『ロマン・ロランの母への手紙』に添えて

                          ― 想い出の師友―
住 谷 悦 治


 『ロマン・ロランの母への手紙』は『ローマの春』のような往復書簡集でなく、一方的にロランの『母への手術』であるが、それへの感想を、とくにわたくしが書くのは借越のような気がする。邦訳者宮本正清さん(わたくしは、新島襄先生が生徒に向って「わたくしを先生と呼ばないで下さい。先きに生れた意味では先生に違いないが、尊敬の意味で先生と言わないで下さい。わたくしはただの平民新島襄ですから」≪デビス著「新島襄」明治23年刊≫という言葉を思っで、50年の同志社在職中も教授、職員、用務員に平等にさんづけで呼んできました。)がその訳書の「あとがき」に書かれていることを感銘深く繰返して引用するほかはない。この書簡集は1914年から1916年までの第一次世界大戦の勃発から終るころまでの2年あまりの間の、『母への手紙』であるが、「絶えず戦禍におびえているパリの母にこがれて、50歳に達した息子が、孤独感と、意気阻喪の瞬間にはたとえ言葉の綾とはいえ、“私は少女のように泣きたくなります”と訴えることができるのを、すばらしいとも、羨ましいとも私は感じる。……ロマン・ロランの母は地方の中産階級の娘であり、クラムシーという小さな町では、評判のよい公証人の妻であり、ロマン・ロランとマドレーヌの二子のよい母であったが、とくべつに高等教育を受けたこともなく、思想家でもなく、また詩的、芸術的天分が豊かであったとも見えないが、その人間的、母性的純粋さと、深く強い愛情とによって、彼女は、息子が語り、報告するすべての事実や問題を彼女なりに理解し、それについて共感や、憂慮や、慷慨を彼と共にすることができたのである。」と述べておられる。わたくしは邦訳者の宮本さんが書かれたこのあとがき以上に、いったい何を書くことができようかと躊躇して書くことができなかった。編集者の方から電話で原稿のことを催促されて驚いて、何か書かねばいけないと考えたが、けっきょく蛇足になってしまう。書くとすれば蛇足はいくらでもつづくものだと思うようになってほんとうの蛇足を付加さして貰おうと思いきって急ぎ執筆することにした。恥かしいことである。冷汗三斗とはこのことであろう。

 わたくしがロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』をはじめて読んだのは大正6年(1917年)で仙台の第二高等学校の生徒のときである。その年の1月25日、「非売品」として発行された≪国民文庫刊行会≫発行の『ジャン・クリストフ』第一巻、仏国ロマン・ロオラン著、後藤末雄訳、という本で定価も書いてなく、本の奥付には書名も訳者名も書いてない、「非売品」であった。「非売品」という不思議なゴヂックの活字に惹かれて購入し読み出してほんとうに驚いた。漱石、鴎外、藤村、樗牛、晩翠、竹風に傾倒しておったころであるがこの長篇ジャン・クリストフもロマン・ロオランも後藤末雄もみなはじめての名であった。そのころ、「白樺」の武者小路実篤がこの訳書を耽読して1週間とか10日間とか、自室に閉じこもり、一歩も出ないで、ハンケチで涙を拭き拭き読んでいるので食事は母が二階の室へ運んでやった、という逸話を伝えきいて、そのことに感激してわたくしはジャン・クリストフという全八巻(原書では10巻)を読む勇気を振い起こした。
 わたくしにはロマン・ロオランとジャン・クリストフとそのモデルのべ−トーベンとが混乱して雑然と頭の中でこんがらかったまま後々まで十数年が過ぎた。大学を卒業して何年か経て読了しえた因縁ある本であり、いまも書棚にならべてある。ともかくひどく感激した長篇小説であった。その後、第二次世界大戦を終えてから、宮本正清さんのロマン・ロラン、『魅せられたる魂』を岩波文庫で8冊一気に読破した。そのときにはすでに宮本さんのことは知っていた。昭和8年に京大滝川事件のさい、その周辺の一人としてわたくしは悪法「治安維持法」に触れて同志社大学教授を退き、個人的には恒藤恭先生の御厄介になり、先生の『人間はどれだけのことをしてきたか』の下書きをしたり、先生の紹介で菊池寛の「文芸春秋」社の欧州特派員となって渡欧したりしえた。恒藤先生が滝川事件で京大を退かれて大阪商大学長になられたとき宮本正清さんが大阪商大図書館長に推薦されたことも知った。
