火
20.1947.8.30
郭沫若<一封信的問題>〔(32)戈論文p49〕
21.1948.9.
力夫<羅曼・羅蘭的「搏闘」──從個人主義到集体主義的道路>(≪大衆文芸叢刊≫香港・生活書店)〔この資料は,あるいは≪羅曼・羅蘭文鈔≫(1957年5月,孫梁訳)の訳者序文である<関于羅曼・羅蘭──代序>の\頁注(2)“以上引句見“從個人主義到集体主的道路”邵?麟為<搏闘>所作序言,人間書屋版”とあるものと同一のものかもしれない。もしそうであれば作者の力夫はすなわち邵?麟ということになり,またこの資料は1948年9月より早く人間書屋版で出ていたことになるかもしれない〕
22.1955.1.
羅曼・羅蘭像(木刻)(封面)黄永玉作
高爾基和羅曼・羅蘭在高爾克村別墅的花園中散歩(1935年7月)
羅曼・羅蘭夫婦在高爾克村與高爾基合影(1935年7月)
羅曼・羅蘭畫像(法国 格拉尼埃作)
      ≪以上四項は≪譯文≫1955年1月号の挿絵)
馬克辛・高爾基<論羅曼・羅蘭>戈宝権訳
羅曼・羅蘭<我走向革命的道路>戈宝権訳
羅曼・羅蘭<我為誰写作>陳西禾訳
羅曼・羅蘭<鼠籠>陳西禾訳
瑪麗・羅曼・羅蘭<羅曼・羅蘭和一個青年戦士>陳西禾訳
      (以上五項は≪譯文≫1955年1月号所載)
<紀念羅曼・羅蘭>戈宝権・陳西禾(≪譯文≫1955年1月号の<後記>としてかかれている)
23.1955.7.
ロマン・ロラン『戦時日記』についてのソ連の情況の紹介(『蘇聯「新世界」和「星火」雑誌発表羅曼・羅蘭的「戦時日記」』王復加)〔≪訳文≫1955年7月号<文芸動態>より〕
24.1955.8.
黄秋云<掲穿胡風反革命集団対羅曼羅蘭的歪曲>〔≪訳文≫55年8月号〕
25.1955.11.
羅曼・羅蘭<真正人民的革命>
 @.「向自由的和帯来了自由的俄羅斯致敬」(1917年5月1日)蘇牧訳            A.「戦時日記」(1917年春・夏・秋部分の断片)盛澄華訳
〔これらは≪訳文≫1955年11月号──≪偉大的十月社会主義革命三十八周年紀年≫特集として 訳載されたものであり,≪訳文≫<後記>にもロランにふれているところがある〕
26.1957.1.
孫梁<関于羅曼・羅蘭──代序>(≪羅曼・羅蘭文鈔≫の序文としてかかれた)〔この序文で,作者は,「ロマン・ロランは徹底的に研究するにあたいする。なぜならロランは近代西欧インテリゲンチャの典型的代表のひとりであり,その歩んだ道は大多数の過渡期の正義感に富んだインテリの曲折の歴程であるからだ」と主張する。なおこの序文から「ロマン・ロラン文鈔」の訳は1953年夏に開始され,1954年に完稿,ロラン逝世10周年を記念にしたものであったことがわかる
27.1957.5.
孫梁訳≪羅曼・羅蘭文鈔≫(上海,新文芸出版社,1957年5月,全250頁)
28.1957.10.
孫梁<前言>(≪羅曼羅蘭文鈔続編≫の「まえがき」としてかかれた)〔この「まえがき」によって,孫梁には,このときやがて華東師範大学学報に発表されるはずの<論羅曼・羅蘭思想与芸術的源流>という論文があることがわかる。未見〕
29.1958.3.
孫梁訳≪羅曼・羅蘭文鈔続編≫(上海,新文芸出版社,1958年3月,全250頁)
30.1961.
葉靈鳳<敬隠漁与羅曼羅蘭的一封信>(香港,1961年出版≪新雨集≫所載)〔戈宝権の論文(南開大学学報,1977年6期)のp.49による〕
31.1976.4.20
敬隠漁とともにリヨンへ留学したことのある林如稷からの戈宝権への返書〔戈宝権論文p.50による〕
32.1977.
戈宝権<談≪阿Q正伝≫的法文訳本──魯迅作品外文訳本書話之三>(≪南開大学学報≫1977年第6期所載)〔「ユニテ」(3期8号,日本・ロマン・ロマンの友の会編,ロマン・ロラン研究所発行)に相浦杲による日本語訳あり〕
33.1978.10.15
『ジャン=クリストフ』がはじめてフランスのテレビに上映されたというニュース(『世界文学』1978年1期)
34.1978.11.
臧楽安・範信龍・井勒?訳≪高爾基,羅曼・羅蘭通信選≫(『文芸論叢』5,上海文芸出版社,1978年11月)〔ゴーリキーとロマン・ロランの書簡,1923年,1933年,1934年のものについての翻訳〕
35.1979.5.
羅新璋≪読傅雷訳品随感≫(≪文芸報≫1979年5期)
36.1979.2.
羅大岡≪論羅曼・羅蘭≫(新文芸出版社)
37.1979.9.
羅大岡≪羅曼・羅蘭与資産階級人道主義≫(≪外国文学研究集刊≫第1輯,中国社会科学院外国文学研究所編,中国社会科学出版社,1979年3月の前文,9月出版)〔この論文は「外国現当代資産階級文学評価問題の討論」の中のひとつとして書かれたもの。この討論会は1978年後半期に行われた〕
38.1980.7.6
劉靖之<羅曼・羅蘭的≪貝多芬伝≫>(『明報』15巻8期,香港,1980年8月号)
39,1980.8.10
成柏泉<≪約翰・克利斯朶夫≫在中国>(『読書』1980年8期)
40.1980.9.
傅雷訳≪約翰・克利斯朶夫≫4巻〔≪外国文学名著叢書≫の一つとして,人民文学出版社から文革後に発刊された。羅大岡の「序文」〕
41.1980.10.
羅大岡訳≪母與子≫(上),人民文学出版社刊〔『魅せられたる魂』の訳で,中国では初訳〕
42.1980.12.10
柳前<重読≪約翰・克利斯朶夫≫的随想>(『読書』1980年12期)
43.1981.3.
崔宗?訳,羅曼・羅蘭<克洛代爾談象徴派両大師>(『文芸理論研究』81年1期〔クローデルが象徴派の2大詩人,ヴィリエ・ド・リラダンとマラルメについて語ったのをロマン・ロランが記したもの〕
44.1981.4.10
艾a<奔向光明的激流(読羅曼・羅蘭的≪母與子≫)(『読書』1981年4期)〔ロマン・ロランの『魅せられたる魂』についての紹介の文章〕
45.1981.6.7
蒋俊<一部褒貶失当的作家評論専著(評≪論羅曼・羅蘭≫)(『文芸報』1981年11期)〔羅大岡著『ロマン・ロラン論』への批判〕