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ある日のこと,わたしたちの古い友人,石田喜枝子女史からお便りをいただきました。「ラジオで聞いた事ですが,フランスでは,『ジャン・クリストフ』がベストセラーになっているそうです。テレビの影響というのは日本ばかりではなくフランスでもどこの国でも同じようです。今日では世界的現象となっているようですね………」
『ジャン・クリストフ』がテレビで放映されたのです。
石田喜枝子女史といえば古いロマン・ロラン友の会会員の方ならご存じだろうと思いますが,彼女は大阪の友の会を長くお世話下さった方です。又戦前から,瀧川幸辰先生の秘書として日常生活でも瀧川家の家族と親交をもたれ現在は大阪家裁調停委員をしておられます。このたびの第3次ロマン・ロラン全集刊行パンフレットも彼女に負うところが大きかったとみすず書房の編集部の方がもらされました。
ご承知のように『ジャン・クリストフ』は(1904−1912),カイエ・ド・ラ・キャンゼーヌ(Cahier
de la quinzaine),17巻を占めた大河小説ですが,全ヨーロッパに話題を投じ日本はもちろん30余ヵ国の外国語に翻訳出版されていますが,それらの国々で映画化されたかどうか定かではありませんが,70年を経,やっと今日,本国フランスで実現されたというよりむしろ70年経ても実現されうる事に深い意義を感じております。
ロランがその序文で「満々と水をたたえて流れゆく大河のごとく,いかに不動にみえるときといえども絶えず発展変化をとげてとどまるところを知らない」と述べているようにその構想,文体は一大叙事詩であり,創造的芸術家クリストフの生涯から人生の種々の問題に触れ勇気を起させ,いかに生きるかと高貴に語りかけるこの膨大なテーマは映画化を極端に困難にさせた要因でした。
今回のテレビ映画は見ることはもとより資料も手許にありませんが,ただ「今週のテレビ案内」を垣間見ながら誠に不完全ながら御紹介要約させていただく事をお許し願いたいと思います。
1966年,ロマン・ロラン生誕百年を記念し成功したラジオドラマ≪ジャン・クリストフ≫の脚本──クロード・ムールト(Claude
Mourthe)氏による──をもとにフランソワ・ヴィリエ(François Villiers)氏@が4年の準備期間,歳月をかけてプロデュースしたものです。音楽はブルノ・リグウット(Bruno
Rigutto)とジャン・ルイ・フローレンツ(Jean Louis Florentz),舞台装置はジャン・シュルンバック(Jean
Schlnbach)とゲオルグ・アットフルネル(Georg Attfellner)です。
舞台に関していえばもちろんライン川沿といいたいところですが,今日もはや当時のライン川はなく工場が立ち並び町は煤煙で曇り川は汚濁しているため撮影はダニュ−ヴ(Danube)河岸に,ローザンヌ(Lausanne)も同様,当時の雰囲気を極端にこわすためフリブール(Fribourg)に移して撮影がすすめられました。全所要時間,7時間半,9回シリーズ,フランス,ドイツ,スイスの夜のゴールデンアワーに同時上映。
200人の登場人物,4000人のエキストラ,そのうちの一人,主役のジャン・クリストフに扮するクラウス・マリア・ブランダウェル(Klaus・Maria・Brandauer)氏のプロフィルをのぞいてみる事に致しましょう。
彼は1945年生れのオーストリア人,ドイツ語を母国語とし,ピアニストとしても知られ五指に数えられる有名な舞台俳優──1970年以来,パリのコメディ・フランセーズにあたるウィーンのブルク劇場Aの俳優──です。又,彼はミュンヘン,ハンブルグの劇場でハムレット等を演じたり,今回の≪ジャン・クリストフ≫のクランクインした時も自ら演じ監督する芝居のために昼夜,飛行機でハンブルグ,ウィーン,パリを往復するエネルギッシュな人です。ドイツ圏で有名な俳優という条件の下で,ヴィリエ氏が彼に初めて会ったのは1976年。しかしこの時,フランス語のできないブランダウェルは1諾の即答をさけ,一日8時間,2ケ月の特訓を得,セリフに支障のない事を見定めてOK致しました。彼が俳優を志した時から容易ならざるものがあった事が男性である彼の名前,マリア(聖母マリア・女子の洗礼名)にうかがい知る事ができましょう。今,私の脳裏を過ぎるのは「母は生涯私を産みつづけた」というロランの一見奇妙に響く言葉です。彼,クラウス・マリア・ブランダウェルにも父の猛反対をも征服した母の強い励ましと支えが「成功した暁には母の名を語ろう」………。母と息子の深い絆がここにもあったのです。彼は今,≪ジャン・クリストフ≫をもって初めて世界の檜舞台パリへ踊り出たのです。「パリ! それはフランスの都,否,世界の都であるかの地で演じられる事は役者冥利につきます。」と……〔家族・夫人と一人息子,趣味スキー〕
この映画上映をいち早く知らせて下さったのは,関西日仏学館を建てるにあたって,詩人で,ロマン・ロランの学友,(ロランの死後,ロマン・ロラン友の会初代会長,ここでは,ロランとクローデルの関係を述べる事は省略。)で駐日仏大使,ポール・クローデル(Paul・Claudel)に京都九条山に同道し,のちに初代館長となった地理学者,ルエラン(Ruellan’)氏の令息,クロード・ルエラン(Claude
Ruellan)氏でした。
蛇足になりますが,4年前,50年振りに京都を訪れ,愛くるしかった5才のクロードが白髪混りの紳士となって今は廃墟となった九条山の旧日仏学館を住人であった宮本正清の案内で訪れたのでした。50年の歳月はすべてを変えてしまいましたが,宮本がロマン・ロランひとすじに翻訳,研究している事を知った彼は,早速こうして≪ジャン・クリストフ≫のテレビ案内の切り抜きを送って下さったのです。今一度彼の友情に深く感謝する次第です。
この事に先がける事一年前。すでにこの映画制作について知らせてきた人,それは,他ならぬロマン・ロラン未亡人でした。彼女は日本のNHKでも放映される事を強く希望しながら……。
@1920年パリ生れ,ユダヤ系フランス人,兄に映画俳優のジャン・ピエール・オーモン(Jean・Pierre・Aumont),1948年から今日まで多くの長短篇映画,記録映画を手がけてきた。 A1741年創設,オーストリア演劇の伝統を誇り,この舞台には多くの内外の有名なスター達が出演,かつてはオーストリア皇帝が初日には必らず臨席になった格式ある劇場。
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