 その前には英才加古祐二郎君が永眠したとき、恒藤さんが惜しみなげいて加古君のお顔の上に涙をハラハラとおとしたこともわたくしは知っている。とにかく、恒藤―加古―宮本の子弟の友情を知ったのであったという「見えざる手」の不思議な導きの関係なのである。このようなわけでわたくしは心の中では宮本さんの御存じないまま、同門の弟子としての光栄を担っているわけであるが、また、偶然にも戦後、ロマン・ロランを媒介として宮本正清さんはわたくしの唯一無二の恩師となった。ロマン・ロオランと呼ぶのでなく、ロマン・ロランと呼ぶのが正しいのですよ、ということまでもわたくしにとっては新しい知識なのであった。
 しかしわたくしはまったくロランについて進歩もしていない門外漢である。わたくしは大正11年2月8日同志社就職決定のさい、あの同志社図書館の法学部研究室で、一人の大学生として恒藤先生その他8、9名の教授による首実験にパッスしたが、とくに恒藤さんのヨセフ・ディーツゲンの哲学についての質問に答えた。そして下鴨の恒藤さんのお隣りの素人の下宿も世話され、恒藤さんにはご永眠になられるまでご厄介になった。ところが宮本正清さんもやはり恒藤さんとは前のような関係で親しかったことをあとで知った。いわば宮本正清さんとわたくしとは同門の弟子である。ただ学友として、また内心では恒藤さんの同門の弟子として、またロマン・ロラン研究所の理事という虚名を擁しているだけであるが、ロラン研究所については何が協力できるか見当もつかないでいる。せめて依頼された原稿を書くことだけがわたくしの能力の限界であろう。これも蛇足というていどのものに過ぎない。
 ロランに大きな精神的影響を与えた人は周知のように革新的な思想をもっていたためにドイツを追われた老婦人マルヴィーダ・フォン・マイゼンプークであり、ロランはローマで留学中にモノー教授によって紹介された。彼女を知ってから彼女によって激励され、学究青年としての悩みも慰められ努力を継続することができた。もう一人の愛する女性によってロランは不断に自らの魂を磨かれた。その女性が最愛の母アントワネットである。『ロマン・ロランの母への手紙』は最近のわたくしの愛読の書の一つである。若き日のロランは毎日のようにこの母に手紙を書いた。この沢山の手紙をざっと通読するだけでも、母と子の愛情の深さや、お互いに日常生活を報告し合って朝夕一緒に生活しているという心持を有ちつづけなければ承知できないという親愛さ、どんな些細のできごとでも直接自分に感じとり、いたわり合い慰め合う気持を味いつづけて満たされる心の平安さ、それがお互いの魂の切磋琢磨となって磨かれてゆく心のこまやかさが切実に感得できるのである。この『ロマン・ロランの母への手紙』は前述のようにロランから母への手紙のみであるが、この一方的な手紙だけでも470頁の大冊になっているが、一方的になった手紙でも丹念に読めば、当時お互いに同様に殆んど毎日のように手紙の往復がなされていたことが解かる。いかに繁く、いかに多くの手紙が交通機関の往復とともに送られつづけたことであろう。真に驚くに堪えた事実である。この訳書にもあるとおり、当時戦争下で手紙が円滑に運搬されないで時に何日も停頓することもあり、或いは混雑に紛れて紛失することもあったかもしれないが、日付けが遠退いているのは止むをえない当時の戦争状態であったためだろう。その杜絶えたときの日付は数日ブランクになっているが、もし数日のブランクがつづけばその後にはすぐ毎日の日付がついており、朝に書く、夜に書く、翌日また書く、というようにつづけて書いていることがわかるが、底知れぬ純愛にあふれた書簡の頻繁な往復である。わたくしはこのしげしげと往復された親子の手紙を読みつつ、自分の学生時代に、どうして母にもっと手紙を書かなかったのだろう、わたくしの父母も恐らくわたくしが仙台高等学校や東京の大学に学生生活をしているとき、どんな日常の出来事があるのだろうと遠いふるさとで案じていたに相違ないのだと、いつも昔を思い出して痛く心をさいなまれるのである。わたくしへの父母の手紙はごく僅かしか保存していないが、わたくしが手紙を書くことを怠っておったためであると思う。というのは思い起こせば父母に手紙を書けば、(その多くは月々の学費の催促であったが)必ず父母のいづれかから、多くは母からすぐに返事が届いたのであるが、今にして自分の心の行き届いていなかったことを悔んでいる。自分はそんなにも父母に冷淡だったのだろうか。安心しきって平気でいたのだろうかと、反省して父母の死後になって涙を浮べているわけである。すべては「遅かりし由良之助」で、ただロマン・ロランとその母の前に深く頭を垂れるほかはない。このように繁しげと手紙が往復しつづけられたことは歴史上の驚異の事実であろうし、寡聞なわたくしは他にこのような往復書簡のあった話を聴いたことがない。ロマン・ロランはつぎのような手紙さえ書き送っている。
 「いとしい母上
 あなたからは3日も4日も手紙がありません。きょうも、きのうも、おとといも。がっかりします。―それから、あすかあさってには、きっと1日に4通の手紙かくるのでしょう」と。
 このような手紙を読むとまったく恋人同士の手紙そのままだと思われる。恋人同士以上かも知れない。『ローマの春』では、二人の手紙は往復とも編集されているから相互の事情は一読手にとるように読者にもわかるが、この一方的手紙によっても心ある読者には双方の事情は痛いまでに推察することができよう。手紙には必ず差出しの日付が克明に記入されており、手紙としてもととのっているものであるし、どの手紙を読んでみても、その書き出しに必ずロランは、「いとしい母上」と書きはじめているのであるが、いかにこまやかな心づかいであろうか。
 日本人のわれわれの習慣では、「拝啓」とか、「拝復」とかさらにいっさいを省略して「冠省」とか書いて本文を書きはじめるのが通例である。外国の習慣とはいえ、「いとしい母上」、と一つ一つ書いて通信する心のあたたかさ、親愛のあふれるまごころか直接に胸に響くのである。こうしたまごころは、知識とか理論とか、もっと数えるなら、社会的地位、名誉、財産、位階、勲等などということを超越して、人間として素朴と純情と真実とのあらわれであり、それは富貴をもってしても動かすことのできぬ、権力をもってしてもこれを奪うことも出来ない永遠最高のこころの発露であり、キリスト教の「聖書」には「心の清き(pureな)ものはさいわいなり」とか「心の貧しきもの(poor in heart とはまじりけのない純真さを意味するもの)は天国を見ることを得べし」という聖句があるが、ロランの母にたいする親愛の情も母のロランに答える返書も、それが美しい神聖な、清らかな交響楽を奏しているように感ぜられる。
 世界的に名の響いているロラン、不朽の名著に世界の読者を感動させているロランは、ガンジー、タゴール、その他、殆んど世界の最高の水準の人びとと肩をならべ、尊敬と共感と愛着をほしいままにしている世紀の優れた思想家、作家として輝いているロマン・ロランとしてでなく、真に母にたいする「おさなご」のごときロランとしての手紙に満ちみちている。この母親の手紙もまた、それは『ローマの春』に数多く採録されているように手も届かない”偉大なロマン・ロラン”に対する手紙というよりも、”わが親愛な息子”としてのロランに書いている手紙であり、ほんとうに傍から見ると、抱きすくめて頬ずりをしているような純情な、「まじりけのない」羨ましい母親の姿とこころとがまる出しになっている。わたくしはここで母親の手紙こついて書いているのではなく、ただロランの母への手紙についての感想を書くつもりで執筆したのであるが‥・…。
 最後にわたくしは一言宮本正清さんに深く御礼したいのです。それは第一にロマン・ロランについて多くのことを教えられたこと。第二にロマン・ロランの母について教えられ、ロランの母とロランの手紙の往復が如何にその数が多いことか(『ローマの春』)を知ったのみでなく読むことによって母と子、子と母の素晴らしい純愛にわたくしがうちふるえるほど感激していること。第三にまったく思いもかけなかったことであるが、1968年(昭和43年)の9月「ロマン・ロラン展」が、外省、文部省、フランス文化省、フランス大使館の後援によって読売新聞社が主催してわが国の文化史上劃期的な有意義の展覧会として心ある文化人、学者、思想家の注目を惹いたが、その時、宮本さんの御尽力は献身的であった。ことにロマン・ロラン夫人が日本を訪れた際、宮本さんは、その展覧会―「愛と平和に生きたロマン・ロラン展」―の立派な写真帖に、わたくしのために、わたくしの姓名をも書き加えてあるマリ・ロマン・ロラン夫人のご署名をもらってくださった。それまで何んといってもわたくしには遠い存在として考えられていたロラン夫人が急に近い親しみを有つ夫人として心に映ったこと。贈られたその写真帖はいま下鴨中川原町「住谷アルヒーフ」にとって記念すべき貴重な文献となっており、目下作製中の「アルヒーフ文献目録」中に光っていることである。思えば与えられるのみ多く、酬いることのすくないわたくしは、長年の学恩を謝するとともに、いま貴ロマン・ロラン研究所設立7周年の記念誌に執筆させていただいたことを機としてかぎりない感謝の意を重ねて表したく思っている。(1978年4月20日)